[2] NKBT reads なりければ.
三草勢揃
正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞しけるに、「本朝には神代より傳れる三の御寶あり。内侍所、神璽、寶劍是也。相構て事故なく都へ歸入れ奉れ。」と仰下さる。兩人畏り承て罷出でぬ。
同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く行はる。朝夕の軍立に過行く月日は知らね共、去年は今年に回り來て、憂かりし春にも成にけ り。世の世にて有ましかば、如何なる起立塔婆の企、供佛施僧の營みも有べかりしかども、唯男女の君達指し聚ひて、泣より外の事ぞなき。
此次でに叙位除目行はれて、僧も俗も皆司なされけり。門脇中納言、正二位大納言に成給ふべき由、大臣殿よりの給ひければ、教盛卿、
けふまでも有ばあるかの我身かは、夢の中にも夢をみるかな。
と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給はず、大外記中原師直が子、周防介師純大外記になる。兵部少輔正明、五位藏人 になされて、藏人少輔とぞ云はれける。昔將門が東八箇國を討從へて、下總相馬郡に都を立て、我身を平親王と稱して百官をなしたりしには、歴博士ぞ無りけ る。是は其には似るべからず。舊都をこそ落給ふと云へども、主上三種神器を帶して、萬乘の位に備り給へり。叙位除目行れんも僻事にはあらず。
平氏既に福原迄攻上て都へ歸り入べき由聞えしかば、故郷に殘とゞまる人々、勇み悦ぶ事斜ならず。二位僧都專親は、梶井宮の年來の御同宿也ければ、風 の便には申されけり。宮よりも又常は音信在けり。「旅の空の在樣、思召遣るこそ心苦しけれ。都も靜まらず。」などもあそばいて、奧には一首の歌ぞありけ る。
人しれず其方をしのぶ心をば、傾く月にたぐへてぞやる。
僧都是を顏に推當て、悲の涙塞あへず。
さる程に小松三位中將維盛卿は、年隔り日重るに隨ひて、故郷に留め置給ひし北の方少き人々の事をのみ歎き悲み給ひけり。商人の便に、おのづから文な どの通ふにも、北方の都の御在樣、心苦う聞給ふに、さらば迎へとて、一所でいかにも成らばやとは思へども、我身こそあらめ、人の爲痛くてなど、思召し忍び て、明し暮し給ふにこそ、責ての志の深さの程も露れけれ。
さる程に源氏は四日寄べかりしが、故入道相國の忌日と聞て、佛事を遂させんが爲に寄ず。 五日は西塞り、六日は道虚日、七日の卯刻一谷の東西の木戸口にて、源平矢合とこそ定めけれ。さりながらも四日は吉 日なればとて、大手搦手の大將軍、軍兵二手に分て都を立つ。大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同小次郎長清、 山名次郎教義、同三郎義行、侍大將には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、同三郎景家、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝 政、同中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫廣綱、小野寺前司太郎道綱、曾我太郎資信、中村太郎時經、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎廣行、 庄三郎忠家、同四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先として、都合其勢五萬餘騎二月四日の辰の一點に都 を立て、其日の申酉の刻に、攝津國昆陽野に陣を取る。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、同く伴ふ人々、安田三郎義貞、大内太郎惟義、村上判官代康國、田代 冠者信綱、侍大將には土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、佐原十郎義連、 [3]和田小太郎義盛同次郎義茂同三郎宗實、佐々 木四郎高綱、同五郎義清、熊谷次郎直實、子息小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直經、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同與一親範、渡柳彌五 郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、其子太郎光義、片岡太郎經春、源八廣綱、伊勢三郎義盛、奧州佐藤三郎嗣信、同四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武 藏坊辨慶を先として、都合其勢一萬餘騎、同日の同時に都を立て、丹波路に懸り、二日路を一日に打て、播磨と丹波と 境なる三草の山の東の山口、小野原にこそ著にけれ。
[3] NKBT reads 和田小太郎義盛。同次郎義茂。同三郎宗實、.
三草合戰
平家の方には大將軍小松新三位中將資盛、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、侍大將には平内兵衞清家、海老次郎盛方を初として、都合其勢三千餘 騎、小野原より三里隔てゝ三草山の西の山口に陣をとる。其夜の戌の刻ばかり、九郎御曹司、土肥次郎を召て、「平家は是より三里隔てて、三草山の西の山口 に、大勢で引へたんなるは今夜夜討によすべきか、明日の軍か」と宣へば、田代冠者進み出でて申けるは、「明日の軍と延られなば、平家勢附候なんず。平家は 三千餘騎、御方の御勢は一萬餘騎、遙の利に候。夜討好んぬと覺候。」と申ければ、土肥次郎、「いしうも申させ給ふ田代殿哉。さらば軈て寄せさせ給へ。」と て打立けり。兵共「暗さは暗し、如何せんずる。」と口々に申ければ、九郎御曹司「例の大たいまつは如何に。」と宣まへば、土肥次郎「さる事候。」とて、小 野原の在家に火をぞ懸たりける。是を始て、野にも山にも草にも木にも火を付たれば、晝にはちとも劣らずして、三里の山をこえゆきけり。
此田代冠者と申は、父は伊豆國の先の國司、中納言爲綱の末葉也。母は狩野介茂光が娘を思うて設たりしを、母方の祖父に預けて、弓矢取にはしたてたりけり。俗姓を尋ぬれば、後三條院の第三の王子、資仁親王より五代の孫也。俗姓も好き上、弓矢を取ても好りけり。
平家の方には、其夜、夜討にせんずるをば知らずして、「軍は定めて明日の軍でぞ有んずら ん。軍にも睡たいは大事の事ぞ。好う寢て軍せよ。」とて先陣は自用心するもありけれども、後陣の者ども、或は甲を枕にし、 或は鎧の袖箙などを枕にして、先後も知らずぞ臥たりける。夜半ばかりに、源氏一萬騎、おしよせて、鬨をどと作る。平家の方には、餘りに遽噪いで、弓取る者 は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、馬に當られじと中を明てぞ通しける。源氏は落行く敵をあそこに追懸け、こゝに追詰め攻ければ、平家の軍兵矢庭に五百 餘騎討れぬ。手負者ども多かりけり。大將軍小松新三位中將、同少將、丹後侍從、面目なうや思はれけん、播磨國高砂より舟に乘て、讃岐の八島へ渡給ひぬ。備 中守は平内兵衞海老次郎を召具して、一谷へぞ參られける。
老馬
大臣殿は安藝右馬助能行を使者で、平家の君達の方々へ、「九郎義經こそ三草の手を責落いて、既に亂入候なれ。山の手は大事に候。各向はれ候へ。」と 宣ひければ、皆辭し申されけり。能登殿の許へ、「度々の事で候へども、御邊向はれ候なんや。」と、宣ひ遣されたりければ、能登殿の返事には「軍をば我身一 つの大事ぞと思うてこそ好う候へ。獵漁などの樣に、足立ちの好らう方へは向はん、惡からん方へは向はじなど候はんには、軍に勝つ事よも候はじ。幾度でも候 へ、強からん方へは教經承はて、向ひ候はん。一方ばかりは打破り候べし。御心安う思召され候へ。」と憑し氣にぞ申されける。大臣殿斜ならず悦で、越中前司 盛俊を先とし て、能登殿に一萬餘騎をぞ附られける。兄の越前三位通盛卿相具して、山の手をぞ固め給ふ。山の手と申は、鵯越の麓也。通盛 卿は能登殿の假屋に、北方迎へ奉て、最後の名殘惜まれけり。能登殿大に怒て、「此手は強い方とて、教經を向けられて候也。誠に強う候べし。唯今も上の山よ り源氏さと落し候なば、取る物も取あへ候はじ。縱弓を持たりとも、矢を番ずば叶ひがたし。縱矢を番たりとも、引ずば猶惡かるべし。ましてさ樣に打解させ給 ては、何の用にか立せ給ふべき。」と諫められて、げにもと思はれけん、急ぎ物具して、人をば歸し給ひけり。五日の暮方に、源氏昆陽野を立て、漸々生田森に 攻近づく。雀松原、御影の松、昆陽野の方を見渡せば、源氏手々に陣を取て、遠火を燒く。深行まゝに眺むれば山の端出る月の如し。平家も「遠火燒や。」と て、生田森にも形の如くぞ燒たりける。明行まゝに見渡せば晴たる空の星の如し。是や昔河邊の螢と詠じ給ひけんも、今こそ思ひ知れけれ。源氏は、あそこに陣 取て馬休め、こゝに陣取て馬飼などしける程に急がず。平家の方には「今や寄する、今や寄する。」と安い心も無りけり。
六日の明ぼのに、九郎御曹司、一萬餘騎を二手に分け、先づ土肥次郎實平をば七千餘騎で一谷の西の手へ差遣は す。我身は三千餘騎で、一谷のうしろ鵯越を落さんと、丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵共「是は聞ゆる惡所で有なり。同う死ぬるとも敵に逢うてこそ死 たけれ惡所に落ては死たからず。あはれ此山の案内者やあるらん。」と面々に申ければ、武藏國の住人平山武者所進み出でて、申けるは、「季重こそ案内は知て 候へ。」御曹司、「和殿は東 國生立の者の、今日始めて見る西國の山の案内者、大に實しからず。」と宣へば、平山重ねて申けるは、「御諚とも覺候はぬ者哉。吉野泊瀬の花をば歌人が知り、敵の籠たる城の後の案内をば剛の者が知候。」と申ければ、是又傍若無人にぞ聞えける。
又武藏國の住人別府小太郎清重とて、生年十八歳に成る小冠者進出て申けるは、「父で候し義重法師が教候し は、『敵にも襲はれよ、又山越の狩をもせよ、深山に迷ひたらん時は、老馬に手綱を打懸て、先に追立て行け、必道へ出うずるぞ。』とこそ教候しか。」御曹 司、「優うも申たる者哉。雪は野原を埋めども、老たる馬ぞ道は知ると云ふ樣有り。」とて、白葦毛なる老馬に鏡鞍置き、白轡はげ、手綱結で打懸け、先に追立 て、未知ぬ深山へこそ入給へ。比は二月初の事なれば、峯の雪村消て、花かと見ゆる所も有り。谷の鶯音信て、霞に迷ふ所も有り。上れば白雪皓々として聳え、 下れば青山峨々として岸高し。松の雪だに消やらで、苔の細道幽なり。嵐にたぐふ折々は、梅花とも又疑はれ、東西に鞭を上、駒をはやめて行く程に、山路に日 暮ぬれば、皆下居て陣をとる。武藏坊辨慶、老翁を一人具して參りたり。御曹司、「あれは何者ぞ。」と問たまへば、「此山の獵師で候。」と申。「さて案内は 知たるらん。在の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。「爭か存知仕らで候べき。」「是より平家の城廓一谷へ落さんと思ふは如何に。」「努々叶ひ候まじ。三十丈の 谷十五丈の岩崎など申處は人の通べき樣候はず。まして御馬などは思ひも寄り候はず。其うへ城のうちにはおとしあなをもほり、ひしをもうゑて待まゐらせ候ら んと申。」「さてさ樣の所は鹿は通ふか。」「鹿は通ひ候。世間だにも暖に成候へば、 草の深いに臥うとて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だにも寒う成り候へば、雪の淺きに食んとて、丹波の鹿は播磨の印 南野へかよひ候。」と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿の通はう所を、馬の通はぬ樣や有る。軈て汝案内者つかまつれ。」とぞ宣ひける。此身は年老て叶 うまじい由を申す。「汝は子は無か。」「候」とて、熊王と云童の生年十八歳になるをたてまつる。やがて髻取あげ父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、是をば鷲尾三 郎義久と名乘せ、先打せさせて、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に中違うて、奧州で討れ給ひし時鷲尾三郎義久とて、一所で死ける兵也。
一二之懸
六日の夜半ばかりまでは、熊谷平山搦手にぞ候ける。熊谷次郎、子息の小次郎を喚で云けるは、「此手は惡所を落さんずる時に、誰先といふ事も有まじ。 いざうれ是より土肥が承はて向うたる播磨路へ向うて、一谷の眞先懸う。」と云ひければ、小次郎、「然べう候。直家もかうこそ申たう候つれ。さらばやがて寄 せさせ給へ。」と申す。熊谷、「誠や平山も此手にあるぞかし、打込の軍好まぬ者也。平山が樣見て參れ。」とて、下人を遣はす。案の如く平山は、熊谷より先 に出立て、「人をば知らず、季重に於ては一引も引まじい者を。」と、獨り言をぞし居たりける。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食哉。」とて、打ければ、 「かうなせそ、其馬の名殘も、今夜ばかりぞ。」とて打立けり。下人走歸て、急ぎ此由告たりければ、「さればこそ。」とて、や がて是も打出けり。熊谷は、かちの直垂に、赤革威の鎧著て、紅の母衣を懸け、ごんだ栗毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乘たりける。 小次郎は、澤潟を一しほすたる直垂に、節繩目の鎧著て、西樓と云ふ白月毛なる馬に乘たりけり。旗差はきぢんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、黄河原 毛なる馬にぞ乘たりける。落さんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆく程に、年比人も通はぬ田井の畑と云ふ古道を經て、一谷の波打際へぞ出たりける。一 谷の近く鹽屋と云ふ處に未だ夜深かりければ、土肥次郎實平、七千餘騎で引へたり。熊谷は波打際より夜に紛て、そこをつと打通り、一谷の西の木戸口にぞ押寄 たる。其時は未だ夜ふかゝりければ敵の方にも靜返て音もせず。御方一騎もつゞかず。熊谷次郎子息の小次郎を喚で云ひけるは、「我も/\と先に心を懸たる 人々は多かるらん。心狹う直實計とは思ふべからず。既に寄せたれども、未だ夜の明るを相待て、此邊にも引へたるらん。いざ名乘う。」とて、掻楯の際に歩ま せ寄り、大音聲を揚て、「武藏國の住人熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には、「よし/\音なせそ。敵に馬の足 を疲かせよ。矢種をば射盡させよ。」とて、會釋ふ者も無りけり。
さる程に又後に武者こそ一騎續いたれ。「誰そ。」と問へば「季重」と答ふ。「問は誰そ。」「直實ぞかし。」 「如何に熊谷殿はいつよりぞ。」「直實は宵よりよ。」とぞ答へける。「季重もやがて續て寄べかりけるを、成田五郎に謀れて、今迄遲々したる也。成田が死ば 一所で死なうと契る間、『去らば。』とて打連寄る間『痛う平山殿、先懸早りなし給ひそ。先きを蒐ると云は、御方の勢 を後に置て、蒐たればこそ、高名不覺も人に知るれ。唯一騎大勢の中にかけ入て討れたらんは、何の詮か在んずる ぞ。』と制する間、げにもと思ひ、小坂の有るを先に打上せ、馬の首を下樣に引立て、御方の勢をまつ處に、成田も續て出來たり、打竝て軍の樣をも言合せんず るかと思ひたれば、さはなくて、季重をばすげなげに打見て、やがてつと馳拔通る間、あはれ此者は謀て、先懸けうとしけるよと思ひ、五六段ばかり先立たる を、あれが馬は我馬よりは弱げなる者をと目をかけ、一 もみもうで追著て、『正なうも季重程の者をば謀り給ふ者哉。』と言ひかけ、打捨て寄つれば、遙に下りぬらん、よも後影をも見たらじ。」とぞ云ひける。
さる程にしのゝめ漸明行けば、熊谷平山彼是五騎でぞ控たる。熊谷は先に名乘たれとも、平山が聞くに名乘んと や思ひけん、又掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、「以前に名乘つる武藏國の住人、熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。我と思はん平家の 侍共、直家に落合へや落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞て、「いざや通夜名乘る熊谷親子をひさげて來ん。」とて、進む平家の侍誰々ぞ。越中次郎兵衞盛嗣、 上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、後藤内定經、是を始めてむねとの兵廿餘騎、木戸を開いて懸出たり。こゝに平山滋目結の直垂に、緋威の鎧著て、二つ引兩の 母衣をかけ、目糟毛と云ふ聞る名馬にぞ乘たりける。旗差は黒革縅の鎧に、甲猪頸に著ないて、さび月毛なる馬にぞ乘たりける。「保元平治兩度の合戰に先がけ たりし武藏國の住人、平山武者所季重。」と名乘て、旗差と二騎馬の鼻をならべてをめいてかく。熊谷蒐れば、平山續き、平山蒐れば熊谷續く。互にわれ劣じ と、入替々々、 もみ に もうで、火出る程ぞ攻たりける。平家の侍共、手痛うかけられて、叶はじとや思 ひけん、城の内へさと引き、敵を外樣に成てぞ塞ぎける。熊谷は馬の太腹射させて、はぬれば、足をこえて下立たり。子息小次郎直家も、生年十六歳と名乘て掻 楯の際に馬のはなを突する程責寄て戰ひけるが、弓手の肘を射させて、馬より飛び下、父と竝でぞ立たりける。「如何に小次郎手負たか。」「さ候。」「常に鎧 つきせよ、裏掻すな、錣を傾よ、内甲射さすな。」とぞ教へける。熊谷鎧に立たる矢どもかなぐり捨て、城の内を睨まへ、大音聲を揚て、「去年の冬の比鎌倉を 出しより、命をば兵衞佐殿に奉り、屍をば一谷で曝さんと思切たる直實ぞや。室山水島二箇度の合戰に高名したりと名乘る越中次郎兵衞はないか。上總五郎兵 衞、惡七兵衞はないか。能登殿はましまさぬか。高名も敵に依てこそすれ。人毎に逢てはえせじ物を。直實に落合や落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞いて、越 中次郎兵衞、好む裝束なれば、紺村濃の直垂に、赤威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、熊谷父子に目を懸て、歩ませ寄る。熊谷父子は中を破れじと、立竝んで、 太刀を額に當て、後へは一引も引かず、彌前へぞ進みける。越中次郎兵衞叶はじとや思ひけん、取て返す。熊谷、是を見て、「如何に、あれは、越中次郎兵衞と こそ見れ。敵にはどこを嫌はうぞ。直實に押竝べて組や組め。」と云ひけれども、「さもさうず。」とて引返す。惡七兵衞是を見て、「きたない殿原の振舞やう 哉。」とて、既に組んとかけ出けるを鎧の袖を引へて。「君の御大事是に限るまじ。有べうもなし。」と制せられて、組ざりけり。其後熊谷は乘替に乘て、喚い てかく。平山も熊谷父子が戰ふ紛れに、馬の息を休めて是も亦 續いたり。平家の方には馬に乘たる武者はすくなし、やぐらの上に兵ども矢先を汰へて雨の降樣に射けれども、敵はす くなし、御方は多し、勢にまぎれて矢にも當らず。「唯押竝べて組や組め。」と下知しけれども、平家の馬は、乘る事は繁く、飼事は稀なり、舟には久しう立た り、彫きたる樣なりけり。熊谷平山が馬は飼に飼たる大の馬どもなり、一當當ては皆蹴倒れぬべき間、押竝べて組む武者一騎も無りけり。平山は身に替て思ひけ る旗差を射させて敵の中へ破て入り、やがて其敵の頸を取てぞ出たりける。熊谷も、分捕あまたしたりけり。熊谷先に寄せたれど、木戸を開ねば懸入らず。平山 後に寄たれど、木戸を開たれば懸入ぬ。さてこそ熊谷平山が、一二懸をば爭けれ。
二度之懸
さる程に成田五郎も出來たり。土肥次郎眞先懸け、其勢七千餘騎色々の旗差上げ、をめき叫で攻戰ふ。大手生田森にも、源氏五萬餘騎で固たりけるが、其 勢の中に、武藏國の住人、河原太郎、河原次郎といふ者有り。河原太郎弟の次郎を呼で云ひけるは、「大名は我と手を下さねども、家人の高名を以て名譽とす。 我等は自手を下さずは叶ひがたし。敵を前に置ながら、矢一つだにも射ずして待居たるが、餘りに心もとなく覺ゆるに、高直は先づ城の中へ紛れ入て、一矢射ん と思ふなり。されば千萬が一も生て歸らん事有がたし。わ殿は殘り留て、後の證人にたて。」と云ひければ、河原次郎涙をはら/\と流いて「口惜い事を宣ふ者 哉。唯 兄弟二人有る者が兄を討せて、弟が一人殘り留またらば、幾程の榮花をか保つべき。所々で討れんよりも、一所でこそ如何にも 成らめ。」とて、下人共呼寄せ、最後の有樣妻子の許へ、言遣はし、馬にも乘ず、げゞをはき、弓杖を突て、生田森の逆茂木を上こえ、城の中へぞ入たりける。 星明りに鎧の毛もさだかならず。河原太郎大音聲を揚て、「武藏國の住人、河原太郎私市高直、同次郎盛直、源氏の大手生田森の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平 家の方には是を聞いて、「東國の武士程怖しかりける者はなし。是程の大勢の中へ唯二人入たらば、何程の事をかし出すべき。好好暫し愛せよ。」とて、射んと 云ふ者無りけり。是等兄弟は究竟の弓の上手なれば、指詰引詰散々に射る間、「愛しにくし、討や。」と云程こそ有けれ、西國に聞えたる強弓精兵、備中國の住 人、眞名邊四郎、眞名邊五郎とて兄弟有り、四郎は一谷に置れたり、五郎は生田森に有けるが、是を見て能彎てひやうふつと射る。河原太郎が鎧の胸板後へつと 射拔れて弓杖にすがりすくむ所を、弟の次郎走り寄て、兄を肩に引懸け、逆茂木を上り越えんとしけるが眞名邊が二の矢に、鎧の草摺の外を射させて、同枕に臥 にけり。眞名邊が下人落合うて、河原兄弟が頸を取る。是を新中納言の見參に入たりければ、「あはれ剛の者哉。是等をこそ一人當千の兵とも云べけれ、可惜者 共を助て見で。」とぞ宣ひける。
其時下人ども、「河原殿兄弟唯今城の内へ眞先懸て討れ給ひぬるぞや。」とよばはりければ、梶原是を聞き、「私の黨の殿原の不覺でこそ河原兄弟をば討せたれ。今は時能く成ぬ、寄よや。」とて閧をどと作る。やがて續いて五萬餘騎、一度にときをぞ作りける。足輕共に逆茂木とり 除けさせ、梶原五百餘騎喚いてかく。次男平次景高餘に先を懸んと進みければ、父の平三使者を立てて、「後陣の勢の續ざらんに、先懸たらん者は、勸賞有まじき由、大將軍の仰せぞ。」と云ひければ、平次暫引へて、
「武士のとりつたへたる梓弓、ひいては人のかへすものかは。
と申させ給へ。」とて喚いてかく。「平次討すな、續けや者共。景高討すな、續けや者共。」とて父の平三、兄 の源太、同三郎續いたり。梶原五百餘騎大勢の中へかけ入り散々に戰ひ、僅に五十騎計に討成され、颯と引いてぞ出たりける。如何したりけん、其中に景季は見 ざりけり。「如何に源太は、郎等共。」と問ければ、「深入して討れさせ給ひて候ごさめれ。」と申。梶原平三是を聞き、「世にあらんと思ふも、子共がため、 源太討せて命生ても、何かはせん、回せや。」とて取て回す。梶原大音聲を揚て名乘けるは、「昔八幡殿の後三年の御戰に、出羽國千福金澤城を攻させ給ひける 時、生年十六歳で、眞先かけて、弓手の眼を甲の鉢附の板に射附られ、當の矢を射て、其敵を射落し、後代に名を揚たりし鎌倉權五郎景正が末葉、梶原平三景 時、一人當千の兵ぞや。我と思はん人々は景時討て見參に入れよや。」とて、喚いてかく。新中納言「梶原は東國に聞えたる兵ぞ。餘すな、漏すな、討や。」と て、大勢の中に取籠めて責給へば、梶原先づ我身の上をば知らずして、源太は何くに有やらんとて、數萬騎の中を縱さま横さま、蛛手、十文字に懸破りかけまは り尋ぬる程に、源太はのけ甲に戰ひなて、馬をも射させ徒立になり、二丈計有ける岸を後に當て、敵五人が中に取籠られ郎等二人左右にたてて、 面もふらず命も惜まず、爰を最後と防ぎ戰ふ。梶原是を見付けて、「未討たれざりけり。」と、急ぎ馬より飛で下り、 「景時こゝに有り、如何に源太死ぬるとも、敵に後を見すな。」とて、親子して、五人の敵を三人討取り、二人に手負せ、「弓矢取は懸るも引くも折にこそよ れ、いざうれ源太。」とて、かい具してぞ出きたりける。梶原が二度の懸とは是也。
坂落
是を初めて秩父、足利、三浦、鎌倉、黨には、猪俣、兒玉、野井與、横山、西黨、都筑黨、私黨の兵ども、惣して源平亂あひ、入替/\、名乘替/\、喚 叫ぶ聲山を響かし、馬の馳違ふ音は雷の如し。射違る矢は雨の降にことならず。手負をば肩に懸け後へ引退くも在り。薄手負うて戰ふも有り。痛手負て討死する ものもあり。或は押双べて組で落ち刺違て死ぬるも有り。或は取て押へて頸を掻もあり、掻かるゝもあり。何れ隙ありとも見えざりけり。かかりしかども、源氏 大手ばかりでは叶ふべし共見えざりしに、九郎御曹司搦手に回て七日の日の明ぼのに、一谷の後、鵯越に打上り既に落さんとし給ふに、其勢にや驚たりけん、男 鹿二つ妻鹿一つ、平家の城廓一谷へぞ落たりける。城の中の兵共是を見て、「里近からん鹿だにも、我等に恐ては山深うこそ入べきに、是程の大勢の中へ鹿の落 合ふこそ怪しけれ。如何樣にも、上の山より源氏落すにこそ。」と騒ぐ處に、伊豫國の住人、武知の武者所清教、進み出で、「何んでまれ、敵の方より出來たら ん者を、遁すべき樣なし。」とて、男鹿二つ射留 て、妻鹿をば射でぞ通ける。越中の前司、「詮ない殿原の鹿の射樣哉。唯今の矢一つでは、敵十人は防んずる物を、罪作りに、矢だうなに。」とぞ制しける。
御曹司、城廓遙に見渡いておはしけるが、「馬ども落いて見ん。」とて、鞍置馬を追落す。或は足を打折てころ んで落つ。或は相違なく落て行もあり。鞍置馬三匹、越中前司が屋形の上に落著て身振してぞ立たりける。御曹司是を見て、「馬共は主々が心得て落さうには、 損ずまじいぞ。くは落せ。義經を手本にせよ。」とて、先三十騎ばかり眞先懸て落されけり。大勢皆續いて落す。後陣に落す人人の鎧の鼻は先陣の鎧甲に當る程 なり。小石の交りの砂なれば、流れ落しに、二町許さと落いて、壇なる所に引へたり。夫より下を見くだせば、大磐石の苔むしたるが、釣瓶落しに、十四五丈ぞ 下たる。兵どもうしろへとてかへすべきやうもなし、又さきへおとすべしとも見えず。「爰ぞ最後。」と申て、あきれて引へたる所に、佐原十郎義連、進出て申 けるは、「三浦の方で我等は鳥一つ立ても、朝夕か樣の所をこそは馳ありけ。三浦の方の馬場や。」とて、眞先懸て落しければ、兵者みな續いて落す。えい/\ 聲を忍びにして、馬に力を附て落す。餘りのいぶせさに目を塞いでぞ落しける。おほかた人の爲態とは見えず、唯鬼神の所爲とぞ見えたりける。落しも果ねば、 閧をどと作る。三千餘騎が聲なれど、山彦に答へて、十萬餘騎とぞ聞えける。村上判官代康國が手より火を出し、平家の屋形假屋を皆燒拂ふ。折節風は烈しゝ、 黒煙おしかくれば、平氏の軍兵共、餘に遽て噪いで「若や助かる。」と、前の海へぞ多く馳入りける。汀にはまうけ舟どもいくらも有けれども、「我れ先に乘 らう。」と船一艘には物具したる者共が、四五百人ばかりこみ乘らうになじかはよかるべき。汀より僅に三町ばかり推 出いて、目の前に大船三艘沈みにけり。其後は、好き人をば乘すとも雜人共をばのすべからずとて、太刀長刀でながせけり。かくする事とは知ながら、乘じとす る船には取付きつかみ附き、或はうで打切れ、或はひぢ打落されて一谷の汀に、朱になてぞ並臥たる。能登守教經は度々の軍に、一度も不覺せぬ人の、今度は如 何思はれけん、薄墨と云馬に乘り、西を指てぞ落給ふ。播磨國明石浦より船にのて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。
越中前司最期
大手にも濱の手にも、武藏相摸の兵ども、命を惜まず攻戰ふ。新中納言は、東に向かて戰ひ給ふ處に、山 のそばより寄ける兒玉黨使者を上て、「君は武藏國司でまし/\候し間、是は兒玉の者共が申候。御後をば御覽候ぬやらん。」と申。新中納言以下の人々、後を 顧み給へば、黒煙推懸たり。「あはや西の手は破にけるは。」といふ程こそ有けれ、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。
越中前司盛俊は、山手の侍大將にて在けるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、引へて敵を待つ所に、猪俣の小平六則綱、好い敵と目を懸け、鞭鐙を合 せて馳來り、押雙べてむずと組でどうと落つ。猪俣は八箇國に聞えたるしたゝか者也。鹿の角の一二の草かりをば、輒引裂けるとぞ聞えし。越中前司は二三十人 が力態をする由人目には見えけれども内々は六七十 人して上下す船を、唯一人して推上おし下す程の大力也。されば猪俣を取て抑て働さず。猪俣下に伏ながら刀を拔うとすれど も、指はだかて、刀の柄を握にも及ばず、物を言はうとすれども、餘に強う推へられて、聲も出でず。既に頸を掻れんとしけるが、力は劣たれども心は剛なりけ れば、猪俣すこしもさわがず、暫く息をやすめ、さらぬ體にもてなして申けるは、「抑名乘つるは聞給ひて候か。敵をうつと云ふは、我も名乘て聞せ、敵にも名 乘せて、頸を捕たればこそ大功なれ。名も知ぬ頸取ては何にかはし給ふべき。」と云はれて、實もとや思ひけん、「是は本平家の一門たりしが、身不肖なるに依 て、當時は侍に成たる越中前司盛俊と云ふ者也。和君は何者ぞ、なのれ聞う。」と云ひければ、「武藏國の住人猪俣小平六則綱」と名乘る。「倩此世中の在樣を 見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給たり。今は主の世にましまさばこそ、敵の頸取て參せて、勳功勸賞にも預り給め。理を枉て則綱扶 け給へ。御邊の一門、何十人も坐せよ。則綱が勳功の賞に申替て、扶け奉らん。」と云ければ、越中前司大に怒て、「盛俊身こそ不肖なれども、さすが平家の一 門也。源氏憑うとは思はず、源氏又盛俊に憑れうともよも思はじ。惡い君が申樣哉。」とて、やがて頸を掻んとしければ、猪俣「まさなや、降人の頸掻樣や 候。」越中前司「さらば助けん。」とて引起す。前は畠の樣にひあがて、究て固かりけるが、後は水田のこみ深かりける畔の上に、二人の者腰打懸て、息續居た り。
暫しあて、黒革威の鎧著て、月毛なる馬に乘たる武者一騎、馳來る。越中前司怪氣に見けれ ば、「あれは則綱が親う候人見四郎と申者で候。則綱が候を見て、詣で來と覺え候。苦う候まじい。」といひながら、 「あれが近附たらん時に、越中前司に組んだらば、さりとも、落合はんずらん。」と思ひて待處に一段ばかり近附たり。越中前司、始めは二人を一目づゝ見ける が、次第に近う成ければ馳來る敵をはたと守て、猪俣を見ぬ隙に、力足を蹈で衝立上り、えいと云ひて、もろ手を以て越中前司が鎧の胸板をばはと突て、後の水 田へのけに突倒す。起上らんとする處に、猪俣上にむずと乘りかゝり、やがて越中前司が腰の刀を拔き鎧の草摺ひきあげて、柄も拳も透れ/\と、三刀刺て頸を 取る。さる程に人見四郎落合たり。か樣の時は論ずる事も有と思ひ、太刀の先に貫き、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比鬼神と聞えつる平家の侍越中前司盛 俊をば、猪俣小平六則綱が討たるぞや。」と名乘て、其日の高名の一の筆にぞ附にける。
忠度最期
薩摩守忠度は、一谷の西手の大將軍にて坐けるが、紺地の錦の直垂に、黒絲威の鎧著て黒き馬の太う逞きに、沃懸地の鞍置て乘り給へり。其勢百騎ばかり が中に打圍れて、いと噪がず引へ引へ落給ふを、猪俣黨に岡部六彌太忠純、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追付奉り、「抑如何なる人でましまし候ぞ、名乘ら せ給へ。」と申ければ、「是は御方ぞ。」とてふり仰ぎ給へる内甲より見入たれば、銕黒也。「あはれ御方には銕附たる人はない者を、平家の君達でお はするにこそ。」と思ひ、押竝てむずと組む。是を見て百騎ばかりある兵共、國々の假武者なれば一騎も落合はず、我先にとぞ 落ゆきける。薩摩守「惡い奴かな。御方ぞと云はゞ云はせよかし。」とて熊野生立大力の疾態にておはしければ、やがて刀を拔き六彌太を馬の上で二刀、おちつ く處で一刀、三刀迄ぞ突かれける。二刀は鎧の上なれば、透らず。一刀は、内甲へ突入られたれども、薄手なれば死なざりけるを、捕て押へ頸を掻んとし給ふ處 を、六彌太が童、後馳に馳來て、討刀を拔き、薩摩守のかひなをひぢの本よりふと切り落す。今は角とや思はれけん、「暫退け、十念唱ん。」とて、六彌太を つかうで、弓長ばかり投除らる。其後西に向ひ高聲に十念唱へて、「光明遍照十 方世界、念佛衆生攝取不捨。」と宣ひも果ねば、六彌太後よりよて、薩摩守の頸を討。好い大將討たりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結び 附られたる文を解て見れば、「旅宿花」といふ題にて一首の歌をぞ讀まれける。
ゆきくれて木の下陰を宿とせば、花やこよひの主ならまし。
忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知てけれ。太刀の先に貫ぬき、高く差上げ、大音聲を揚て、「此日來平家の御方と聞えさせ給つる薩摩守殿を ば、岡部の六彌太忠純討奉たるぞや。」と名乘ければ、敵も御方も是を聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にも達者にておはしつる人を。あたら大將軍 を。」とて、涙を流し袖をぬらさぬは無りけり。
重衡生捕
本三位中將重衡卿は、生田森の副將軍におはしけるが、其勢皆落失せて、只主從二騎になり給ふ。三位中將、その日の裝束には かちんに白う黄なる絲をもて、群千鳥繍たる直垂に、紫下濃の鎧著て、童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に、乘り給へり。乳母子の後藤兵衞盛長は、滋目結の直垂に、 緋威の鎧著て三位中將の秘藏せられたる夜目無月毛に乘せられたり。梶原源太景季、庄の四郎高家、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追懸奉る。汀には助け船幾 等も在けれども、後より敵は追懸たり、のがるべき隙も無りければ、湊河、苅藻河をも打渡り、蓮の池をば馬手に見て、駒の林を弓手になし、板宿、須磨をも打 過て、西を指てぞ落たまふ。究竟の名馬には乘給へり。もみふせたる馬共、逐著べしとも覺えず、只延に延ければ、梶原源太景季、鐙踏張り立上り、若しやと遠 矢によひいて射たりけるに、三位中將の馬の三頭を箆深に射させて弱る處に、後藤兵衞盛長「吾馬召されなんず。」とや思ひけん、鞭を上てぞ落行ける。三位中 將是を見て、「如何に盛長、年比日比さは契らざりし者を、我を捨て何くへ行ぞ。」と宣へども、空きかずして、鎧に附たる赤印かなぐり捨て、唯逃にこそ逃た りけれ。三位中將敵は近付く、馬は弱し、海へ打入れ給ひたりけれども、そこしも遠淺にて沈べき樣も無りければ、馬より下、鎧の上帶切り、高紐はづし物具脱 ぎ棄、腹を切んとし給ふ處を梶原より先に、庄の四郎高家鞭鐙を合せて馳來り、急ぎ馬より飛下り、「正なう候。何く迄も御供仕らん。」とて、我馬に掻乘せ奉 り、鞍の前輪にしめ附て、我身は乘替に乘てぞ歸りける。
後藤兵衞はいき長き究竟の馬には乘たりけり。其をばなく迯延て、後には熊野法師、尾中法 橋を憑で居たりけるが、法橋死て後、後家の尼公訴訟の爲に京へ上りたりけるに、盛長供して上りたりければ、三位中 將の乳母子にて、上下には多く見知れたり。「あな無慚の盛長や。さしも不便にし給ひしに、一所で如何にも成ずして、思もかけぬ尼公の供したる憎さよ。」と て、爪彈をしければ、盛長もさすが慚し氣にて扇を顏にかざしけるとぞ聞えし。
敦盛最期
軍破れにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達助け船に乘らんと、汀の方へぞ落ち給ふらん。哀れ好らう大將軍に組ばや。」とて、磯の方へ歩まする處 に、練貫に鶴縫たる直垂に、萠黄匂の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て 乘たる武者一騎、沖なる船に目を懸て、海へさと打入れ、五六段計泳がせたるを熊谷、「あれは、大將軍とこそ見參せ候へ。正なうも敵に後を見せさせ給ふ者 哉。返させ給へ。」と。扇を揚て招きければ、招かれて取て返す。汀に打上らんとする所に、押竝て、むずと組で、どうと落ち、取て押へて頸を掻んとて、甲を 押仰けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄假粧して鐵醤黒也。我子の小次郎が齡程にて、容顏誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覺えず。「抑如何 なる人にてましまし候ぞ。名乘せ給へ。扶け參せん。」と申せば、「汝は誰そ。」と問給ふ。「物其者では候はねども、武藏國の住人熊谷次郎直實。」と名乘申 す。「さては汝に逢うては名乘まじいぞ。汝が爲には好い敵ぞ。名乘らずとも頸 を取て人にとへ、見知うずるぞ。」とぞ宣ひける「あはれ大將軍や、此人一人討奉たりとも、負くべき軍に勝べき樣もなし。又 討たてまつらずとも、勝べき軍に負る事もよも有じ。小次郎が薄手負たるをだに直實は心苦しう思ふに、此殿の父、討れぬと聞いて、如何計か歎き給はんずら ん。あはれ扶け奉らばや。」と思ひて、後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎計で續いたり。熊谷涙を押て申けるは、「助け參せんとは存候へども、御方の軍兵 雲霞の如く候。よも逃させ給はじ。人手にかけ參せんより、同くは、直實が手に懸參せて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申ければ、「唯とう/\頸を取 れ。」とぞ宣ひける。熊谷餘にいとほしくて、何に刀を立べしとも覺えず、目もくれ心も消果てゝ、前後不覺に思えけれども、さてしも有るべき事ならねば、 泣々頸をぞ掻いてける。「あはれ弓矢取る身程口惜かりける者はなし。武藝の家に生れずば、何とてかゝる憂目をば見るべき。情なうも討奉る者哉」と掻口説き 袖を顏に押當てゝ、さめ%\とぞ泣居たる。やゝ久うあて、さても在るべきならねば、鎧直垂を取て、頸を裹まんとしけるに、錦の袋に入たる笛をぞ腰に差され たる。「あないとほし、此曉城の内にて、管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。當時御方に東國の勢何萬騎か有らめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有じ。 上臈は猶も優しかりけり。」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是を見る人涙を流さずといふ事なし。後に聞けば、修理大夫經盛の子息に太夫敦盛とて、 生年十七にぞ成れける。其よりしてこそ、熊谷が發心の思ひはすゝみけれ。件の笛は、祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛 相傳せられ たりしを、敦盛器量たるに依て、持たれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける。狂言綺語の理と云ながら、遂に讃佛乘の因となるこそ哀なれ。
知章最期
門脇中納言教盛卿の末子、藏人大夫成盛は、常陸國の住人土屋五郎重行に組で討たれ給ひぬ。修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正は助け舟に乘らんと汀の方 へ落給ひけるが、河越小太郎重房が手に取籠られて、討たれ給ひぬ。其弟、若狹守經俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つれて敵の中へ懸入、散々に戰ひ、分捕 數多して、一所で討死してけり。
新中納言知盛卿は、生田森の大將軍にておはしけるが、其勢皆落失て、今は御子武藏守知明侍には監物太郎頼方、只主從三騎に成て助け舟に乘らんと、汀 の方へ落給ふ。爰に兒玉黨と覺しくて、團扇の旗差いたる者ども、十騎計、をめいて追懸奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手ではあり、眞先に進んだる旗差がし や頸の骨をひやうふつと射て、馬より倒に射落す。其中の大將と覺しき者、新中納言に組奉らんと馳竝べけるを、御子武藏守知明、中に隔たり、押竝べてむずと 組で、どうとおち、取て抑へて頸を掻き、立上んとし給ふ處に、敵が童落合うて、武藏守の頸を討つ。監物太郎落重て、武藏守討奉たる敵が童をも討てけり。其 後矢種の有る程射盡して、打物拔で戰ひけるが、敵餘た討とり、弓手の膝口を射させ、立も上らずゐながら討死してけり。此紛れに新中納言は、究竟の名馬には 乘給へり、海の面廿餘町泳が せて、大臣殿の御船に著給ひぬ。御船には人多く籠乘て、馬立つべき樣も無りければ、逐返す。阿波民部重能、「御馬敵の者に 成り候なんず。射殺候はん。」とて、片手矢はげて出けるを、新中納言、「何の物にも成ばなれ、我命を助けたらん者を。有べうもなし。」と宣へば、力及ばで 射ざりけり。此馬主の別れを慕ひつゝ、暫しは船をも放れやらず、沖の方へ泳けるが、次第に遠く成ければ、空しき汀に泳歸る。足立つ程にも成しかば、猶船の 方をかへり見て、二三度迄こそいなゝきけれ。其後陸に上て休みけるを、河越小太郎重房、取て院へ參らせたりければ、軈て院の御厩に立てられけり。本も院の 御祕藏の御馬にて、一の御厩に立られたりしを、宗盛公内大臣に成て、悦申の時、給られたりけりとぞ聞えし。新中納言に預けられたりしを中納言餘に此馬を秘 藏して、馬の祈の爲にとて、毎月朔日毎に、泰山府君をぞ祭られける。其故にや馬の命も延、主の命をも助けるこそ目出たけれ。此馬は信濃國井上だちにて有け れば、井上黒とぞ申ける。後には河越が取て參せたりければ、河越黒とも申けり。
新中納言、大臣殿の御前に參て、申されけるは、「武藏守に後れ候ぬ。監物太郎も討せ候ぬ。今は心細うこそ罷 成て候へ。如何なる親なれば、子は有て親を扶けんと、敵に組を見ながら、いかなる親なれば、子の討るゝを扶けずして、か樣に逃れ參て候らん。人の上で候は ば、いかばかり、もどかしう存候べきに、我身の上に成ぬれば、よう命は惜い者で候けりと、今こそ思知られて候へ。人々の思はれむ心の内どもこそ慚しう候 へ。」とて、袖を顏に押當て、さめざめと泣き給へば、大臣殿是を聞給ひて、「武藏守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。 手もきゝ心も剛に、好き大將軍にておはしつる人を、清宗と同年にて、今年は十六な。」とて、御子衞門督のおはしける方を御覽じて、涙ぐみ給へば、幾らも竝居たりける平家の侍ども、心有も心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。
落足
小松殿の末の子備中守師盛は、主從七人小船に乘て落給ふ處に、新中納言の侍、清衞門公長と云ふ者、馳來て、「あれは、備中守殿の御船とこそ見參て候 へ。參り候はん。」と申ければ、船を汀にさし寄せたり。大の男の鎧著ながら、馬より船へがばと飛乘らうに、なじかは好かるべき。船は小し、くるりと蹈返し てけり。備中守浮ぬ沈ぬし給ひけるを、畠山が郎等、本田次郎、十四五騎で馳來り、熊手に懸て引上奉り、遂に頸をぞ掻てける。生年十四歳とぞ聞えし。
越前三位通盛卿は、山手の大將軍にておはしけるが、其日の裝束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧著て、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍置て乘り給へり。 内甲を射させて敵に押隔てられ、弟能登殿には離れ給ひぬ。靜ならん處にて、自害せんとて、東に向て落給ふ程に、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の 住人玉井四郎資景、彼是七騎が中に取籠られて終に討たれ給ひぬ。其時迄は、侍一人附奉たりけれども其も最後の時は落合はず。
凡東西の木戸口時を移す程也ければ、源平數を盡いて討れにけり。櫓の前逆茂木の下には、 人馬のしゝむら山の如し。一谷の小篠原、緑の色を引替へて、薄紅にぞ成にける。一谷、生田森、山の傍、海の汀にて射られ斬 られて死ぬるはしらず、源氏の方に斬懸らるゝ頸ども、二千餘人也。今度討れ給へるむねとの人々には、越前三位通盛、弟藏人大夫成盛、薩摩守忠度、武藏盛知 明、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正、弟若狹守經俊、其弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞えし。
軍破にければ、主上を始奉て、人々皆御船に召て、出給ふ心の中こそ悲しけれ、汐に引れ風に隨て、紀伊路へ趣く船も有り。葦屋の沖に漕出て、浪にゆら るゝ船も有り。或は須磨より明石の浦傳ひ、泊定めぬ梶枕、片敷袖もしをれつゝ、朧に霞む春の月、心を碎かぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕通り、繪島磯に漂 へば、波路幽に鳴渡り、友迷はせる小夜千鳥、是も我身の類哉。行先未何くとも思ひ定ぬかと思しくて、一谷の沖にやすらふ船も有り。か樣に風に任せ、浪に隨 ひて、浦々島々に漂よへば、互に死生も知難し。國を從ふる事も十四箇國、勢の附く事も十萬餘騎也。都へ近附く事も僅に一日の道なれば、今度はさりともと憑 しう思はれけるに、一谷も攻落され、人々皆心細うぞなられける。
小宰相身投
越前三位通盛卿の侍に、見田瀧口時員と云ふ者有り。北方の御船に參て申けるは、「君は湊河の下にて、敵七騎が中に取籠られて、終に討れさせ給ぬ。其中に殊に手を下て討參らせ候つ るは、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景とこそ名乘申候つれ。時員も一所で如何にも成り、最後の 御供つかまつるべう候しかども、兼てより仰せ候ひしは、『通盛如何に成とも、汝は命を捨べからず、如何にもして長らへて、御向後をたづね參せよ。』と仰せ 候し間、かひなき命生て、つれなうこそ是迄逃れ參て候へ。」と申けれども、北方とかうの返事にも及びたまはず、引覆いてぞ伏し給ふ。一定討れぬと聞給へど も、若僻事にてもや有らん、生て還らるゝ事もやと、二三日は白地に出たる人を待つ心地しておはしけるが、四五日も過しかば、若やの憑みも弱果てゝ、いとゞ 心細うぞ成れける。唯一人附奉りたりける乳母の女房も、同枕に伏沈にけり。かくと聞こえし七日の日の暮方より、十三日の夜までは、起も上り給はず。明れば 十四日、八島へ著んとての宵打過ぐるまで臥給ひたりけるが、ふけゆくまゝに舟の中もしづまりければ、北方乳母の女房に宣ひけるは、「このほどは、三位討れ ぬと聞つれども、誠とも思はで有つるが、此暮程より、さも有らんと思定めて有ぞとよ。人毎に湊河とかやのしもにて討れにしとはいへども、其後生てあひたり といふ者は一人もなし。明日打出んとての夜、白地なる所にて行逢たりしかば、何よりも心細げに打歎いて、『明日の軍には、一定討れなんずと覺ゆるはとよ。 我如何にも成なん後、人は如何がし給ふべき。』なんど云ひしかども、軍はいつもの事なれば一定さるべしと思はざりける事の悔しさよ。其を限りとだに思はま しかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲けれ。身のたゞならず成たる事をも、日比はかくして言はざりしかども、心深う思はれじとて、言出した り しかば、斜ならず嬉げにて『通盛既に三十になる迄、子と云ふ者の無りつるに、あはれ男子にて在れかし。浮世の忘形 見にも思おくばかり。さて幾月程に成やらん。心地は如何有やらん。いつとなき波の上、船の中の栖ひなれば、閑かに身々と成ん時も如何はせん。』など言ひし は、はかなかりける兼言哉。誠やらん、女はさ樣の時、十に九は必死るなれば、恥がましき目を見て、空しう成んも心憂し。閑に身々と成て後、少き者をも生立 て、無き人の形見にも見ばやとは思へども、少者を見ん度毎には、昔の人のみ戀しくて、思ひの數は勝るとも、慰む事はよもあらじ。終には逃るまじき道也。若 不思議に此世を忍過すとも、心に任せぬ世の習ひは、思ぬ外の不思議も有ぞとよ。これも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、覺れば面影に立ぞかし。生て居て とにかくに人を戀しと思はんより、只水の底へ入ばやと思定めて有ぞとよ。そこに一人留まて、歎かんずる事こそ心苦しけれども、わらはが裝束の有をば取て、 如何ならん僧にもとらせ、無き人の御菩提をも弔ひ、わらはが後世をも助け給へ。書置たる文をば都へ傳てたべ。」など、細々と宣へば、乳人の女房涙をはら /\とながして、「幼き子をも振捨、老たる親をも留置き、はる%\是まで附參せて候ふ志をば、いか計とか思召れ候ふらむ。そのうへ今度一の谷にて討たれさ せ給ひし人々の北方の御おもひども何れかおろかにわたらせ給ひ候ふべき。されば御身ひとつのことゝおぼしめすべからず。靜に身々と成せ給ひて後、少き人を 生立參せ、如何ならん岩木の狹間にても、御樣を替へ、佛の御名をも唱てなき人の御菩提を弔ひ參させ給へかし。必一蓮へと思召すとも、生替らせ給ひなん後、 六道四生の間にて、何の道へか趣せ給はんずらん。行合せ給はん事も不定なれば、御身を投ても由なき事なり。其上都 の事なんどをば、誰見續ぎ參せよとてか樣には仰せ候やらん。恨しうも承るものかな。」とて、さめざめと掻口説ければ、北の方此事惡うも聞れぬとや思はれけ ん、「それは心にかはりても推量給ふべし。人の別の悲さには大方の世の恨めしさにも身を投んなどいふは、常の習ひなり。されども左樣の事は、有難きためし 也。げにも思立ならば、そこにしらせずしては有まじきぞ。夜も深ぬ。いざや寢ん。」と宣へば、めのとの女房此四五日は湯水をだに、はか%\しう御覽じ入給 はぬ人の、か樣に仰せらるゝは、誠に思ひ立給へるにこそと悲くて、「大形は都の御事もさる御事にて候へ共、左樣に思召立せさせ給はば、千尋の底迄も引こそ 具せさせ給はめ。おくれまゐらせて後片時もながらふべしともおぼえず。」なんど申して、御傍に在ながら、ちと、目睡たりける隙に、北方やはら舟端へ起出で て、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知ね共、月の入さの山の端を、そなたの空とや思はれけん、閑に念佛し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天戸渡る楫の 音、折から哀や勝けん、忍び聲に念佛百返計唱へ給ひて、「南無西方極樂世界教主、彌陀如來、本願誤たず、淨土へ導びき給ひつゝあかで別れし妹脊のなから ひ、必一蓮に迎へ給へ。」と、泣々遙に掻口説き南無と唱る聲共に、海にぞ沈み給ける。
一谷より八島へ推渡る夜半ばかりの事なれば、舟の中靖て、人是をしらざりけり。其中に梶取の一人寢ざりけるが見つけ奉て、「あれは如何に、あの御船より、よにうつくしうまします女 房の只今海へ入せ給ひぬるぞや。」と喚ければ、乳母の女房打驚き、傍を探れども、おはせざりければ、「あれよ、あ れ。」とぞあきれける。人數多下て、取上奉らんとしけれども、さらぬだに、春の夜の習ひに霞むものなるに、四方の村雲浮れ來て、かづけども/\、月朧にて 見えざりけり。やゝあて上げ奉たりけれども、早此世になき人と成給ひぬ。練貫の二つ衣に白き袴著給へり。髮も袴もしほたれて、取上たれどもかひぞなき。乳 母の女房手に手を取組み、顏に顏を押當てゝ、「などや是程に思召し立つならば、千尋の底までも引きは具せさせ給はぬぞ。恨しうも留め給ふ者哉。さるにても 今一度もの一ことは仰られて、聞せさせ給へ。」とて、悶絶焦れけれども、 [4]一言の返事にも及はず、纔に通つる息も、はや絶果ぬ。
さる程に、春の夜の月も雲井に傾き、かすめる空も明行けば、名殘は盡せず思へども、さてしも有るべき事ならねば、うきもやあがりたまふと故三位殿の 著背長の一領殘りたりけるに引纏ひ奉り、終に海にぞ沈ける。乳母の女房今度は後奉らじと、續いて入らんとしけるを、人人やう/\に取留めければ、力及ば ず。せめての思ひの爲方なさにや、手づから髮をはさみ下し、故三位殿の御弟、中納言律師忠快に剃せ奉り、泣々戒持て、主の後世をぞ弔ひける。昔より男に後 る類多と云へども、樣を替は常の習ひ、身を投迄は有難き樣也。忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫に見えずとも、か樣の事をや申べき。
此北方と申は、頭刑部卿則方の女、上西門院の女房、宮中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申ける。此女房十六と申し安元の春の比、女院法勝寺へ花見の御幸有しに、通盛卿其時は未だ 中宮の亮にて供奉せられたりけるが、此女房を只一目見て、哀れと思ひ初けるより、其面影のみ身にひしと立傍て、忘るゝ隙も 無りければ、常は歌を詠み、文を盡して戀悲しみ給へど、玉章の數のみ積りて、取入給ふ事もなし。既に三年になりしかば、通盛卿今を限りの文を書て、小宰相 殿の許へ遣す。をりふし取傳ける女房にも逢はずして、使空しく歸りける道にて小宰相殿は折ふし我里より御所へぞ參り給ひけるが、使道にて行會ひ奉り、空う 歸り參らん事の本意なさに、御車のそばをつと走り通る樣にて、通盛の文を小宰相殿の乘給へる車の簾の内へぞ、投げ入ける。伴の者共に問ひ給へば、「知ら ず」と申す。さて此文を明て見給へば、通盛卿の文にてぞ有ける。車に置くべき樣もなし。大路に捨んもさすがにて、袴の腰に挾みつゝ、御所へぞ參給ひける。 さて宮仕給ふ程に、所しもこそ多けれ、御前に文を落されけり。女院これを御覽じて、急ぎ取せおはしまし、御衣の御袂に引藏させ給ひて、「珍敷き物をこそ求 めたれ。此主は誰なるらん。」と仰せければ、女房達、萬の神佛に懸て「知ず」とのみぞ申あはれける。其中に小宰相殿は顏打赤めて物も申されず。女院も通盛 卿の申とはかねて知召れたりければ、さて此文を明けて御覽ずるに、妓爐の烟の匂ひ殊に馴しく、筆の立ども尋常ならず。あまりに人の心強きも中々今は嬉くて なんど、細々と書いて、奧には一首の歌ぞ有ける。
我戀は細谷川のまろきばし、ふみかへされて濕るゝ袖哉。
女院、「是は逢ぬを恨たる文や。餘りに人の心強きも中々怨と成るものを。」中比小野小町とて、 眉目容世に勝れ、情の道有難かりしかば、見る人聞く者、肝魂を痛ましめずといふ事なし。されども、心強き名をや取 りたりけん、果てには人の思ひの積りとて、風を防ぐ便りもなく、雨を漏さぬ業もなし。宿にくもらぬ月星を、涙に浮べ、野邊の若菜、澤の根芹を摘てこそ、露 の命を過しけれ。女院、「是は如何にも返しあるべきぞ。」とて、かたじけなくも御硯召寄せて自御返事あそばされけり。
只たのめ細谷川の丸木橋、ふみかへしてはおちざらめやは。
胸の中の思ひは富士の烟に露れ、袖の上の涙は清見が關の浪なれや。眉目は幸の花なれば、三位此女房を給て、互に志淺からず。されば西海の旅の空、浪 の上、舟の中の住ひ迄も引具して、同じ道へぞ趣れける。門脇中納言は、嫡子越前三位、末子成盛にも後れ給ひぬ。今憑給へる人とては、能登守教經、僧には中 納言律師忠快ばかり也。故三位殿の形見とも、此女房をこそ見給ひつるに、其さへか樣になられければ、いと心細ぞ成れける。
[4] NKBT reads 一言の返事にもおよばず.
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平家物語卷第十
首渡
壽永三年二月七日、攝津國一谷にて討れし平氏の頸共十二日に都へ入る。平家に結ぼほれたる人々は、我方樣に、如何なる憂目 をか見んずらんと歎きあひ悲みあへり。中にも大覺寺に隱れ居給る小松三位中將維盛卿の北の方殊更覺束なく思はれける。今度一谷にて一門の人々殘り少ううた れ給ひ、三位中將と云ふ公卿一人生捕にせられて上るなりと聞給ひ、此人離れじ物をとて、引覆てぞ伏給ふ。或女房の出來て申けるは、「三位中將殿と申は、是 の御事にて候はず。本三位中將殿の御事也。」と申ければ、「さては頸共の中にこそあるらめ。」とて、猶心安も思ひ給はず。同十三日、大夫判官仲頼、六條河 原に出向て、頸共請取。東洞院の大路を北へ渡して、獄門の木に懸らるべき由、蒲冠者範頼九郎冠者義經奏聞す。法皇此條いかがあるべからむと思召し煩ひて、 太政大臣、左右の大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿に仰合せらる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の位に上るものの頸、大路を渡さるゝ事先例なし。就 中、此輩は先帝の御時戚里の臣として、久く朝家に事つる。範頼義經が申状、あながち御許容有べからず。」とおの/\一同に申されければ、渡さるまじきにて 有けるを、範頼義經重 ねて奏聞しけるは、「保元の昔を思へば、祖父爲義が讐、平治の古を案ずれば、父義朝が敵也。君の御憤を息め奉り、 父祖の恥を雪めんが爲に命を棄て、朝敵を滅す。今度平氏の頸共、大路を渡されずば、自今以後何のいさみ有てか、凶賊を退けんや。」と、兩人頻に訴へ申間、 法皇力及ばせ給はで、遂に渡されけり。見る人幾等と云ふ數を知らず。帝闕に袖をつらねし古へは、恐怖るゝ輩多かりき。巷に首を渡さるゝ今は哀み悲しまずと 云ふ事なし。
小松三位中將維盛卿の若君六代御前に附たてまつたる齋藤五、齋藤六、あまりの覺束なさに、樣を窶して見けれ ば、頸共は見知り奉たれども、三位中將殿の御頸は見え給はず。されども餘に悲しくて、つゝむに堪へぬ涙のみ滋かりければ、餘所の人目も怖しさに、急ぎ大覺 寺へぞ參ける。北方、「さて如何にやいかに。」と問給へば、「小松殿の君達には備中守殿の御頸ばかりこそ見えさせ給ひ候つれ。其外はそんぢやう其頸其御 頸。」と申ければ、「いづれも人の上とも覺えず。」とて、涙に咽び給けり。良有て、齋藤五涙を抑へて申けるは、「此一兩年は隱居候て、人にもいたく見知れ 候はず。今暫も見參すべう候つれども、よにくはしう案内知り參せたる者の申候つるは、『小松殿の君達は今度の合戰には、播磨と丹波の境で候なる三草山を固 めさせ給ひて候けるが、九郎義經に破られて、新三位中將殿、小松少將殿、丹波侍從殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の八島へ渡らせ給て候也。何とし て離れさせ給ひて候けるやらん。御兄弟の御中に備中守殿ばかり一谷にて討れさせ給ひて候。』と申者にこそ逢ひて候つれ。『さて三位中將殿の御事は如何 に。』と問候つれば、『其は軍已前より大事の御痛とて、 八島に御渡候間、此度は向はせ給候はず。』と、細々とこそ申候つれ。」と申ければ、「其も我等が事をあまりに思嘆 き給ふが、病と成たるにこそ。風の吹日は今日もや船に乘り給らんと肝を消し、軍といふ時は、唯今もや討たれ給らんと心を盡す。ましてさ樣の痛なんどをも、 誰か心安うも扱ひ奉るべき。委しう聞ばや。」と宣へば、若君姫君「など何の御痛りとは問はざりけるぞ。」と宣ひけるこそあはれなれ。
三位中將も、通ふ心なれば、「都に如何に覺束なく思ふらん、頸共の中にはなくとも、水に溺ても死に、矢に當ても失ぬらん、此世に在者とは、よも思は じ。露の命のいまだながらへたると知らせ奉らばや。」とて、侍一人したてて都へのぼらせけり。三の文をぞ書かれける。先北方への御文には、「都には敵滿々 て、御身一の置所だにあらじに、幼き者共引具して、如何にかなしう覺すらん。是へ迎奉て、一所でいかにもならばやとは思へども、我身こそあらめ、御爲こゝ ろぐるしくて。」など、細々と書續け、奧に一首の歌ぞありける。
いづくとも知らぬ逢せの藻鹽草、かきおくあとを形見とも見よ。
少き人々の御許へは、「つれ%\をば如何にしてか慰み給ふらん。急ぎ迎へ取らんずるぞ。」と、言の葉もかは らず書いて上せられけり。此御文共を給はて使都へ上り、北方に御文參せたりければ、今更又嘆き悲み給ひけり。使四五日候て暇申。北方泣々御返事かき給ふ。 若君姫君筆をそめて、「さて父御前の御返事は何と申べきやらん。」と問給へば、「唯ともかうも和御前達の思はん樣に申べし。」とこそ宣ひけれ。「などや今 まで迎へさせ給はぬぞ、あまりに戀しく 思ひ參せ候に、とくとく迎させ給へ。」と、同じ言葉にぞかゝれたる、此御文共を給はて、使八島に歸りまゐる。三位 中將殿先少人々の御文を御覽じてこそ、彌詮方なげには見えられけれ。「抑是より穢土を厭ふに勇なし。閻浮愛執の綱つよければ、淨土を願ふも懶し。唯是より 山傳ひに都へ上て戀き者共を今一度見もし見えて後、自害をせんにはしかじ。」とぞ、泣々語給ひける。
内裏女房
同十四日、生捕本三位中將重衡卿、六條を東へわたされけり。小八葉の車に前後の簾を上げ、左右の物見を開く。土肥次郎實平、木蘭地の直垂に小具足許 して、隨兵三十餘騎、車の前後に打圍で守護し奉る。京中の貴賤是を見て、「あないとほし、如何なる罪の報ぞや。いくらも在ます君達の中に、かく成給ふ事 よ。入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子にてましまししかば、御一家の人々も重き事に思ひ奉り給ひしぞかし。院へも内へも參り給ひし時は、老たるも若き も、所をおきて持成奉り給ひしものを。是は南都を滅し給へる伽藍の罰にこそ。」と申あへり。河原迄渡されて、かへて、故中御門藤中納言家成卿の八條堀河の 御堂に居奉て、土肥次郎守護し奉る。院御所より御使に藏人左衞門權佐定長、八條堀河へ向はれけり。赤衣に劍笏をぞ帶したる。三位中將は、紺村濃の直垂に、 立烏帽子引立ておはします。日頃は何とも思れざりし定長を、今は冥途にて罪人共が、冥官に逢る心地ぞせられける。仰下さ れけるは、「八島へ歸りたくば、一門の中へ言送て、三種神器を都へ返し入れ奉れ。然らば八島へ返さるべきとの御氣色で 候。」と申。三位中將申されけるは、「重衡千人萬人が命にも、三種の神器を替參せんとは内府己下一門の者共一人もよも申候はじ。もし女性にて候へば、母儀 の二品なんどや、さも申候はんずらん。さは候へども居ながら院宣を返し參らせん事、其恐も候へば、申送てこそ見候はめ。」とぞ申されける。御使は、平三左 衞門重國、御坪の召次花方とぞ聞えし。私の文は容れねば、人々の許へも詞にて言づけ給ふ。北方大納言佐殿へも、御詞にて申されけり。「旅の空にても、人は 我に慰み、我は人に慰み奉りしに、引別れて後、如何に悲しうおぼすらん。契は朽せぬものと申せば、後の世には必生れあひ奉らん。」と、泣泣言づけ給へば、 重國も、涙を抑へて立にけり。
三位中將の年比召仕はれける侍に木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、土肥次郎が許に行向て、 「是は中將殿に先年召仕れ候し某と申す者にて候が、西國へも御供仕べき由存候しかども、八條の女院に兼參の者にて候間、力及ばで罷留て候が、今日大路で見 參せ候へば、目も當られず、いとほしう思奉り候。然るべう候はゞ御許されを蒙て、近附參候て、今一度見參に入り、昔語をも申て、なぐさめ參せばやと存候。 させる弓矢取る身で候はねば、軍合戰の御供を仕たる事も候はず、只朝夕祇候せしばかりで候き。さりながら猶覺束なう思食し候はば、腰の刀を召置れて、まげ て御許されを蒙候はばや。」と申せば、土肥次郎情ある男士にて、「御一人ばかりは何事か候べき。さりながらも。」とて、腰の刀を乞取て入てけり。 右馬允斜ならず悦で、急ぎ參て見奉れば、誠に思ひ入れ給へると覺しくて、御姿もいたくしをれ返て居給へる御有樣を 見奉るに、知時涙も更に抑へ難し。三位中將も是を御覽じて夢に夢見る心地して、とかうの事も宣まはず。只泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、昔今の物語共 し給ひて後、「さても汝して物言し人は、未だ内裏にとや聞く。」「さこそ承り候へ。」「西國へ下りし時、文をもやらず、いひおく事だに無りしを、世々の契 は、皆僞にて有けりと思ふらんこそ慚かしけれ。文をやらばやと思ふは如何に、尋て行てんや。」と宣へば、「御文を給て參り候はん。」と申す。中將斜ならず 悦て、やがて書てぞたうだりける。守護の武士共、「如何なる御文にて候やらん。出し參せじ。」と申。中將「見せよ。」と宣へば、見せてけり。「苦しう候ま じ。」とて、取らせけり。知時持て、内裏へ參りたりけれども、晝は人目の繁ければ、其邊近き小屋に立入て、日を待暮し、局の下口邊にたゝずんで聞けば、此 人の聲と覺しくて、「いくらもある人の中に三位中將しも生捕にせられて大路を渡さるゝ事よ。人は皆奈良を燒たる罪の報と言あへり。中將も、さぞ云し。『我 心に起ては燒ねども、惡黨多かりしかば、手々に火を放て、おほくの常塔を燒拂ふ。末の露本の雫と成なれば、我一人が罪にこそならんずらめ。』といひしが、 げにさと覺ゆる。」と掻口説きさめざめとぞ泣れける。右馬允、是にも思はれけるものをといとほしくおぼえて、「物申さう。」といへば、「いづくより。」と 問給ふ。「三位中將殿より御文の候。」と申せば、年比は恥て見え給はぬ女房の、せめての思ひの餘にや「いづらやいづら。」とて走出でて、手づから文を取て 見給へば、西國よりとられてありし有樣、 今日明日とも知らぬ身の行末など、細々と書續け、奧には一首の歌ぞ有ける。
涙川うき名をながす身なりとも、今一度のあふせともがな。
女房是を見給ひて、とかうの事をも宣はず、文を懷に引入て唯泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、さても可有ならねば、御返事あり。心苦しういぶせくて、二年をおくりつる心の中を書き給ひて、
君ゆゑに我もうき名を流すとも、底のみくづとともに成なん。
知時持て、參りたり。守護の武士共、又「見參せ候はん。」と申せば、見せてけり。「苦しう候まじ。」とて奉 る。三位中將是を見て、彌思や増り給ひけん、土肥次郎に宣ひけるは、「年比相具したりし女房に、今一度對面して、申たき事の有るは如何がすべき。」と宣へ ば、實平情ある士にて、「誠に女房などの御事にて渡らせ給ひ候はんはなじかは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦て、人に車借て迎へに遣したりけ れば、女房取もあへず、是に乘てぞおはしける。縁に車をやり寄せてかくと申せば、中將車寄に出迎ひ給ひ、「武士共の見奉るに、下させ給べからず。」とて、 車の簾を打かつぎ、手に手を取組み、顏に顏を推當てて、暫しは物も宣はず、唯泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、中將宣ひけるは、「西國へ下し時も、今一 度見參せたう候しかども、大形の世の騒さに申べき便もなくて、罷下り候ぬ。其後はいかにもして御文をも參らせ、御返り事をも承はりたう候しかども、心に任 せぬ旅の習ひ、明暮の軍に隙なくて、空しく年月を送り候き。今又人知ぬ在樣を見候は再あひ奉るべきで候け り。」とて、袖を顏に推當てうつぶしにぞなられける。互の心の中、推量られてあはれ也。かくて小夜も半に成ければ、「此ごろは大路の狼藉に候に、疾々。」と返し奉る。車遣出せば、中將別れの涙を押へて泣々袖を引へつゝ、
あふ事も露の命も諸共に、今宵ばかりやかぎりなるらん。
女房涙を押つゝ、
かぎりとてたちわかるれば露の身の、君よりさきに消ぬべきかな。
さて女房は内裏へ參り給ひぬ。其後は守護の武士共ゆるさねば、力及ばず、時々御文計ぞ通ける。此女房と申は、民部卿入道親範の女也。眉目貌世に勝 れ、情深き人也。中將南都へ渡されて、斬られ給ぬと聞えしかば、やがて樣を替へ、濃き墨染にやつれ果て、かの後世菩提を弔はれけるこそ哀れなれ。
八島院宣
去程に平三左衞門重國、御坪の召次花方、八島に參て、院宣をたてまつる。大臣殿以下一門の月卿雲客寄合ひ給ひて、院宣を開れけり。
一人聖體、北闕の宮禁を出で、諸州に幸し、三種の神器、南海四國に埋れて、數年を歴、尤朝家の歎き、亡國の基なり。抑かの重衡卿は、東大寺燒失の逆臣なり。すべからく頼朝の朝臣申請る旨に任せて、死罪に行るべしといへども、獨親族に別て、既に生捕とな る。籠鳥雲を戀る思ひ、遙に千里の南海に浮び、歸雁友を失ふ心、定めて九重の中途に通ぜん乎。然則三種の神器を返しいれ奉らんに於ては、彼卿を寛宥せらるべき也者、院宣此の如し。仍執達如件。壽永三年二月十四日 大膳大夫成忠が奉進上平大納言殿へ
とぞ書かれたる。
請文
大臣殿、平大納言の許へは院宣の趣を申給ふ。二位殿へは御文細々と書いて進らせられたり。「今一度御覽ぜんと思めし候はゞ内侍所の御事を大臣殿によ く/\申させおはしませ。さ候はでは此世にて見參に入べしとも覺え候はず。」などぞ書れたる。二位殿は是を見給ひてとかうの事も宣はず、文を懷に引入てう つぶしにぞなられける。誠に心の中さこそおはしけめと推量られて哀也。さる程に平大納言時忠卿をはじめとして平家一門の公卿殿上人寄合ひ給ひて御請文の趣 僉議せらる。二位殿は中將の文を顏に推當てゝ、人々の並居給へる後の障子を引明て、大臣殿の御前に倒臥し、泣々宣ひけるは「あの中將が京より言おこしたる 事の無慚さよ。げにも心の中にいかばかりの事をか思ひ居たるらん。唯我に思ひ許して内侍所を、都へ入奉れ。」と宣へば、大臣殿、「誠に宗盛もさこそは存候 へども、さすが世の聞えもいふがひ なう候。且は頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保せ給ふ御事 は、偏に内侍所の御故也。子の悲いも樣にこそ依候へ。且は中將一人に餘の子共親しい人々をば思食替させ給ふべきか。」と申されければ、二位殿、重て宣ひけ るは、「故入道におくれて後は、かた時も命生て、在べしとも思はざりしかども、主上かやうにいつとなく、旅だゝせ給たる御事の御心苦しさ、又、君をも御代 にあらせ參せばやと思ふ故にこそ今迄もながらへて在つれ。中將一谷で生捕にせられぬと聞し後は肝魂も身に副はず、如何にもして此世にて今一度あひ見るべき と思へども、夢にだに見えねば、いとどむねせきて、湯水も喉へ入れられず。今この文を見て後は、彌思ひ遣たる方もなし。中將世になき者と聞かば、我も同じ 道に赴むかんと思ふ也。再び物を思はせぬ先に、唯我を失ひ給へ。」とて、喚き叫び給へば、誠にさこそは思ひ給らめとあはれに覺えて、人々泪を流しつゝ皆伏 目にぞなられける。新中納言知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を都へ返入奉たりとも、重衡を返し給らん事有がたし。唯憚なく其樣を、御請文に申さる べうや候らん。」と申されければ、大臣殿「此儀尤も然るべし。」とて、御請文申されけり。二位殿は泣々中將の御返事かき給ひけるが、涙にくれて、筆の立所 も覺ねども、志をしるべにて御文細々と書て重國にたびにけり。北方大納言佐殿は、唯泣より外の事なくて、つや/\御返事もし給はず。誠に御心の中さこそは 思ひ給らめと推量られてあはれ也。重國も狩衣の袖を絞りつゝ泣泣御前を罷り立つ。平大納言時忠は御坪召次花方を召て、「汝は花方か。」「さん候。」「法皇 の 御使に、多くの浪路を凌いで、是迄參りたるに一期が間の思出一つあるべし。」とて花方が面に、浪方と云ふ燒驗をぞせられける。都へ上りければ、法皇是を御覽じて、「好々力およばず、浪方とも召せかし。」とてわらはせおはします。
今 月十四日の院宣、同二十八日、讃岐國八島の磯に到來、謹以承る所如件。但し是に就て彼を案ずるに、通盛卿以下、當家數輩攝州一谷にして、既に誅せられ畢。 何ぞ重衡一人が寛宥を悦べきや。夫我君は、故高倉院の御讓を請させ給ひて、御在位既に四箇年、堯舜の古風を訪處に、東夷北狄黨を結び、群をなして入洛の 間、且は幼帝母后の御歎尤深く、且は外戚近臣の憤淺からざるに依て、暫く九國に幸す。還幸なからんにおいては、三種の神器、爭か玉體を放ち奉るべきや。そ れ臣は君を以て心とし、君は臣を以て體とす。君安ければ則ち臣安く、臣安ければ即ち國安し。君上に愁れば、臣下に樂まず。心中に愁れば、體外に悦なし。曩 祖平將軍貞盛、相馬小次郎將門を追討せしより以降、東八箇國を鎭めて、子々孫々に傳へ、朝敵の謀臣を誅罰して代々世々に至るまで、朝家の聖運を守り奉る。 然則亡父故太政大臣、保元平治兩度の合戰の時、勅命を重して私の命を輕す。偏に君の爲にして、身のためにせず。就中、彼頼朝は、去平治元年十二月、父左馬 頭義朝が謀反に依て、頻に誅伐せらるべき由仰下さるといへども故入道相國慈悲のあまり、申宥められし處也。然に、昔の洪恩を忘れ芳意を存ぜず、忽に狼羸の 身を以て猥に蜂起の亂をなす、至愚の甚しき事申も餘あり。早く神明の天罰を招き、竊に敗績の損滅を期する者歟。 夫日月は、一物のために其明なる事を暗せず。明王は、一人が爲に其法を枉ず。一惡をもて其善をすてず、少瑕をもて 其功をおほふことなかれ。且は當家數代の奉公、且は亡父數度の忠節、思食忘れずば君忝なくも四國の御幸有るべき歟。時に臣等院宣を承はり、再舊都に歸て、 會稽の耻を雪ん。若然らずば、鬼界、高麗、天竺、震旦にいたるべし。悲哉。人王八十一代の御宇に當て、我朝神代の靈寶、遂に空しく異國の寶となさんか。宜 く是等の趣を以て、然るべき樣に洩し奏聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首謹言。壽永三年二月二十八日 從一位平朝臣宗盛が請文
とこそ書かれたれ。
戒文
三位中將是を聞て、「さこそは有むずれ。如何に一門の人々惡く思ひけん。」と、後悔すれどもかひぞなき。げにも重衡卿一人を惜みて、さしもの我朝の 重寶三種の神器を、返し入れ奉るべしとも覺えねば、此御請文の趣は、兼てより思ひ設られたりしかども、未左右を申されざりつる程は、何となういぶせく思は れけるに、請文既に到來して、關東へ下向せらるべきに定まりしかば、何の憑も弱り果て萬心細う都の名殘も今更惜思はれける。三位中將土肥次郎を召て、「出 家をせばやと思ふは如何あるべき。」と宣へば、實平此由を九郎御曹司に申す。院御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に見せて後こそ、ともかうも計らはめ。 唯今は爭か許す べき。」と仰ければ、此由を申す。「さらば年來契りたりし聖に、今一度對面して、後世の事を申談ぜばやと思ふはいかゞすべ き。」と宣へば、「聖をば誰と申候やらん。」「黒谷の法然房と申人也。」「さては苦しう候まじ。」とて許し奉る。中將斜ならず悦て、聖を請じ奉て、泣々申 されけるは、「今度生ながら捕れて候けるは、再上人の見參に罷入べきで候けり。さても重衡が後生いかゞし候べき。身の身にて候し程は、出仕に紛れ、政務に ほだされ、 驕慢の心のみ深して却て當來の昇沈を顧ず。況や運盡き世亂てより以來は、こゝ に戰ひ、かしこに爭ひ、人を滅し身を助らんと思ふ惡心のみ遮て、善心はかつて起らず。就中に南都炎上の事は、王命といひ武命といひ、君に仕へ世に隨ふ法遁 かたくして、衆徒の惡行を靜めんが爲に罷向て候し程に、不慮に伽藍の滅亡に及候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大將軍にて候ひし上は、責め一人に歸 すとかや申候なれば、重衡一人が罪業にこそなり候ぬらめと覺え候へ。且はか樣に人しれずかれこれ恥をさらし候もしかしながら其報とのみこそ思知れて候へ。 今は首を剃り戒を持なんどして偏に佛道修行したう候へども、かゝる身に罷成て候へば、心に心をもまかせ候はず。今日明日とも知らぬ身の行末にて候へば、如 何なる行を修しても、一業助かるべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。倩一生の化行を思ふに、罪業は須彌よりも高く、善業は微塵ばかりも蓄へなし。かくて空く命 終なば、火血刀の苦果、敢て疑なし。願くは上人慈悲を發し、憐を垂れて、かゝる惡人の助りぬべき方法候はば、示給へ。」其時上人涙に咽て、暫は物も宣は ず。良久しう有て、「誠に受難き人身を受ながら、空しう三途に歸り給は ん事、悲しんでも猶餘あり。然るを今穢土を厭ひ、淨土を願はんに、惡心を捨てゝ善心を發しましまさん事、三世の諸 佛も定て隨喜し給ふらん。それについて出離の道まち/\なりといへども末法濁亂の機には、稱名を以て勝れたりとす。志を九品に分ち、行を六字に縮めて、如 何なる愚癡闇鈍の者も唱るに便あり。罪深ければとて、卑下したまふべからず。十惡五逆囘心すれば往生を遂ぐ。功徳少ければとて、望を絶べからず。一念十念 の心を致せば、來迎す。專稱名號至西方と釋して、專名號を稱すれば、西方に至る。念々稱名常懺悔と演て、念々に彌陀を唱れば、懺悔する也と教へたり。利劔 即是彌陀號を憑めば、魔縁近づかず。一聲稱念罪皆除と念ずれば、罪皆除けりと見えたり。淨土宗の至極、各略を存して、大略是を肝心とす。但往生の得否は、 信心の有無に依べし。唯深く信じて努々疑をなし給ふべからず。もし此教を深く信じて行往座臥時處諸縁を嫌はず三業四威儀に於て、心念口稱を忘れ給はずば、 畢命を期として、此苦域の界を出で、彼不退の土に往生し給はん事、何の疑かあらむや。」と教化し給ひければ、中將斜ならず悦て、「此次に戒を持ばやと存候 は、出家仕らでは叶候まじや。」と申されければ、「出家せぬ人も、戒を持つ事は世の常の習ひ也。」とて、額に剃刀をあてゝそるまねをして、十戒を授けられ ければ、中將隨喜の涙を流いて、是を受保ち給ふ。上人も萬物哀に覺えて、掻暗す心地して、泣々戒をぞ説れける。御布施と覺しくて、年比常におはして遊れけ る侍の許に預置れける御硯を、知時して召寄て、上人に上り、「是をば人にたび候はで、常に御目のかゝり候はん所に置れ候て、某が物ぞかしと、御覽ぜられ候 は ん度ごとに思食なずらへて御念佛候べし。御隙には經をも一卷、御廻向候はゞ然るべう候べし。」など泣々申されけれ ば、上人とかうの返事にも及ばず、是を取て懷に入れ、墨染の袖を絞りつゝ泣々歸り給ひけり。此の硯は、親父入道相國砂金を多く宋朝の御門へ奉り給ひたりけ れば返報と覺しくて、日本和田の平大相國の許へとて、送られたりけるとかや。名をば松蔭とぞ申ける。
海道下
さる程に、本三位中將をば、鎌倉前兵衞佐頼朝、頻に申されければ、さらば下さるべしとて、土肥次郎實平が手より、先九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。同 三月十日、梶原平三景時に具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西國より生捕にせられ、都へ返るだに口惜きに、今又關の東へ趣かれけん心の中、推量られて哀 也。四宮河原に成ぬれば、爰は昔延喜第四の王子、蝉丸の、關の嵐に心を清し、琵琶をひき給ひしに、博雅の三位といひし人、風の吹日も吹ぬ日も、雨の降る夜 も降ぬ夜も三年が間歩を運び、立聞て、彼の三曲を傳へけん藁屋の床の古へも、思遣られて哀也。逢坂山を打越えて、勢多の唐橋駒もとゞろに蹈ならし、雲雀あ がれる野路の里、志賀の浦浪春かけて霞に曇る鏡山、比良の高峯をも北にして、伊吹の嵩も近附ぬ。心をとむとしなけれども、荒て中中優しきは、不破の關屋の 板びさし、如何に鳴海の鹽干潟、涙に袖はしをれつゝ、彼在原のなにがしの、唐ころもきつゝなれにしとながめけん參河國 八橋にも成ぬれば、蛛手に物をと哀也。濱名の橋を渡り給へば、松の梢に風亮て、入江に噪ぐ浪の音、さらでも旅は物憂きに、 心を盡す夕間暮、池田の宿にも著給ひぬ。彼宿の長者の湯屋が娘、侍從が許に、其夜は宿せられけり。侍從、三位中將を見奉て、「昔は傳にだに思召寄らざりし に、今日はかゝる所にいらせ給ふ不思議さよ。」とて、一首の歌をたてまつる。
旅の空埴生の小屋のいぶせさに、故郷いかに戀しかるらん。
三位中將返事には、
故郷もこひしくもなし旅の空、都もつひのすみかならねば。
中將「やさしうもつかまつたるものかな。此歌の主は如何なる者やらん。」と御尋在ければ、景時畏て申けるは、「君はいまに知召され候はずや。あれこ そ八島の大臣殿の當國の守で渡らせ給候し時、めされ參せて、御最愛にて候しが、老母を是に留置、頻に暇を申せども、給はらざりければ、比は三月の始めなり けるに、
如何にせん都の春もをしけれど、馴しあづまの花や散らん。
と仕て、暇を給て下りて候ひし、海道一の名人にて候へ。」とぞ申ける。
都を出て日數歴れば、彌生も半過ぎ、春も既に暮なんとす。遠山の花は殘の雪かと見えて、浦々島々かすみ渡 り、こし方行末の事共思續け給ふに、「されば是は如何なる宿業のうたてさぞ。」と宣ひて、唯盡せぬものは涙也。御子の一人もおはせぬ事を、母の二位殿も歎 き、北の方大納言佐殿も本意なき事にして、萬の神佛に祈申されけれども、其驗なし。「賢うぞ無りけ る。子だに有ましかば、如何に心苦しかるらん。」と宣ひけるこそ責ての事なれ。佐夜中山にかかり給ふにも、又越べ しとも覺えねば、いとゞ哀れの數添て、袂ぞいたく濕まさる。宇都の山邊の蔦の道、心細くも打越えて、手越を過て行けば、北に遠去て、雪白き山あり。問へば 甲斐の白根といふ。其時三位中將、落る涙を押てかうぞ思ひ續け給ふ。
惜からぬ命なれども今日までに、強顏かひの白根をも見つ。
清見が關打過ぎて、富士のすそ野に成ぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も茫々たり。戀せばやせぬべ し、こひせずとも有けりと、明神の歌はしめ給ひける足柄の山をも打越て、こゆるぎの森、鞠子河、小磯、大磯の浦、やつまと、砥上が原、御輿が崎をも打過 て、急がぬ旅と思へども、日數やう/\重なれば、鎌倉へこそ入給へ。
千手前
兵衞佐急ぎ見參して申されけるは、「抑君の御憤を息め奉り、父の恥を雪めんと思ひたちし上は、平家を滅さん事は案の内に候へども、正しく見參に入る べしとは存ぜず候き。此のぢやうでは、八島の大臣殿の見參にも入ぬと覺え候。抑も南都を滅し給ける事は、故太政入道殿の仰にて候しか。又時に取て御計にて 候けるか。以外の罪業にこそ候なれ。」と申されければ、三位中將宣ひけるは、「先づ南都炎上の事、故入道の成敗にも非ず、重衡が愚意の發起に もあらず。衆徒の惡行をしづめんが爲に罷向て候し程に、不慮に伽藍滅亡に及候し事、力及ばぬ次第也。昔は源平左右にあらそ ひて、朝家の御かためなりしかども、近比源氏の運傾きたりし事は事新しう初めて申べきにあらず。當家は保元平治より以來度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、 辱く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘人、廿餘年の以來は樂み榮え申ばかりなし。今又運盡ぬれば、重衡捕らはれて是まで下候ぬ。それについて帝王 の御敵を討たる者は、七代まで朝恩つきせずと申事は、究たる僻事にて候けり。目のあたり故入道殿は、君の御爲に既に命を失はんとする事度々に及ぶ。されど も僅に其身一代の幸にて、子孫か樣に罷成るべしや。されば運盡きて都を出し後は、尸を山野にさらし、名を西海の波に流すべしとこそ存ぜしが、是迄下べしと は、かけても思はざりき。唯先世の宿業こそ口惜候へ。但殷湯は夏臺にとらはれ文王は いう里にとらはると云ふ文あり。上古猶かくの如し。況や末代においてをや。弓 矢をとる習ひ敵の手にかゝて命を失ふ事、またく恥にて恥ならず。唯芳恩には、疾々かうべをはねらるべし。」とて、其後は物も宣はず。景時是を承て、「あは れ大將軍や。」とて涙を流す。其座に並居たる人々皆袖をぞぬらしける。兵衞佐も、「平家を別して私の敵と思ひ奉る事努々候はず。唯帝王の仰こそ重う候 へ。」とぞのたまひける。「南都を亡たる大伽藍の敵なれば、大衆定て申旨在らんずらん。」とて、伊豆國の住人狩野介宗茂に預けらる。其體、冥土にて娑婆世 界の罪人を、七日々々に十王の手へ渡さるらんも、かくやと覺て哀也。
されども狩野介、情なる者にて、痛く緊しうも當り奉らず、やう/\に痛り湯殿しつらひなどして、御湯引せ奉る。道 すがらの汗いぶせかりつれば、身を清めて失はんずるにこそと思はれけるに、齡二十計なる女房の、色白う清げにて、誠に優に美しきが、目結の帷に、染附の湯 卷して、湯殿の戸を推開て參りたり。又暫有て十四五許なる女の童の小村濃の帷きて髮は袙長なるが、楾盥に櫛入て持て參りたる。此女房介錯にて、良久湯あみ 髮洗などしてあがり給ひぬ。さて彼女房暇申て歸りけるが、「男などはこちなうもぞ思召す。中々女は苦からじとて、參せられて候ふ。『何事でも思召さん御事 をば、承はて申せ。』とこそ兵衞佐殿は仰られ候つれ。」中將、「今は是程の身になて、何事をか申候べき。唯思ふ事とては、出家ぞしたき。」と宣ひければ、 歸參て、此由を申す。兵衞佐「其れ思ひも寄らず。頼朝が私の敵ならばこそ。朝敵として預り奉たる人也。努々有るべうもなし。」とぞ宣ひける。三位中將守護 の武士に宣ひけるは、「さても唯今の女房は優なりつる者哉。名をば何といふやらん。」と問はれければ、「あれは手越の長者が娘で候を、眉目形、心樣優にわ りなき者で候とて、此二三年召仕はれ候が、名をば千手前と申候。」とぞ申ける。
其夕雨少降て、萬物蕭しかりけるに、件の女房琵琶琴もたせて參たり。狩野介酒をすゝめて奉る。我身も家子郎 等十餘人引具して參り、御前近う候けり。千手前酌をとる。中將少しうけて、最興なげにておはしけるを、狩野介申けるは、「且聞思されてもや候らん。鎌倉殿 の『相構て能々慰參せよ。懈怠して頼朝恨むな。』と仰られ候 [1]宗茂は、伊豆國の者にて候間、鎌倉 では旅にて候へども、心の及ばん程は奉公仕候べし。何事でも申てすゝめ參させ給ヘ。」と申ければ、千手酌を差置て、「羅綺 の重衣たる情ない事を機婦にねたむ。」と云ふ朗詠を一兩返したりければ、三位中將宣ひけるは、「此朗詠せん人をば、北野天神一日に三度翔て守らんと誓はせ 給ふ也。されども重衡は此世では捨られ奉ぬ。助音しても何かせん。罪障輕みぬべき事ならば、隨べし。」とぞ宣ひければ、千手前軈て「十惡と云へ共引攝 す。」と云ふ朗詠をして、「極樂願はん人は、皆彌陀の名號唱べし。」と云今樣を四五返うたひすましたりければ、其時盃を傾けらる。千手前給はて狩野介にさ す。宗茂がのむ時に、琴をぞ引すましたりける。三位中將宣けるは「此樂をば普通には五常樂といへども、重衡が爲には、後生樂とこそ觀ずべけれ。やがて往生 の急を引むと戯れて琵琶を取り、てんじゆをねぢて、皇 じやう急をぞ引れける。夜やう/\深て、萬づ心のすむ儘に、「あら思はずや、 吾妻にも是程優なる人の有けるよ。何事にても今一聲。」と宣へば千手前又、「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆是前世の契。」と云ふ白拍子を、誠に 面白くかぞへすましたりければ、中將も、「燈暗しては數行虞氏の涙。」と云ふ朗詠をぞせられける。譬へば此朗詠の心は、昔唐土に、漢高祖と楚項羽と位を爭 ひて、合戰する事七十二度、戰毎に項羽勝にけり。されども終には、項羽戰負て亡ける時、騅と云ふ馬の一日に千里を飛に乘て、虞氏と云ふ后と共に逃さらんと しけるに、馬如何思ひけん、足をとゝのへて動かず。項羽涙を流いて、「我が威勢既に廢れたり。今は逃るべき方なし。敵の襲ふは事の數ならず、此后に別なん 事のかなしさよ。」とて終夜歎き悲み給ひけり。 燈暗成ければ心細うて虞氏涙を流す。夜深くる儘に、軍兵四面に閧を作る。此心を橘相公の賦に作るを、三位中將思ひ出されたりしにや、最優うぞ聞えける。
さる程に夜も明ければ、武士ども暇申て罷出づ。千手前も歸にけり。其朝兵衞佐殿折節、持佛堂に法華經讀でおはしける處へ、千手前參りたり。兵衞佐殿 うちゑみ給ひて、「千手に中人をば面白もしたるもの哉。」と宣へば、齋院次官親義、折節御前に物かいて候けるが、「何事で候けるやらん。」と申。「あの平 家の人々は甲冑弓箭の外は他事なしとこそ日比は思ひたれば、此三位中將の琵琶の撥音、口ずさみ、終夜立聞て候に、優にわりなき人にておはしけり。」親義申 けるは、「誰も夜部承はるべう候しが、折節痛はる事候て、承らず候。このゝちは常に立聞候べし。平家は本より代々の歌人才人達で候也。先年此人々を花に譬 へ候しに、此三位中將殿をば、牡丹の花に譬て候しぞかし。」と申されければ、「誠に優なる人にてありけり。」とて「琵琶の撥音朗詠のやう、後までも有難き 事ぞ。」と宣ひける。千手前は中々に物思ひの種とや成にけん。されば中將南都へ渡されて斬れ給ひぬ、と聞えしかば、やがて樣をかへ、濃墨染にやつれ果て、 信濃國善光寺に行すまして、彼後世菩提を弔ひ、我身も往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。at this point.
横笛
さる程に、小松三位中將維盛卿は、身がらは八島にありながら、心は都へ通れけり。故郷に 留置給し北方少き人々の面影のみ、身に立そひて、忘るゝ隙も無りければ、「有にかひなき我身かな。」とて、壽永三年三月十 五日の曉、忍びつゝ八島の館を紛れ出で、與三兵衞重景、石童丸と云ふ童、船に心得たればとて武里と申舍人、是等三人を召具して、阿波國結城の浦より小舟に 乘り、鳴門の浦を漕通り、紀伊路へおもむき給けり。和歌、吹上、衣通姫の神と顯はれ給へる玉津島の明神、日前國懸の御前を過て、紀伊の湊にこそ著給へ。是 より山傳ひに都へ上て、戀しき人々を、今一度見もし見えばやとは思へ共、「本三位中將の生捕にせられて大路を渡され、京鎌倉恥をさらすだに口惜きに、此身 さへ囚れて、父の尸に血をあやさん事も心うし。」とて、千度心は進め共、心に心をからかひて、高野の御山に參られけり。
高野は年比知給へる聖在り。三條の齋藤左衞門茂頼が子に、齋藤瀧口時頼と云ひし者也。本は小松殿の侍なり。 十三の年本所へ參りたりけるが、建禮門院の雜仕横笛と云ふ女あり。瀧口是を最愛す。父是を傳聞いて、「世に有ん者の婿子になして出仕なんどをも、心安うせ させんとすれば、世になき者を思ひ初めて。」と強に諫めければ、瀧口申けるは、「西王母と聞えし人、昔は有て今は無し。東方朔と云し者も、名をのみ聞て目 には見ず。老少不定の世の中、石火の光に異ならず、縱人長命といへども、七十八十をば過ず、其中に身の榮んなる事は、僅に廿餘年也。夢幻の世の中に、醜き ものを、片時も見て何かせん。思はしき者を見んとすれば、父の命を背くに似たり。是善知識也。しかじ、浮世を厭ひ、實の道に入なん。」とて、十九の年髻切 て、嵯峨の往生院に行なひすましてぞ居たりける。横笛是を傳聞いて、「我をこ そ捨め、樣をさへ替けん事の恨めしさよ。縱ひ世をば背くとも、などかかくと知せざらむ。人こそ心つよくとも尋ねて 恨みむ。」と思ひつゝ、或暮方に都を出で、嵯峨の方へぞあくがれ行く。比はきさらぎ十日餘の事なれば、梅津の里の春風に、餘所の匂もなつかしく、大井河の 月影も、霞にこめて朧也。一方ならぬ哀さも、誰故とこそ思ひけめ。往生院とは聞たれども、さだかに何れの坊ともしらざれば、こゝにやすらひ、かしこにたゝ ずみ、 [2]尋ねぬるぞ無慚なる。 住荒したる僧房に念誦の聲しけり。瀧口入道が聲と聞なして、「わらはこそ是まで尋ね參りたれ。樣の替りておはすらんをも今一度見奉らばや。」と具したりけ る女を以て言せければ、瀧口入道、胸打噪ぎ、障子の隙より覗いて見れば、誠に尋かねたる氣色痛敷う覺えて如何なる道心者も、心弱くなりぬべし。やがて人を 出して、「全く是にさる人なし。門違でぞあるらむ。」とて終に逢でぞかへしける。横笛情なう恨めしけれども、力なく、涙を押へて歸けり。瀧口入道、同宿の 僧に逢て申けるは、「是も世に靜にて、念佛の障碍は候はねども、飽で別し女に、此住ひを見えて候へば、譬ひ一度は心強共、又も慕ふ事あらば、心も動き候べ し。暇申て。」とて嵯峨をば出て高野へ上り、清淨心院にぞ居たりける。横笛も樣を替たる由聞えしかば、瀧口入道一首の歌を送けり。
そるまではうらみしかども梓弓、眞の道にいるぞうれしき。
横笛返ごとに
そるとてもなにか恨みん梓弓、ひきとゞむべき心ならねば。
横笛は、其思ひの積にや奈良の法華寺に有けるが、幾程もなくて、遂にはかなく成にけり。瀧口入道か樣の事を傳へ聞、彌深う行澄して居たりければ、父も不孝を許けり。親しき者ども皆用て、高野の聖とぞ申ける。
三位中將是に尋あひて見給へば、都に候し時は、布衣に立烏帽子、衣文を引繕ひ、鬢を撫で、花やかなりし男士也。出家の後は、今日初て見給ふに、未だ 三十にもならぬが、老僧姿に痩衰へ、濃墨染に同じ袈裟、思入れたる道心者、羨敷や思はれけん。晉の七賢、漢の四晧が栖けん商山竹林の有樣も、是には過じと ぞ見えし。