[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 遲々にも及ばず.

[2] NKBT reads 玄房.

[3] NKBT reads 玄房.

[4] NKBT reads 玄房.

[5] Our copy-text reads 大 噪いで. The character に was added to our text from the standard text in NKBT.

[6] NKBT reads 貞能は.

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平家物語卷第八

山門御幸

壽永二年七月廿四日夜半許、法皇は按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時ばかり御伴にて、竊かに御所を出させ給ひ、鞍馬へ御 幸なる。鞍馬寺僧ども、「是は猶都近くて惡う候なん」と申間篠の峯藥王坂など云ふ嶮き嶮難を凌がせ給て、横川の解脱谷寂場坊御所になる。大衆起て、「東塔 へこそ御幸在べけれ。」と申ければ、東塔の南谷圓融房御所になる。かゝりしかば、衆徒も武士も、圓融房を守護し奉る。法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は 鳳闕を去て西海へ、攝政殿は芳野の奧とかや。女院宮々は、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊りに附て、迯隱させ給へり。平家は落ぬれど、源氏は未 だ入替らず。既に此京は主なき里にぞ成にける。開闢より以來、かゝる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の未來記にも、今日の事こそ床しけれ。

法皇天台山に渡せ給と聞えさせ給しかば、馳參らせ給ふ人々、其比の入道殿と申は、前關白松殿、當殿とは近衞殿、太政大臣、左右大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位、四位、五位の殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、 一人も漏るは無りけり。圓融房には、餘りに參りつどひて、堂上堂下門外門内、隙はさまなく充々たる。山門繁昌門跡の面目とこそ見えたりけれ。

同廿八日に法皇都へ還御なる。木曾五萬餘騎にて守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗差て先陣に供奉す。此二十餘年見えざりつる白旗の、今日始めて都へ入る、珍しかりし事共なり。

去程に十郎藏人行家、宇治橋を渡て都へ入る。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛す。攝津國河内の源氏共雲霞の如くに同く都へ亂 入る。凡京中には源氏の勢充々たり。勘解由小路中納言經房卿、檢非違使別當左衞門督實家院の殿上の簀子に候て、義仲行家を召す。木曾は赤地の錦の直垂に、 唐綾威の鎧著て、いか物作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐にかけて候。十郎藏人は、紺地の錦の直垂に、緋威の鎧著て、金造 りの太刀を帶き、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、是も甲をば脱ぎ高紐にかけ、ひざまついて候ひけり。前内大臣宗盛公以下、平家の一族追討すべき由仰 下さる。兩人庭上に畏て承る。各宿所のなき由を申す。木曾は大膳太夫成忠が宿所、六條西洞院を給はる。十郎藏人は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所をぞ給は りける。法皇は主上外戚の平家に取らはれさせ給て、西海の浪の上に漂はせ給ふ事を、御歎き有て、主上竝に三種の神器、都へ返入れ奉るべき由、西國へ院宣を 下されたりけれども、平家用ゐ奉らず。

高倉院の皇子は、主上の外三所おはしき。二宮をば、儲の君にし奉らんとて、平家いざな ひ參らせて、西國へ落給ぬ。三四は都にまし/\けり。同八月五日、法皇此宮達を迎へ寄せ參らせ給て、先三の宮の五 歳に成せ給ふを、「是へ/\」と仰ければ、法皇を見參させ給ひて大にむつがらせ給ふ間、「とう/\」とて出し參させ給ひぬ。其後四の宮の四歳に成せ給ふ を、「是へ」と仰せければ少も憚らせ給はず、やがて法皇の御膝の上に參せ給ひて、世にも懷氣にぞ坐しける。法皇御涙をはら/\と流させ給ひて、「げにもす ぞろならむ者は、か樣の老法師を見て何とてか懷氣には思ふべき。是ぞ我實の御孫にてぞまし/\ける。故院の少生に少も違せ給はぬ者哉。かゝる忘れ形見を、 今迄見ざりける事よ。」とて、御涙塞あへさせ給はず。淨土寺の二位殿、其時は未丹後殿とて御前に候はせ給ふが、「さて御讓は此宮にてこそ渡らせおはしまし 候はめ。」と申させ給へば、法皇「仔細にや。」とぞ仰ける。内々御占のありしにも、「四宮位に即せ給ひてば、百王迄も日本國の御主たるべし。」とぞ勘へ申 ける。

御母儀は七條修理大夫信隆卿の御娘なり。建禮門院の未だ中宮にてまし/\ける時其御方に宮仕給ひしを、主上 常は召れける程に、うち續き宮あまた出來させ給へり。信隆卿、御娘餘たおはしければ、如何にもして女御后にもなしたてまつらばやとねがはれけるに、人の家 に白い鷄を千飼つれば、其家に必ず后出來たると云ふ事有りとて、鷄の白いを千そろへて飼はれたりける故にや、此御娘皇子數多生參せ給へり。信隆卿内々うれ しうは思はれけれども、平家にも憚り、中宮にも恐れ參せて、もてなし奉る事もおはせざりしを、入道相國の北方八條の二位殿、「苦しかるまじ、我育て參せ て、儲の君にして奉らむ。」とて、御乳母共あ また附て、そだて參せ給ひけり。

中にも四宮は、二位殿の兄法勝寺執行能圓法師の養君にてぞ坐ける。法印平家に具せられて、西國へ落し時、餘りに遽噪いで、北方をも宮をも京都に棄置 參せて下られたりしが、西國より急ぎ人を上せて、「女房宮具し參せて、よく/\くだり給べし。」と申されたりければ、北方斜ならず悦び、宮いざなひ參せ て、西の七條なる處まで出られたりしを、女房の兄紀伊守教光、「是は物の附て狂給ふか。此宮の御運は唯今開かせ給はんずる者を。」とて、取留參せたりける 次の日ぞ、法皇より御迎の車參りたりける。何事も然べき事と申ながら四宮の御爲には、紀伊守教光は奉公の人とぞ見えたりける。されども四宮位に即せ給ひて 後、其情をも思召し出でさせ給はず、朝恩もなくして年月を送けるが、せめて思ひの餘りにや二首の歌を詠うで、禁中に落書をぞしたりける。

一聲は思ひ出てなけほとゝぎす、老蘇の森の夜半の昔を。

籠の内も猶羨まし山がらの、身のほどかくす夕顏の宿。

主上是を叡覽あて「あな無慚や、されば未だ世に長らへてありけるな。今日まで是を思召寄らざりけるこそ愚なれ。」とて、朝恩蒙り、正三位に敍せられけるとぞ聞えし。

 

 

名虎

同八月十日、院の殿上にて除目行はる。木曾は左馬頭に成て、越後國を給はる。其上朝日の 將軍と云ふ院宣を下されけり。十郎藏人は備後守に成る。木曾は越後をきらへば伊豫をたぶ。十郎藏人備後を嫌へば備前を給ぶ。其外源氏十餘人、受領、檢非違使、靱負尉、兵衞尉に成れけり。

同十六日、平家の一門百六十餘人が官職を停て、殿上の御札を削らる。其中に、平大納言時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實、是三人は削られず。其は主上幵に三種の神器都へ返入れ奉るべき由、彼時忠卿の許へ度々院宣を下されけるに依て也。

同八月十七日、平家は筑前國御笠郡太宰府にこそ著給へ。菊池二郎高直は、都より平家の御供に候けるが、大津山の關開けて參らせんとて、肥後國へ打越 えて、己が城に引籠り、召せ共/\參らず。當時は岩戸の諸卿大藏種直計ぞ候ける。九州二島の兵どもやがて參るべき由領状を申ながら參らず。平家安樂寺へ參 て、歌詠み連歌して、宮仕し給ひしに、本三位中將重衡卿、

住なれし故き都の戀しさは、神も昔に思ひしるらん。

人々是を聞て、皆涙を流されけり。

同廿日、都には法皇の宣命にて、四宮閑院殿にて位に即せ給ふ。攝政は本の攝政近衞殿、替らせ給はず、頭や藏人成置きて、人々皆退出せられけり。三の 宮の御乳母泣悲み後悔すれども甲斐ぞなき。天に二の日なし、國に二人の王なしとは申せども、平家の惡行に依てこそ、京田舎に二人の王は坐けれ。

昔文徳天皇は天安二年八月二十三日に隱れさせ給ひぬ。御子の宮達あまた位に望を懸て坐ますは内々御祈とも有けり。 一の御子惟高親王をば、小原皇子とも申き。王者の才量を御心に懸け、四海の安危は掌の中に照し、百王の理亂は心の中にかけ給へり。されば賢聖の名をも取せ 坐ぬべき君なりと見え給へり。二宮惟仁親王は、其比の執柄忠仁公の御娘、染殿の后の御腹也。一門公卿列して持成奉り給ひしかば、是も差置き難き御事なり。 彼は守文繼體の器量有り。是は萬機輔佐の臣相有り。彼も是も痛はしくて、何れも思召煩れき。一宮惟高親王の御祈は、柿本紀僧正信濟とて、東寺の一の長者、 弘法大師の御弟子也。二宮惟仁親王の御祈には、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の惠亮和尚ぞ承はられける。互に劣らぬ高僧達也。とみに事行難うや有んずらんと 人々ささやきあへり。御門隱させ給しかば、公卿僉議有り。「抑臣等が、慮を以て、選んで位に即奉ん事、用捨私有に似たり、萬人唇を反べし。しらず、競馬相撲の節を遂げて其運を知り、雌雄に依て、寶祚を授け奉るべし。」と議定畢ぬ。

同九月二日二人の宮達右近馬場へ行啓有り。爰に王公卿相、花の袂を粧ひ、玉の轡を竝べ、雲の如に重なり、星 の如くに列り給ひしかば、此事希代の勝事、天下の壯なるみもの、日來心を寄奉りし月卿雲客、兩方に引分て、手を握り心を碎き給へり。御祈の高僧達、何れか 疎略あらむや。信濟は東寺に壇を立て、惠亮は大内の眞言院に壇を立て行なはれけるに、惠亮は失たりと云ふ披露をなさば信濟僧正たゆむ心もやあるらんとて、 惠亮和尚失たりといふ披露を成し、肝膽を碎いて祈れけり。既に十番の競馬始る。始め四番は一の宮惟高親王勝せ給 ふ。後六番は二の宮惟仁親王勝せ給ふ。やがて相撲の節有るべしとて、惟高の御方より、名虎右兵衞督とて、六十人が 力現したるゆゝしき人をぞ出されたる。惟仁親王家よりは、能雄少將とて、背小うたへにして、片手に合べしとも見えぬ人、御夢想の御告有とて、申請けてぞい でられたる。名虎、能雄寄合うて、ひし/\とつま取して退にけり。暫し有て名虎、能雄少將を取てさゝげて、二丈許ぞ投たりける。たゞなほて倒れず。能雄又 つと寄り、えい聲を上て名虎を取て伏むとす。名虎もともに聲をいだして能雄をとてふせむとす。何れ劣れりとも見えず。されども、名虎大の男、かさに廻る。 能雄は危なう見えければ、二宮惟仁親王家の御母儀染殿后より、御使櫛の齒の如く、走り重て、「御方すでに劣色に見ゆ。如何せむ。」と [1]仰けれは、 惠亮和尚、大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂事にこそ。」とて、獨鈷を以て腦を撞碎き、乳に和して護摩に燒き、黒烟を立て、一揉揉まれたりければ、 能雄相撲に勝にけり。親王位に即せ給ふ。清和御門是なり。後には水尾天皇とぞ申ける。其よりしてこそ山門には聊の事にも、惠亮腦を碎けば、二帝位に即き給 ひ、尊位智劍を振しかば、菅相納受し給ふとも傳たれ。是のみや法力にても有けん。其外は皆天照大神の御はからひとぞ承はる。平家は西國にて是を傳聞きぬ。 「安からぬ。三宮をも四宮をも取參せて落下べかりしものを。」と後悔せられければ、平大納言時忠卿、「さらむには木曾が主にしたてまつたる高倉宮の御子 を、御乳母讃岐守重秀が、御出家せさせ奉り、具し參せて北國へ落下りしこそ、位には即け給はんずらめ」と宣へば、又或人々の申されけるは、「それは出家の 宮をばいかゞ、位に即奉 るべき。」時忠「さもさうず、還俗の國王の樣、異國にも先蹤有らん、我朝には先天武天皇未だ東宮の御時、大伴皇子に憚から せ給て、鬢髮を剃り、芳野の奧に忍ばせ給せたりしかども、大伴皇子を亡して、終には位に即せ給ひき。又孝謙天皇も、大菩提心を發し、御飾をおろさせ給ひ、 御名をば法基尼と申しかども、再位に即て、稱徳天皇と申しぞかし。まして木曾が主にし奉りたる還俗の宮、仔細在まじ。」とぞ宣ひける。

同九月二日の日、法皇より伊勢へ公卿の勅使を立らる。勅使は參議長教とぞ聞えし。太上天皇の伊勢へ公卿の勅使を立らるゝ事は、朱雀、白河、鳥羽三代の蹤跡ありといへども、是皆御出家以前なり。御出家以後の例はこれ始めとぞ承る。

 

 

緒環

去程に筑紫には、内裏造るべき由沙汰ありしかども、未だ都も定められず。主上は岩戸諸卿大藏種直が宿所に渡らせ給ふ。人々の家々は、野中田中なりけ れば、麻の衣は擣ねども、十市里とも謂つべし。内裏は山の中なれば、彼木の丸殿も角やと覺えて、中中優なる方も有けり。先宇佐宮へ行幸なる。大宮司公道が 宿所皇居になる。社頭は月卿雲客の居所に成る。廊には五位六位の官人庭上には四國鎭西の兵ども、甲冑弓箭を帶して、雲霞の如く竝居たり。舊にし丹の玉垣、 再飾るとぞ見えし。七日參籠の明方に、大臣殿の御爲に、夢想の告ぞ有ける。御寶殿の御戸推開き、ゆゆしう氣高げなる御聲にて、

世の中のうさには神もなき物を、何いのるらん心づくしに。

大臣殿打驚き、胸打噪ぎ、

さりともと思ふ心も蟲の音も、よわりはてぬる秋のくれかな。

と云ふ古歌をぞ心細げに口ずさみ給ける。

さる程に九月十日餘りに成にけり。荻の葉むけの夕嵐、獨丸寢の床の上、片布く袖もしをれつつ、深行く秋の哀さは、何くもとは云ながら、旅の空こそ忍 難けれ。九月十三夜は、名を得たる月なれども、其夜は都を思出る涙に、我から曇てさやかならず。九重の雲の上、久堅の月に思を述し夕も、今の樣に覺て、薩 摩守忠度、

月を見し去年の今宵の友のみや、都に我を思出らん。

修理大夫經盛

戀しとよこぞのこよひの夜もすがら、契りし人の思出られて。

皇后宮亮經正

分て來し野邊の露とも消えずして、思はぬ里の月を見る哉。

豐後國は刑部卿三位頼資卿の國也けり。子息頼經朝臣を代官に置かれたり。京より頼經の許へ、平家は神明にも 放たれ奉り、君にも捨られ參せて、帝都を出で、浪の上に漂ふ落人となれり。然を鎭西の者共が請取て、もてなすこそ奇怪なれ。當國に於ては從ふべからず。一 味同心して、追出すべき由、宣ひ遣されたりければ、頼經朝臣是を當國の住人緒方三郎維義に 下知す。

彼維義は、怖き者の末なりけり。。譬へば豐後國の片山里に昔女有りけり。或人の一人娘、夫も無りけるが許へ 母にも知せず、男夜な夜な通ふ程に、年月も重なる程に、身も只ならず成ぬ。母是を怪しむで、「汝が許へ通ふ者は、何者ぞ。」と問へば、「來るをば見れど も、歸るをば知らず。」とぞいひける。「さらば男の歸らん時、驗しを附て行む方を繋いで見よ。」とぞ教へければ、娘母の教に從て、朝歸りする男の水色の狩 衣を著たりけるに狩衣のくびがみに、針を刺し、賤の小手卷といふ物を著て、歴て行方を繋いで行けば、豐後國に取ても、日向境、姥嶽と云ふ嵩のすそ、大きな る岩屋の中へぞ繋ぎ入たる。女岩屋の口にたゝずんで聞けば、大きなる聲してぞによびける。「わらはこそ是まで尋參たれ、見參せむ。」と云ければ、我は是人 の姿にはあらず、汝我姿を見ては、肝魂も身に副まじき也。とう/\歸れ。汝が孕める子は、男子なるべし。弓矢打物取て、九州二島にならぶ者も有まじき ぞ。」といひける。女重て申けるは、「縱如何なる姿にても有れ、日ごろの好などか忘るべき、互に姿をも見もし見えむ。」といはれて、「さらば。」とて、岩 屋の中より臥長は五六尺、跡枕べは十四五丈も有らんと覺る大蛇にて、動搖してこそ這出たれ。狩衣のくびがみに刺すと思つる針は、即大蛇の のどぶえにこそ差いたりけれ。女是を見て肝魂も身にそはず、引具したる所從十餘人倒れふためき喚叫んで逃去ぬ。女歸て、程なく産をしたりければ、男子にてぞ有ける。母方の祖父大太夫生立て見むとて生立たれば、未十歳にも滿ざるに、背大に顏長く長高かりけり。七歳にて元服せさせ、 母方の祖父を、大太夫といふ間、是をば大太とこそ附たりけれ。夏も冬も、手足に大きなる胝隙なくわれければ、胝大 太とこそいはれけれ。件の大蛇は日向國に崇められ給へる高知尾の明神の神體是也。此緒方の三郎はあかがり大太には五代の孫也。かゝる怖ろしき者の末なりけ れば國司の仰せを院宣と號して九州二島に囘し文をしければ然るべき兵共維義に隨ひ付く。

 

 

太宰府落

平家いまは筑紫に都を定め、内裏造るべきよし沙汰ありしに維義が謀反と聞えしかば、こは如何と噪がれけり。平大納言時忠卿申されけるは、「彼維義 は、小松殿の御家人也。小松殿の君達一所向はせ給ひて、こしらへて御覽ぜらるべうや候らん。」と申されければ、誠にもとて、小松の新三位中將資盛卿五百餘 騎で豐後國に打越えて樣々にこしらへ給へども、維義從奉らず。剩へ「君達をも、只今爰で取籠參すべう候へども、大事の中の小事なれとて、取籠參らせずは、 何程の事か渡せ給ふべき。とう/\太宰府へ歸らせ給ひて、只御一所で如何にも成せ給へ。」とて、追返し奉る。維義が次男、野尻次郎維村を使者で、太宰府へ 申けるは、「平家は重恩の君にてましませば、甲を脱ぎ弦を弛いて參るべう候へども、一院の御定に速に九國内を逐出し參らせよと候。急ぎ出させ給ふべうや候 らん。」と申送たりければ、平大納言時忠卿、緋緒括の袴、絲葛の直垂、立烏帽子で、維村に出向て宣けるは、「夫我君は、天 孫四十九世の正統、人王八十一代の御門也。天照大神正八幡宮も、吾君をこそ守り參させ給らめ。就中に故太政大臣入道殿は保 元平治兩度の逆亂を靜め、其上鎭西の者どもをばうち樣にこそ召されしか。東國北國の凶徒等が頼朝義仲等に語らはれて、爲おほせたらば國を預けう、庄をたば んといふを、實と思ひて、其鼻豐後が下知に從はん事、然べからず。」とぞ宣ける。豐後國司刑部卿三位頼資卿は、究て鼻の大きにおはしければ、かうは宣け り。維村歸て、父に此由云ければ、「こは如何に、昔は昔今は今、其儀ならば、速に九國の中を逐出し奉れ。」とて、勢汰ふるなど聞えしかば、平家の侍源太夫 判官季定、攝津判官守澄、「向後傍輩のため奇怪に候。召取候はん。」とて、其勢三千餘騎で、筑後國、高野本庄に發向して、一日一夜攻戰ふ。されども維義が 勢、雲霞の如く重りければ、力及ばで引退く。

平家は緒方の三郎維義が三萬餘騎の勢にて、既に寄すと聞えしかば、取物も取あへず、太宰府をこそ落給へ。さ しも憑しかりつる天滿天神の注連の邊を心細も立離れ、駕輿丁も無れば、葱花鳳輦は唯名のみ聞きて、主上腰輿にぞ召れける。國母を始め奉て、止事なき女房 達、袴の裾を取り大臣殿以下の卿相雲客、指貫のそば挾み、水城の戸を出で、歩跣にて我さきに前にと、箱崎の津へこそ落給へ。折節降る雨車軸の如し、吹く風 砂をあぐとかや。落る涙降る雨、分きて何れも見えざりけり。住吉、箱崎、香椎、宗像、伏拜み、唯主上舊都の還幸とのみぞ祈られける。たるみ山、鶉濱などい ふ峨々たる嶮難を凌ぎ渺々たる平沙へぞ趣き給ふ。何つ習はしの御事なれば、御足より出づる血は砂を染め、紅の袴は色をまし、白袴はすそ紅 にぞなりにける。彼玄弉三藏の流沙葱嶺を凌れけん苦も、是には爭かまさるべき。されども其は求法の爲なれば、自他 の利益も有けん。是は怨敵の故なれば、後世の苦、且思ふこそ悲けれ。原田大夫種直は二千餘騎で平家の御ともにまゐる。山鹿兵藤次秀遠數千騎で平家の御むか ひにまゐりけるが、種直秀遠以外に不和になりければ、種直はあしかりなんとて道より引かへす。あし屋の津といふ處をすぎさせ給ふにもこれは我が都より福原 へ通し時、里の名なればとていづれの里よりもなつかしう今更あはれをぞもよほされける。新羅、百濟、高麗、契丹、雲の終海の終迄も、落行ばやとはおぼしけ れども波風向うて叶はねば、兵藤次秀遠に具せられて、山賀城にぞ籠り給ふ。山賀へも又敵寄すと聞えしかば、小舟共に召て、通夜豐前國、柳浦へぞ渡り給ふ。 爰に、内裏造るべき由沙汰有しかども、分限無かりければ造られず。又長門より源氏寄と聞えしかば、海士小舟に取乘て、海にぞ浮び給ひける。

小松殿の三男、左の中將清經は、本より何事も思入れける人なれば「都をば源氏が爲に攻落され、鎭西をば維義が爲に追出さる。網に懸れる魚の如し。何 くへ行かば遁べきかは。長らへ果べき身にもあらず。」とて、月の夜心を澄し舟の屋形に立出て、横笛音取朗詠して、遊ばれけるが、閑に經讀み念佛して、海に ぞ沈み給ひける。男女泣悲めども甲斐ぞなき。

長門國は新中納言知盛卿の國なりけり。目代は紀伊刑部大夫通資と云ふ者也。平家の、小船どもに乘り給へる由承て、大船百餘艘點じて奉る。平家是に乘移り、四國の地へぞ渡られける。重能が沙汰として、四國の内を催して讃岐の八島にかたの樣なる板屋の内裏や、御所をぞ造 せける。其程は怪の民屋を皇居とするに及ばねば、船を御所とぞ定めける。大臣殿以下の卿相雲客、海士の蓬屋に日を 送り、賤がふしどに夜を重ね、龍頭鷁首を海中に浮べ、浪の上の行宮は、靜なる時なし。月を浸せる潮の深き愁に沈み、霜を掩へる葦の葉の脆き命を危ぶむ。洲 崎に騒ぐ千鳥の聲は、曉の恨をまし、そはゐにかゝる かぢの音、夜半に心を傷しむ。遠松に白鷺のむれ居るを見ては、源氏の旗を擧る かと疑ひ、野雁の遼海に鳴を聞ては、兵共の終夜船を漕かと驚かる。晴嵐肌を侵し、翠黛紅顏の色漸々衰、蒼波眼穿て、外土望郷の涙押へがたし。翠帳紅閨にか はれるは、土生の小屋の葦簾、薫爐の煙に異る蘆火燒く屋の賤きに附ても、女房達盡せぬもの思ひに、紅の涙塞敢ず、緑の黛亂つゝ、其人とも見え給はず。

 

 

征夷將軍院宣

さる程に鎌倉前右兵衞佐頼朝、居ながら征夷將軍の院宣を蒙る。御使は左史生中原泰定とぞ聞えし。十月十四日關東へ下著す。兵衞佐宣ひけるは、「頼朝 年來勅勘を蒙たりしかども、今武勇の名譽長ぜるに依て、居ながら征夷將軍の院宣を蒙る。如何んが私で請取奉るべき。若宮の社にて、給はらん。」とて、若宮 へ參り向はれけり。八幡は鶴岡に立せ給へり。地形石清水に違ず、廻廊有り、樓門有り、作路十餘町見下たり。「抑院宣をば、誰してか請取り奉るべき。」とて 評定有り。三浦介義澄して請取奉るべし。其故は、八箇國に聞えたりし弓矢取、三浦平太郎爲嗣が末葉也。其上父大介は君の御爲に命を捨たる兵なれば、彼義明 が黄泉の冥闇 を照さんが爲とぞ聞えし。院宣の御使泰定は、家子二人郎等十人具したり。院宣をば文袋に入て雜色が頸にぞ懸させたりける。 三浦介義澄も家子二人郎等十人具したり。二人の家子は、和田三郎宗實、比企藤四郎能員なり。十人の郎等をば大名十人して、俄に一人づゝ仕立けり。三浦介が その日の裝束にはかちの直垂に、黒絲威の鎧著て、いか物造の大太刀はき、廿四差たる大中黒の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐にかけ、腰を曲めて 院宣を請取る。泰定「院宣を請取奉る人は如何なる人ぞ、名乘れや。」と云ければ、三浦介とは名乘らで、本名を三浦の荒次郎義澄とこそ名乘たれ。院宣をばら ん箱に入られたり。兵衞佐に奉る。稍有てらん箱をば返されけり。重かりければ、泰定是を明て見るに、砂金百兩入られたり。若宮の拜殿にして、泰定に酒を勸 らる。齋院次官親義陪膳す。五位一人役送を勤む。馬三匹引かる。一匹に鞍置たり。大宮の侍狩野工藤一臈資經是を引く。古き萱屋をしつらうて、いれられた り。厚綿の衣二兩、小袖十重長持に入て設たり、紺藍摺白布千端を積めり。杯盤豐にして美麗なり。

次の日兵衞佐の館へ向ふ。内外に侍あり、共に十六間也。外侍には家子郎等、肩を竝べ膝を組でなみ居たり。内 侍には一門の源氏上座して、末座には大名小名次居たり。源氏の座上に泰定を居らる。良有て寢殿へ向ふ。廣廂に紫縁の疊を敷いて、泰定を居らる。上には高麗 縁の疊を敷御簾高く揚させて、兵衞佐殿出られたり。布衣に立烏帽子也。顏大に背低かりけり。容貌優美にして言語分明也。まづ子細を一々のべ給ふ。「平家頼 朝が威勢に恐て、都を 落ぬ。其の跡に木曾冠者、十郎藏人打入て、我高名顏に、官加階を思ふ樣に成り、剩へ國を嫌ひ申す條奇怪也。奧の秀 衡が陸奧守になり、佐竹四郎隆義が常陸守に成て候とて頼朝が命に從はず。急ぎ追討すべき由の院宣を給はるべう候。」左史生申けるは、「今度泰定も名簿參ら すべう候が御使で候へば、先づ罷上てやがて認て參すべう候。弟で候ふ史の大夫重能も其儀を申候。」兵衞佐笑て、「當時頼朝が身として、各の名簿思もよら ず。さりながらげにも申されば、さこそ存ぜめ。」とぞ宣ひける。やがて今日上洛すべき由申す。今日ばかりは逗留あるべしとて留らる。

次の日兵衞佐の館へ向ふ。萌黄絲威の腹卷一兩、白う作たる太刀一振、滋籐の弓野矢副てたぶ。馬十三匹引る。三匹に鞍置たり。家子郎等十二人に、直 垂、小袖、大口、馬鞍に及び、荷懸駄三十匹有けり。鎌倉出の宿より鏡宿に至るまで、宿々十石づゝの米を置かる。澤山なるに依て、施行に引けるとぞ聞えし。

 

 

猫間

泰定都へ上り、院參して、御坪の内にして、關東の樣具に奏聞しければ、法皇も御感有けり、公卿殿上人も皆ゑつぼにいり給へり。兵衞佐はかうこそゆゝ しくおはしけるに、木曾左馬頭都の守護して在ける立居の振舞の無骨さ、もの云詞續の頑なる事限なし。理哉、二歳より信濃國木曾といふ山里に三十迄住馴たり しかば爭かよかるべき。或時猫間中納言光高卿とい ふ人。木曾に宣ひ合すべき事有て坐たりけり。郎等共「猫間殿の見參に入り申べき事ありとて入せ給ひて候。」と申ければ、木 曾大に笑て、「猫は人に見參するか。」「是は猫間中納言殿と申公卿で渡せ給ふ。御宿所の名と覺え候。」と申ければ、木曾「さらば」とて對面す。猶も猫間殿 とはえいはで、「猫殿のまれ/\わいたるに物よそへ。」とぞ宣ひける。中納言是を聞て「只今あるべうもなし。」と宣へば、「いかゞけときにわいたるに、さ てはあるべき。」何も新き物を無鹽といふと心得て「こゝに無鹽の平茸有り、とう/\。」と急がす。根井小彌太陪膳す。田舎合子の極て大にくぼかりけるに、 飯堆くよそひ、御菜三種して、平茸の汁で參せたり。木曾が前にも同じ體にて居たりけり。木曾箸取て食す。猫間殿は、合子のいぶせさに、召ざりければ、「其 は義仲が精進合子ぞ。」中納言召でもさすが、あしかるべければ、箸取て食由しけり。木曾是を見て、「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる猫おろしし給ひた り。かい給へ。」とぞ責たりける。中納言殿、か樣の事に興醒て宣ひ合すべき事も、一言も出さず、軈て急ぎ歸られけり。

木曾は、官加階したる者の、直垂で出仕せん事有べうもなかりけりとて、始て布衣とり、裝束烏帽子きはより指 貫のすそまで、誠に頑なり。され共車にこのみのんぬ。鎧取て著、矢掻負ひ、弓持て、馬に乘たるには似もにず惡かりけり。牛車は八島の大臣殿の牛車也。牛飼 もそれなりけり。世にしたがふ習ひなれば、とらはれてつかはれけれども、あまりのめざましさに、すゑ飼うたる牛の逸物なるが、門出る時、一標當たらうに、 なじかはよかるべき。 飛で出るに木曾車の内にて、あふのけに倒れぬ。蝶の羽を廣げたる樣に、左右の袖をひろげて、起む/\とすれども、 なじかは起きらるべき。木曾牛飼とはえ言で、「やれ小牛健兒、やれ小牛健兒。」といひければ、車をやれといふと心得て、五六町こそあがかせたれ。今井四郎 兼平鞭鐙を合て、追附て、「如何に御車をばかうは仕るぞ。」と呵りければ、「御牛の鼻が強う候。」とぞのべたりける。牛飼中直せんとや思ひけん、「其に候 手がたに取著せ給へ。」と申ければ、木曾手がたに無手と取著て、「あはれ支度や、是は牛健兒がはからひか、殿の樣か。」とぞ問うたりける。さて院御所に參 著き、車かけはづさせ、後より下んとしければ、京の者の雜色に使はれけるが、「車は、召され候時こそ後より召され候へ。下させ給ふには前よりこそ下させ給 へ。」と申けれども、「爭で車ならんからに、すどほりをばすべき。」とて、終に後より下てけり。其外をかしき事共多かりけれども、恐て是を申さず。

 

 

水島合戰

平家は讃岐の八島に有ながら、山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國をぞ討取ける。木曾左馬頭是を聞き、安からぬ事也とて、やがて討手を差遣 す。討手の大將には矢田判官代義清、侍大將には、信濃國の住人海野彌平四郎行廣、都合其勢七千餘騎山陽道へ馳下り、備中國水島が渡に舟を浮べて、八島へ既 に寄んとす。

同閏十月一日、水島が渡に小船一艘出來たり。海士船釣船かと見る程に、さはなくして、 平家方より牒の使船也。是を見て、源氏の舟五百餘艘ほしあげたるををめき叫んで下けり。平家は千餘艘でおし寄たり。平家の 方の大手の大將軍には新中納言知盛卿、搦手の大將軍には能登守教經也。能登殿宣ひけるは、「如何に者共、いくさをばゆるに仕るぞ。北國の奴原に生捕られん をば、心憂とは思はずや。御方の船をば組や。」とて、千餘艘が艫綱舳綱を組合せ、中にもやひを入れ、歩の板を引渡いたれば、船の上は平々たり。源平兩方鬨 を作り、矢合して、互に舟ども推合せて責戰ふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀で切り、熊手に懸て取もあり、取るゝもあり。引組て海に入もあり。刺違へて、 死ぬるもあり。思ひ/\心々に勝負をす。源氏の方の侍大將海野彌平四郎討れにけり。是を見て大將軍矢田判官代義清主從七人小舟に乘て、眞先に進で戰ふ程 に、如何したりけん、船踏沈て皆死ぬ。平家は鞍置馬を船の中に立られたりければ、船差寄せ馬共引下し、打乘/\をめいて懸ければ、源氏の勢大將軍は討れ ぬ。我先にとぞ落行ける。平家は水島の軍に勝てこそ、會稽の恥をば雪けれ。

 


瀬尾 さい

木曾左馬頭是をきゝ、安からぬ事也とて、一萬騎で山陽道へ馳下る。平家の侍備中國住人瀬尾太郎兼康は、北國 の戰ひに、加賀國の住人藏光次郎成澄が手にかゝて、生捕にせられたりしを、成澄が弟藏光三郎成氏に預けられたり。きこゆる剛の者大力なりければ、木曾殿あ たらをのこを失ふべきかとて切らず、人あひ心樣優に情ありければ、藏光も懇にもてなしけり。 蘇子卿が胡國に囚はれ、李少卿が漢朝へ歸らざりしが如し。遠く異國につける事は、昔の人の悲めりし處也と云へり。 韋鞴毳幕、以て風雨を禦ぎ、羶肉酪漿、以て飢渇に充つ。夜は寢事なく、晝は終日につかへ、木を伐草を刈ずと云ふ許に從ひつゝ、如何にもして敵を窺ひ討て、 今一度舊主を見奉らんと、思ひける兼康が、心の程こそ怖けれ。

或時瀬尾太郎藏光三郎に逢うて云ひけるは、「去ぬる五月よりかひなき命を助けられ參せて候へば、誰をたれと か思ひ參せ候べき。自今以後御軍候はゞ、ま先かけて木曾殿に命を參せん。兼康が知行仕り候し備中の瀬尾は、馬の草飼好い處で候。御邊申て給らせ給へ。」と いひければ、藏光この樣を申す。木曾殿「神妙の事を申すごさんなれ。さらば汝瀬尾を案内者にして先づ下れ。誠に馬の草なんどをも構へさせよ。」と宣へば、 藏光三郎畏り悦んで其勢三十騎ばかり、兼康を先として備中へぞ下ける。瀬尾が嫡子小太郎宗康は、平家の御方に候けるが、父が木曾殿より暇ゆるされて下ると 聞えしかば、年比の郎等共催し聚め、其勢五十騎許迎に上る程に、播磨の國府で行あうて下る。備前國三石の宿に留またりければ、瀬尾が親き者共、酒を持せて 出來たり。其終夜悦の酒盛しけるに、あづかりの武士、藏光三郎所從ともに三千餘人強伏て起しも立ず、一々に皆刺殺てけり。備前國は十郎藏人の國也。其代官 の國府に有けるをも、押寄て討てけり。「兼康こそ暇賜て罷下れ、平家に志思ひ參せん人々は、兼康を先として木曾殿の下り給に矢一つ射懸奉れ。」と披露しけ れば、備前、備中、備後三箇國の兵共馬物具然るべき所從をば、平家の御方へ参せて、息みける老者共、或はかきの直垂に つめ紐し、或は布の小袖に東折し、くさり腹卷綴り著て、山靱、高箙に矢共少々差し、掻負掻負瀬尾が許へ馳集る。都 合其勢二千餘人、瀬尾太郎を先とし、備前國福龍寺繩手の篠の迫を城郭に構へ、口二丈深さ二丈に堀を掘り、逆茂木引高矢倉あげ、かい楯かき、矢先を汰へて今 や/\と待かけたり。

備前の國に十郎藏人の置かれたりし代官、瀬尾に討たれて、其下人共が逃て京へ上る程に、播磨と備前の境船坂 といふ處にて、木曾殿に參りあふ。此由申ければ、木曾殿、「やすからぬ。斬て捨べかりつる物を。」と後悔せられければ、今井四郎申けるは、「さ候へばこ そ、きやつが面魂たゝ者とは見え候はず、千度斬うと申候つる者を、扶けさせ給て。」と申。「思ふに何程の事か在るべき。逐懸て討て。」とぞ宣ひける。今井 四郎「まづ下て見候はん。」とて、三千餘騎で、馳下る。福龍寺繩手は、はたばり弓杖一たけばかりにて、遠さは西國道一里也。左右は深田にて、馬の足も及ね ば、三千餘騎が心は先に進めども馬次第にぞ歩せける。兼平押寄せて見ければ、瀬尾太郎矢倉に立出で、大音聲を揚て、「去ぬる五月より今までかひなき命を助 けられて候各の御芳志は、是をこそ用意仕て候へ。」とて、究竟の強弓精兵數百人勝り聚め、矢先を汰へて指詰引詰散々に射る。面を向くべき樣もなし。今井四 郎を始として楯、禰井、宮崎三郎、諏訪、藤澤などいふはやりをの兵共、甲の錣を傾けて射殺さるゝ人馬を取入れ引入れ堀を埋め、をめき叫んで責戰ふ。或は左 右の深田に打入れて馬のくさわきむながいつくし、太腹などに立處を事ともせず、むらめかいて寄せ、或は谷ふけをも嫌はず、懸入々々一 日戰ひ暮しけり。夜に入りて瀬尾が催し集めたる驅武者共、皆責落されて助る者は少う討るる者ぞ多かりける。瀬尾太 郎篠の迫の城郭を破られて、引退き、備中國板倉河の端に、掻楯かいて待懸たり。今井四郎やがて押寄せ攻ければ、山靱竹箙に矢種の有程こそ防ぎけれ、皆射盡 してければ、我先にとぞ落行ける。瀬尾太郎たゞ主從三騎に打なされ、板倉河の端に著て、みとろ山の方へ落行く程に北國で、瀬尾生捕にしたりし藏光次郎成 澄、弟は討れぬ。「安からぬ事なり。瀬尾に於ては、又生捕に仕候はん。」とて、群に拔て追て行く。あはひ一町許に追附て、「如何に瀬尾殿、正なうも敵に後 をば見する者哉。返せや返せ。」といはれ、板倉河を西へ渡す、河中に引へて待かけたり。藏光、馳來て押竝べてむずと組で、どうと落つ。互に劣ぬ大力なれ ば、上になり、下になり、ころびあふ程に、河岸に淵の有けるに轉入て、藏光は無水練也、瀬尾は勝れたる水練なりければ水の底で藏光を取て押へ、鎧の草摺引 上、柄も拳も透れ/\と三刀刺いて頸をとる。我馬は乘損じたれば、敵藏光が馬に乘て落行ほどに、瀬尾が嫡子小太郎宗康馬にはのらず、歩行にて郎等つれて落 行程に、未だ、年は二十二三の男なれども、餘に太て、一町ともえ走ず。物具ぬきすてゝ歩めども叶はざりけり。父は是をうち捨て、十餘町こそ逃延たれ。郎等 に逢うていひけるは、「兼康日來は千萬の敵に向て軍するは、四方晴て覺るが、今度は小太郎を捨て行ばにや、一向先が暗うて見えぬぞ。縦兼康命生て、再平家 の御方へ参たりとも、同隷ども『兼康今は六十にあまりたる者の、幾程の命を惜うで、唯獨ある子を捨て落けるやらん。』と言はむ事こそ慚かしけれ。」郎等申 けるは、 「さ候へばこそ、御一所で如何にも成せ給へと申つるはこゝ候。かへさせ給へ。」と云ひければ、「さらば。」とて取 て回す。小太郎は、足かばかり腫て伏り。「汝が得逐付かねば、一處で討死せうとて歸たるは如何に。」と云へば、小太郎涙をはらはらと流いて、「此身こそ無 器量の者で候へば自害をも仕候べきに、我故御命をさへ失なひ參せん事、五逆罪にや候はんずらん。唯とう/\延させ給へ。」と申せども、「思ひ切たる上 は。」とて、息む處に、今井四郎ま先懸て其勢五十騎ばかりをめいて追懸たり。瀬尾太郎矢七つ八つ射殘したるを、差詰引詰散々に射る。死生は知らず矢庭に敵 五六騎射落す。其後打物拔て、先小太郎が首討落し、敵の中へ破て入り散々に戰ひ、敵あまた討取て、終に討死してけり。郎等も主にちとも劣ず戰ひけるが、大 事の手あまた負ひ戰ひ疲れて、自害せんとしけるが、生捕にこそせられけれ。中一日有て死にけり。是等主從三人が首をば、備中國鷺が森にぞ懸たりける。木曾 殿是を見給ひて「あはれ剛の者哉。是をこそ一人當千の兵とも云ふべけれ。あたら者共を扶けて見で。」とぞ宣ひける。

 

 

室山

さる程に木曾殿は備中國萬壽の庄にて勢汰へして、八島へ既に寄むとす。其間都の留守に置かれたる樋口次郎兼光、使者を立てて、「十郎藏人殿こそ殿のましまさぬ間に、院のきり人して、樣々に讒奏せられ候なれ。西國の軍をば暫指置せ給て、急ぎ上せ給へ。」と申ければ、 木曾「さらば」とて夜を日に繼で馳上る。十郎藏人あしかりなんとやおもひけむ。木曾にちがはむと丹波路に懸て播磨へ下る。木曾は攝津國を經て都へ入る。

平家は又木曾討むとて、大將軍には新中納言知盛卿、本三位中將重衡卿、侍大將には、越中次郎兵衞盛嗣、上總 五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、伊賀平内左衞門家長、都合其勢二萬餘騎千餘艘の舟に乘り播磨の地へ押渡りて、室山に陣をとる。十郎藏人、平家と軍して木曾と 中直せんとや思ひけむ。其勢五百餘騎で室山へこそ押寄せたれ。平家は陣を五つに張る。一陣越中次郎兵衞盛嗣二千餘騎、二陣、伊賀平内左衞門家長二千餘騎、 三陣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、三千餘騎、四陣、本三位中將重衡卿三千餘騎、五陣、新中納言知盛卿一萬餘騎でかためらる。十郎藏人行家五百餘騎で をめいて懸く。一陣越中次郎兵衞盛嗣、暫く會釋う樣に持成いて、中を颯と開けて通す。二陣伊賀平内左衞門家長、同じう明けて通しけり。三陣上總五郎兵衞、 惡七兵衞共に明けて通しけり。四陣本三位中將重衡卿是も明て入れられけり。一陣より五陣迄、兼て約束したりければ、敵を中に取籠て、一度に鬨をどとぞ作り ける。十郎藏人今は逃るべき方も無りければ、たばかられぬと思ひて、面も振ず、命も惜まず、爰を最後と攻戰ふ。平家の侍共、「源氏の大將に組めや。」とて 我先に進めども、さすが十郎藏人に押並べて組む武者一騎も無りけり。新中納言の宗と憑まれたりける紀七左衞門、紀八衞門、紀九郎など云ふ兵共、そこにて皆 十郎藏人に討取らる。かくして十郎藏人五百餘騎が、僅に三十騎許に討成され、四方は皆敵也、御方は無勢也。如何にして逃べしとは覺ねど、思 ひ切て、雲霞の如くなる敵の中を破て通る。されども、我身は手も負はず、家子郎等廿餘騎大略手負うて、播磨國高砂より船に乘り、おしいだいて和泉國吹飯の浦にぞ著にける。其より河内へ打越えて、長野城に引籠る。平家は室山、水島二箇度の軍に勝てこそ、彌勢は附にけれ。

 

 

皷判官

凡京中には源氏の勢滿々て、在々所々に入取多し。賀茂、八幡の御領とも言はず、青田を刈て馬草にす。人の倉を打開て物を取り、持て通る物を奪取り、 衣裳を剥取る。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、唯おほかた怖しかりし計也。衣裳をはぐ迄はなかりし者を、平家に源氏替へ劣りしたり。」とぞ人申 ける。木曾左馬頭の許へ法皇より御使在り。「狼藉靜めよ。」と仰せ下さる。御使は壹岐守知親が子に、壹岐判官知康と云ふ者也。天下に勝れたる鼓の上手で有 ければ、時の人鼓判官とぞ申ける。木曾對面して、先づ御返事をば申さで、「抑和殿を鼓判官と云ふは、萬の人に打たれたうか、はられたうか。」とぞ問うたり ける。知康返事に及ばず、院の御所に歸り參て、「義仲嗚呼の者で候 [2]唯 今朝敵に成候なんず。急ぎ追討せさせ給へ。」と申ければ、法皇軈て思召立せ給ひけり。さらば然るべき武士にも仰附られずして、山の座主寺の長吏に仰られ て、山三井寺の惡僧共を召されけり。公卿殿上人の召されける勢と申は、向へ礫、印地、云甲斐なき辻冠者原、乞食法師どもなりけり。

木曾左馬頭院の御氣色惡うなると聞えしかば、始は木曾に隨うたりける五畿内の者共、皆背いて、院方へ參る。信濃源氏村上の 三郎判官代是も木曾を背いて法皇へ參りけり。今井四郎申けるは、「是こそ以の外の御大事で候へ。さればとて十善帝王に向ひ參せて、如何でか御合戰候べき。 甲を脱ぎ弓の弦を弛て、降人に參せ給へ。」と申せば、木曾大に怒て、「我信濃を出し時、小見、合田の戰より始めて、北國には、砥浪山、黒坂、鹽坂、篠原、 西國には、福龍寺繩手、篠の迫、板倉が城を攻しかども、未だ敵に後を見せず。縱十善帝王にてましますとも、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて降人にはえこそ參るまじ けれ。譬へば都の守護して有ん者が、馬一疋づゝ飼て乘らざるべきか。幾らも有る田共刈せ馬草にせんを、強に法皇の咎め給ふべき樣や有る。兵粮米もなけれ ば、冠者原共が、片邊に附て、時々入取せんは、何か強僻事ならん。大臣家や宮々の御所へも參らばこそ僻事ならめ。是は鼓判官が凶害と覺ゆるぞ。其鼓め打破 て捨よ。今度は義仲が最後の軍にて有んずるぞ。頼朝がかへり聞んずる所も有り。軍ようせよ、者共。」とて打立けり。北國の勢ども皆落下て、僅に六七千騎ぞ 有ける。我軍の吉例なればとて、七手に造る。先樋口次郎兼光二千餘騎で、新熊野の方へ搦手に差遣す。殘り六手は、各が居たらんずる條里小路より河原へ出 で、七條河原にて一つになれと、相圖を定て出立けり。

軍は十一月十九日の朝也。院御所法住寺殿にも、軍兵二萬餘人參籠たる由聞えけり。御方の笠効には松の葉をぞ著たりける。木曾法住寺殿の西門に押寄せて見れば、鼓判官知康、軍の 行事承て、赤地の錦の直垂に、鎧は態ど著ざりけり、甲計ぞ著たりける。甲には四天を書て押たりけり。御所の西の築 垣の上に登て立たりけるが、片手には鉾を持ち、片手には金剛鈴を以て打振々々、時々は舞折も有けり。若き公卿殿上人「風情なし。知康には天狗ついたり。」 とぞ笑はれける。知康大音聲を揚て、「昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實生り惡鬼惡神も從ひけり。末代ならんからに、如何が十善の帝王に向ひ 參せて、弓をば引くべき。汝等が放ん矢は、却て身にあたるべし。拔む太刀は、身を切べし。」などのゝしりければ、木曾「さな謂せそ。」とて、鬨をどと作 る。

さる程に搦手に差し遣はしたる樋口次郎兼光新熊野の方より、鬨の聲をぞ合せたる。鏑の中に火を入て、法住寺殿の御所に射立てたりければ、折節風は烈しゝ、猛火天に燃上て、 は虚空に隙もなし。軍の行事知康は、人より先に落にけり。行事が落つる上 は、二萬餘人の官軍共、我先にとぞ落ゆきける。餘りに遽噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず。或は長刀倒について、我足つきつらぬく者も 有り、或は弓の弭物にかけて、えはづさで捨て迯る者も有り。七條が末は攝津國の源氏の固たりけるが、七條を西へ落て行く。兼て軍以前より「落人の在んずる をば用意して打殺せ。」と御所より披露せられたりければ、在洛の者共、屋根ゐに楯をつき、おそへの石を取聚て、待懸たる處に、攝津國源氏の落けるを、「あ はや落人よ。」とて、石を拾かけ、散々に打ければ、「是は院方ぞ、過仕るな。」と云へども、「さな云せそ。院宣であるに、唯打殺せ/\。」とて打つ間、或 は馬を捨て、はふ/\逃ぐる 者もあり。或は打殺るゝ者もありけり。八條が末は山僧固めたりけるが、恥有る者は討死し、強顏者は落ぞ行く。

主水正親成、薄青の狩衣の下に、萠黄威の腹卷を著て白葦毛なる馬に乘り、河原を上りに落てゆく。今井四郎兼 平追懸て、しや頸の骨を射落す。清大外記頼業が子なりけり。「明經道の博士、甲冑を鎧ふ事然るべからず。」とぞ人申ける。木曾を背て、院方へ參たる信濃源 氏、村上三郎判官代も討れけり。これを始めて院方には近江中將爲清、越前守信行も射殺されて頸取られぬ。伯耆守光長、子息判官光經父子共に討たれぬ。按察 大納言資方卿の孫、播磨少將雅方も、鎧に立烏帽子で軍の陣へ出られたりけるが、樋口次郎に生捕にせられ給ぬ。天台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王も、 御所に參り籠らせ給たりけるが、黒煙既におしかけければ、御馬にめして、急ぎ河原へ出させ給ふ。武士共散々に射奉る。明雲大僧正、圓慶法親王も、御馬より 射落されて、御頸取られさせ給ひけり。豐後國司刑部卿三位頼資卿も、御所に參り籠られたりけるが、火は既におしかけたり、急ぎ河原へ迯出給。武士の下部ど もに衣裳皆剥取れて、眞裸で立れたり。十一月十九日の朝なれば、河原の風さこそすさまじかりけめ。三位こしうとに越前法橋性意といふ僧在り。其中間法師軍 見んとて河原へ出たりけるが、三位の裸で立れたるに見合うて、「あな淺まし。」とて、走り寄る。此法師は白小袖二つに衣著たりけるが、さらば小袖をも脱で 著せ奉れかし。さはなくて、衣を脱で投かけたり。短き衣空穗にほうかぶて、帶もせず。後さこそ見苦かりけめ。白衣なる法師供に具しておは しけるが、さらば急ぎも歩み給はで、あそこ爰に立留まり、「あれは誰が家ぞ。是は何者が宿所ぞ。爰は何くぞ。」と道すがら問はれければ、見る人皆手を叩て笑ひあへり。

法皇は御輿に召て他所へ御幸なる。武士ども散々に射奉る。豐後少將宗長木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せられたりけるが、「是は法皇の御幸ぞ。過ち仕 るな。」と宣へば、兵ども皆馬より下て畏まる。「何者ぞ。」と御尋ありければ、信濃國の住人八島四郎行綱と名乘申。軈て御輿に手かけ參せ、五條内裡に押籠 め奉り緊しう守護したてまつる。

主上は、池に舟を浮て召されけり。武士ども頻に矢を參せければ、七條侍從信清、紀伊守教光、御船に候はれけるが、「是は内の渡せ給ぞ。過仕るな。」と宣へば兵ども皆馬より下て畏る。閑院殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさましさ、申も中々愚なり。

 

 

法住寺合戰

院方に候ける近江守源藏人仲兼、其勢五十騎ばかりで法住寺殿の西の門を固めて防ぐ處に、近江源氏山本冠者義高、馳來たり、「如何に各今は誰をかばは んとて軍をばし給ふぞ。御幸も行幸も、他所へ成ぬとこそ承はれ。」と申せば、仲兼「さらば」とて敵の大勢の中へをめいて懸入り、散々に戰ひ破てぞ通りけ る。主從八騎に討なさる。八騎が中に、河内の草香黨、加賀房と云ふ法師武者有けり。白葦毛なる馬のきはめて口強きにぞ乘たりける。「此馬が餘ひあひで、乘 たまるべしとも覺えず。」と申ければ、藏人、「いでさらば我馬に乘りかへよ。」とて、 栗毛なる馬の下尾白いに乘かへて、根井小彌太が二百騎ばかりでひかへたる河原坂の勢の中へをめいて懸入り、そこにて八騎が 五騎はうたれぬ。只主從三騎にぞ成にける。加賀房は我馬のひあひなりとて主の馬に乘替たれ共、そこにて終に討れにけり。源藏人の家の子に信濃次郎藏人仲頼 といふ者有り。敵に押隔てられて、藏人の行へを知らず。栗毛なる馬の下尾白いが走りいでたるを見て、下人を呼び、「こゝなる馬は源藏人の馬とこそ見れ。早 討たれ給ひけるにこそ。死なば一所で死なんとこそ契しに、所所で討れん事こそ悲しけれ。どの勢の中へか入ると見つる。」「河原坂の勢の中へこそ懸入せ給ひ 候つるなれ。やがてあの勢の中より御馬も出來て候。」と申ければ、「さらば汝はとう/\是より歸れ。」とて、最後の在樣故郷へいひつかはし、只一騎、敵の 中へ懸いり、大音聲あげて、名乘りけるは、「敦躬親王より九代の後胤、信濃守仲重が次男、信濃次郎藏人仲頼、生年廿七歳。我と思はん人々は寄り合へや、見 參せん。」とて、縱樣横樣蜘蛛手十文字に懸破り懸廻り戰ひけるが、敵あまた討取て、終に討死してけり。藏人是をば夢にも知らず、兄の河内守郎等一騎打具し て、主從三騎南を指して落行く程に、攝政殿の都をば軍に怖れて、宇治へ御出なりけるに、木幡山にて追附奉つる。木曾が餘黨かと思食めし、御車を停めて、 「何者ぞ。」と御尋あれば「仲兼仲信」と名乘り申す。「こは如何に、北國の凶徒かなど思しめしたれば神妙に參りたり。近う候て守護つかまつれ。」と仰けれ ば、畏て承り、宇治の富家殿迄送り參らせて、軈て此人々は、河内國へぞ落ゆきける。 明る廿日、木曾左馬頭六條河原に打立て、昨日切る所の頸ども、懸竝べて記いたりければ、六百三十餘人也。其中に天 台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王の御首もかゝらせ給ひたり。是を見る人涙を流さずと云ふ事なし、木曾其勢七千餘騎、馬の鼻を東へむけ、天も響き大地 もゆるぐ程に、鬨をぞ三箇度作りける。京中又噪ぎあへり。但し是は悦の鬨とぞ聞えし。

故少納言入道信西の子息宰相長教、法皇の渡せ給ふ五條内裏にまゐて、「是は君に奏すべき事があるぞ。あけて通せ。」と宣へども、武士共許し奉らず。 力及ばで、ある小屋に立ち入り、俄に髪剃下し、法師に成り墨染の衣袴著て、「此上は何か苦しかるべき、入よ。」と宣へば、其時許し奉る。御前へ參て、今度 討れ給へる宗との人々の事共、具さに奏聞しければ、法皇、御涙をはら/\と流させ給ひて、「明雲は非業の死にすべき者とは露も思召しよらざりつる物を。今 度はたゞ吾が如何にも成べかりける御命にかはりけるにこそ。」とて、御涙塞あへさせ給はず。

同二十一日木曾、家子郎等召集めて、評定す。「抑義仲一天の君に向ひ奉て、軍には勝ぬ。主上にや成まし。法 皇にや成まし。主上に成らうと思へ共、童にならむも然るべからず。法皇に成らうと思へども、法師に成んもをしかるべし。よし/\さらば關白にならう。」と 申せば、手書に具せられたる大夫房覺明申けるは、「關白は大織冠の御末、藤原氏こそ成せ給へ。殿は源氏で渡せ給に、其こそ叶ひ候まじけれ。」「其上は力及 ばず。」とて院の御厩別當におし成 て、丹波國をぞ知行しける。院の御出家有ば法皇と申し、主上の未御元服もなき程は、御童形に渡らせ給ふを、知ざりけるこそうたてけれ。

前關白松殿の姫君取奉て、松殿の聟に押成る。同十一月二十三日、三條中納言朝方卿を始として、卿相雲客四十九人が官職を停めて、押籠め奉る。平家の時は四十三人をこそ停めたりしに是は四十九人なれば、平家の惡行には超過せり。

さる程に木曾が狼藉靜んとて鎌倉前兵衞佐頼朝、舎弟蒲冠者範頼、九郎冠者義經を差上せられけるが、既に法住 寺殿燒拂ひ、院うち捕奉て、天下暗やみに成たる由聞えしかば、「左右なう上て軍すべき樣もなし。是より關東へ子細を申さん。」とて、尾張國熱田の大宮司が 許におはしけるに、此事訴へんとて北面に候ける宮内判官公朝、藤内左衞門時成、尾張國に馳下り、此由一一次第に訴へければ、九郎御曹司、「是は宮内判官の 關東へ下らるべきにて候ぞ。仔細知ぬ使は、返し問るる時、不審の殘るに。」とぞ宣へば、公朝、鎌倉へ馳下る。軍に怖れて下人ども皆落失たれば、嫡子の宮内 ところ公茂が十五に成るをぞ具したりける。關東へ參て此由申ければ、兵衞佐大に驚き、「先づ鼓判官知康が不思議の事を申出して、御所をも燒せまゐらせ、高 僧貴僧をも滅ぼし奉るこそ奇怪なれ。知康に於ては、既に違勅の者なり。召使せ給はゞ、重て御大事出き候なむず。」と都へ早馬を以て申されければ、鼓判官陳 ぜんとて、夜を日に續で馳下る。兵衞佐「しやつに目な見せそ、會釋なせそ。」と宣へども、日毎に兵衞佐の館へ向ふ。終に面目なくして、都へ歸り上りけり。 後には稻荷の邊なる所に命ばかり生て過 しけるとぞ聞えし。

木曾左馬頭、平家の方へ使者を奉て、「都へ御上り候へ、一つに成て東國せめむ。」と申たれば、大臣殿は悦ばれけれ共、平大納言、新中納言「さこそ世 末に成て候とも、義仲に語らはれて、都へ歸り入らせ給はん事然るべうも候はず。十善の帝王三種神器を帶して渡せ給へば、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて、降人に是 へ參れとは仰候べし。」と申されければ、此樣を御返事ありしか共、木曾もちゐ奉らず。松殿入道殿の許へ木曾を召して、清盛公さばかり惡行人たりしかども、 希代の善根をせしかば、世をも穩しう二十年餘保たりしなり。惡行ばかりで世を保つ事はなき者を、させる故なくて留めたる人々の官途ども、皆許すべき由仰せ られければ、ひたすらの荒夷の樣なれ共、隨ひ奉て解官したる人々の官どもゆるし奉る。松殿の御子師家の殿の、其時は未だ中納言中將にてましましけるを、木 曾がはからひにて、大臣攝政に成奉る。折節大臣あかざりければ、徳大寺左大將實定公の其比内大臣でおはしけるをかり奉て、内大臣に成奉る。何しか人の口な れば、新攝政殿をばかるの大臣とぞ申ける。

同十二月十日法皇は五條内裏を出させ給ひて、大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院へ御幸なる。同十三日歳末の御 修法在けり。其次に叙位除目行はれて、木曾がはからひに、人々の官ども、思樣に成おきけり。平家は西國に、兵衞佐は東國に、木曾は都に張行ふ。前漢後漢の 間、王莽が世を討取て、十八年治たりしが如し。四方の關々皆閉たれば、公の御貢物をもたてまつらず、秋の年貢ものぼらねば、京中の上下の諸人只少水の魚に ことならず。あぶなながら歳 暮て、壽永も三年になりにけり。

[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 仰ければ.

[2] NKBT has 。at this point.

9

平家物語卷第九

生食之沙汰

壽永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院なれば、御所の體しかるべからずとて、禮儀行はるべきにあら ねば拜禮もなし。院の拜禮無りければ、内裏の小朝拜もおこなはれず。平家は讃岐國八島の磯におくり迎へて、年のはじめなれども元旦元三の儀式事宜からず、 主上わたらせ給へども、節會も行はれず、四方拜もなし。 はらか魚も奏せず。吉野のくずも參らず。「世亂れたりしかども都にてはさすがかくは無りし者を。」とぞ、各宣ひあはれける。青陽の春も來り、浦吹く風も やはらかに、日影も長閑に成行けど、唯平家の人々は、いつも氷に閉籠られたる 心地して、寒苦鳥に異ならず。東岸西岸の柳遲速を交へ、南枝北枝の梅開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠、小弓、扇合、繪合、草盡、蟲盡、樣々 興有し事ども思出で語りつゞけて、永き日を暮しかね給ふぞ哀なる。

同正月十一日、木曾左馬頭義仲院參して、平家追討の爲に、西國へ發向すべき由奏聞す。同十三日既に門出と聞えし程に、東國より前兵衞佐頼朝、木曾が狼藉鎭んとて、數萬騎の軍兵を差上せられける。既に美濃國伊勢國に著と聞えしかば、木曾大に驚き、宇治勢田の橋を引 いて、軍兵どもを分ち遣す。折節勢も無りけり。勢田の橋は、大手なればとて、今井四郎兼平、八百餘騎で差遣す。宇 治橋へは、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎でつかはす。芋洗へは、伯父の志太三郎先生義教、三百餘騎で向けり。東國より攻上る大手の大將軍は、蒲の御曹司 範頼、搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、むねとの大名三十餘人、都合其勢六萬餘騎とぞ聞えし。其比鎌倉殿にいけずき摺墨といふ名馬あり。いけずきをば梶原 源太景頻に望み申けれども、鎌倉殿「自然の事あらん時、物具して頼朝がのるべき馬なり。する墨も劣ぬ名馬ぞ。」とて、梶原にはする墨をこそ給だりけれ。

佐々木四郎高綱が暇申に參たりけるに、鎌倉殿如何思食されけん、「所望の者はいくらもあれども、存知せよ。」とて、いけずきをば佐々木に給ぶ。佐々 木畏て申けるは「高綱此御馬で、宇治川の眞先渡し候べし。宇治河で死で候ときこしめし候はゞ、人に先をせられてけりと思食し候へ。未だ生て候と聞食され候 はゞ、定めて先陣はしつらんものをと思食され候へ。」とて、御前を罷り立つ。參會したる大名小名皆「荒凉の申樣哉。」と ささやきあへり。

各鎌倉を立て、足柄を歴て行もあり、箱根にかゝる人もあり、思ひ/\に上る程に、駿河國浮島原にて梶原源太景季、高き所に打上り、暫しひかへて、多 の馬共を見ければ、思ひ/\の鞍置て、いろ/\の鞦かけ、或は乘り口に引かせ、或はもろ口に引かせ、幾千萬といふ數を知らず、引き通し/\しける中にも、 景季が給はたるするすみに、勝る馬こそ無かりけれと、嬉しう思ひて見る處に、いけずきとおぼしき馬こそ出來たれ。

金覆輪の鞍置て、小總の鞦懸け、白沫かませ、舎人あまた附たりけれども、猶引もためず躍らせて出きたり。梶原源太 打寄て、「其れは誰が御馬ぞ。」「佐々木殿の御馬候。」其時梶原「安からぬ者なり。おなじやうにめしつかはるゝ景季を佐々木におぼしめしかへられけるこそ 遺恨なれ。都へ上て木曾殿の御内に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯、根井に組んで死ぬるか、然らずば西國へ向うて、一人當千と聞る平家の侍共と軍して死な んとこそ思つれども、此御氣色では、それも詮なし。爰で佐々木に引組み刺違へ、好い侍二人死で兵衞佐殿に損とらせ奉らん。」とつぶやいてこそ待懸たれ。 佐々木四郎は何心もなく歩せて出來たり。梶原押竝べてやくむ、向うざまにやあて落すと思ひけるが、先詞を懸けり。「いかに佐々木殿、いけずき給はらせ給て さうな。」と言ひければ、佐々木「あはれ此仁も内々所望すると聞し物を。」ときと思ひ出して、「さ候へばこそ此御大事にのぼり候が、定て宇治勢田の橋をば ひいて候らん。乘て河渡すべき馬はなし。いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも御許れないと承はる間、まして高綱が申すにもよも給らじ と思つゝ後日には如何なる御勘當も有ばあれと存じて、曉立んとての夜、舎人に心をあはせて、さしも御秘藏候いけずきを盗みすまいて上りさうはいかに。」と 言ひければ、梶原此詞に腹がゐて、「ねたい、さらば景季も竊むべかりける者を。」とて、どと笑て退にけり。

 

 

宇治川先陣

佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、究めて太う逞いが、馬をも人をも傍をはらて食ければ、生食と附られたり。八寸の馬とぞ聞えし。梶原が給たる摺墨も、究めて太う逞きが、誠に黒かりければ、するすみとは附けられたり。何れも劣らぬ名馬なり。

尾張國より大手搦手二手にわかてせめ上る。大手の大將軍、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎、加賀見次 郎、一條次郎、板垣三郎、稻毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、都合其勢三萬五千餘騎、近江國、野路、篠原にぞつきにける。搦手の大將軍 は、九郎御曹司義經同く伴ふ人々、安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、澁谷右馬允、平山武者所を始として、都合其勢二萬 五千餘騎、伊賀國を經て、宇治橋のつめにぞ押寄せたる。宇治も勢田も橋を引き、水の底には亂杭打て大綱張り、逆茂木つないで流し懸たり。比は睦月廿日餘の 事なれば、比良の高峯、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷打解て、水は折節増りたり。白浪おびたゞしう漲り落ち、瀬枕大きに瀧鳴て、逆卷く水も疾か りけり。夜は既にほの%\と明行けど、河霧深く立籠て、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。爰に大將軍九郎御曹司、河の端に進み出で、水の面を見渡して、 人々の心を見んとや思はれけん、「如何せん淀芋洗へや回るべき、水の落足をや待べき。」と宣へば、畠山は其比はいまだ生年廿一に成けるが、進出でて申ける は、「鎌倉にて能々此河の御沙汰は候ひしぞかし。知召さぬ海河の俄に出來ても候はばこそ。此河は近江の水海の末なれば、待とも/\水ひまじ。橋をば又誰か 渡いて參らすべき。治承の合戰に、足利又太郎忠綱は、鬼神 でわたしけるか。重忠瀬蹈仕らん。」とて、丹の黨を宗として、五百餘騎ひし/\と轡を竝ぶる處に、平等院の丑寅、 橘の小島が崎より、武者二騎引かけ引かけ出來たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも見えざりけれども、内々先に心をかけたり ければ、梶原は佐々木に一段許ぞ進だる。佐々木四郎、「此河は西國一の大河ぞや。腹帶の延て見えさうぞ。しめ給へ。」と言はれて梶原さもあるらんとや思ひ けん、左右の鎧を踏すかし、手綱を馬のゆがみに捨て、腹帶を解てぞ縮めたりける。その間に佐々木は、つと馳ぬいて、河へさとぞ打入たる。梶原謀れぬとや思 ひけん、やがて續て打入たり。「いかに佐々木殿、高名せうとて不覺し給ふな。水の底には大綱あるらん。」といひければ、佐々木、太刀を拔き、馬の足に懸り ける大綱共をふつ/\と打切打切、いけずきといふ世一の馬には乘たりけり、宇治川はやしといへども一文字にさと渡いて、向への岸に打上る。梶原が乘たりけ る摺墨は、河中よりのだめ形に押流されて遙の下より打上げたり。佐々木鐙蹈張立上り、大音聲を揚て名乘りけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀 義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。吾と思はん人々は高綱に組めや。」とておめいてかく。畠山五百餘騎で軈て渡す。向への岸より、山田次郎が放 つ矢に、畠山馬の額を篦ぶかに射させて弱れば、河中より弓杖を突て下立たり。岩浪甲の手先へ颯と押上けれども事ともせず。水の底を潜て、向の岸へぞ著にけ る。上らむとすれば後に物こそむずと引へたれ。「誰そ。」と問へば、「重親。」と答ふ。「いかに大串か。」「さ候。」大串の次郎は、畠山には烏帽子子にて ぞありける。「餘に水が疾うて、 馬は押流され候ぬ。力及ばで著參らせて候。」と言ひければ、「いつも和殿原は、重忠が樣なる者にこそ助られむず れ。」と云ふまゝに、大串を提て岸の上へぞ投上たる。投上られて、たゝ直て、「武藏國の住人大串次郎重親、宇治河の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。敵も御方も 是を聞いて一度にどとぞ笑ける。其後畠山乘替に乘て打上る。魚綾の直垂に緋威の鎧著て、連錢葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘たる、敵の眞先にぞ進だるを 「爰にかくるは如何なる人ぞ。名乘れや。」と言ひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱。」と名乘る。畠山今日の軍神祝はんとて、押竝てむずと捕て 引落し、頸ねぢ切て、本田次郎が鞍のとつけにこそ附させけれ。是を始て、木曾殿の方より宇治橋固たる勢も、暫さゝへてふせぎけれども、東國の大勢渡いて攻 ければ、散散に懸成され、木幡山、伏見を指いてぞ落行ける。勢田をば稻毛三郎重成が計らひにて、田上供御瀬をこそ渡しけれ。

 

 

河原合戰

軍破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、合戰の次第を記し申されけるに、鎌倉殿先づ御使に、「佐々木は如何に。」と御尋有ければ、「宇治川の眞先候。」と申す。日記を披いて御覽ずれば、「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季。」とこそ書れたれ。

宇治勢田破れぬと聞えしかば、木曾左馬頭最後の暇申さんとて、院の御所六條殿へ馳參る。御所には法皇を始め參せて公卿殿上人「世は只今失せなんず。如何せん。」とて手を握り立て ぬ願もましまさず。木曾門前まで參たれども、東國の勢、既に河原迄責入たる由聞えしかば、さいて奏する旨もなくて、取てか へす。六條高倉なる所に始めて見そめたる女房のおはしければ、其へ打いり、最後の名殘惜まんとて、とみに出もやらざりけり。今參したりける越後中太家光と 云ふ者有り、「如何にかうは打解て渡せ給候ぞ。御敵既に河原まで攻入て候に、犬死せさせ給なんず。」と申けれども、猶出でもやらざりければ、「さ候はば、 先づ先き立參せて、死出の山でこそ待參せ候はめ。」とて、腹掻切てぞ死にける。木曾殿「我をすゝむる自害にこそ。」とて、やがて打立けり。上野國の住人那 波太郎廣純を先として、其勢百騎ばかりには過ざりけり。六條河原に打出で見れば、東國の勢と覺くて、先三十騎計出來たり。其中に武者二騎進んだり。一騎は 鹽屋五郎惟廣、一騎は勅使河原五三郎有直也。鹽屋が申けるは、「後陣の勢をや待つべき。」勅使河原が申けるは、「一陣破ぬれば殘黨全からず、唯懸よ。」と て、をめいてかく。木曾は今日を限りと戰かへば、東國の勢は、我討取んとぞ進ける。

大將軍九郎義經、軍兵共に軍をばせさせ、院御所の覺束なきに、守護し奉らんとて、先づ我身共に直甲五六騎、 六條殿へ馳參る。御所には、大膳大夫成忠、御所の東築垣の上に上て、わなゝくわなゝく見まはせば、白旗さと差上、武士ども五六騎のけ甲に戰成て、射向の袖 吹靡させ、黒煙蹴立て馳參る。成忠「又木曾が參り候、あなあさまし。」と申ければ、「今度ぞ世の失はて。」とて君も臣も噪がせ給ふ。成忠重て申けるは、 「只今馳參る武士ども、笠驗のかはて候、今日始て都へ入る東國の勢と覺候。」と申も果ねば、九郎義經門前へ馳參て馬より下 り、門を扣かせ、大音聲を揚て、「東國より前兵衞佐頼朝が舎弟九郎義經こそ參て候へ。明させ給へ。」と申ければ、 成忠餘りの嬉しさに、築垣より急ぎ跳りおるゝとて、腰をつき損じたりけれども、痛さは嬉さに紛て覺えず、這々參て、此由奏聞してければ、法皇大に御感在て やがて門を開かせて入られけり。九郎義經其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裳濃の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋 籐の弓の鳥打を紙を廣さ一寸許に切て、左卷にぞ卷たりける。今日の大將軍の驗とぞ見えし。法皇は中門の櫺子より叡覽有て、「ゆゝしげなる者どもかな、皆名 乘せよ。」と仰ければ、先づ大將軍九郎義經、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、澁谷右馬允重資とこそ名乘たれ。義經具 して武士は六人鎧は色々也けれども、頬魂事柄何れも劣らず。大膳太夫成忠仰せを承て、九郎義經を大床の際へ召て、合戰の次第を委く御尋あれば、義經畏て申 けるは、「義仲が謀叛の事、頼朝大に驚き、範頼義經を始めとして、むねとの兵三十餘人其勢六萬餘騎を參せ候。範頼は勢田より參り候が未參り候はず。義經は 宇治の手を責め落いて、先づ此御所守護の爲に馳參じて候。義仲は河原を上りに落候つるを、兵共に追せ候つれば、今は定めて討取候ぬらん。」と、いと事もな げにぞ申されたる。法皇大に御感有て、「神妙也。木曾が餘黨など參て、狼藉もぞ仕る。汝等此御所能々守護せよ。」と仰ければ義經畏り承はて、四方の門を固 めて待程に、兵共馳集て、程なく一萬騎許に成にけり。

木曾は若しの事あらば、法皇を取參らせて、西國へ落下り、平家と一つに成らんとて、力者 廿人汰へて持たりけれども、御所には九郎義經馳參て、守護し奉る由聞えしかば、「さらば」とて、數萬騎の大勢の中 へをめいて懸入る。既に討れんとする事度々に及ぶといへども、懸け破り懸け破り通りけり。木曾涙を流て、「かかるべしとだに知たらば、今井を勢田へは遣ざ らまし。幼少竹馬の昔より、死ならば一所で死なんとこそ契しに、所々で討れん事こそ悲しけれ。今井が行末を聞かばや。」とて、河原を上りに懸る程に、六條 河原と三條河原との間に敵襲て懸れば、取て返し取て返し、僅なる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞ追返す。鴨河さと打渡し粟田口松坂にぞ 懸ける。去年信濃を出しには、五萬餘騎と聞えしに今日四宮河原を過るには、主從七騎に成にけり。まして中有の旅の空、思ひやられて哀なり。

 

 

木曾最後

木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、都に留りぬ。中にも巴は色白く髮長く、容顏誠に勝れたり。ありがた き強弓、精兵、馬の上、歩立、打物持ては鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。究竟の荒馬乘り、惡所落し、軍と云へば、實より鎧著せ、大太刀強弓持せ て、先づ一方の大將には向けられけり。度々の高名肩を竝ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行討れける中に、七騎が中まで、巴は討れざりけり。

木曾は長坂を經て、丹波路へ趣くとも聞えけり。又龍華越に懸て、北國へとも聞えけり。かかりしかとも、「今井が行へを聞ば や。」とて、勢田の方へ落行程に、今井四郎兼平も、八百餘騎で勢田を固めたりけるが僅に五十騎許に打なされ、旗をば卷せて主の覺束なきに、都へとて歸す程 に、大津の打出濱にて、木曾殿に行合奉る。互に中一町許より、其と見知て、主從駒を疾めて寄り合たり。木曾殿今井が手を取て宣けるは、「義仲六條河原で如 何にも成べかりつれ共、汝が行末の戀しさに、多くの敵の中を懸け破て、是迄は逃たる也。」今井四郎、「御諚誠に忝なう候 [1]兼 平も勢田で討死仕るべう候つれ共、御行末の覺束なさに、是迄參て候。」とぞ申ける。木曾殿「契は未だ朽せざりけり。義仲が勢は敵に押隔てられ林に馳散て、 此邊にもあるらんぞ。汝が卷せて持せたる旗上させよ。」と宣へば、今井が旗を差し上たり。京より落る勢ともなく、勢田より落る者ともなく、今井が旗を見附 けて、三百餘騎ぞ馳集る。木曾殿大に悦で「此勢あらば、などか最後の軍せざるべき。爰にしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん。」「甲斐の一條次郎殿とこそ承 候へ。」「勢は幾等程有やらん」「六千餘騎とこそ聞え候ヘ。」「さらばよい敵ごさんなれ。同う死なば、よからう敵に懸合て大勢の中でこそ討死をもせめ。」 とて眞先にこそ進みけれ。

木曾左馬頭其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、いか物作の大太刀帶き、石打の矢の、其日の軍に射て、少々殘たるを、首高に負なし、滋籐の弓持て、聞る木曾の鬼葦毛と云ふ馬の究て太う逞に金覆輪の鞍置て乘たりける。鐙蹈張 立上り、大音聲を揚て名乘けるは、「日比は聞けん物を、木曾冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊豫守朝日將軍源義仲ぞや。甲斐 の一條次郎とこそきけ。互に好い敵ぞ。義仲討て兵衞佐に見せよや。」とて喚いて懸く。一條次郎、「唯今名乘は、大將軍ぞ。餘すな、洩すな、若黨、討や。」 とて大勢の中に取籠て、我討取んとぞ進ける。木曾三百餘騎、六千餘騎が中を堅ざま横ざま蜘蛛手十文字に懸破て、後へつと出たれば、五十騎許に成にけり。そ こを破て行く程に、土肥次郎實平、二千餘騎で支たり。そこをも破て行く程に、あそこでは四五百騎、こゝでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を、懸け 破り々々行く程に、主從五騎にぞ成にける。五騎が中迄、巴は討れざりけり。木曾殿「おのれは、とう/\、女なれば、何地へも落ゆけ。義仲は討死せんと思ふ 也。若し人手に懸らば、自害をせんずれば、木曾殿の最後の軍に、女を具せられたりけりなど言れん事も、然るべからず。」と宣ひけれども、猶落も行ざりける が、餘りに言はれ奉て、「あはれ好らう敵がな。最後の軍して見せ奉らん。」とて、引へたる處に武藏國に聞えたる大力、御田八郎師重、三十騎許で出來たり。 巴其中へ懸入、御田八郎に押ならべ、むずと取て引き落し、我が乘たる鞍の前輪に押つけて、ちとも働かさず頸ねぢ切て捨てけり。其後物具脱棄て、東國の方へ 落ぞ行く。手塚太郎討死す。手塚の別當落にけり。

今井四郎、木曾殿、主從二騎に成て宣けるは、「日來は何とも覺えぬ鎧が、今日は重う成たるぞや。」今井四郎申けるは、「御身も未疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。何に依てか一領の 御著背長を重うは思食候べき。其は御方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さは思召候へ。兼平一人候とも、餘の武者千 騎と思召せ。矢七八候へば、暫く防ぎ矢仕らん。あれに見え候は、粟津の松原と申。あの松の中で、御自害候へ。」とて、打て行く程に、又荒手の武者五十騎許 出來たり。「君はあの松原へ入せ給へ。兼平は此敵防ぎ候はん。」と申ければ、木曾殿のたまひけるは「義仲都にて如何にも成べかりつるが、是迄逃れ來るは汝 と一所で死なんと思ふ爲也。所々で討れんより一所でこそ討死をもせめ。」とて、馬の鼻を竝て、懸んとし給へば、今井四郎馬より飛下、主の馬の口に取附て申 けるは「弓矢取りは、年比日比如何なる高名候へども、最後の時不覺しつれば、永き瑕にて候也。御身は疲させ給ひて候。續く勢は候はず。敵に押隔てられ、い ふかひなき人の郎等に組落されさせ給て討れさせ給なば、さばかり日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、何某が郎等の討奉たるなど申さん事こそ口惜う候へ。 唯あの松原へ入せ給へ。」と申ければ、木曾「さらば」とて、粟津の松原へぞ駈け給ふ。

今井四郎唯一騎、五十騎許が中へかけ入り、鐙蹈張立上り、大音聲揚て、名乘けるは、「日比は音にも聞きつら ん、今は目にも見給へ。木曾殿の乳母子今井の四郎兼平、生年三十三に罷成る。さる者ありとは、鎌倉殿までも知召されたるらんぞ。兼平討て、見參に入よ。」 とて、射殘たる八筋の矢を、指つめ引詰散々に射る。死生は知らず、矢庭に敵八騎射落す。其後打物ぬいであれに馳あひ、是に馳合ひ、切て回るに、面を合する 者ぞなき。分捕餘たしたりけり。「唯射取や。」とて、中に取籠め雨の降樣に射けれども、鎧好れば裏かゝず、明間を射ねば手 も負はず。

木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈給ふが、正月廿一日、入相許の事なるに、薄氷は張たりけり。深田有とも知らずして、馬を颯とうち入たれば、馬のかし らも見えざりけり。あふれども/\、打ども/\動かず。今井が行末の覺束なさに、振あふぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎爲久追懸て、よ引てひやうと射る。 痛手なれば、まかふを馬の首に當て俯し給へる處に、石田が郎等二人落合て、終に木曾殿の頸をとてけり。太刀の鋒に貫ぬき、高く指上げ、大音聲を揚て、「此 日比日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦石田次郎爲久が討奉たるぞや。」と名のりければ、今井四郎軍しけるが、是を聞き、「今は誰をかばはむとて軍 をもすべき。是を見給へ、東國の殿原、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛落ち、貫かてぞ失にける。去てこそ粟津の 軍は無りけれ。

[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。 at this point.

 

 

樋口誅罰

今井が兄樋口次郎兼光は、十郎藏人討んとて、河内國長野城へ越たりけるが、其にては討漏しぬ。紀伊國名草に有りと聞えしかば、やがて續いて越たりけ るが、都に軍有りと聞て、馳上る。淀の大渡の橋で、今井が下人行合たり。「あな心憂、是は何地へとて渡せ給ひ候ぞ。君は討れさせ給ぬ。今井殿は自害。」と 申ければ、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「是聞給へ、殿原、君に御志思ひ參せ給はん人人は、是より何地へも落行き、出家入道して、乞食頭陀の 行をも立て、後世をも弔參せ給へ。兼光は都へ上り討死して、冥途にて君の見參に入、今井四郎を今一度見んと思ふぞ。」と云 ければ、五百餘騎の勢あそこに引へ、こゝに引へ、落ゆく程に、鳥羽の南の門を出けるには、其勢僅に廿餘騎にぞ成にける。樋口次郎今日既に都へ入と聞えしか ば、黨も高家も、七條、朱雀、四塚さまへ馳向ふ。樋口が手に、茅野太郎と云ふ者有り。四塚に幾も馳向うたる敵の中へ馳入り、大音聲を揚て、「此御中に甲斐 の一條次郎殿の御手の人やまします。」と問ければ、「強一條次郎殿の手で、軍をばするか、誰にも合へかし。」とて、どと笑ふ。笑はれて名のりけるは、「か う申す者は信濃國諏訪上宮の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光廣、必ず一條の次郎殿の御手を尋るには非ず、弟の茅野七郎それにあり。光廣が子共二人信 濃國に候が、あはれ我父は、好てや死にたるらん。惡てや死にたるらんと歎かん處に、弟の七郎が前で討死して、子共にたしかに聞せんと思ふ爲也。敵をば嫌ま じ。」とて、あれに馳合ひ、これに馳合ひ、敵三騎きて落し、四人に當る敵に押雙べ引組でどうと落ち刺違てぞ死にける。

樋口次郎は兒玉黨に結ほれたりければ、兒玉の人ども寄合て、「弓矢取習ひ我も人も廣い中へ入らんとするは、 自然の事の在ん時の一まとの息をも休め、暫しの命をも續んと思ふ爲也。されば樋口次郎が我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度の我等が勳功には 樋口が命を申請ん。」とて使者を立てゝ、「日比は木曾殿の御内に、今井、樋口とて聞え給しかども、今は木曾殿討れさせ給ひぬ。何か苦かるべき、我等が中へ 降人に成給へ。勳功の賞に申かへ て命ばかり助奉らん。出家入道をもして後世を弔ひ參せ給へ。」と云ければ、樋口次郎聞ゆる兵なれども、運や盡にけ ん、兒玉黨の中へ降人にこそ成にけれ。是を九郎御曹司に申す。御所へ奏聞して宥められたりしを傍の公卿殿上人、局の女房達、「木曾が法住寺殿へ寄せて、鬨 を作り君をも惱し參らせ、火をかけて、多の人々を滅し失ひしには、あそこにもこゝにも、今井樋口といふ聲のみこそ有しか。これらを宥められんは口惜かるべ し。」と、面々に申されければ、又死罪に定めらる。

同二十二日、新攝政殿とどめられ給ひ、本の攝政還著し給ふ。僅六十日の内に替られ給へば、未だ見果ぬ夢の如し。昔粟田の關白は、悦申の後唯七箇日だにこそおはせしか。是は六十日とは云へども、其間に節會も除目も行はれしかば、思出なきにもあらず。

同廿四日、木曾左馬頭、幵餘黨五人が頸、大路を渡さる。樋口次郎は降人なりしが、頻に頸の伴せんと申ければ、藍摺の水干立烏帽子で渡されけり。同廿 五日、樋口次郎終に斬られぬ。範頼義經樣々に申されけれども、「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王の其一つ也。是等を宥められんは、養虎の愁有るべ し。」と、殊に沙汰有て斬られけるとぞ聞えし。傳に聞く、虎狼の國衰て諸侯蜂の如く起し時、 はい公先に咸陽宮へ入と云へども、項羽が後に來らん事を恐て、妻は美人をも犯かさず、金銀珠玉をも掠めず、徒に凾谷の關を守て、漸漸に敵を滅して天下を治する事を得たりき。されば木曾左馬頭、先都へ入といふとも、頼朝朝臣の命に從がはましかば、彼 はい公が謀には劣らざらまし。

平家は去年の冬の比より、讃岐國八島磯を出て、攝津國難波潟へ押渡り、福原の舊都に居住して、西は一谷を城郭に構 へ、東は生田森を大手の木戸口とぞ定めける。其内、福原、兵庫、板宿、須磨に籠る勢、是は山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國を打隨へて、召るゝ所 の軍兵也。十萬餘騎とぞ聞えし。一谷は北は山、南は海、口は狹くて奧廣し。岸高くして屏風を立たるに異ならず。北の山際より、南の海の遠淺迄、大石を重上 げ、大木を伐て逆茂木にひき、深き所には大船どもを そばだてて掻楯にかき、城の面の高櫓には、一人當千と聞ゆる四國鎭西の兵ども 甲冑弓箭を帶して、雲霞の如くになみ居たり。やぐらの下には、鞍置馬共、十重廿重に引立てたり。常に大皷を打て亂聲を爲す。一張の弓の勢は、半月胸の前に 懸り、三尺の劍の光は、秋の霜腰の間に横へたり。高き所には赤旗多く打立たれば、春風に吹れて天に翻るは、火 の燃上るに異ならず。

 

 

六箇度軍

平家福原へ渡給ひて後は、四國の兵ども隨ひ奉らず。中にも阿波讃岐の在廳ども、平家を背いて、源氏に付むとしけるが、「抑我等は昨日今日まで、平家 に隨うたるものの、今日始めて源氏の方へ参りたりとも、よも用ゐられじ。いざや平家に矢一つ射懸て、其を面にして參らん。」とて、門脇中納言、子息越前三 位、能登守父子三人、備前國下津井にましますと聞えしかば討たてまつらんとて、兵船十餘艘で寄せたりける。能登守是を聞き、「惡い奴原かな。昨 日今日迄、我等が馬の草切たる奴原が、既に契りを變ずるにこそ有なれ。其儀ならば、一人も洩さず討てや。」とて、小船共に 取乘て、「餘すな、漏すな。」とて攻め給へば、四國の兵共、人目ばかりに矢一つ射て、退んとこそ思ひけるに、手痛う攻られ奉て、叶はじとや思ひけん、遠負 にして引退き、都の方へ逃上るが、淡路國福良の泊に著にけり。其國に源氏二人有り、故六條判官爲義が末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを、西國の 兵共大將に憑んで、城廓を構へて待處に、能登殿やがて押寄攻給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負て、自害してけり。能登殿、防ぎ矢射ける兵 ども、百三十餘人が頸切て、討手の交名記いて、福原へ參らせらる。

門脇中納言其より福原へ上り給ふ。子息達は伊豫の河野四郎召せども參らぬを責んとて、四國へぞ渡られける。先づ兄の越前三位通盛卿、阿波國花園城に著給ふ。弟能登守、讃岐の八島へ渡り給ふと聞えしかば、河野四郎通信は、安藝國の住人沼田次郎は母方の伯父 [2]なりけりば、 一つに成んとて、安藝國へ推渡る。能登守是を聞き、やがて讃岐の八島を出でて追はれけるが、既に備後國蓑島に懸て、次の日沼田城へ寄せ給ふ。沼田次郎、河 野四郎一つに成て、防ぎ戰ふ。能登殿やがて押寄て攻給へば、一日一夜ふせぎ戰ひ沼田次郎叶はじとや思ひけん、甲を脱いで、降人に參る。河野四郎は猶從ひ奉 らず、其勢五百餘騎有けるが、僅に五十騎許に討成れ、城を出て行く程に、能登殿の侍、平八兵衞爲員二百騎許が中に取籠られて主從七騎に討成れ、助け船に乘 んと、細道に懸て渚の方へ落行程に、平八兵衞が子息、讃岐七郎義 範、究竟の弓の上手ではあり、追懸て七騎を矢庭に五騎射落す。河野四郎只主從二騎になりにけり。河野が身に替へて思ひける 郎等を讃岐七郎押竝べて組で落ち、取て押て頸を掻んとする所に、河野四郎取て返し、郎等が上なる讃岐七郎が頸掻切て深田へ投入、大音聲を揚て、「河野四郎 越智通信、生年廿一、かうこそ軍をばすれ。我と思はん人々は留よや。」とて、郎等を肩に引懸け、そこをつと迯て小舟に乘り、伊豫國へぞ渡りける。能登殿河 野をも打漏されたれども、沼田次郎が降人たるを召具して、福原へぞ參られける。

又淡路國の住人安摩六郎忠景、平家を背いて、源氏に心を通しけるが、大船二艘に兵粮米物具、積で都の方へ上 る程に、能登殿福原にて、これをきゝ、小舟十艘計おし浮べて追はれけり。安摩六郎、西宮の沖にて返し合せて防戰ふ。手痛う責められ奉て、叶はじとや思ひけ ん、引退て和泉國吹飯浦に著にけり。紀伊國の住人園邊兵衞忠康、これも平家を背いて源氏につかんとしけるが、安摩六郎が能登殿に攻られ奉て、吹飯に有と聞 えしかば、其勢百騎計で馳來て一つになる。能登殿やがて續いて攻給へば、一日一夜防ぎ戰ひ、安摩六郎、園邊兵衞、叶はじとや思ひけん、家子郎等に防矢射さ せ、身がらは迯て京へ上る。能登殿防矢射ける兵ども、二百餘人が頸切りかけて、福原へこそ參られけれ。又伊豫國の住人河野四郎通信、豐後國の住人臼杵次郎 惟高、緒方三郎惟義、同心して都合其勢二千餘人、備前國へ押渡り、今木城にぞ籠ける。能登守是を聞き、福原より三千餘騎で馳下り、今木城を攻め給ふ。能登 殿「彼奴原はこはい御敵で候。重て勢を給はらん。」と申されければ、福原より數萬騎の大勢を 向らるゝ由聞えし程に、城の内の兵ども、手のきは戰ひ、分捕高名し究て、「平家は大勢でまします也。我 等は無勢也。如何にも叶まじ。こゝをば落て、暫く息を續がん。」とて、臼杵次郎、緒方三郎舟に取り乘り、鎭西へ押し渡る。河野は伊豫へぞ渡りける。能登殿 「今は討つべき敵なし。」とて、福原へこそ參られけれ。大臣殿を始め奉て平家一門の公卿殿上人寄合ひて、能登殿毎度の高名をぞ一同に感じ合れける。