[3] NKBT reads 泣給へば.
腰越
さる程に大臣殿父子は九郎大夫判官に具せられて七日の曉關東へ下給ふ。粟田口を過ぎ給へば、大内山も雲井の餘所に隔りぬ。逢阪にもなりしかば關の清水を見給ひて、大臣殿なくなくかうぞ詠じ給ける。
都をば今日を限りの關水に、又あふ坂の影やうつさむ。
道すがらも餘りに心細げにおはしければ、判官情ある人にて、樣々に慰め奉る。大臣殿、判官に向て「相構、今度親子の命を助けて給へ。」と宣ば、「遠 き國、遙の島へも遷しぞ參せ候はんずらん。御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さ候とも、義經が勳功の賞に申かへて、御命計は助參せ候べし。御心安う思食さ れ候へ。」と憑もしげに申されければ「たとひ夷が千島なりともかひなき命だにあらば。」と宣ひけるこそ口惜けれ。日數歴れば、同廿四日、鎌倉へ下り著き給 ふ。
梶原判官に一日先立て鎌倉殿に申けるは、「日本國は今は殘る所なう隨ひ奉り候。但し御弟九郎大夫判官殿こそ、終の御敵とは見えさせ給候へ。その故は 『一谷を上の山より義經が落さずば、東西の木戸口破れ難し。生捕も死捕も義經にこそ見すべきに、物の用にもあひ給はぬ蒲殿の方へ見參に入べき樣やある。本 三位中將殿こなたへたばずば參て給はるべし。』とて既に軍出來候はんとし候しを、景時が土肥に心を合せて、三位中將殿を土肥次郎に預けて後こそ靜まり給て 候しか。」と語り申ければ、鎌倉殿打頷いて、「今日九郎が鎌倉へ入なるに、各用意し給へ。」と仰られければ大名小名馳集て、程なく數千騎に成にけり。
金洗澤に關居ゑて、大臣殿父子請取奉て判官をば腰越へ追返さる。鎌倉殿は隨兵七重八重に居ゑ置いて我身は其中にお はしながら「九郎はすゝどきをのこなれば此疊の下よりも這出んずる者也。但し頼朝はせらるまじ。」とぞ宣ひける。判官、思はれけるは「去年の正月木曾義仲 を追討せしよりこのかた一谷壇浦に至るまで命を棄てゝ平家を責め落し、内侍所、璽の御箱事故なく返入奉り、大將軍父子生捕にして、具して是迄下りたらんに は、縱如何なる不思議ありとも、一度はなどか對面なかるべき。凡は九國の惣追捕使にも成され、山陰山陽南海道、いづれにても預け、一方の固めともなされん ずるとこそ思ひつるに、わづかに伊豫の國ばかりを知行すべき由仰せられて、あまさへ鎌倉へだにも入られぬこそ本意なけれ。さればこは何事ぞ。日本國を靜む る事、義仲義經が爲態にあらずや。譬へば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とする計なり。誰か天下を知らんに知らざるべき。剩今度見參を だにも遂げずして逐ひ上らるゝこそ遺恨の次第なれ。謝する所を知らず。」とつぶやかれけれども力なし。全く不忠なきよし度々起請文を以て申されけれども、 景時が讒言によて鎌倉殿用ゐ給はねば、判官泣々一通の状を書て廣元の許へ遣す。其状に云く、
源 義經恐ながら申上候意趣は、御代官の其一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、會稽の耻辱を雪ぐ。勳賞行はるべき處に思外虎口讒言によて莫大の勳功をも だせられ、義經をかし無うしてとがをかうむり、功あて誤なしと云へ共、御勘氣を蒙る間空く紅涙に沈む。讒者の實否をただされず、鎌倉中へ入られざる間、素 意をのぶるにあたはず。徒に數日を 送る。此時にあたて永く恩顏を拜し奉らず。骨肉同胞の義既に絶え、宿運究めて虚しきにたるか。將又先世の業因の感 ずる歟。悲哉。此條故亡父尊靈再誕し給はずば誰の人か愚意の悲歎を申開ん。何れの人か哀怜をたれられん哉。事新き申状、述懷に似たりといへども、義經身體 髮膚を父母に受て、幾の時節をへず、故頭殿御他界之間孤と成り、母の懷の中に抱かれて、大和國宇多郡に趣しより以降、未だ一日片時安堵之思に住せず。甲斐 なき命をば存すといへども、京都の經廻難治の間、身を在々所々に藏し、邊土遠國を栖として、土民百姓等に服仕せらる。然れども交契忽に純熟して、平家の一 族追討の爲に上洛せしむる手合に、木曾義仲を誅戮の後、平氏をかたむけんが爲に、或時は峨々たる巖石に駿馬に鞭うち、敵の爲に命をほろぼさん事を顧みず、 或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、海底に沈まん事を痛まずして、屍を鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併亡魂の憤り を息め奉り、年來の宿望を遂んと欲する外他事なし。剩さへ義經五位の尉に補任之條、當家の重職何事かこれにしかん。然りといへども、愁深く歎切也。佛神の 御助けにあらずより外は爭か愁訴を達ん。これによて、諸寺諸社の牛王寶印の裏をもて、野心を挿まざる旨、日本國中の大小の神祇冥道を請じ驚し奉て、數通の 起請文を書進すといへども、猶以御宥免なし。夫吾國は神國なり、神は非禮を享給べからず。憑むところ他にあらず。偏に貴殿廣大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひ高 聞に達せしめ、秘計をめぐらし誤なき由をゆうせられ、赦免に預らば、積善の餘慶家門に及び、榮華を永 く子孫に傳へん。仍て年來の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に盡さず。併令省略候畢ぬ。義經恐惶謹言。元歴二年六月五日 源義經進上因幡守殿へ
とぞ書かれたる。
大臣殿被斬
さる程に、鎌倉殿大臣殿に對面有り。おはしける所に庭を一つ隔てゝ、向なる屋に居奉り、簾の中より見出し、比氣藤四郎義員を使者で申されけるは「平 家の人々に別の意趣思奉る事努努候はず。其故は池殿尼御前如何に申給とも故入道殿の御許され候はずば、頼朝爭か扶り候べき。流罪に宥められし事偏に入道殿 の御恩也。されば廿餘年迄、さてこそ罷過候しかども朝敵となり給て追討すべき由院宣を給はる間、さのみ王地に孕まれて、詔命を背くべきにもあらねば、力不 及、加樣に見參に入給ぬるこそ、本意に候へ。」と申されければ義員此由申さんとて、御前に參りたりければ、居なほり畏り給ひけるこそうたてけれ。國々の大 名小名竝居たる其中に、京の者共幾らも有り、皆爪彈をして申しけるは「居なほり畏り給ひたらば御命の助り給べきか。西國で如何にも成給べき人の、生ながら とらはれて、是までくだり給こそ理なれ。」とぞ申ける。或は涙を流す人もあり。其中に或人の申けるは、「猛虎深山に在る 時は百獸震ひ怖づ。檻穽の中に在るに及て尾を搖して食を求むとて、猛い虎の深い山に在る時は、百の獸恐怖ると云へ共檻の中 に籠られぬる時は、尾を掉て人に向ふらんやうに、如何に猛き大將軍なれども、かやうに成て後は、心かはる事なれば、大臣殿も、かくおはするにこそ。」と申 ける人も有りけるとかや。
去程に九郎大夫判官樣々に陳じ申されけれども、景時が讒言に依て、鎌倉殿更に分明の御返事もなし。「急ぎの ぼらるべし。」と仰られければ、同六月九日、大臣殿父子具し奉て、都へぞ返り上られける。大臣殿は今少しも日數の延を嬉き事に思はれける。道すがらも、 「こゝにてや/\」とおぼしけれども、國々宿々、打過々々通りぬ。尾張國内海と云ふ所あり。こゝは故左馬頭義朝 [4]か誅せられし所なれば、これにてぞ一定と思はれけれども、それをも過しかば、大臣殿少し憑もしき心出來て、「さては命のいきんずるやらん。」と宣ひけるこそはかなけれ。右衞門督は、「なじかは命をいくべき、か樣に熱き比 [5]なれは、頸の損せぬ樣にはからひて京近うなて切らんずるにこそ。」と思はれけれども、大臣殿のいたく心細氣におぼしたるが心苦しさにさは申されず。偏に念佛をのみぞ申給ふ。日數ふれば、都も近著て近江國篠原の宿に著給ひぬ。
判官情深き人なれば、三日路より人を先立てゝ、善知識の爲に、大原の本性房湛豪といふ聖請じ下されたり。昨日までは親子一所におはしけるを今朝より引放て、別の所に居奉りければ、「さては今日を最後にてあるやらん。」といとゞ心細うぞ思はれける。大臣殿涙をはら/\ と流いて、「抑右衞門督はいづくに候やらん。縱ひ頸は落とも、體は一つ席に臥さんとこそ思ひつるに、生ながら別ぬる事こそ 悲けれ。十七年が間一日片時も離るゝ事なし。西國にて海底に沈までうき名を流すもあれ故なり。」とて泣れければ、聖哀れに思ひけれども、我さへ心弱くては 不叶と思ひて、涙を拭ひ、さらぬ體にもてないて申けるは「今はとかく思食すべからず。最後の御有樣を御覽ぜむにつけても互の御心の中悲かるべし。生を受さ せ給てよりこのかた、樂み榮え昔も類ひ少し。御門の外戚にて、丞相の位に至らせ給へり。今生の御榮華一事も殘る所なし。今又かゝる御目にあはせ給ふも、先 世の宿業なり。世をも人をも恨み思食すべからず。大梵王宮の深禪定の樂み思へば程なし。況や電光朝露の下界の命に於てをや。 たう利天の億千歳、唯夢の如し。三十九年を過させ給ひけむも、僅に一時の間な り。誰れか嘗たりし、不老不死の藥。誰か保たりし、東父西母が命。秦の始皇の奢を極めしも、遂には驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜み給ひしも、空く杜 陵の苔に朽にき。生ある者は必ず滅す、釋尊未だ栴檀の煙を免れ給はず。樂盡て悲來る、天人尚五衰の日に逢へりとこそ承はれ。されば佛は、『我心自空、罪福 無主、觀心無心、法不住法』とて、善も惡も空なりと觀ずるが、正しく佛の御心に相叶事にて候也。如何なれば、彌陀如來は、五劫が間思惟して發しがたき願を 發しましますに、如何なる我等なれば、億々萬劫が間、生死に輪廻して、寶の山に入て、手を空せん事、恨の中の恨み、愚なるが中の口惜い事に候はずや。努努 餘年を思食すべからず。」とて、戒持せ奉り、念佛勸め申。大臣殿然るべき善知識哉と思食し、忽に妄念を飜へし て西に向ひ手を合せ、高聲に念佛し給ふ處に、橘右馬允公長、太刀を引 そばめて左の方より御後に立廻り、既に斬奉らんとしければ、大臣殿念佛を停め て、「右衞門督も既にか。」と宣ひけるこそ哀なれ。公長後へ囘るかと見えしかば、頸は前にぞ落にける。善知識の聖も、涙に咽び給ひけり。猛き武士も爭かあ はれと思はざるべき。増て彼公長は、平家重代の家人新中納言の許に、朝夕祗候の侍也。さこそ世を諂ふならひといひながら、無下に情なかりける者かなとぞ、 人皆慚愧しける。其後右衞門督をも、聖前の如くに戒持せ奉り、念佛勸め申。「大臣殿の最後如何おはしましつる。」と問はれけるこそ最愛けれ。「目出たうま し/\候つる也、御心安う思召れ候へ。」と申されければ、涙を流し悦で、「今は思ふ事なし。さらばとう。」とぞ宣ひける。今度は堀彌太郎斬てけり。頸をば 判官持せて都へ入る。屍をば公長が沙汰として、親子一つ穴にぞ埋ける。さしも罪ふかく離れがたく宣ひければ、加樣にしてんげり。
同廿三日大臣殿父子の頭都へ入る。檢非違使ども三條河原にいで向て、是を請取り、大路を渡して、獄門の左の樗の木にぞ懸たりける。三位以上の人の 頸、大路を渡して獄門に懸けらるゝ事異國には其例もやあるらん。我朝に於は未だ其先蹤を聞かず。されば平治に信頼は惡人たりしかば、頸をばはねられたりし かども獄門には懸けられず。平家にとてぞ懸られける。西國より上ては、生て六條を東へ渡され、東國より歸ては、死んで三條を西へ渡され給ふ。生ての恥、死 での恥、何れも劣らざりけり。
[4] NKBT reads が.
[5] NKBT reads なれば.
重衡被斬
本三位中將重衡卿は、狩野介宗茂に預られて、去年より伊豆國におはしけるを、南都の大衆頻に申ければ、「さらば渡せ。」と て、源三位入道頼政の孫、伊豆藏人大夫頼兼に仰せて、終に奈良へぞ遣しける。都へは入られずして、大津より山科通りに、醍醐路を經て行けば、日野は近かり けり。此重衡卿の北方と申は鳥飼中納言惟實の女、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申ける。三位中將一谷で生捕にせられ給ひし後も、先 帝に附まゐらせておはせしが、壇浦にて海にいらせ給ひしかば、武士の荒氣なきにとらはれて、舊里に歸り姉の大夫三位に同宿して、日野と云所におはしけり。 中將の露の命、草葉の末にかゝて、消やらぬときゝ給へば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやと思れけれども、其も叶はねば、泣より外の慰めなくて 明し暮し給ひけり。三位中將、守護の武士に宣ひけるは、「此程事に觸て情ふかう芳心おはしつるこそ、あり難う嬉しけれ。同くは最後に今一度芳恩蒙りたき事 あり。我は一人の子なければ、此世に思ひおく事なし。年頃相具したりし女房の、日野と云ふ所に有りと聞く。今一度對面して、後生の事をも申置ばやと思ふ 也。」とて片時のいとまをこはれけり。武士共さすが岩木ならねば、各涙を流しつゝ、「何かは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦で、「大納言佐殿 の御局は是に渡せ給候やらん。本三位中將殿の唯今奈良へ御通り候が、立ながら見參に入らばやと仰候。」と、人を入て言はせけれ ば、北方聞もあへず、「いづらやいづら。」とて、走出て見給へば、藍摺の直垂に、折烏帽子著たる男の、痩黒みたる が、縁に依り居たるぞ、そなりける。北方御簾の際近くよて「如何に夢かや現か、是へ入せ給へ。」と宣ける御聲を聞き給ふに、いつしか、先立つ物は涙也。大 納言佐殿は、目もくれ心も消果てしばしは物ものたまはず。三位中將、御簾打かついで、泣々宣ひけるは、「去年の春一谷で如何にも成べかりし身の、責ての罪 の報いにや生ながら捕られて大路を渡され、京鎌倉に恥をさらすだに口惜きに、果は奈良の大衆の手に渡されて、斬るべしとて罷り候。如何にもして、今一度御 姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思置事なし。出家して形見に髮をもたてまつらばやと思へども、許されなければ力及ばず。」とて、額の髮を少し 引きわけて口の及ぶ所をくひ切て、「是を形見に御覽ぜよ。」とてたてまつり給へば、北の方は日頃覺束なくおはしけるより今一入悲の色をぞ増し給ふ。「誠に 別れ奉りし後は越前三位のうへの樣に、水の底にも沈むべかりしが、正しうこの世におはせぬ人とも聞ざりしかば、もし不思議にて今一度かはらぬ姿を見もし見 えもやすると思ひてこそ、憂ながら今迄もながらへて在りつるに、今日を限りにておはせんずらん悲さよ。いまゝで延つるはもしやと思ふ憑みもありつる物 を。」とて、昔今の事ども宣ひかはすにつけても、唯盡せぬ物は涙也。「餘りの御姿のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ。」とて袷の小袖に淨衣をそへて 出されたりければ、三位中將是を著かへて、元著給へる物どもをば、「形見に御覽ぜよ。」とて置かれけり、北の方、「それもさる事にてさぶらへども、はかな き筆の跡こそ、永き世の 形見にてさぶらへ。」とて、御硯を出されたりければ中將泣々一首の歌をぞ書かれける。
せきかねて涙のかゝる唐衣、のちのかたみにぬぎぞ替ぬる。
北の方きゝもあへず。
ぬぎかふる衣も今は何かせん。けふを限りの形見と思へば。
「契あらば、後世にては必ず生あひ奉らん。一つ蓮にといのり給へ。日も闌ぬ。。奈良へも遠う候、武士の待つも心なし。」とて、出給へば、北方袖にす がりて、「如何にや如何に、暫し。」とて、引留め給ふに、中將「心のうちをば唯推量給ふべし。されども終には遁れ果べき身にもあらず。又來ん世にてこそ見 奉らめ。」とて出で給へども、誠に此世にてあひ見ん事は、是ぞ限りと思はれければ、今一度立歸り度おぼしけれども、心弱くては叶はじと思ひきてぞ出られけ る。北方御簾の際ちかく伏まろびをめき叫給ふ御聲の、門の外まで遙に聞えければ、駒をば更に疾め給はず、涙にくれて行先も見えねば、中々なりける見參かな と、今は悔しうぞ思はれける。大納言佐殿やがてはしりついても、おはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引覆いてぞ臥給ふ。
さる程に三位中將をば南都の大衆、請取て、僉議す。「抑此重衡卿は、大犯の惡人たる上、三千五刑の中に洩 れ、修因感果の道理極定せり。佛敵法敵の逆臣なれば、東大寺興福寺の大垣を廻して鋸にてや斬べき堀首にやすべき。」と僉議す。老僧どもの申されけるは、 「それも僧徒の法に穩便ならず。唯守護の武士に給うで、木津の邊にて切らすべし。」とて、武士の手 へぞかへしける。武士是を請取て、木津河の端にて切らんとするに、數千人の大衆、見る人幾等と云數を知らず。三位 中將の年比召仕はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、最後を見奉らんとて、鞭を打てぞ馳たりける。既に只今斬奉らんとする處に 馳著て、千萬立圍うだる人の中を掻き分け三位中將のおはしける御傍近う參りたり。「知時こそ唯今最後の御有樣見參せ候はんとて、是まで參りて候へ。」と 泣々申ければ、中將「誠に志の程神妙なり。如何に知時佛を拜み奉て、きらればやと思ふは如何せんずる。あまりに罪深う覺ゆるに。」と宣へば、知時「安い御 事候也。」とて、守護の武士に申あはせ、其邊におはしける佛を一體迎へ奉て出きたり。幸に阿彌陀にてぞまし/\ける。河原の沙の上に立參らせ、やがて知時 が狩衣の袖のくゝりを解て、佛の御手にかけ、中將に引へさせ奉る。中將是を引へつゝ、佛に向ひ奉て申されけるは、「傳聞く、調達が三逆を作り、八萬藏の聖 教を燒滅したりしも、終には天王如來の記 べつに預り、所作の罪業誠に深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ずして却て 得道の因となる。今重衡が逆罪を犯す事、全く愚意の發起に在らず、唯世に隨ふ理を存ずる計也。命をたもつ者誰か王命を蔑如する。生を受くる者誰か父の命を 背かん。彼といひ是といひ、辭するに所なし。理非佛陀の照覽にあり。抑罪報たち所に報い、運命唯今を限りとす。後悔千萬悲しんでも餘りあり。但し三寶の境 界は、慈悲を心として、濟度の良縁區也。唯縁樂意、逆即是順、此文肝に銘ず。一念彌陀佛、即滅無量罪、願くは逆縁を以て順縁とし、唯今最後の念佛に依て、 九品託生を遂べし。」とて高聲 に十念唱へつつ頸を延てぞ切らせられける。日來の惡行はさる事なれども、唯今の有樣を見奉に、數千人の大衆も、守護の武士も、皆涙をぞ流しける。其頸般若寺の大鳥井の前に釘附にこそかけられけれ。治承の合戰の時、爰に打立て、伽藍を滅し給へる故也。
北方大納言佐殿首をはねられたりとも屍をば取寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣す。げにも棄置たりければ取て輿に入れ、日野へ舁てぞ歸ける。これを まちうけ見給ひける北方の心の中、推量られて哀也。昨日まではゆゝしげにおはせしかども、あつき比なれば、何しかあらぬ樣に成り給ひぬ。さても有るべきな らねば、其邊に法界寺と云ふ處にてさるべき僧どもあまた語ひて孝養あり。頸をば大佛の聖俊乘房にとかく宣へば大衆に乞て日野へぞ遣しける。頸も屍も煙にな し、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。北方も樣をかへ、後世菩提を弔らはれけるこそ哀なれ。
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平家物語卷第十二
大地震
平家皆滅び果てゝ西國も靜まりぬ。國は國司に隨ひ、庄は領家のまゝなり。上下安堵して覺えし程に、同七月九日の午刻許に大地 おびたゞしく動て良久し。赤縣の中白河の邊、六勝寺皆破れ壞る。九重の塔も上六重を震落す。得長壽院も三十三間の御堂を十七間まで振倒す。皇居を始めて、 人々の家家惣て在々所々の神社佛閣、怪しの民屋、さながら破れ壞るゝ音は雷の如く、揚る塵は烟の如し。天暗うして、日の光も見えず、老少共に魂を銷し、鳥 獸悉く心を盡す。又遠國近國もかくのごとし。大地裂て水湧き出で、磐石破て谷へまろぶ。山壞て河を埋み、海漂ひて濱をひたす。汀漕ぐ船は波にゆられ、陸行 く駒は足の立處を失へり。洪水みなぎり來らば、岳にのぼてもなどか助ざらん。猛火燃來らば、川を隔ても暫も去ぬべし。唯悲かりけるは大地震也。鳥にあらざ れば空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にも又上がたし。白河六波羅京中に打埋れて死る者幾等といふ數をしらず。四大種の中に、水火風は常に害をなせども、 大地に於ては異なる變をなさず。こは如何にしつる事ぞやとて上下遣戸障子を立て、天の鳴り地の動度毎には、唯今ぞ死ぬるとて聲々に念佛申、をめきさ けぶ事おびたゞし。七八十、九十の者も、世の滅するなど云事は、さすが今日明日とはおもはずとて大に噪ぎければ、を さなき者どもも聞て、泣悲しむ事限なし。法皇はその折しも新熊野へ御幸成て、人多く打殺され觸穢出來にければ、急ぎ六波羅へ還御なる。道すがら君も臣もい かばかり御心を碎せ給ひけん。主上は鳳輦に召て、池の汀へ行幸なる。法皇は南庭にあく屋を立てぞましましける。女院宮々は、御所共皆震り倒しければ或は御 輿に召し、或は御車に召て、出させ給ふ。天文の博士共馳參て、夕さりの亥子の刻には必ず大地打返すべしと申せば、怖しなども愚也。昔文徳天皇の御宇齊衡三 年三月八日の大地震には、東大寺の佛の御ぐしを震落したりけるとかや。又天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去て、常寧殿の前に五丈のあく屋を立て てましましけるとぞ承る。其は上代の事なれば申におよばず。今度の事は是より後も類あるべしとも覺えず。十善帝王都を出させ給て、御身を海底に沈め、大臣 公卿大路を渡して其頸を獄門に懸けらる。昔より今に至るまで怨靈は怖しき事なれば世も如何あらんずらんとて心ある人の歎き悲しまぬは無かりけり。
紺掻沙汰
同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父故左馬頭義朝のうるはしき頭とて、高雄の文覺上人頸にかけ、鎌田兵衞が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承四年の比取出して、たてまつりけるは實の左馬頭の首にはあらず。謀反をすゝめ奉らんためのはか りごとに、そぞろなるふるい頭をしろい布に包んでたてまつりけるに、謀反を起し、世を討取て、一向父の頭と信ぜられける處へ 又尋出してくだりけり。是は年來義朝の不便にして召使はれける紺掻の男、年來獄門に懸られて後世弔ふ人も無りし事をかなしんで時の大理に逢ひ奉り申給はり 取おろして、兵衞佐殿流人でおはすれども、末たのもしき人なり。もし世に出でて尋ねらるゝ事もこそあれとて東山圓覺寺といふ所に、深う納めて置きたりける を、文覺聞出して、彼紺掻男共に、相具して下りけるとかや。今日既に鎌倉へ著くと聞えしかば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。其より色の姿に成て、泣々 鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に立て、我身は庭に立て、父の頭を請取り給ふぞ哀なる。是を見る大名小名、皆涙を流さずと云事なし。せき巖の峻しきを伐掃て、新 なる道場を造り、父の御爲と供養して、勝長壽院と號せらる。公家にもか樣の事を哀と思食て、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈らる。勅使は左大辨兼忠 とぞ聞えし。頼朝卿武勇の名譽長ぜるによて、身を立て家を興すのみならず、亡父聖靈、贈官贈位に及けるこそ目出たけれ。
平大納言被流
同九月二十三日、平家の餘黨の都にあるを、國々へ遣はさるべき由鎌倉殿より公家へ申されたりければ、平大納言時忠卿能登國、子息讃岐中將時實上總國、内藏頭信基安藝國、兵部少輔正明隱岐國、二位僧都專親阿波國、法勝寺執行能圓備後國、中納言律師忠快武藏國とぞ聞え し。或西海の波の上、或東關の雲の果て、先途何くを期せず、後會其期を知らず、別の涙を押て、面々に赴かれけん心の中推量れ て哀なり。其中に平大納言は、建禮門院の吉田に渡らせ給ふ處に參て「時忠こそ責重うして、今日既に配所へ趣き候へ。同じ都の内に候て、御當りの御事共承は らまほしう候つるに、終に如何なる御有樣にて渡らせ給ひ候はんずらむと、思置參せ候にこそ、行空も覺ゆまじう候へ。」と、泣々申されければ、女院、「げに も昔の名殘とては、そこばかりこそおはしつれ。今はあはれをもかけ、吊ふ人も誰かは有るべき。」とて御涙せきあへさせ給はず。
此大納言と申は、出羽前司具信が孫、兵部權大輔贈左大臣時信が子也。故建春門院の御せうとにて高倉の上皇の御 外戚なり。世の覺え時のきら目出たかりき。入道相國の北方、八條の二位殿も姉にておはせしかば、兼官兼職、思の如く心の如し。されば程なくあがて正二位の 大納言に至れり。檢非違使別當にも三箇度までなり給ふ。此人の廳務の時は、竊盗強盗をば召捕て、樣もなく右のかひなをば腕中より打落し/\追捨らる。され ば惡別當とぞ申ける。主上 併三種の神器都へ返し入奉るべき由西國へ院宣を下されたりけるに院宣の御使、 花形がつらに、浪形と云燒驗をせられけるも、此大納言のしわざ也。法皇も故女院の御せうとなれば、御形見に御覽ぜまほしう思召しけれども、加樣の惡行によ て御憤淺からず。九郎判官も親しうなられたりしかば、いかにもして申宥めばやと思はれけれども叶はず。子息侍從時家とて、十六になられけるが流罪にも漏れ て、伯父の時光卿の許におはしけり。母上帥のす け殿の共に、大納言の袂にすがり、袖をひかへて今を限りの名殘をぞ惜みける。大納言、「終にすまじき別かは。」と心 強は宣へどもさこそは悲しうも思はれけめ。年闌齡傾て後、さしも睦まじかりし妻子にも、別果て、住慣し都をも、雲井の餘所に顧みて、古へは名にのみ聞し越 路の旅に趣き、遙々と下り給ふに、彼は志賀唐崎、是は眞野の入江、交田の浦と申ければ、大納言泣々詠じ給ひけり。
歸りこん事はかた田に引く網の、目にもたまらぬ我涙かな。
昨日は西海の波の上に漂ひて、怨憎會苦の恨を扁舟の内に積み、今日は北國の雪の下に埋れて、愛別離苦の悲みを故郷の雲に重ねたり。
土佐房被斬
さる程に九郎判官には鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙り給ふ由聞えしかば、心を合せて一人づつ皆下り果にけり。兄弟なる 上、殊に父子の契をして去年の正月木曾義仲を追討せしより以降度々平家を攻落し、今年の春滅し果てゝ一天を靜め、四海を澄す。勸賞行はるべき所に、如何な る仔細有て、かゝる聞えあるらんと、上一人を始め奉り下萬民に至るまで、不審をなす。此事は、去春攝津國渡邊より舟汰して八島へ渡り給ひし時、逆櫓立うた てじの論をして、大きに欺かれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるに依て也。定て謀反の心もあるらん。大名共差上せば、宇治勢田の橋をも引き、京中 の噪 ぎと成て、中々惡かりなんとて土佐房正俊を召て「和僧上て、物詣する樣にてたばかり討て。」と宣ひければ正俊畏て承り、宿所へも歸らず、御前を立て軈て京へぞ上りける。
同九月廿九日土佐房都へついたりけれ共、次の日迄判官殿へもまゐらず。土佐房がのぼりたる由聞給ひ、武藏房辨 慶を以て召されければ、やがてつれて參りたり。判官宣ひけるは、「如何に鎌倉殿より御文はなきか。」「指たる御事候はぬ間、御文はまゐらせられず候。『御 詞にて申せ。』と候ひしは『當時まで都に別の仔細無く候事、さて御渡候故と覺え候。相構てよく守護せさせ給へ。と申せ。』とこそ仰せられ候つれ。」判官、 「よもさはあらじ、義經討に上る御使なり。大名ども差上せば、宇治勢田の橋をも引き都の噪ぎとも成て、中々惡かりなん。和僧上せて物詣する樣にて、たばか て討てとぞ仰附られたるらんな。」と宣へば、正俊大に驚て、「何に依てか、唯今さる事の候べき。聊宿願に依て熊野参詣の爲に罷上て候。」其時判官宣ひける は、「景時が讒言に依て義經鎌倉へもいれられず、見參をだにし給はで追上せらるゝ事は如何に。」正俊「其事は如何候らん、身においては全く御後ぐらう候は ず。起請文を書き進らすべき」由申せば。判官「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれ奉たらばこそ。」とて、以外氣色惡しげに成り給ふ。正俊一旦の害をの がれんがために居ながら七枚の起請文を書て或は燒て飮み、或は社に納などして、ゆりて歸り、大番衆に觸回して其夜やがて寄せんとす。判官は磯禪師といふ白 拍子の娘しづかと云女を最愛せられけり。しづかも傍を立去る事なし。しづか申けるは、「大路は皆武者で候ふなる。是より催の無らんに、大番衆の者どもの是 程噪 ぐべき樣やさぶらふ。あはれ是は晝の起請法師のしわざと覺え候。人を遣して見せさぶらはばや。」とて、六波羅の故入 道相國の召使かはれける禿を三四人使はれけるを、二人遣したりけるが、程ふるまで歸らず。中々女は苦しからじとて半者を一人見せに遣す。程なく走り歸て申 けるは、「禿と覺しきものは、二人ながら土佐房の門に切伏られて候。宿所には鞍おき馬ども、ひしと引立て、大幕の内には、矢負、弓張、者共皆具足して唯今 寄んと出立候ふ。少も物詣の景色とは見え候はず。」と申ければ、判官是を聞いてやがて討立給ふ。靜著背長取て投懸奉る。高紐計して、太刀取て出給へば、中 門の前に馬に鞍置て引立たり、是に打乘て「門を開よ。」とて門あけさせ、今や/\と待給ふ處に、暫有て直甲四五十騎門の前に推寄せて、閧をどとぞ作ける。 判官鐙蹈張り立あがり、大音聲をあげて、「夜討にも晝戰にも、義經たやすう討つべき者は、日本國にはおぼえぬものを。」とて只一騎おめいて懸け給へば、五 十騎ばかりの者共中をあけてぞ通しける。さる程に、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云一人當千の兵共、やがて續いて責戰ふ。其後侍共御内に夜討入たり とて、あそこの屋形、爰の宿所より駈來る。程なく六七十騎集ければ、土佐房猛く寄たりけれども、戰に及ばず、散々に懸散されて扶かる者はすくなう、討るゝ 者ぞ多かりける。正俊希有にしてそこをばのがれて鞍馬の奧ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、彼法師土佐房を搦めて、次日判官の許へ送り けり。僧正が谷と云所に隱れ居たりけるとかや。正俊を大庭に引居たり。かちの直垂にすちやう頭巾をぞしたりける。判官笑て宣ひけるは「いかに和僧、起請に はうてた るぞ。」土佐房少しも噪がず、居なほりあざ笑て申けるは。「ある事に書て候へば、うてて候ぞかし。」と申す。「主君 の命を重んじて、私の命を輕んず、志の程最神妙也。和僧命惜くば、鎌倉へかへし遣さんはいかに。」土佐房、「正なうも御諚候者哉。惜しと申さば、殿は扶け 給はんずるか。鎌倉殿の、法師なれども、己ぞねらはんずる者とて、仰蒙しより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかは取返奉るべき。只御恩には疾々頭を召され候 へ。」と申ければ、「さらばきれ。」とて、六條河原に引出て切てげり。褒めぬ人こそ無りけれ。
判官都落
ここに足立新三郎といふ雜色は、「きやつは下臈なれども、以外さか/\しいやつで候。召使ひ給へ。」とて、判官に參せられたりけるが「内々九郎が振 舞見て、我に知せよ。」とぞ宣ひける。正俊がきらるゝを見て、新三郎夜を日についではせ下り、鎌倉殿に此由申ければ、舍弟參河守範頼を、討手に上せ給ふべ き由仰られけり。頻に辭申されけれども、重て仰られける間、力及ばで物具して、暇申に參られたり。「わ殿も九郎がまねし給ふなよ。」と仰られければ、此御 詞に恐れて、物具脱置て京上はとどまり給ひぬ。全く不忠なき由一日に十枚づゝの起請を晝は書き、夜は御坪の内にて讀上讀あげ百日に千枚の起請を書て參らせ られたりけれども、叶はずして終に討たれ給ひけり。其後北條四郎時政を大將として討手のぼると聞えしかば、判官殿鎭西の方へ落ばやと思ひ立ち給ふ處に緒方 三郎維義は平家を九國の内へも入 奉らず、逐出す程の威勢の者なりければ、判官「我に憑まれよ。」と宣ひける。「さ候はば、御内に候菊池次郎高直は、年來の敵で候。給はて頸を切て憑まれ參らせん。」と申。左右なくたうだりければ、六條河原に引出して切てげり。其後維義かひ/\しう領状す。
同十一月二日、九郎大夫判官院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て、奏聞しけるは「義經君の御爲に奉公の忠を致 す事、事あたらしう始て申上るに及候はず。しかるを頼朝、郎等共が讒言に依て、義經をうたんと仕候間暫く鎭西の方へ罷下らばやと存候。院の廳の御下文を一 通下預候ばや。」 [1]と申されけれは、 法皇「此條頼朝がかへり聞かん事いかゞあるべからん。」とて諸卿に仰合られければ、「義經都に候て關東の大勢亂入候はゞ京都の狼藉絶え候べからず。遠國へ 下候なば暫く其恐あらず。」とおの/\一同に申されければ、緒方三郎をはじめて、臼杵、戸次、松浦黨、惣じて鎭西の者共義經を大將として其下知にしたがふ べき由廳の御下文を給はてければ、其勢五百餘騎明る三日卯刻に京都に聊の煩も成さず、波風も立てずして下りにけり。攝津の國源氏、太田太郎頼基、「我門の 前を通しながら矢一つ射懸で有るべきか。」とて、河原津と云ふ所に追著て責戰ふ。判官は五百餘騎、太田太郎は六十餘騎にて有ければ、中に取籠め「餘すな泄 すな。」とて散々に攻給へば、太田太郎吾身も手負ひ、家子郎等多く討せ、馬の腹射させて引退く。判官頸共切り懸けて、軍神に祭り、「門出好し。」と悦で大 物浦より船に乘て下られけるが、折節西の風烈しく吹き住吉の浦に打上られて、吉野の奧にぞ籠りける。吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。奈良法師にせめら れて、又都へ歸り入、北國に かゝて終に奧へぞ下られける。都より相具したりける女房達十餘人、住吉の浦に捨置きたれば、松の下、砂の上に袴蹈しだき、袖 を片敷て泣臥したりけるを、住吉の神官共あはれんで、皆京へぞ送りける。凡判官の憑まれたりける伯父信太三郎先生義教、十郎藏人行家、緒方三郎維義が船 共、浦々島々に打寄せられて、互に其行末をしらず。忽に西の風吹ける事も、平家の怨靈の故とぞおぼえける。同十一月七日鎌倉の源二位頼朝卿の代官として北 條四郎時政、六萬餘騎を相具して都へ入。明る八日院參して伊豫守源義經、備前守同行家、信太三郎先生同義教、追討すべき由奏聞しければやがて院宣を下され けり。去二日は、義經が申請る旨に任せて、頼朝を背べき由廳の御下文成され、同八日は、頼朝卿の申状に依て、義經追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に變ず る世間の不定こそ哀なれ。
さる程に、鎌倉殿日本國の惣追捕使を給はて、段別に兵粮米を宛行ふべき由、申されければ、「昔より朝の怨敵を 亡したる者は半國を給はるといふ事、無量義經に見えたり。されども吾朝にはいまだ其例なし。是は頼朝が過分の申状なり。」と法皇仰なりけれども、公卿僉議 あて、「頼朝卿の申さるる處道理半なり。」とて諸卿一同に申されければ、御許されありけるとかや。諸國に守護を置き、庄園に地頭を補せらる。一毛許も隱べ き樣なかりけり。鎌倉殿か樣の事、公家にも人多しといへども吉田大納言經房卿をもて奏聞せられけり。此大納言は、うるはしい人と聞え給へり。平家に結ぼほ れたりし人々も、源氏の世の強りし後は或文を下し、或使者を遣し、樣々諂ひ給ひしかども、此人はさもし給はず。されば平家の時も法皇を鳥羽殿に 押籠參せて後院の別當を置かれしにも、勘解由小路中納言、此經房卿二人をぞ後院の別當には成されたりける。權右中辨 光房朝臣の子也。十二の年、父の朝臣失せ給ひしかば、孤にておはせしかども、次第に昇進滯らず、三事の顯要を兼帶して、夕郎の貫首を經、參議、大辨、太宰 帥正二位大納言に至れり。人をば越給へ共、人には越られ給はず。されば人の善惡は、錐嚢をとほすとて遂に隱なし。有がたかりし人なり。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, vol. 33, 1957; hereafter cited as NKBT) reads と申ければ.
六代
北條四郎策に「平家の子孫といはん人、尋出したらん輩に於ては、所望請ふに依べし。」と披露せらる。京中の者共案内は知たり、「勸賞蒙らん。」と て、尋求るぞうたてき。かゝりければ、幾等も尋出したりけり。下臈の子なれども、色白う眉目好きをば召し出いて「是はなんの中將殿の若君、彼少將殿の君 達。」と申せば、父母泣悲めども、「あれは介錯が申候、あれは乳母が申。」なんど云ふ間、無下にをさなきをば水に入、土に埋み、少し長しきをば押殺し、刺 殺す。母の悲み乳母が歎き喩へん方ぞ無りける。北條も子孫さすが多ければ、是をいみじとは思はねど、世に隨ふ習なれば、力及ばず。
中にも小松三位中將殿若君、六代御前とておはす也、平家の嫡々なる上、年もおとなしうまします也。如何にもしてとり奉らんとて、手を分てもとめられけれども、求かねて下らんとせられける所に、或女房の六波羅に出て申けるは「是より西遍照寺の奧、大覺寺と申す山寺 の北の方、菖蒲谷と申す所にこそ、小松三位中將殿の北方、若君、姫君おはしませ。」と申せば、時政やがて人をつけて其邊を窺 はせける程に、或坊に女房達少き人餘たゆゝしく忍びたる體にて住ひけり。まがきの隙よりのぞきければ、白い狗の走出たるを取らんとて、美氣なる若君の出給 へば、乳母の女房と覺しくて、「あな淺まし、人もこそ見參らすれ。」とて、いそぎ引入奉る。「是ぞ一定そにておはしますらん。」と思ひ、急ぎ走り歸てかく と申せば、次の日北條かしこに打向ひ、四方を打圍み、人をいれていはせけるは、「平家小松三位中將殿の若君六代御前、是におはしますと承はて、鎌倉殿の御 代官に北條四郎時政と申者が、御迎に參て候、はや/\出し參させ給へ。」と申されければ、母上之を聞給ふに、つや/\物も覺え給はず。齋藤五、齋藤六、走 り廻て見けれども、武士ども四方を打圍み、いづかたより出し奉るべしともおぼえず。乳母の女房も、御前に倒臥し、聲も惜まずをめき叫ぶ。日比は物をだにも 高く云はず、忍つゝ隱れ居たりつれども、今は家の中にありとあるもの聲をとゝのへて泣悲しむ。北條も是を聞て世に心くるしげに思ひ、涙拭ひつく%\とぞ待 たれける。やゝ有て、重て申されけるは、「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき事もぞ候とて御迎に參て候。別の御事は候まじ。はや/\出し參らさせ給 へ。」と申されければ、若君母上に申させ給ひけるは、「終に逃るまじう候へばとく/\出させおはしませ。武士共うち入て、さがす物ならば、うたて氣なる御 有樣共を見えさせ給ひなんず。たとひ罷出で候とも、暫しも候はゞ、暇乞て歸參り候はん。痛な歎かせ給ひそ。」と。慰め給ふこそいとほしけれ。
さても有るべきならねば、母上泣々御ぐし掻撫で物著せ奉り、既に出し奉らんとし給ひけるが、黒木の珠數のちいさう美 しいを取出して、是にて如何にも成らんまで、念佛申て、極樂へ參れよ。」とて奉り給へば、わか君是を取て、「母御前には今日既に離れ參せなんず。今は如何 にもして、父のおはしまさん所へぞ參りたき。」と宣ひけるこそ哀なれ。是を聞いて御妹の姫君の十に成り給ふが、「我も父御前の御許へまゐらん。」とて、走 り出給ふを、乳母の女房とり留め奉る。六代御前、今年は僅に十二にこそ成り給へども尋常の十四五よりは長しく、みめかたち優におはしければ、「敵に弱げを 見えじ。」とて、押ふる袖の隙よりも、餘て涙ぞこぼれける。さて御輿に乘り給ふ。武士共前後左右に打圍で出にけり。齋藤五、齋藤六、御輿の左右に附いてぞ 參りける。北條乘替共下して、乘すれども乘らず、大覺寺より六波羅まで徒跣にてぞ走ける。母上乳母の女房、天に仰ぎ地に伏して悶え焦れ給ひけり。「此日來 平家の子供取集めて、水に入るゝもあり、土に埋むもあり。押殺し、刺殺し、樣々にすと聞ゆれば、我子は、何としてか失はんずらん。少し長しければ、頸をこ そ切んずらめ。人の子は乳母などの許に置きて、時々見る事も有り。それだにも恩愛の道は悲しき習ひぞかし。況や是は生落して後、一日片時も身をはなたず。 人の持たぬ物を持ちたる樣に思ひて、朝夕二人の中にてそだてし者を、憑をかけし人にもあかで別し其後は、二人をうらうへにおきてこそ慰みつるに、一人はあ れども一人はなし。今日より後は如何がせむ。此三年が間、夜晝肝心を消しつゝ思ひ設つる事なれども、さすが昨日今日とは思寄らず、年比長谷の觀音をこそ深 う憑 み奉りつるに、終にとられぬる事の悲しさよ。唯今もや失ひつらん。」と掻口説泣より外の事ぞなき。さ夜深けれども胸 せきあぐる心ちして露もまどろみ給はぬが、良有て乳母の女房に宣ひけるは、「只今ちと打目睡みたりつる夢に、此子が白い馬に乘りて來つるが、『あまりに戀 しう思參せ候へば暫し暇乞うて參りて候。』とて、傍につい居て、何とやらん世に恨しげに思ひてさめ%\と泣きつるが、程なく打おどろかされて若やとかたは らを探れども人もなし。夢なりとも暫しもあらで、覺ぬる事の悲しさよ。」とぞ語り給ふ。乳母の女房も泣きけり。長き夜もいとど明しかねて涙に床も浮計な り。
限あれば、 鷄人曉を唱て夜もあけぬ。齋藤六歸り參りたり。「さて如何にやいかに。」と問 ひ給へば「唯今までは別の御事も候はず。御文の候。」とて、取出いて奉る。あけて御覽ずれば「如何に御心苦しう思食され候らん。唯今までは別の事も候は ず。いつしかたれ%\も御戀しうこそ候へ。」とよに長しやかに書き給へり。母上是を見給ひて、とかうの事ものたまはず。御文をふどころに引入てうつぶしに ぞなられける。誠に心の中さこそはおはしけめと推量られて哀なり。
かくて遙に時刻推移りければ、齋藤六、「時の程も覺束なう候に、歸參らん。」と申せば、母上泣泣御返事書いて 給でけり。齋藤六暇申て罷り出づ。乳母の女房責ても心のあられずさに、走り出でて何くを指ともなくその邊を足に任せて泣きありく程に、或人の申けるは、 「此奧に高雄といふ山寺あり。その聖文覺坊と申人こそ、鎌倉殿にゆゝしき大事の人に思はれ參せてお はしますが、上臈の御子を御弟子にせんとて、ほしがらるなれ。」と申ければ、嬉しき事を聞きぬと思ひて母上にかくと も申さず、唯一人高雄に尋入り、聖に向ひ奉て、「ちの中よりおほしたて參せて、今年十二に成らせ給ひつる若君を、昨日武士にとられて候。御命乞請參せ給ひ て、御弟子にせさせ給ひなんや。」とて、聖の前に倒伏し、聲をも惜まず泣き叫ぶ。誠にせんかたなげにぞ見えたりける。聖無慚におぼえければ、事の仔細をと ひ給ふ。起あがて泣々申けるは、「平家小松三位の中將の北方の親しうまします人の御子を養ひ奉るを、若中將殿の公達とや、人の申候ひけん。昨日武士の取り 參せて罷り候ひぬるなり。」と申。「さて武士をば誰といひつる。」「北條とこそ申候ひつれ。」聖、「いでさらば行向ひて尋ねん。」とて、つき出ぬ。此詞を 憑むべきにはあらねども、聖のかくいへば、今少し人の心ち出來て急ぎ大覺寺へ歸り參り、母上にかくと申せば、「身を投に出ぬるやらんと思ひて、我も如何な らん淵河にも身を投んと思ひたれば。」とて、事の仔細を問給ふ。聖の申つる樣を有のまゝに語りければ、「あはれ乞請て、今一度見せよかし。」とて、手を合 せてぞ泣かれける。
聖六波羅に行むかて事の仔細を問ひ給ふ。北條申されけるは、「鎌倉殿の仰には、平家の子孫京中に多く忍んであ りと聞く。中にも小松三位中將の子息中御門の新大納言の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々なる上年もおとなしかんなり。如何にも尋出して、失ふべしと、仰を 蒙て候ひしが、此程末々のをさなき人をば少々取奉て候つれども、此若君は在所をしり奉らず、尋かねて既に空しう罷下らんとし候つるが、思はざる外、一昨日 聞出して、昨日迎へ奉て候 へども、斜ならず美しうおはする間、あまりに最愛くて未ともかうもし奉らで置き參らせて候。」と申せば、聖、「いで さらば見奉らん。」とて、若君のおはしける處へ參て見參せ給へば、二重織物の直垂に、黒木の數珠手に貫入ておはします。髮のかゝり姿骨柄誠にあてに美しく 此世の人とも見え給はず。今夜打とけて、寢給はぬと覺しくて、少し面痩給へるにつけていとゞ心苦しうらうたくぞ覺えける。聖を御覽じて、何とかおぼしけ ん。涙ぐみ給へば、聖も是を見奉てそゞろに墨染の袖をぞ絞りける。縱ひ末の世に如何なるあた敵になるとも、いかゞ是を失ひ奉るべきと悲しうおぼえければ、 北條に宣ひけるは、「此若君を見奉るに、先世の事にや候らん、餘りに最愛う思ひ奉り候。廿日が命を延べて給べ。鎌倉殿へ參て申預り候はむ。聖鎌倉殿を世に あらせ奉らんとて我身も流人でありながら院宣伺ひ奉らんとて京へ上るに、案内も知らぬ富士川の尻に夜渡り懸て、既に押流されんとしたりし事、高市の山にて ひはぎにあひ、手をすて命ばかり生、福原の籠の御所へ參り、前右兵衞督光能卿に付き奉て院宣申出て奉りし時の御約束には、如何なる大事をも申せ、聖が申さ ん事をば、頼朝が一期の間は叶へんとこそ宣ひしか。其後も度々の奉公かつは見給ひし事なれば、事新う始めて申べきにあらず、契を重うし命を輕うす。鎌倉殿 に受領神つき給はずば、よも忘れ給はじ。」とて、其曉立にけり。齋藤五、齋藤六、是をきゝ聖を生身の佛の如く思ひて、手を合て涙を流す。急ぎ大覺寺へ參 て、この由申ければ、是を聞き給ひける母上の心の中いかばかりかは嬉かりけん。されども鎌倉のはからひなれば、いかゞあらんずらむと覺束なけれども、當時 聖の憑し 氣に申て下ぬる上、廿日の命の延給に、母上乳母の女房少し心も取延て、偏に觀音の御助なればと憑しうぞ思はれける。
かくてあかし暮し給ふ程に、廿日の過るは夢なれや。聖はいまだ見えざりけり、何と成ぬる事やらんとなか/\心 苦うて、今更又悶え焦れ給ひけり。北條も、「文覺房の約束の日數もすぎぬ、さのみ在京して、年を暮すべきにもあらず。今は下らん。」とてひしめきければ、 齋藤五、齋藤六、手を握り肝魂を碎けども、聖も未だ見え給はず、使者をだにも上せねば、思ふばかりぞ無りける。此等大覺寺へ歸り參て、「聖も未だ上り給は ず、北條も曉下向仕候。」とて、左右の袖を顏に押當て涙をはらはらと流す。是を聞き給ひける母上の心の中如何ばかりかは悲しかりけむ。「哀長しやかならん 者の聖の行逢ん所まで六代を具せよと言へかし。若乞請ても上らんに先に斬りたらん悲しさをば如何せむずる。さてとく失ひげなるか。」と宣へば、「やがて此 曉の程とこそ見えさせ給候へ。其故は、此程御とのゐ仕候つる北條の家子郎等ども、よに名殘惜氣に思ひ參せて或は念佛申す者も候。或は涙を流す者も候。」 「さて此子は何として有ぞ。」と宣へば、「人の見まゐらせ候時は、さらぬ樣にもてないて、御數珠をくらせおはしまし候が、人の候はぬ時は、御袖を御顏に押 當て、涙に咽ばせ給ひ候。」と申。「さこそあるらめ。をさなけれども、心長しやかなる者なり。今夜限りの命と思て、いかに心細かるらん。暫しもあらば、い とま乞て參らんといひしかども、廿日にあまるに、あれへも行かず、是へも見えず。今日より後又何れの日何れの時相見るべしともおぼえず。さて 汝等は如何が計らふ」と宣へば、「是はいづくまでも御供仕り、むなしう成せ給ひて候はゞ御骨を取り奉り高野の御山に 納奉り、出家入道して後世を弔ひまゐらせんとこそ思ひなて候へ。」と申。「さらば餘りに覺束なう覺ゆるに、とう歸れ。」と宣へば、二人の者泣々暇申て罷出 づ。さる程に、同十二月十六日北條四郎若君具し奉て既に都を立にけり。齋藤五、齋藤六、涙にくれて行先も見えねども、最後の所までと思ひつゝ泣々御供に參 りけり。北條、「馬に乘れ。」と云へども乘らず。「最後の供で候へば、苦しう候まじ。」とて、血の涙を流しつつ脚にまかせてぞ下ける。六代御前はさしも離 れ難くおぼしける母上乳母の女房にも別果て、住馴し都をも雲井の餘所に顧みて、今日を限の東路におもむかれけん心の中、推量られて哀なり。駒を早むる武士 あれば、我頸討んずるかと肝をけし、物言ひかはす人あれば、既に今やと心を盡す。四宮河原と思へ共、關山をも打越えて、大津の浦に成にけり。粟津が原かと 窺へども今日もはや暮にけり。國々宿々打過々々行程に、駿河國にもつき給ひぬ。若君の露の御命、今日を限とぞ聞えける。
千本の松原に武士共皆下り居て御輿舁居させ、敷皮敷いて若君を居奉る。北條四郎若君の御前近う參て申されける は、「是まで具し參せ候つるは別の事候はず。若道にて聖にもや行逢ひ候、と待ち過し參せ候つる也。御心ざしの程は見えまゐらせ候ぬ。山のあなたまでは、鎌 倉殿の御心中をも知りがたう候へば、近江國にて失ひ參せて候由披露仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれば、よも叶はじ。」と泣々申ければ、若君ともか うも其返事をばし給はず。 齋藤五、齋藤六をちかう召て、「我如何にも成りなん後、汝等都に歸て、穴賢、道にてきられたりとは申すべからず。其 故は、終には隱れあるまじけれども、正しう此有樣聞いて、餘に歎き給はゞ、草の影にても心苦しうおぼえて後世の障りともならんずるぞ。鎌倉まで送りつけて 參て候と申べし。」と宣へば、二人の者共肝魂も銷果て暫しは御返事にも及ばず。稍有て齋藤五「君におくれまゐらせて後命生て安穩に都まで上りつくべしとも 覺候はず。」と涙を抑てふしにけり。既に今はの時に成しかば、若君御ぐしの肩にかゝりたりけるを、よにうつくしき御手をもて前へ打越し給ひたりければ、守 護の武士ども見まゐらせて「あないとほし。いまだ御心のましますよ。」とて皆袖をぞぬらしける。其後西にむかひ手を合て靜に念佛唱つゝ頸をのべてぞ待給 ふ。狩野工藤三親俊切手にえらばれ、太刀を引側めて左の方より御後に立廻り、既に切り奉らんとしけるが、目も暮れ心も消果て、何くに太刀を打つくべしとも 覺えず、前後不覺に成りしかば、「仕つとも覺候はず、他人に仰附られ候へ。」とて、太刀を捨て退にけり。「さらば、あれ切れ、これ切れ。」とて、切手を選 ぶ處に、墨染の衣著て月毛なる馬に乘たる僧一人、鞭をあげてぞ馳たりける。「あないとほし、あの松原の中に、世にうつくしき若君を、北條殿の斬らせたまふ ぞや。」とて、者どもひし/\と走り集りければ、此僧「あな心う」とて、手をあがいてまねきけるが、猶おぼつかなさに、きたる笠をぬぎ、指上てぞ招ける。 北條「仔細あり。」とて待處に此僧走ついて、急ぎ馬より飛おり、暫く息を休めて、「若君許されさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候。」とて取出して奉る。 北條披て見給へば、誠や、
小松三位中將維盛卿子息尋出され候なる高雄の聖御房申請けんと候。疑をなさず預け奉るべし。
北條四郎殿へ 頼朝
とあそばして御判あり。二三遍推返し々々讀で後、「神妙々々」とて打置れければ、齋藤五、齋藤六はいふに及ばず、北條の家子郎等共も皆悦の涙をぞ流しける。
長谷六代
さる程に、文覺房もつと出きたり、若君乞請たりとて、氣色誠にゆゆしげなり。「『此若君の父三位中將殿は、初度の戰の大將軍也。誰申とも叶ふま じ。』と宣ひつれば『文覺が心を破ては、爭か冥加もおはすべき。』など惡口申つれども、猶『叶まじ。』とて、那須野の狩に下り給し間、剩文覺も狩場の供し て、漸々に申てこひ請たり。いかに遲うおぼしつらん。」と申されければ、北條「廿日と仰せられ候ひし御約束の日數も過候ぬ。鎌倉殿の御宥れなきよと存じ て、具し奉て下る程に、かしこうぞ、爰にて誤ち仕候らんに。」とて、鞍置て引せたる馬共に齋藤五、齋藤六を乘せて上せらる。我身も遙に打送り奉て、「暫く 御供申たう候へども、鎌倉殿に指て申べき大事共候。暇申て。」とて打別れてぞ下られける。誠に情深かりけり。
聖若君を請とり奉て、夜を日についで馳上る程に、尾張國熱田の邊にて、今年も既に暮ぬ。明る正月五日の夜に入て、都へ上り著く。二條猪熊なる所に、文覺坊の宿房ありければ、其 に入奉て、暫く休奉り、夜半ばかり大覺寺へぞおはしける。門をたゝけども、人なければ音もせず。築地の壞より若君の飼ひ給ひ ける白い狗の走り出て、尾を振て向ひけるに、若君「母上はいづくに在ますぞ。」ととはれけるこそせめての事なれ。齋藤六、築地を越え、門を開て入奉る。近 う人の住だる所とも見えず。若君「いかにもしてかひなき命をいかばやと思しも戀しき人を今一度見ばやと思ふ爲なり。こはされば何と成り給ひけるぞや。」と て夜もすがら泣悲み給ふぞ誠に理と覺えて哀なる。夜を待明して近里の者に尋給へば、「年の内は大佛參りとこそ承候ひしか。正月の程は、長谷寺に御籠と聞え 候しが、其後は御宿所へ人の通ふとも見え給はず。」と申ければ、齋藤五急ぎ長谷へ參て尋あひ奉り、此由申ければ、母上、乳母の女房つや/\現とも覺え給は ず、「是はされば夢かや夢か。」とぞ宣ひける。急ぎ大覺寺へ出させたまひ、若君を御覽じて嬉しさにも只先立つ物は涙なり。「疾々出家し給へ。」と仰られけ れども、聖惜み奉て、出家もせさせ奉らず。やがて迎へとて高雄に置奉り、北の方の幽なる御有樣をも訪ひけるとこそ聞えし。觀音の大慈大悲は、罪有も罪無を も助給へば昔もかゝるためし多しといへども、ありがたかりし事共なり。
さる程に北條四郎六代御前具し奉て下りけるに、鎌倉殿御使鏡宿にて行合たりけるに、「如何に」と問へば、「十 郎藏人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞え候。討奉れとの御氣色で候。」と申。北條「吾身は大事の召人具したれば。」とて甥の北條平六時貞が送 りに下りけるを、おいその森より「疾和殿は歸て此人人おはし處聞出して討て參せよ。」とてとゞめら る。平六都に歸て尋る程に十郎藏人殿の在所知たりといふ法師出來たり。彼僧に尋れば「我はくはしうはしらず、知りた りといふ僧こそあれ。」といひければ、押寄せて彼僧を搦捕る。「是はなんの故に搦るぞ」。「十郎藏人殿の在所知たなれば搦むる也。」「さらば教へよとこそ いはめ。さうなうからむる事は如何に。天王寺にとこそ聞け。」「さらばじんじよせよ。」とて、平六が聟の小笠原十郎國久、殖原九郎、桑原次郎、服部平六を 先として其勢三十餘騎、天王寺へ發向す。十郎藏人の宿は二所あり。谷の學頭伶人兼春秦六秦七と云者の許也。二手に作て押寄たり。十郎藏人は兼春が許におは しけるが、物具したる者共の打入を見て後より落にけり。學頭が娘二人あり。ともに藏人のおもひものなり。是等を捕へて藏人のゆくへを尋ぬれば姉は「妹に問 へ。」といふ。妹は「姉に問へ。」といふ。俄に落ぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。
藏人は熊野の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足を疾ければ、和泉國八木郷といふ處に逗留してこそ居たり けれ。彼の主の男、藏人を見知て夜もすがら京へ馳上り、北條平六につげたりければ「天王寺の手の者はいまだのぼらず、誰をか遣るべき。」とて大源次宗春と いふ郎等をようで「汝が宮立たりし山僧はいまだあるか。」「さ候。」「さらば呼べ。」とて、喚ばれければ、件の法師出來たり。「十郎藏人のまします。討て 鎌倉殿に參せて御恩蒙り給へ。」と云ければ、「承り候ぬ。人を給び候へ。」と申。「軈て大源次下れ、人もなきに。」とて舍人雜色人數僅に十四五人相そへて つかはす。常陸房正明と云者也。和泉國に下つき彼家に走り入て見 れ共なし。板敷打破てさがし、塗ごめの内を見れ共なし。常陸房大路に立て見れば、百姓の妻とおぼしくて長敷き女の通 りけるを捕へて、「此邊に恠しばうたる旅人のとどまたる處やある。いはずば切て捨ん。」と云へば、「只今さがされ候つる家にこそ夜邊まで世に尋常なる旅人 の二人とどまて候つるが、今朝など出て候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ。」と云ひければ、常陸房黒革威の腹卷の袖著けたるに大太刀帶て 彼家に走入てみれば、歳五十計なる男のかちの直垂に折烏帽子著て唐瓶子菓子などとりさばくり、銚子どももて酒勸めむとする處に、物具したる法師の打入を見 て、かいふいて逃ければやがて續いて逐懸たり。藏人「あの僧。や、それは在ぬぞ。行家はこゝにあり。」と宣へば、走歸て見るに白い小袖に大口ばかり著て、 左の手には金作りの小太刀をもち、右の手には野太刀の大なるを持たれたり。常陸房「太刀投させ給へ。」と申せば、藏人大に笑はれけり。常陸房走寄てむずと 切る。丁と合せて跳り退く。又寄て切る。丁と合せてをどりのく。寄合寄逃き一時ばかりぞ戰うたる。藏人後なる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房 「まさなう候。な入せ給ひ候そ。」と申せば、「行家もさこそ思へ。」とて又跳り出て戰ふ。常陸房太刀を棄てむずと組んでどうと臥す。上に成り下に成り、こ ろび合ふ處に、大源次つと出きたり。餘に遽てゝ帶たる太刀をば拔で、石を握て藏人の額をはたと打て打破る。藏人大に笑て「己は下臈なれば。太刀長刀でこそ 敵をばうて。礫にて敵打樣やある。」常陸房「足を結へ。」とぞ下知しける。常陸房は敵が足を結へとこそ申けるに、餘に遽てて四の足をぞ結たりける。其後藏 人の頸に繩を懸て搦め 引起して押居たり。「水參せよ。」と宣へば干飯を洗て參せたり。水をばめして、干飯をばめさず差し置き給へば、常陸 房取て食うてけり。「和僧は山法師か。」「山法師で候。」「誰といふぞ。」西塔の北谷法師常陸房正明と申者で候。」「さては行家に仕はれむといひし僧 か。」「さ候。」「頼朝が使か。平六が使歟。」「鎌倉殿の御使候。誠に鎌倉殿をば討參せんと思めし候ひしか。」「是程の身に成て後思はざりしといはゞ如何 に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思ひつる。」と宣へば、 「山上にて多の事に逢て候に、未だ是程手剛き事に合候はず、よき敵三人に逢たる心地こそし候つれ。」と申す。「さて正明をばいかゞ思召され候つる。」と申 せば、「それはとられなん上は。」とぞ宣ひける。「其太刀取寄せよ。」とて見給へば、藏人の太刀は一所も不切常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。やがて 傳馬立させ乘奉て上るほどに、其夜は江口の長者が許に泊て夜もすがら使を走らかす。明る日の午刻ばかり北條平六其勢百騎ばかり旗さゝせて下るほどに淀の赤 井河原で行合たり。「都へはいれ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御氣色も其儀でこそ候へ。はや/\御頸を給はて鎌倉殿の見參にいれて御恩蒙り給 へ。」といへば、さらばとて赤井河原で十郎藏人の頸を切る。
信太三郎先生義教は醍醐の山に籠たる由聞しかば、おし寄てさがせどもなし。伊賀の方へ落ぬと聞えしかば、服部 平六を先として伊賀國へ發向す。千度の山寺にありと聞えし間、押寄てからめんとするに袷の小袖に大口ばかり著て金にて打くゝんだる腰の刀にて腹掻切てぞ伏 たりける。頸をば服部平六とてけり。やがて持せて京へ上り、北條平六に見せたりければ 「やがて持せて下り、鎌倉殿の見參に入て御恩蒙給へ。」といひければ常陸房服部各頸共持せて鎌倉へ下り見參に入たり ければ、「神妙なり。」とて常陸房は笠井へ流さる。「下りはては勸賞蒙らんとこそ思ひつるに、さこそ無らめ、剩流罪に處せらるゝ條存外の次第也。かかるべ しと知りたらば、何しか身命を捨けん。」と後悔すれども甲斐ぞなき。されども中二年といふに召返され「大將軍討たる者は冥加のなければ一旦戒めつるぞ。」 とて但馬國に多田庄、攝津國に葉室二箇所給はて歸り上る。服部平六平家の祗候の人たりしかば沒官せられたりける服部かへし給はてけり。
六代被斬
さる程に、六代御前はやう/\、十四五にも成給へば、みめ容いよ/\うつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。母上是を御覽じて「哀れ世の世にてあ らましかば、當時は近衞司にてあらんずるものを。」と、宣ひけるこそ餘りの事なれ。鎌倉殿常は覺束なげにおぼして高雄の聖の許へ便宜毎に、「さても維盛卿 の子息、何と候やらむ。昔頼朝を相し給し樣に、朝の怨敵をも滅し會稽の恥をも雪むべき仁にて候か。」と尋ね申されければ、聖の御返事には、「是は底もなき 不覺仁にて候ぞ。御心安う思しめし候へ。」と申されけれども、鎌倉殿猶も御心ゆかずげにて「謀反をだに起さば、やがて方人せうずる聖の御房也。但頼朝一期 の程は誰か傾くべき、子孫の末ぞ知らぬ。」と宣ひけるこそ怖しけれ、母上是を聞き給ひて、「如何にも叶まじ。 はや/\出家し給へ。」と仰ければ、六代御前十六と申し文治五年の春の比、うつくしげなる髮を肩のまはりに鋏み落し柿の衣袴 に笈など拵へ聖に暇乞うて修行に出でられけり。齋藤五、齋藤六も同じ樣に出立て、御供申けり。先づ高野へ參り父の善知識したりける瀧口入道に尋合ひ御出家 の次第臨終の有樣、委敷う聞給ひて、且うは其御跡もゆかしとて、熊野へ參給ひけり。濱の宮の御前にて父の渡り給ひける山なりの島を見渡して、渡らまほしく おぼしけれ共、波風向うて叶はねば、力及ばで、詠めやり給ふにも我父は何くに沈み給ひけんと、沖より寄する白波にも、問まほしくぞ思はれける。汀の沙も父 の御骨やらんとなつかしうおぼしければ、涙に袖はしをれつゝ鹽くむ海士の衣ならね共、乾く間なくぞ見え給ふ。渚に一夜逗留して念佛申經讀み指の先にて沙に 佛の形をかき現して、明ければ貴き僧を請じて父の御爲と供養して、作善の功徳さながら聖靈に廻向して亡者に暇申つゝ泣々都へ上られけり。
小松殿の御子丹後侍從忠房は八島の軍より落て行末も知らずおはせしが、紀伊國の住人湯淺權守宗重を憑んで湯淺 の城にぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨四郎兵衞以下の兵共著き奉由聞えしかば、伊賀、伊勢兩國の住 人等、我も我もと馳集る。究竟の者共數百騎たてこもたる由聞えしかば、熊野別當、鎌倉殿より仰を蒙て兩三月が間、八箇度寄せて責戰ふ。城の内の兵共命を惜 まず、防ぎければ毎度に御方追散され、熊野法師數をつくいて討れにけり。熊野別當、鎌倉殿へ飛脚を奉て當國湯淺の合戰の事兩三ケ月が間に八箇度寄て責戰 ふ。されども城の内の兵共命を惜まず、防ぐ間毎 度に味方おひ落されて、敵をしへたぐるに及ばず。近國二三ケ國をも給はて攻め落すべき由申たりければ、鎌倉殿「其 條、國の費、人の煩なるべし。楯籠所の凶徒は定めて海山の盗人にてぞあらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を固めて守るべし。」とぞ宣ひける。其定にし たりければ、げにも後には人一人もなかりけり。鎌倉殿謀に「小松殿の君達の一人も二人も生殘り給ひたらんをば扶け奉るべし。其故は池の禪尼の使として頼朝 を流罪に申宥られしは偏に彼内府の芳恩也。」と宣ひければ、丹後侍從六波羅へ出てなのられけり。軈て關東へ下奉る。鎌倉殿對面して「都へ御上り候へ。片ほ とりに思ひ當て參らする事候。」とてすかし上せ奉り追樣に人を上せて勢多の橋の邊にて切てけり。
小松殿の君達六人の外に土佐守宗實とておはしけり。三歳より大炊御門の左大臣經宗卿の養子にて異姓他人にな り、武藝の道をば打棄てて文筆をのみ嗜て今年は十八に成り給ふを鎌倉殿より尋はなかりけれども、世に憚て追出されたりければ、先途を失ひ大佛の聖俊乘房の もとにおはして「我は是小松の内府の末の子に土佐守宗實と申者にて候。三歳より大炊御門左大臣經宗養子にして異姓他人になり、武藝のみちをうち捨て、文筆 をのみたしなんで生年十八歳に罷成。鎌倉殿より尋らるる事は候はねども、世におそれておひ出されて候。聖の御房御弟子にせさせ給へ。」とて髻推切給ひぬ。 「それも猶怖しう思食さば鎌倉へ申て、げにも罪深かるべくは何くへも遣せ。」と宣ひければ、聖最愛思ひ奉て出家せさせ奉り、東大寺の油倉と云所に暫く置奉 て關東へ此由申されけり。「何樣にも見參してこそともかうもはからはめ。先 づ下し奉れ。」と宣ひければ、聖力及ばで關東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし日よりして飮食の名字を絶て湯水をも喉へいれず、足柄越て關本と云所にて遂に失給ぬ。「如何にも叶まじき道なれば。」とて思切られけるこそ怖ろしけれ。
さる程に建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して、同九日正二位大納言に成り給ふ。同十一日大納言の右大將を兼じ給へり。やがて兩職を辭て十二月四日關東へ下向。建久三年三月十三日法皇崩御なりにけり。御歳六十六。瑜珈振鈴の響は其夜を限り、一乘案誦の御聲は其曉に終ぬ。
同六年三月十三日大佛供養有るべしとて二月中に鎌倉殿又御上洛あり。同十二日大佛殿へ參せ給ひたりけるが、梶原を召て「手かいの門の南の方に大衆な ん十人を隔てゝ怪しばうだる者の見えつる。召捕て參らせよ。」と宣ひければ、梶原承てやがて召具して參りたり。鬚をば剃て髻をば切らぬ男也。「何者ぞ。」 ととひ給へば、「是程運命盡果て候ぬる上はとかう申すに及ばず。是は平家の侍薩摩中務家資と申者にて候。」「それは何と思ひてかくは成りたるぞ。」「もし やとねらひ申候つる也。」「志の程はゆゝしかりけり。」とて供養果てて都へ入せ給ひて、六條河原にて切られにけり。
平家の子孫は去文治元年冬の比一つ子二つ子をのこさず腹の内をあけて見ずと云ばかりに尋取て失ひてき。今は一人もあらじと思ひしに、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠とておはしき。平家都を落し時三歳にて棄置かれたりしを乳母の紀伊次郎兵衞爲教養ひ奉てこゝかしこ に隱れありきけるが、備後國大田といふ所に忍びつゝ居たりけり。やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護恠しみける程 に都へ上り法性寺の一の橋なる所に忍んでおはしけり。爰祖父入道相國自然の事のあらん時城廓にもせんとて堀を二重に堀て四方に竹を栽られたり。逆茂木引て 晝は人音もせず、夜になれば尋常なる輩多く集て詩作り歌を讀み管絃などして遊びける程に何としてか漏れ聞えたりけん、其比人のおぢ怖れけるは一條の二位入 道義泰といふ人也。其侍に後藤兵衞基清が子に新兵衞基綱「一の橋に違勅の者あり。」と聞出して、建久七年十月七日辰の一點に其勢百四五十騎一の橋へ馳せ向 ひ、をめき叫んで攻め戰ふ。城の内にも三十餘人有ける者共大肩脱に袒いで竹の陰より差詰引詰さんざんに射れば、馬人多く射殺されて面を向ふべき樣もなし。 「さる程に一の橋に違勅の者あり。」と聞傳へ在京の武士共我も我もと馳つどふ。程なく一二千騎に成りしかば、近邊の小家を壞ち寄せ堀を填めをめき叫んで攻 入けり。城の内の兵共打物拔で走出で、或は討死する者もあり、或は痛手負て自害する者もあり。伊賀大夫知忠は生年十六歳に成られけるが、痛手負て自害し給 ひたるを乳母の紀伊次郎兵衞入道膝の上に舁乘せ、涙をはら/\と流いて高聲に十念唱へつつ腹掻切てぞ死にける。其子の兵衞太郎、兵衞次郎共に討死してんげ り。城の内に三十餘人有ける者共大略討死自害して館には火を懸けたりけるを武士共馳入て手々に討ける頸共太刀長刀の先に貫ぬき二位入道殿へ馳參る。一條の 大路へ車遣出して頸共實檢せらる。紀伊次郎兵衞入道の頸をば見知たる者も少々在り。伊賀大夫の頸、人爭か見知り奉べき。此人の母上は治部卿局とて八 條女院に候はれけるを迎へ寄せ奉て見せ奉り給ふ。「三歳と申し時、故中納言に具せられて西國へ下りし後は生たり共死たりとも其行へを知らず、但故中納言の思出る所々のあるはさにこそ。」とて被泣けるにこそ伊賀大夫の頸とも人知てげれ。
平家の侍越中次郎兵衞盛嗣は但馬國へ落行て氣比四郎道弘が聟に成てぞ居たりける。道弘越中次郎兵衞とは知らざ りけり。されども錐嚢にたまらぬ風情にて夜になれば、しうとが馬引出いて馳引したり。海の底十四五町二十町潜などしければ、地頭守護恠しみける程に何とし てか漏聞えたりけん。鎌倉殿御教書を下されけり。「但馬國の住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衞盛嗣當國に居住の由聞食す。めし進せよ。」と仰下 さる。氣比四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、呼び寄せて「いかゞして搦めんずる。」と議するに、湯屋にてからむべしとて湯に入れてしたゝかなる者五六人お ろし合せてからめんとするに、取つけば投倒され、起上れば蹴倒さる。互に身は濕たり、取もためず。されども衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人はと寄て太 刀のみね長刀の柄にて打惱して搦捕、やがて關東へ參せたりければ、御前に引居させて事の子細を召問はる。「如何に汝は同平家の侍と云ながら故親にてあんな るに、何とてしなざりけるぞ。」「其れはあまりに平家の脆く滅て在し候間、若やとねらひ參らせ候つるなり。太刀のみの好をも征矢の尻の鐡好をも鎌倉殿の御 爲とこそ拵へ持て候つれども、是程に運命盡果候ぬる上はとかう申におよび候はず。」「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんはいかに。」と仰 ければ、「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては 必ず御後悔候べし。只御恩には疾々頸を召され候へ。」と申ければ、「さらば切れ。」とて由井の濱に引出いて切てげり。ほめぬ者こそなかりけれ。
其比の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道は一向卿の局のまゝなりければ、人の愁歎もやまず。呉王劔客を好んじかば、天下に疵を蒙る者たえず。楚 王細腰を愛せしかば、宮中に飢て死する女多かりき。上の好に下は隨ふ間世の危き事を悲んで有心人々は歎きあへり。こゝに文覺本より怖き聖にて、いろふまじ き事にいろひけり。二の宮は、御學問怠らせ給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、如何にもして、此宮を位に即奉らんとはからひけれども、前右大將頼朝卿の おはせし程は叶はざりけるが、建久十年正月十三日、頼朝卿失せ給ひしかば、やがて謀反を起さんとしける程に忽に洩聞えて、二條猪熊の宿所に官人共つけられ 召捕て八十に餘て後隱岐國へぞ流されける。文覺京を出るとて、「是程老の波に望て、今日明日とも知ぬ身を、縱勅勘なりとも都の片邊には置給はで隱岐國まで 流さるる及丁冠者こそ安からね。終には文覺が流さるゝ國へ迎へ申さんずるものを。」と、申けるこそ怖しけれ。此君は餘に毬杖の玉を愛せさせ給ひければ文覺 かやうに惡口申ける也。されば承久に御謀反起させ給ひて、國こそ多けれ、隱岐國へうつされ給ひけるこそ不思議なれ。彼國にても文覺が亡靈荒て、常は御物語 申けるとぞ聞えし。
さる程に六代御前は、三位禪師とて、高雄に行ひすましておはしけるを、「さる人の子也。さる人の弟子なり。首をば剃たりとも、心をばよも剃じ。」とて、鎌倉殿より頻に申されければ、 安判官資兼に仰せて召捕て、關東へぞ下されける。駿河國の住人岡邊權守泰綱に仰せて、田越河にて、切れてけり。十二の歳より三十に餘まで保ちけるは、偏に長谷の觀音の御利生とぞ聞えし。それよりしてこそ平家の子孫は永く絶にけれ。
慶安三年十一月廿九日 佛子有阿書
13
平家物語灌頂
女院出家
建禮門院は、東山の麓、吉田の邊なる所にぞ、立入せ給ひける。中納言法印慶惠と申ける奈良法師の坊なりけり。住荒して年久 しう成ければ庭には草深く、軒にはしのぶ茂れり。簾たえ閨露はにて、雨風たまるべうもなし。花は色々匂へども主と憑む人もなく、月は夜な/\さし入れど も、詠めて明す主もなし。昔は玉の臺を磨き、錦の帳に纒れて、明し暮し給ひしが、今は有とし有人には、皆別果てて、あさましげなる朽坊に入らせ給ひける御 心の中おしはかられて哀なり。魚の陸に上れるが如く、鳥の巣を離たるが如し。さるまゝには、憂りし波の上、船の中の御住ひも、今は戀しうぞ思召す。蒼波路 遠し、思を西海千里の雲に寄せ、白屋苔深くして、涙東山一庭の月に落つ。悲しとも云ばかりなし。
かくて女院は文治元年五月一日、御ぐし下させ給けり。御戒の師には、長樂寺の阿證房の上人印誓とぞ聞えし。 御布施には、先帝の御直衣なり。今はの時まで召されたりければ、其移り香もいまだうせず。御形見に御覽ぜんとて、西國より遙々と都迄持せ給ひたりければ、 如何ならん世までも、御身をはなたじとこそ思召されけれども、御布施になりぬべき物のなき 上、且は彼御菩提の爲とて、泣々取出され給ひけり。上人是を給て、何と奏する旨もなくして、墨染の袖を絞りつつ泣々罷出でられけり。此御衣をば幡に縫て、長樂寺の佛前に懸られけるとぞ聞えし。
女院は十五にて女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の側に候はせ給ひて、朝には朝政を勸め、夜は夜を專にし給へり。二十二にて皇 子御誕生有て、皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號蒙らせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なる上、天子の國母にてましましければ世の重し 奉る事斜ならず。今年は二十九にぞならせ給ふ。桃李の御粧猶濃かに、芙蓉の御容未だ衰させ給はねども、翡翠の御かざしつけても何にかはせさせ給ふべきなれ ば、遂に御樣をかへさせ給ひ、浮世を厭ひ、實の道に入せ給へども、御歎きは更に盡せず。人人今はかくとて海に沈し有樣、先帝、二位殿の御面影、如何ならん 世までも忘がたく思食すに露の御命何しに今までながらへて、かゝる憂目を見るらんと思食めし續けて御涙せきあへさせ給はず。五月の短夜なれども明しかねさ せ給ひつゝ、自打睡ませ給はねば、昔の事は夢にだにも御覽ぜず。壁に背ける殘の燈の影幽に、夜もすがら 窓打暗き雨の音ぞさびしかりける。上陽人が上陽宮に閉られけん悲みも、是には過じとぞ見えし。昔を忍ぶ妻となれとてや、本の主の移し栽たりけん花橘の軒近く風なつかしう香りけるに、山郭公二聲三聲音信ければ、女院ふるき事なれ共、思召出でて、御硯の蓋にかうぞ遊ばされける。
郭公花橘の香をとめて、啼くは昔の人や戀しき。
女房達は、さのみたけく、二位殿、越前の三位の上の樣に、水の底にも沈み給ねば、武士の荒けなきにとらはれて、舊里に歸り、若きも老たるも樣をか へ、形をやつし、在にもあられぬ有樣にてぞ、思ひもかけぬ谷の底、岩の挾間に明し暮し給ひける。住し宿は皆烟と上りにしかば、空しき跡のみ殘りて、茂き野 邊と成つゝ、見馴し人の問くるもなし。仙家より歸て、七世の孫に逢けんも、かくやと覺えて哀也。
さる程に七月九日の大地震に、築地も壞れ、荒たる御所も傾き破れて、いとゞ住せ給べき御便もなし、緑衣の監使宮門を守だにもなし。心の儘に荒たる籬 は、茂き野邊よりも露けく、折知がほに、何しか蟲の聲々恨るも哀也。夜も漸々長く成れば、いとゞ御寢覺がちにて、明しかねさせ給ひけり。盡せぬ御物思ひ に、秋の哀さへうち添て、しのびがたくぞ思食されける。何事も變り果ぬるうきよなれば、自なさけを懸奉るべき草のゆかりも枯果てて、誰はぐくみ奉るべしと も見え給はず。
大原入
されども冷泉大納言隆房卿の北方、七條修理大夫信隆卿の北方しのびつゝやう/\に訪ひ申させ給ひけり。「あの人共のはぐくみで有るべしとこそ昔は思はざりしか。」とて女院御涙を流させ給へば、附參せたる女房達も、皆袖をぞ絞られける。
此御すまひも猶都近く、玉鉾の道行人の人目も繁くて、露の御命の風を待ん程は、憂事きかぬ深き山の奧へも入なばやとはおぼ しけれども、さるべき便もましまさず。或女房の參て申けるは、「大原山の奧寂光院と申處こそ、靜かに候へ。」と申ければ。「山里は、物のさびしき事こそあ るなれども、世の憂よりは住よかんなるものを。」とて、思食し立せ給ひけり。御輿などは隆房卿の北方の御沙汰有けるとかや。文治元年長月の末に、かの寂光 院へ入らせ給ふ。道すがら四方の梢の色々なるを、御覽じ過させ給ふ程に、山陰なればにや、日も既に暮かゝりぬ。野寺の鐘の入相の音すごく、分る草葉の露滋 み、いとど御袖濕勝、嵐烈く木の葉亂りがはし。空かき曇り、いつしか打時雨つゝ、鹿の音幽に音信て、蟲の恨も絶々なり。とにかくに取集たる御心細さ、譬へ 遣べき方もなし。浦傳ひ島傳ひせし時も、さすがかくは無かりしものをと思召こそ悲けれ。岩に苔むして、寂たる處なりければ、住まほしうぞ思しめす。露結ぶ 庭の萩原霜枯れて、籬の菊のかれ/\に、移ろふ色を御覽じても、御身の上とや覺しけん。
佛の御前へ參せ給ひて、「天子聖靈、成等正覺、頓證菩提。」と祈り申させ給ふにつけても先帝の御面影、ひしと御身に傍ひて、如何ならん世にか思召忘 れさせ給ふべき。さて寂光院の傍に、方丈なる御庵室を結んで、一間をば御寢所に定め、一間をば佛所に定め、晝夜朝夕の御勤、長時不斷の御念佛、怠る事なく て月日を送らせ給ひけり。
かくて神無月中の五日の暮方に、庭に散敷くならの葉を蹈鳴して聞えければ、女院、「世を厭 ふ處に、何者の問ひ來るやらん。あれ見よや。しのぶべき者ならば急ぎ忍ばん。」とてみせらるるに小鹿の通るにてぞ有ける。女院「如何に。」と御尋あれば大納言佐殿涙を押て、
岩根ふみたれかはとはんならの葉の、そよぐは鹿の渡るなりけり。
女院哀に思食し、窓の小障子に此歌を遊ばし留させ給ひけり。
かゝる御つれ%\の中に、思しめしなぞらふる事どもは、つらき中にも餘たあり。軒に竝べる樹をば、七重寶樹とかたどれり。岩間に積る水をば、八功徳 水と思食す。無常は春の花、風に隨てちりやすく、有涯は秋の月、雲に伴て隱易し。昭陽殿に花を翫びし朝には、風來て匂を散し、長秋宮に月を詠ぜし夕には、 雲掩て光を藏す。昔は玉樓金殿に錦の褥をしき、妙なりし御すまひなりしかども、今は柴引結ぶ草の庵、餘所の袂もしをれけり。
大原御幸
かゝりし程に、文治二年の春の比、法皇建禮門院大原の閑居の御住ひ御覽ぜまほしう思食されけれども、きさらぎ彌生の程は、嵐烈く餘寒も未だ盡せず。 嶺の白雪消やらで、谷のつららも打解ず。春過ぎ夏來て、北祭も過しかば、法皇夜を籠めて、大原の奧へぞ御幸なる。忍びの御幸なりけれども、供奉の人々は、 徳大寺、花山院、土御門以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり。鞍馬どほりの御幸なれば、彼清原深養父が補陀洛寺、小野の皇太后宮の舊跡を叡覽有 て、其より御輿に召されけり。遠山に懸る白雲は、散にし花の形見なり。 青葉に見ゆる梢には、春の名殘ぞをしまるゝ。比は卯月廿日餘の事なれば、夏草の茂みが末を分入せ給に、始めたる御幸なれば、御覽じ馴たる方もなく、人跡絶たる程も思召しられて哀なり。
西の山の麓に、一宇の御堂有り、即寂光院是なり。古う作りなせる山水木立、由ある樣の所なり。「甍破れては霧不斷の香を燒き、とぼそ落ては月常住の 燈を挑ぐ。」とも、か樣の處をや申すべき。庭の夏草茂り合ひ、青柳糸を亂りつゝ、池の浮草浪に漂ひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松に懸れる藤波の、 うら紫に咲る色、青葉交りの晩櫻、初花よりも珍しく、岸の山吹咲き亂れ、八重立雲の絶間より、山郭公の一聲も、君の御幸を待がほなり。法皇是を叡覽有て、 かうぞ思召しつゞけける。
池水にみぎはの櫻散りしきて、浪の花こそ盛なりけれ。
ふりにける岩の斷間より、落くる水の音さへ、ゆゑび由ある處なり。緑蘿の垣、翠黛の山、繪にかくとも筆も及びがたし。女院の御庵室を御覽ずれば、軒には蔦槿はひかゝり、しのぶ交りの萱草、瓢箪屡空し、草顏淵之巷にしげし、藜 でう深鎖せり、雨原憲之樞をうるほすとも謂つべし。杉の葺目もまばらにて、時 雨も霜も置く露も、漏る月影に爭ひて、たまるべしとも見えざりけり。後は山、前は野邊、いさゝをざゝに風噪ぎ、世にたえぬ身の習ひとて、うきふし繁き竹 柱、都の方の言傳は、間遠に結るませ垣や、僅に事問ふ物とては、嶺に木傳ふ猿の聲、賤士がつま木の斧の音、是等が音信ならでは、正木の葛青葛、來人稀なる 所な り。
法皇「人や在る。」と召されけれども、御いらへ申者もなし。遙に有て、老衰へたる尼一人參りたり。「女院は いづくへ御幸成ぬるぞ。」と仰ければ、「此上の山へ花摘に入せ給ひて候。」と申。「左樣の事に仕へ奉るべき人も無きにや。さこそ世を捨る御身といひなが ら、御痛しうこそ。」と仰ければ、此尼申けるは、「五戒十善の御果報盡させ給ふに依て、今かゝる御目を御覽ずるにこそ候へ。捨身の行に、なじかは御身を惜 ませ給ふべき。因果經には『欲知過去因、見其現在果、欲知未來果、見其現在因。』と説かれたり。過去未來の因果を、悟らせ給ひなば、つや/\御歎あるべか らず。悉達太子は十九にて、伽耶城を出で、檀特山の麓にて、木葉を連ねては肌をかくし、嶺に上て薪を採り、谷に下て水を結ぶ。難行苦行の功に依て、遂に成 等正覺し給ひき。」とぞ申ける。此尼の有樣を御覽ずれば、絹布のわきも見えぬ物を結び集めてぞ著たりける。「あの有樣にても、か樣の事申す不思議さよ。」 と思食して「抑汝は如何なる者ぞ。」と仰ければ、さめ/\と泣いて、暫しは御返事にも及ばず。稍有て、涙を押て、申けるは、「申に付けても憚おぼえ候へ 共、故少納言入道信西が娘、阿波の内侍と申し者にて候ふなり。母は紀伊の二位、さしも御いとほしみ深うこそ候ひしに、御覽じ忘させ給ふにつけて身の衰へぬ る程も思ひしられて今更せんかたなうこそおぼえ候へ。」とて袖を顏に押當て、忍びあへぬ樣、目もあてられず。法皇も「されば汝は阿波内侍にこそあんなれ。 今更御覽じ忘れける、唯夢とのみこそ思食せ。」とて御涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上人も、「不思 議の尼哉と思ひたれば、理にて有けるぞ。」とぞ各申あはれける。
あなたこなたを叡覽あれば、庭の千草露おもく、籬に倒れかゝりつゝ、そともの小田も水越えて、鴫立隙も見え分かず。御庵室に入せ給ひて、障子を引明 て御覽ずれば、一間には來迎の三尊おはします。中尊の御手には、五色の絲をかけられたり。左には普賢の畫像、右には善導和尚、竝に先帝の御影を掛け、八軸 の妙文、九帖の御書も置かれたり。蘭麝の匂に引かへて、香の煙ぞ立上る。彼淨名居士の方丈の室の中には、三萬二千の床を竝べ、十方の諸佛を請じ奉り給ひけ んもかくやとぞおぼえける。障子には諸經の要文ども、色紙にかいて所々におされたり。其中に大江定基法師が、清凉山にして詠じたりけん、「笙歌遙に聞ゆ、 孤雲の上、聖衆來迎す、落日の前。」とも書れたり。少し引のけて、女院の御製とおぼしくて、
思ひきや深山の奧にすまひして、雲井の月をよそに見んとは。
さて側を御覽ずれば御寢所とおぼしくて、竹の御竿に、麻の御衣、紙の御衾など懸られたり。さしも本朝漢土の妙なる類ひ數を盡して綾羅錦繍のよそほひ も、さながら夢に成にけり。法皇御涙をを流させ給へば、供奉の公卿殿上人も各見參らせし事なれば、今の樣に覺えて、皆袖をぞしぼられける。
さる程に上の山より、濃墨染の衣著たる尼二人、岩のかけぢを傳ひつゝ、おり煩ひ給ひけり。法皇是を御覽じて「あれは何ものぞ。」と御尋あれば、老尼涙を押へて、申けるは「花がたみ肱にかけ、岩躑躅取具して持せ給ひたるは、女院にて渡らせ給ひ候也。爪木に蕨折具して候 ふは、鳥飼中納言維實の娘、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳人、大納言佐。」と申もあへず泣けり。法皇も世に哀 氣に思食して御涙せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨つる御身といひながら今かゝる御有樣を見え參せんずらん慚しさよ、消も失ばや。」と思しめせど もかひぞなき。宵々毎の閼伽の水、むすぶ袂もしをるるに、曉起の袖の上、山路の露も滋して、絞りやかねさせ給ひけん、山へも歸らせ給はず、御庵室へも入せ 給はず、御涙に咽ばせ給ひ、あきれて立せまし/\たるところに、内侍の尼參りつゝ、花がたみをば給はりけり。
六道の沙汰
「世を厭ふ習ひ、何かは苦しう候ふべき。疾疾御對面候うて還御なし參らさせ給へ。」と申ければ、女院御庵室に入らせ給ふ。「一念の窓の前には、攝取の光明を期し、十念の柴のと ぼそには、聖衆の來迎をこそ待つるに、思の外に御幸なりける不思議さよ。」とて、御見參有けり。法皇此御有樣を見參らせ給て「悲想之八萬劫、猶必滅の愁に 逢ひ、欲界の六天、未だ五衰の悲をまぬかれず。善見城の勝妙の樂、中間禪の高臺の閣、又夢の裏の果報幻の間の樂、既に流轉無窮也。車輪の廻るが如し。天人 の五衰の悲みは人間にも候ひける物かな。」とぞ仰ける。「さるにても、誰か事問ひ參せ候。何事に附ても、さこそ古思しめし出候らめ。」と仰ければ「何方よ りも音信る事も候はず。隆房、信隆の北の方より、絶々申送る事こそさぶらへ。その昔、あの人どものはぐくみにて有るべしとは、露も思ひ寄候はず。」とて、 御涙を流させ給 へば、附參せたる女房たちも、袖をぞぬらされける。女院御涙を押て申させ給ひけるは、「かかる身になる事は、一旦の歎き申 すに及び候はねども、後生菩提の爲には、悦とおぼえさぶらふ也。忽に釋迦の遺弟に列なり、忝なく彌陀の本願に乘じて、五障三從の苦みを遁れ、三時に六根を きよめ、一筋に九品の淨刹を願ふ。專一門の菩提を祈り、常は三尊の來迎を期す。何の世にも忘がたきは先帝の御面影、忘れんとすれどもわすられず、しのばん とすれどもしのばれず。唯恩愛の道程、悲かりける事はなし。されば彼菩提の爲に、朝夕の勤め怠る事候はず。是も然べき善知識とこそ覺え候へ。」と申させ給 ひければ、法皇仰せなりけるは、「此國は粟散邊土なりといへども、忝くも十善の餘薫に答へて萬乘の主となり、隨分一として心にかなはずといふ事なし。就中 佛法流布の世に生て佛道修行の志あれば、後生善處疑あるべからず。人間のあだなる習は今更驚くべきにはあらねど、御有樣見奉るに、餘に爲方なうこそ候 へ。」と仰ければ、女院重て申させ給ひけるは、「我平相國の娘として、天子の國母となりしかば、一天四海皆掌のまゝなりき。拜禮の春の始より、色々の衣が へ、佛名の年の暮、攝禄以下の大臣公卿にもてなされし有樣、六欲四禪の雲の上にて、八萬の諸天に圍繞せられ候ふらむ 樣に、百官悉く仰ぬ者や候ひし。清凉紫宸の床の上、玉の簾の中にて持成され、春は南殿の櫻に心をとめて日を暮し、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心を 慰み、秋は雲の上の月を獨見ん事許されず、玄冬素雪の寒き夜は、つまを重ねて暖にす。長生不老の術を願ひ、蓬莱不死の藥を尋ねても、唯久しからん事をのみ 思へり。明ても、暮れても、樂しみ榮 えし事、天上の果報も、是には過じとこそ覺え候ひしか。それに壽永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、 一門の人々住馴し都をば雲井の餘所に顧みて、故郷を燒野の原と打詠め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦傳ひ、さすが哀れに覺えて、晝は漫々たる浪路を分て 袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共に泣明し、浦々島々由ある所を見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲とこそおぼえ候し か。人間の事は、愛別離苦、怨憎會苦、共に、吾身に知られて候ふ。四苦八苦一として殘る所候はず。さても筑前國太宰府と云處にて、維義とかやに九國の内を も追出され、山野廣といへども立寄休むべき處なし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月を、今は八重の鹽路に詠めつゝ、明し暮し候ひし 程に、神無月の比ほひ、清經の中將が、都のうちをば源氏が爲に責落され、鎭西をば維義が爲に追出さる。網にかゝれる魚の如く、何くへ行かば遁るべきかは。 存へ果べき身にもあらずとて、海に沈み候ひしぞ心憂き事の始めにて候ひし。波の上にて日を暮し、船の中にて夜を明し、御つぎ物もなかりしかば、供御を具ふ る人もなし。適供御は備へんとすれども水なければ參らず。大海に浮ぶといへども、潮なれば呑事もなし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえ候ひしか。かくて室山水 島所々の戰ひに勝しかば、人々、少色なほて見え候ひし程に一谷といふ處にて一門多く滅びし後は直衣束帶を引替て、鐵をのべて身に纒ひ、明ても暮ても、軍よ ばひの聲斷ざりし事修羅の鬪諍、帝釋の爭ひも、かくやとこそおぼえ候ひしか。一谷を攻落されて後、親は子におくれ、妻は夫に別れ、沖に釣する船をば、敵の 船かと 肝を消し、遠き松に、群居鷺をば、源氏の旗かと心を盡す。さても門司赤間の關にて軍は今日を限と見えしかば、二位 の尼申おく事候ひき。『男の生殘らん事は、千萬が一も有難し。縱又遠きゆかりは自生殘たりといふとも吾等が後世を弔はん事も有りがたし。昔より女は殺さぬ 習ひなれば如何にもしてながらへて主上の後世をも弔ひまゐらせ、吾等が後世をも助け給へ。』と掻口説き申候ひしが、夢の心地しておぼえ候ひし程に風俄に吹 き、浮雲厚くたなびいて、兵心を惑し、天運盡て、人の力に及びがたし。既に今はかうと見えしかば、二位の尼先帝を抱き奉て船端へ出し時、あきれたる御樣に て『尼ぜ我をばいづちへ具して行んとするぞ。』と仰さぶらひしに、幼き君に向ひ奉り涙を押へて申さぶらひしは、『君は未だ知し召され候はずや。先世の十善 戒行の御力に依て、今萬乘の主とは生れさせ給へども、惡縁に引かれて御運既に盡給ひぬ。先づ東に向はせ給て、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方淨土の 來迎に預らんと思食し、西に向はせ給ひて御念佛候ふべし。此國は粟散邊土とて心憂き堺にてさぶらへば、極樂淨土とて、めでたき所へ具し參せ候ふぞ。』と、 泣々申候ひしかば、山鳩色の御衣に鬟結せ給ひて、御涙に溺れ、小う美くしい御手を合せ、先づ東を伏拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひ て御念佛ありしかば、二位尼やがて抱き奉て海に沈みし御面影目もくれ、心も消果てて、忘んとすれ共忘られず、忍ばんとすれ共忍ばれず。殘留まる人々のをめ き叫びし聲、叫喚大叫喚のほのほの底の罪人も、是れには過じとこそ覺候ひしか。さて武士共にとらはれて上り候ひし時に、播磨國明石の浦について、ちと打目 睡 て候ひし夢に、昔の内裏には遙に勝りたる所に、先帝を始奉て一門の公卿殿上人、皆ゆゆしげなる禮儀にて候ひしを、 都を出て後、かゝる所は未だ見ざりつるに『是はいづくぞ。』と問ひ候ひしかば、二位の尼と覺えて『龍宮城』と答へ候ひし時『目出度かりける所かな。是には 苦は無きか。』と問候ひしかば、『龍畜經の中に見えて候ふ、能々後世を弔ひ給へ。』と申すと覺えて夢覺ぬ。其後はいよ/\經を讀念佛して、かの御菩提を弔 奉る。是皆六道にたがはじとこそ覺え候へ。」と申させ給へば、法皇仰なりけるは、「異國の玄弉三藏は、悟りの前に六道を見、吾朝の日藏上人は、藏王權現の 御力にて、六道を見たりとこそ承はれ。是程まのあたりに御覽ぜられける御事誠に有難うこそ候へ。」とて御涙に咽ばせ給へば、供奉の公卿殿上人も皆袖をぞ絞 られける。女院も御涙を流させ給へば、つき參せたる女房達も又袖をぞぬらされける。
女院御往生
さる程に寂光院の鐘の聲、今日も暮ぬと打しられ、夕陽西に傾けば、御名殘惜うはおぼしけれども、御涙を押て還御ならせ給ひけり。女院は今更古を思食 し出させ給ひて、忍あへぬ御涙に、袖の柵塞あへさせ給はず。遙に御覽じ送らせ給ひて、還御もやう/\延させ給ひければ、御本尊に向ひ奉り、「先帝聖靈、一 門亡魂、成等正覺、頓證菩提。」と泣々祈らせ給ひけり。昔は東に向はせ給ひて「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子寶算、千秋萬歳。」と申させ給ひしに、今は 引かへて、西に向ひ手を合せ「過去聖靈、一佛淨土へ。」と祈らせ給ふこ そ悲しけれ。御寢所の障子にかうぞ遊されける。
このごろはいつ習ひてかわが心、大宮人の戀しかるらん。
いにしへも夢になりにし事なれば、柴の編戸もひさしからじな。
御幸の御供に候はれける徳大寺左大臣實定公、御庵室の柱に書附られけるとかや。
いにしへは月にたとへし君なれど、其の光なき深山邊の里。
こし方行末の事共覺しめし續けて、御涙に咽ばせ給ふ折しも、山郭公音信ければ、女院
いざさらば涙くらべん郭公、我も憂世にねをのみぞ泣く。
抑壇の浦にて生ながら捕られし人々は大路を渡して頭をはねられ、妻子に離れて遠流せらる。池大納言の外は一人も命を生けられず、都に置かれず。されども四十餘人の女房達の御事は、沙汰にも [1]及ばさりしかば、親類に從ひ縁に就いてぞおはしける。上は玉の簾の中までも、風靜なる家もなく、下は柴の とぼそのもとまでも塵收れる宿もなし。枕を雙べし妹背も、雲井の餘所にぞ成果 る。養ひ立し親子も、行方知らず別れけり。忍ぶ思ひは盡せねども、嘆ながらもさてこそ過されけれ。是は只入道相國、一天四海を掌に握て上は一人をも恐れ ず、下は萬民をも顧みず、死罪流刑、思ふ樣に行ひ、世をも人をも憚かられざりしが致す所なり。父祖の罪業は子孫に報ふと云ふ事疑なしとぞ見えたりける。
かくて年月を過させ給ふ程に、女院御心地例ならず渡らせ給ひしかば、中尊の御手の五色の絲を引へつゝ、「南無西方極樂世界教主彌陀如來必ず引攝し給へ。」とて御念佛有しかば、大納 言佐局阿波内侍左右に候て、今を限りの悲しさに聲を惜まず泣き叫ぶ。御念佛の聲やうやうよわらせましましければ西に紫雲靉 靆き、異香室にみち、音樂空に聞ゆ。限ある事なれば、建久二年きさらぎの中旬に一期遂に終らせ給ひぬ。きさいの宮の御位より片時も離れまゐらせずして候は れ給しかば、御臨終の御時、別路に迷ひしも遣方なくぞおぼえける。此女房達は、昔の草のゆかりも枯果て、よる方もなき身なれども、折々の御佛事營み給ふぞ 哀なる。終に彼人々は、龍女が正覺の跡をおひ、韋提希夫人の如に、皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads をよばざりしかば.