[2] NKBT reads たづねかぬるぞ.
高野之卷
瀧口入道、三位中將を見奉り、「こは現共覺え候はぬ者哉。八島より是迄は何として逃させ給て候やらん。」と申ければ、三位中將宣ひけるは、「されば とよ、人なみ/\に、都を出て、西國へ落下りたりしかども、故郷に留置し少者共の戀しさ、いつ忘るべしとも覺えねば、其物思ふ氣色の言ぬにしるくや見えけ ん、大臣殿も、二位殿も、此人は池大納言の樣に、二心有りなどとて思ひ隔て給ひしかば、有にかひなき吾身哉と、いとゞ心も留まらであくがれ出てこれまでは のがれたるなり。如何にもして山傳ひに都へ上て戀しき者共を今一度見もし見えばやとは思へども、本三位中將の事口惜ければ其も叶はず。同くは是にて出家し て、火の中水の底へも入ばやと思ふ也。但熊野へ參らんと思ふ宿願あり。」と宣へば、「夢幻の世の中は、 とてもかくても候なん。長き世の闇こそ心うかるべう候へ。」とぞ申ける。やがて瀧口入道先達にて、堂塔巡禮して、奧院へ參り給ふ。
高野山は帝城を去て二百里、京里を離て無人聲、晴嵐梢を鳴して、夕日の影靜也。八葉の峰、八の谷、誠に心も 澄ぬべし。花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。瓦に松生ひ、墻に苔むして、星霜久く覺えたり。抑延喜帝の御時、御夢想の御告有て、檜皮色 の御衣を參らせられしに、勅使中納言資澄卿、般若寺僧正觀賢を相具して、此御山に參り、御廟の扉を開いて、御衣を著せ奉らんとしけるに、霧厚く隔たて、大 師拜まれさせ給はず。こゝに觀賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出て、師匠の室に入しより以來いまだ禁戒を犯せず。さればなどか拜奉らざらん。」とて五體 を地に投げ、發露啼泣し給ひしかば、漸霧晴て、月の出が如くして、大師拜まれ給けり。時に觀賢隨喜の涙を流いて、御衣を著せ奉る。御ぐしの長く生させ給ひ たりしかば、剃奉るこそめでたけれ。勅使と僧正とは拜み奉給へども、僧正の弟子石山の内供淳祐、其時は未童形にて供奉せられたりけるが、大師を拜み奉らず して、嘆き沈で御座けるが、僧正手をとて、大師の御膝に押當られたりければ、其手一期が間、香しかりけるとかや。其移り香は、石山の聖教に移て今に有とぞ 承る。大師御門の御返事に申させ給ひけるは、「我昔薩 たに逢て、まの當り悉印明を傳ふ。無比の誓願を發して、邊地の異域に侍り。晝夜に萬民を哀んで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を證して、慈氏の下生を待つ。」とぞ申させ給ひける。彼摩訶迦葉の 鶏足の洞に籠て、翅頭の春の風を期し給ふらんも、かく やとぞ覺えける。御入定は承和二年三月二十一日寅の一點の事なれば、過にし方も三百餘歳、行末も猶五十六億七千萬歳の後、慈尊出世三會の曉を待せ給ふらんこそ久しけれ。
維盛出家
「維盛が身の何となく、雪山の鳥の啼らんやうに、今日よ明日よと思ふものを。」とて、涙ぐみ給ぞ哀なる。鹽風に黒み、盡せぬ物思に痩衰て、其人とは 見え給はねども、猶世の人には勝れ給へり。其夜は瀧口入道が庵室に歸て終夜、昔今の物語をぞし給ひける。聖が行儀を見給へば、至極甚深の床の上には、眞理 の玉を磨くらむと見えて、後夜晨朝の鐘の聲には、生死の眠をさますらむとも覺えたり。のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。明ぬれば、東禪院 の智覺上人と申ける聖を請じ奉て、出家せんとし給ひけるが、與三兵衞、石童丸を召て宣ひけるは、「維盛こそ人しれぬ思ひを身に副ながら、道狹う遁れ難き身 なれば、空しうなるとも、此比は世に有る人こそ多けれ。汝等は如何なる有樣をしてもなどかすぎざるべき。我如何にもならぬ樣を見果て急ぎ都へ上り、各が身 をも助け、且は妻子をも育み、且は又維盛が後生をも弔らへかし。」と宣へば、二人の者共、さめ%\と泣いて、暫は御返事にも及ばず、稍有て與三兵衞涙を押 へて申けるは、「重景が父與三左衞門景康は、平治の逆亂の時、故殿の御供に候けるが、二條堀河の邊にて、鎌田兵衞に組んで、惡源太に討たれ候ぬ。重景もな じかは劣り候べき。其時は未二歳に罷成候ければ、少も覺え候はず。母には七歳で 後れ候ぬ。あはれをかくべき親しい者、一人も候はざりしかども、故大臣殿、『あれは我命にかはりたりし者の子なれば。』と て、御前にてそだてられ參せ、生年九と申し時、君の御元服候し夜、首を取上られまゐらせて、辱く『盛の字は家の字なれば五代につく。重の字をば松王に。』 と仰候て、重景とは付られ參せて候也。其上童名を松王と申ける事も生れて忌五十日と申し時父がいだいてまゐりたれば此家を小松といへば祝うてつくるなりと 仰候て松王とはつけられまゐらせ候也。父のようて死候けるも、我身の冥加と覺え候。隨分同隷共にも芳心せられてこそ罷過候しか。されば御臨終の御時も、此 世の事をば思召捨て、一事も仰候はざりしかども、重景を御前近う召されて、『あな無慚や、汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過 しつれ。今度の除目に靱負尉になして、己が父景康を呼し樣に召ばやとこそ思つるに、空しうなるこそ悲しけれ、相構て、少將殿の心に違ふな。』とこそ仰せ候 しか。されば日比はいかなる御事も候はむには見捨參せて落べき者と思召し候けるか。御心の中こそ慚しう候へ。『此比は世に有る人こそ多けれ。』と仰蒙り候 は、當時の如くは、皆源氏の郎等共こそ候なれ。君の神にも佛にも成らせ給ひ候なむ後樂み榮え候とも、千年の齡を歴べきか。縱萬年を保つとも終には終りの無 るべきか。是に過たる善知識何事か候べき。」とて、手づから髻切て、泣々瀧口入道に剃らせけり。石童丸も是を見て、髻際より髮をきる。是も八つより附奉 て、重景にも劣ず、不便にし給ければ、同瀧口入道に剃らせけり。是等がか樣に先立てなるを見給ふにつけても、いとど心細うぞ思食す。さても有るべきならね ば、 流轉三界中、恩愛不能斷、棄恩入無爲、眞實報恩者。」と三反唱給ひて、終に剃下し給てけり。「あはれ替ぬ姿を戀し き者共に今一度見えもし見えて後、かくもならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそ罪ふかけれ。三位中將も與三兵衞も同年にて今年は廿七歳也。石童丸は十八に ぞ成ける。
良有て、舍人武里を召て、「おのれはとう/\是より八島へ歸れ。都へは上るべからず。其故は、終には隱れあ るまじけれ共、正しう此有樣を聞ては、やがて樣をも替んずらんと覺ゆるぞ。八島へ參て、人々に申さんずるやうはよな、『かつ御覽候し樣に、大方の世間も懶 き樣に罷り成候き。萬づ無道さも數添て見え候しかば、各々にも知られ參せ候はでかく成候ぬ。西國で左中將失候ぬ。一谷で備中守うたれ候ぬ。我さへかく成候 ぬれば、如何に各の便なう思召され候はんずらむと、それのみこそ心苦しう思ひまゐらせ候へ。抑唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ太刀は、平將軍貞盛より、當家に傳 へて、維盛迄は嫡々九代に相當る。若不思議にて世も立なほらば六代に給ぶべし。』と申せ。」とこそ宣ひけれ。武里「君の如何にもならせおはしまさん樣を見 參せて後こそ、八島へも參り候はめ。」と申ければ、「さらば。」とて召具せらる。瀧口入道をも善知識の爲に具せられけり。山伏修業者の樣にて高野をば出 て、同國の内山東へこそ出られけれ。藤代の王子を始めとして、王子王子伏拜み參り給ふ程に、千里の濱の北、岩代王子の御前にて、狩裝束なる者七八騎が程行 逢奉る。既に搦捕れなむずと思ひて、各腰の刀に手をかけて腹を切らむとし給けるが、近附けれども、過つべき氣色も無て急ぎ馬より 下深う畏て通りければ、「見知たる者にこそ、誰なるらん。」と怪くて、いとゞ足早にさし給ふ程に、是は當國の住 人、湯淺權守宗重が子に湯淺七郎兵衞宗光といふ者也。郎等共「是は如何なる人にて候やらむ。」と申ければ、七郎兵衞涙をはらはらと流いて「あら事も辱な や、あれこそ小松大臣殿の御嫡子三位中將殿よ。八島より是までは何として逃させ給ひたりけるぞや。はや御樣を替させ給てけり。與三兵衞、石童丸も同く出家 して、御供申たり。近う參て、見參にも入たかりつれども、憚もぞ思召すとて通りぬ。あなあはれの御有樣や。」とて、袖を顏に押あてて、さめ%\と泣けれ ば、郎等共も皆涙をぞながしける。
熊野參詣
漸さし給ふ程に日數歴れば岩田河にも懸り給ひけり。此川の流を一度も渡る者は、惡業煩惱無始の罪障消なるものをと、憑敷うぞおぼしける。本宮に參りつき證誠殿の御前につい居給ひつゝ暫く法施參せて、御山の體を拜み給に、心も詞も及ばれず。大悲擁護の霞は、熊野山に たなびき、靈驗無雙の神明は、音無河に跡を垂る。一乘修行の岸には、感應の月 曇もなく、六根懺悔の庭には、妄想の露も結ばず。何れも/\憑からずといふ事なし。夜深け人靜て、啓白し給ふに、父の大臣の、此御前にて、命を召して後世 を扶け給へと、申されける事までも、思召出て哀也。「本地阿彌陀如來にてまします。攝取不捨の本願誤たず、淨土へ導給へ。」と申されける中にも、「故郷に 留置し妻子安穩に。」と祈られけるこそ悲しけれ。浮世を 厭ひ眞の道に入給へども、妄執は猶盡ずと覺えて、哀なりし事共也。
明ぬれば、本宮より舟に乘り、新宮へぞ參られける。神藏を拜み給に、巖松高く聳えて嵐妄想の夢を破り、流水清く流て、浪塵埃の垢をすゝぐらんとも覺 たり。明日の社伏拜み、佐野の松原さし過て、那智の御山に參給ふ。三重に漲り落る瀧の水、數千丈まで打上り、觀音の靈像は岩の上に顯れて、補陀落山とも謂 つべし。霞のそこには法華讀誦の聲聞ゆ、靈鷲山とも申つべし。抑權現當山に跡を垂させまし/\てより以來、我朝の貴賤上下歩を運び首を傾け掌を合せて利生 に關らずといふことなし。僧侶されば甍を竝、道俗袖を連ぬ。寛和の夏の比、花山法皇、十善の帝位を逃させ給ひて、九品の淨刹を行はせ給ひけん御庵室の舊跡 には、昔を忍ぶと覺しくて、老木の櫻ぞ開にける。
那智籠の僧共の中に、此三位中將を能々見知奉たると覺くて、同行に語りけるは、「こゝなる修業者を如何なる 人やらむと思ひたれば、小松大臣殿の御嫡子、三位中將殿にておはしけるぞや。あの殿の未だ四位少將と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十の御賀のあ りしに、父小松殿は内大臣の左大將にてまします。伯父宗盛卿は中納言右大將にて、階下に著座せられたり。其外三位中將知盛、頭中將重衡以下、一門の人々今 日を晴と時めき給ひて、垣代に立給ひし中より、此三位中將殿櫻の花をかざして、青海波を舞ていでられたりしかば、露に媚たる花の御姿、風に飜る舞の袖、地 を照し天も耀くばかり也。女院より關白殿を御使にて、御衣をかけられしかば、父の大臣座をたち是を給はて、右の肩にかけ、院を拜し奉り 給ふ。面目類少うぞ見えし。かたへの殿上人も、如何許羨敷う思はれけむ。内裏の女房達の中には、深山木の中の楊梅 とこそ覺ゆれなど言れ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大將待かけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれ果給へる御有樣、兼ては思寄ざりしをや。移れば替 る世の習ひとは云ひながら、哀なる御事哉。」とて、袖を顏に推當て、さめ%\と泣ければ、幾等も並居たる那智籠りの僧共も、みなうち衣の袖をぞぬらしけ る。
維盛入水
三の御山の參詣事故なく遂給ひしかば、濱宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、萬里の蒼海に浮び給ふ。遙の沖に山成の島と云ふ所あり。それに 船を漕寄せさせ、岸に上り、大なる松の木を削て、中將銘跡を書附けらる。「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父内大臣左大將重盛公法名淨蓮、其子三位 中將維盛法名淨圓、生年二十七歳、壽永三年三月廿八日、那智の奧にて入水す。」と書附けて、又舟に乘り、奧へぞ漕出給。思きりたる道なれども、今はの時に 成ぬれば、心細う悲しからずといふ事なし。比は三月廿八日の事なれば、海路遙に霞渡り、哀を催す類也。唯大方の春だにも、暮行空は懶きに、況や今日を限の 事なれば、さこそは心細かりけめ。沖の釣船の浪に消入る樣に覺ゆるが、さすが沈も果ぬを見給ふにも、御身の上とやおぼしけん。己が一行引連て、今はと歸る 雁がねの、越路を差て啼行も、故郷へ言づけせまほしく、蘇武が胡國の恨まで、思ひ殘せるくまもなし。「さればこは何事ぞ。 猶妄執の盡ぬにこそ。」と思食返して西に向ひ手を合せ、念佛し給ふ心の中にも、「既に只今を限りとは都には爭か知べきなれ ば、風の便の音信も、今や/\とこそ待んずらめ。終には隱有まじければ、此世に無き者と聞いて如何ばかりかなげかんずらん。」など思ひ續け給へば、念佛を 留めて、合掌を亂り、聖に向て宣ひけるは、「哀人の身に、妻子と云ふ物をば持まじかりける者哉。此世にて物を思はするのみならず、後生菩提の妨と成ける口 惜さよ。唯今も思出るぞや。か樣の事を心中に殘せば、罪深からむ間、懺悔するなり。」とぞ宣ひける。聖も哀に覺えけれども、我さへ心弱くては [3]叶はじ。と思ひ、涙 を押拭ひ、さらぬ體にもてなして申けるは「誠にさこそは思食され候らめ。高来も賤きも、恩愛の道は力及ばぬ事也。中にも、夫妻は一夜の枕をならぶるも、五 百生の宿縁と申候へば、先世の契淺からず。生者必滅、會者定離は、浮世の習にて候也。末の露本の雫のためしあれば、縱遲速の不同はありとも、後れ先だつ御 別れ、終に無てしもや候べき。彼驪山宮の秋の夕の契も、終には心を摧く端となり、甘泉殿の生前の恩も、終なきにしも非ず。松子梅生生涯恨あり。等覺十地猶 生死の掟に隨ふ。縱君長生の樂みに誇り給ふ共、此御嘆は逃させ給ふべからず。縱百年の齡を保ち給ふ共、此御恨は唯同事と思召さるべし。第六天の魔王と云ふ 外道は、欲界の六天を我物と領して、中にも此界の衆生の生死を離るゝ事ををしみ、或は妻となり、或は夫と成て、是を妨るに、三世の諸佛は、一切衆生を一子 の如くに思召て、極樂淨土の不退の土に勸入とし給ふに、妻子と云者が無始曠劫より以來、生死に流轉するきづななるが故に、佛は重う戒しめ給ふ也。 さればとて、御心弱う思召べからず。源氏の先祖、伊豫入道頼義は、勅命に依て、奧州の夷安倍貞任宗任を責んとて十二年が間 に人の頸を斬る事、一萬六千餘人。其外山野の獸、江河の鱗、其命を絶つ事、幾千萬と云ふ數を知らず。され共終焉の時、一念の菩提心を發ししに依て、往生の 素懷を遂たりとこそ承れ。就中に出家の功徳莫大なれば、先世の罪障皆滅び給ひぬらむ。縱ひ人あて七寶の塔を立てん事、高さ三十三天に至る共、一日の出家の 功徳には及ぶべからず。縱ひ又百千歳の間百羅漢を供養したらん功徳も一日の出家の功徳には及ぶべからずと説れたり。罪深かりし頼義も心の猛き故に、往生を 遂ぐ。申さんや。君はさせる御罪業もましまさざるらんに、などか淨土へ參り給はざるべき。其上當山權現は、本地阿彌陀如來にて在ます。始め無三惡趣の願よ り、終り得三法忍の願に至る迄、一々の誓願衆生化度の願ならずと云ふ事なし。中にも、第十八の願には『説我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十 念、若不生者、不取正覺』と説れたれば、一念十念の憑有り。唯深く信じて、努努疑をなし給ふべからず。無二の懇念を致して、若は一反、若は十反も唱へ給ふ 物ならば、彌陀如來、六十萬億那由多恒河沙の御身を縮め、丈六八尺の御形にて觀音勢至、無數の聖衆、化佛菩薩、百重千重に圍繞し、伎樂歌詠して、唯今極樂 の東門を出て來迎し給はむずれば、御身こそ蒼海の底に沈むと思召るゝとも、紫雲の上にのぼり給ふべし。成佛得脱して、悟を開き給なば、娑婆の故郷に立歸 て、妻子を引導き給はん事『還來穢國度人天』少しも疑あるべからず。」とて、金打鳴して念佛を勸奉る。中將然るべき知識かなと思召し、忽に妄念を 翻して西に向ひ手を合せ、高聲に念佛百返計唱へつゝ、「南無」と唱る聲共に、海へぞ入給ひける。與三兵衞入道も石童丸も、同く御名を唱へつゝ、續いて海へぞ入りにける。