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三井寺炎上
日ごろは山門の大衆こそ、亂りがはしき訴仕るに、今度は穩便を存じて音もせず。南都三井寺或は宮請取奉り、或は宮の御迎に參る。是以て朝敵也。され ば三井寺をも南都をも攻らるべしとて、同五月二十七日、大將軍には入道の四男頭中將重衡、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢一萬餘騎で園城寺へ發向す。寺に も堀ほり、かい楯掻き、逆茂木引て待かけたり。卯刻に矢合して、一日戰ひ暮す。防ぐ所の大衆以下法師原三百餘人まで討れにけり。夜軍に 成て、暗さはくらし、官軍寺中に攻入て、火を放つ。燒る所、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、普賢堂、大寶院、清瀧院、教 待和尚本坊、竝に本尊等、八間四面の大講堂、鐘樓、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御寶殿、惣じて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十 三宇、智證の渡し給へる一切經七千餘卷、佛像二千餘體、忽に煙と成こそ悲しけれ。諸天五妙の樂も、此時長く盡き、龍神三熱の苦も彌盛なるらんとぞ見えし。
夫三井寺は、近江の義大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄奉て、御願となす。本佛も彼御門の御本尊、然るを生身の彌勒と聞え給し教待和尚百六十年行 て、大師に附囑し給へり。都史多天上摩尼寶殿より天降り、遙に龍華下生の曉を待せ給ふとこそ聞つるに、こは如何にしつる事共ぞや。大師此所を傳法灌頂の靈 跡として、井花水のみづをむすび給し故にこそ、三井寺とは名附たれ。かゝる目出たき聖跡なれども、今は何ならず。顯密須臾に亡て、伽藍更に跡もなし。三密 道場もなければ、鈴の聲も聞えず。一夏の花も無れば、閼伽の音もせざりけり。宿老碩徳の名師は、行學に怠り、受法相承の弟子は、又經教に別んたり。寺の長 吏圓慶法親王は、天王寺の別當をとゞめらる。其外僧綱十三人、闕官せられて、皆けん非違使に預らる。惡僧は筒井淨妙明秀に至るまで、三十餘人流されけり。かゝる天下の亂、國土の騒、徒事とも覺えず、平家の世末になりぬる先表やらんとぞ人申ける。
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平家物語巻第五
都遷
治承四年六月三日、福原へ行幸在べしとて京中ひしめきあへり。此日來都遷り有るべしと聞えしかども、忽に今明の程とは思は ざりつるに、こは如何にとて上下騒合へり。剩へ三日と定められたりしが、今一日引上て、二日になりにけり。二日の卯刻に、既に行幸の御輿を寄たりければ、 主上は今年三歳、未幼なう坐ましければ、何心もなう召されけり。主上少なう渡せ給ふ時の御同輿には、母后こそ參せ給ふに、是は其儀なし。御乳母平大納言時 忠卿の北の方帥のすけ殿ぞ、一つ御輿に參られける。中宮、一院、上皇、御幸なる。攝政殿を始め奉て太政大臣已下の公卿殿上人、我も/\と供奉せらる。三日 福原へ入せ給ふ。池中納言頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日頼盛家の賞とて、正二位し給ふ。九條殿の御子、右大將良通卿、越られ給ひけり。攝ろくの臣の御 子息、凡人の次男に、加階越えられ給ふ事、是れ始とぞ聞えし。
さる程に法皇を入道相國やう/\思直て、鳥羽殿を出し奉り、都へ入れ參らせたりしが、高倉宮御謀反に依て又大に憤り、福原へ御幸なし奉り、四面に端板して、口一つ開たる内に 三間の板屋を作て、押籠參らせ、守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。輙う人の參通ふべき事も無れば、 童部は、籠の御所とぞ申ける。聞も忌々しう怖しかりし事共也。法皇今は世の政しろしめさばやとは、露も思召しよらず、唯山々寺々修行して、御心の儘に慰ば やとぞ仰せける。凡平家の惡行に於ては悉く極りぬ。去ぬる安元より以降、多くの卿相、雲客、或は流し、或は失ひ、關白流し奉り、我聟を關白になし、法皇を 城南の離宮に遷し奉り、第二の皇子、高倉宮を討ち奉り、今殘る所の都遷なれば、か樣にしたまふにやとぞ人申ける。
都遷は先蹤なきに非ず。神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武うが草葺不合尊の第四の王子、御母は玉依 姫、海人の娘也。神の代十二代の跡を受け、人代百王の帝祖也。辛酉の歳、日向國宮崎郡にして、皇王の寶祚を繼ぎ、五十九年と云し己未歳十月に東征して、豐 葦原中津國に留り、此比大和國と名づけたる畝傍の山を點じて、帝都をたて橿原の地を切掃て、宮室を作り給へり。是を橿原の宮と名づけたり。其より以降、 代々の帝王、都を他國他所へ遷さるゝ事三十度に餘り、四十度に及べり。神武天皇より、景行天皇まで十二代には、大和國郡々に都を立て、他國へは終に移れ ず。然るを成務天皇元年に近江國に移て、志賀郡に都を立つ。仲哀天皇二年に、長門國に移て、豐浦郡に都を立つ。其國の彼都にて、御門隱れさせ給しかば、后 神功皇后御世を請取らせ給ひ、女體として、鬼界、高麗、契丹まで、責從へさせ給ひけり。異國の軍を靖めさせ給ひて、歸朝の後筑前國三笠郡にして、皇子御誕 生、其所をば宇美宮とぞ申たる。かけまくも忝なく、八幡の御事是なり。位に即せ給ひては、應神天皇とぞ申ける。其 後神功皇后は、大和國に移て、磐余稚櫻宮に御座す。應神天皇は同國輕島明宮に住せ給ふ。仁徳天皇元年に、津國難波に移て、高津宮に御座す。履仲天皇二年 に、大和國に移て、十市郡に都を立つ。反正天皇元年に、河内國に移て、柴垣宮に住せ給ふ。允恭天皇四十二年に又大和國に移て、飛鳥のあすかの宮におはしま す。雄略天皇二十一年に、同國泊瀬朝倉に宮居し給ふ。繼體天皇五年に、山城國綴喜に移て、十二年、其後乙訓に宮居し給ふ。宣化天皇元年に、又大和國に歸 て、檜隈入野宮におはします。孝徳天皇大化元年に、攝津國長柄に移て、豐崎宮に住せ給ふ、齊明天皇二年、又大和國に歸て、岡本宮におはします。天智天皇六 年に、近江國に移て、大津宮に住せ給ふ、天武天皇元年に、猶大和國に歸て、岡本の南の宮に住せ給ふ。是を清見原の御門と申き。持統、文武二代の聖朝は、同 國藤原宮におはします。元明天皇より、光仁天皇迄七代は、奈良の都に住せ給ふ。然を桓武天皇、延暦三年十月二日、奈良の京春日の里より、山城國長岡にうつ て、十年と云し正月に、大納言藤原小黒丸、參議左大辨紀古佐美、大僧都玄慶等を遣して、當國葛野郡宇多村を見せらるゝに、兩人共に奏して云、此地の體を見 るに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相應の地なり。尤帝都を定むるに足れりと申す。仍て愛宕郡に御座す賀茂大明神に、告申させ給ひて、延暦十三年 十一月廿一日、長岡の京より此京へ移されて後、帝王三十二代、星霜は三百八十餘歳の春秋を送り迎ふ。昔より代々の帝王、國々所々に、多の都を立てら れしかども、かくの如くの勝地は無しとて、桓武天皇殊に執し思食し、大臣公卿諸道の才人等に仰せ合せ、長久なるべ き樣とて、土にて八尺の人形を作り、鐡の鎧甲をきせ、同う鐡の弓矢を持せて、東山の嶺に、西向に立てゝ埋まれけり。末代に此都を他國へうつす事あらば、守 護神となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事出來んとては、此塚必鳴動す。將軍が塚とて今に在り。桓武天皇と申は平家の曩祖にて御座す。中にも此京 をば平安城と名付けて平かに安き都と書り。尤平家の崇べき都也。先祖の御門の、さしも執し思食されたる都を、させる故なく、他國他所へ遷さるゝこそ淺まし けれ。嵯峨皇帝の御時平城の先帝尚侍の勸に依て世を亂り給ひし時、既に此京を他國へ移さんとせさせ給ひしを大臣公卿諸國の人民背き申しかば、移されずして 止にき。一天の君萬乘の主だにも移し得給はぬ都を、入道相國、人臣の身として、移されけるぞ怖しき。
舊都はあはれ目出たかりつる都ぞかし。王城守護の鎭守は、四方に光を和げ、靈驗殊勝の寺寺は上下に甍を竝給ひ、百姓萬民煩なく、五畿七道も便あり。 されども今は辻々をみな掘切て、車などの輙う行かよふ事もなし。邂逅に行く人も、小車に乘り、道を歴てこそ通けれ。軒を爭し人のすまひ、日を歴つゝ荒行 く。家々は賀茂河桂河に壞入れ、筏に組浮べ、資材雜具舟に積み、福原へと運下す。たゞなりに、花の都、田舎になるこそ哀しけれ。何者の爲態にや有けん。舊 き都の内裏の柱に二首の歌をぞ書いたりける。
百年を四かへり迄に過來にし、愛宕の里のあれやはてなん。
さきいづる花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき。
同き六月九日、新都の事始め有るべしとて、上卿には徳大寺左大將實定卿、土御門宰相中將通親卿、奉行の辨には、藏人左少辨行隆、官人共召具して、和 田の松原の西の野を點じて、九條の地を割れけるに、一條より下五條までは其所あて、五條より下は無りけり。行事官歸り參て、此の由を奏聞す。さらば播磨の 印南野か、猶攝津國の兒屋野かなどいふ公卿僉議有しかども、事行べしとも見えざりけり。
舊都をば既にうかれぬ、新都は未事行かず、有とし有る人は、身を浮雲の思をなす。本此所に栖む者は地を失て 愁へ、今移る人々は、土木の煩を歎きあへり。惣て只夢の樣なりし事共也。土御門宰相中將通親卿の申されけるは、異國には三條の廣路を開いて、十二の通門を 立と見えたり。況や五條迄有ん都に、などか内裏を立ざるべき。且々里内裏造るべき由、議定有て、五條大納言國綱卿、臨時に周防國を賜て、造進せらるべき 由、入道相國計ひ申されけり。此國綱卿は大福長者にておはすれば、造出れん事、左右に及ばねども、如何が國の費え民の煩ひ無るべき。指當る大事、大嘗會な どの行はるべきを差置いて、かゝる世の亂に遷都造内裏、少も相應せず。古の賢き御代には、即内裏に茨を葺き、軒をだにも調へず、煙の乏きを見給ふ時は、限 有る御貢物をも許れき。是即民を惠み、國を扶け給ふに依て也。楚、章華臺を立て黎民をあらけ、秦、阿房殿を起して、天下亂ると云へり。茅茨剪ず、采椽けづ らず、舟車飾ず、衣服文無ける世も有けん物を。されば唐の太宗は、驪山宮を造て、民の費 えをや憚せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松生ひ、墻に蔦茂て止にけるには、相違かなとぞ人申ける。
月見
六月九日、新都の事始、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。舊き都は荒行ば、今の都は繁昌す。淺ましかりける夏も過ぎ、秋にも既に成にけ り。やう/\秋も半に成行ば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大將の昔の迹を忍つゝ、須磨より明石の浦傳ひ、淡路のせとを押渡 り、繪島が磯の月を見る。或は白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、詠て歸る人も有り。舊都に殘る人々は、伏見廣澤の月を見る。
其中にも徳大寺左大將實定卿は、舊き都の月を戀て、八月十日餘に、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆變り果て、稀に殘る家は、門前草深して、庭上露滋 し。蓬が杣淺茅が原、鳥のふしどと荒果て、蟲の聲々恨つゝ、黄菊紫蘭の野邊とぞ成にける。故郷の名殘とては、近衞河原の大宮ばかりぞまし/\ける。大將其 御所に參て、先隨身に、惣門を叩せらるるに、内より女の聲して、「誰そや蓬生の露打拂ふ人もなき處に。」と咎れば、「福原より大將殿の御參り候。」と申 す。「惣門は鎖のさゝれて候ぞ。東面の小門より入せ給へ。」と申ければ、大將「さらば」とて、東の門より參られけり。大宮は御つれ%\に、昔をや思召出で させ給ひけん、南面の 御格子開させて御琵琶遊されける處に、大將參られたりければ、「如何に夢かや現か、是へ是へ。」とぞ仰せける。源氏の宇治 の巻には、優婆塞宮の御娘、秋の名殘を惜み、琵琶を調べて、夜もすがら心を澄し給しに、有明の月の出けるを、堪ずや思ほしけん、揆にて招き給ひけんも、今 こそ思ひ知られけれ。
待宵の小侍從といふ女房も、此御所にてぞ候ける。此女房を、待宵と申ける事は、或時御所にて、「待宵、歸る朝、何れかあはれは勝る。」と御尋ありければ、
待宵のふけゆく鐘の聲聞けば、歸るあしたの鳥はものかは。
と讀たりけるに依てこそ、待宵とは召されけれ。大將彼女房呼出し、昔今の物語して、小夜もやう/\更行けば、ふるき都のあれゆくを今樣にこそうたはれけれ。
舊き都を來て見れば淺茅が原とぞ荒にける、月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ。
と三反歌ひすまされければ、大宮を始め參せて、御所中の女房達、皆袖をぞ濕されける。
去程に夜も明ければ、大將暇申て、福原へこそ歸られけれ。御伴に候藏人を召て、「侍從が餘に名殘惜げに思ひたるに、汝歸て何とも云てこそ。」と仰せければ、藏人走り歸て、「『畏申せ』と候。」とて
物かはと君が云けん鳥の音の、今朝しもなどか悲かるらん。
女房涙を押へて、
またばこそ深行く鐘も物ならめ、あかぬわかれの鳥の音ぞうき。
藏人歸り參て、此由を申たりければ、「さればこそ汝をば遣つれ。」とて、大將大に感ぜられけり。其よりしてこそ物かはの藏人とはいはれけれ。
物怪之沙汰
福原へ都を移されて後、平家の人々夢見も惡う、常は心噪ぎのみして、變化の者共多かりけり。或夜入道の臥給へる所に、一間にはゞかる程の物の面出來 て、覗奉る。入道相國ちとも噪がず、ちやうとにらまへておはしければ、只消に消失ぬ。岡の御所と申は、新しう造られたれば、然べき大木もなかりけるに、或 夜大木の倒るゝ音して、人ならば二三十人が聲して、どと笑ふ事ありけり。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、蟇目の當番と名附て、夜百人晝五十人番 衆をそろへて蟇目を射させらるるに、天狗の在る方へ向いて射たる時は、音もせず、又無い方へ向いて射たるとおぼしき時は、はと笑などしけり。
又或朝入道相國帳臺より出で、妻戸をおしひらいて、坪の内を見給へば、死人の髑髏共が幾らと云ふ數も知らず、庭にみち/\て、上に成り、下に成り、 轉合轉退き、端なるは中へ轉び入り、中なるは端へ出づ。おびたゞしうからめき合ければ、入道相國、「人や有る/\。」と召されけれども折節人も參らず。か くして多くの髑髏どもが一つに固まりあひ、坪の内にはゞかる程に成て、高さ十四五丈も有らんと覺ゆる山の如くに成にけり。彼一つの大頭に生 たる人の眼の樣に大の眼共が千萬出きて、入道相國をちやうとにらまへて、またゝきもせず。入道少も噪がず。ちやうとにらま へて立たれたり。彼大頭餘りに強く睨まれ奉り、霜露などの日に當て消る樣に、跡かたもなく成にけり。其外に一の御厩に立てて、舎人數多付けられ、朝夕隙な く撫飼れける馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を生だりける。是唯事にあらずとて陰陽師に占はせられければ重き御愼とぞ申ける。此御馬は、相摸國の住人 大庭三郎景親が、東八箇國一の馬とて、入道相國に參らせたり。黒き馬の額白かりけり。名をば望月とぞ付られたる。陰陽頭安倍泰親給はりけり。昔天智天皇の 御時、寮の御馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を産だりけるには、異國の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本紀には見えたる。
又源中納言雅頼卿の許に候ける青侍が見たりける夢も、怖しかりけり。譬へば大内の神祇官とおぼしき所に、束 帶正しき上臈達數多おはして、議定の樣なる事の有しに、末座なる人の、平家の方人すると覺しきを、其中より追立らるゝ。彼の青侍夢の心に「あれは如何なる 上臈にてましますやらん。」と或老翁に問ひ奉れば「嚴島の大明神」と答へ給ふ。其後座上に氣高げなる宿老のましましけるが、「此日來平家の預りたる節刀を ば今は伊豆國の流人、頼朝に賜ばうずるなり。」と仰せられければ、其御傍に猶宿老のまし/\けるが、「其後は我孫にも給候へ。」と仰せらるゝといふ夢を見 て是を次第に問ひたてまつる。「節刀を頼朝に給うと仰られつるは、八幡大菩薩、其後には我孫にも給び候へと仰られつるは、春日大明神、かう申す老翁 は、武内の大明神。」と仰らるゝと云ふ夢を見て、是を人に語る程に入道相國洩聞いて、源大夫判官季貞を以て雅頼卿 のもとへ、「夢見の青侍急ぎ是へ給べ。」と宣ひ遣されたりければ、彼夢見たる青侍、やがて逐電してんげり。雅頼卿、急ぎ入道相國の許に行向て、「全くさる 事候はず。」と、陳じ申されければ、其後沙汰も無りけり。それにふしぎなりし事には清盛公いまだ安藝守たりし時神拜のついでに靈夢をかうぶて嚴島の大明神 よりうつゝにたまはれたりし銀のひるまきしたる小長刀つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日比は朝家の御固 にて、天下を守護せしかども、今は勅命に背けば、節刀をも召返さるゝにや、心細うぞ聞えし。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞て、「す は平家の代は、やう/\末に成ぬるは、嚴島大明神の、平家の方人し給ひけると云ふは其謂れ有り。但し其れは沙羯羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承 れ。八幡大菩薩の節刀を頼朝に給うと仰せられけるは理なり。春日大明神の其後は我孫にも給び候へと被仰けるこそ心得ね。其も平家亡び、源氏の世盡なん後、 大織冠の御末、執柄家の君達の、天下の將軍に成給べきか。」などぞ宣ける。又或僧の折節來たりけるが申けるは、「夫神明は和光垂跡の方便區々にましませ ば、或時は俗體とも現じ、或時は女神とも成り給ふ。誠に嚴島の大明神は女神とは申しながら、三明六通の靈神にてましませば俗體に現じ給はんも、難かるべき にあらず。」とぞ申ける。うき世を厭ひ眞の道に入ぬれば、偏に後世菩提の外の世の營み有まじき事なれども、善政を聞ては感じ、愁を聞ては歎く、是皆人間の 習也。
早馬
同九月二日、相摸國の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬を以て申けるは、「去ぬる八月十七日、伊豆國の流人、前右兵衞佐頼 朝、舅北條四郎時政を遣して、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきの館にて夜討に討候ぬ。其後土肥、土屋、岡崎を始として三百餘騎、石橋山に楯籠りて候處 に、景親、御方に志を存ずる者共一千餘騎を引率して、押寄せ責候程に、兵衞佐七八騎に打成れ、大童に戰ひなて、土肥の杉山へ逃籠候ぬ。其後畠山五百餘騎 で、御方を仕る。三浦大介義明が子共、三百餘騎で源氏方をして、湯井小坪の浦で戰ふに、畠山軍にまけて、武藏國へ引退く。其後畠山が一族、河越、稻毛、小 山田、江戸、葛西惣じて其外七黨の兵共、三千餘騎を相具して、三浦衣笠の城に押寄て攻め戰ふ。大介義明討たれ候ぬ。子どもは皆栗濱の浦より舟に乘り、安 房、上總へ渡り候ぬ。」とこそ申たれ。
平家の人々、都移も早興醒ぬ。若き公卿殿上人は、「哀疾、事の出來よかし、討手に向はう。」など云ぞはかな き。畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門朝綱、大番役にて、折節在京したりけり。畠山申けるは、「僻事にてぞ候らん。親う成て候なれば、北條は知 り候はず。自餘の輩は、よも朝敵が方人をば仕候はじ。今聞召直んずるものを。」と申ければ、「實にも」と云人も有り、「いや/\只今天下の大事に及びなん ず。」とささやく者も多かりけり。入道相國怒られける樣斜ならず。「頼朝をば既に死罪に行はるべかりしを、故池殿の強に歎き宣ひ し間、流罪に由宥めたり。然るに其恩忘て、當家に向て弓を引くにこそあんなれ。神明三寶も、爭か赦させ給ふべき。只今天の責め蒙らんずる頼朝也。」とぞ宣ける。
朝敵揃
夫れ我朝に朝敵の始めを尋ぬれば日本磐余彦尊の御宇四年、紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛有り、身短く足手長くて、力人に勝れたり。人民多く損害せ しかば、官軍發向して、宣旨を讀かけ、葛の網を結で、終に是を掩ひ殺す。其より以降野心を狹んで、朝威を滅んとする輩、大石の山丸、大山王子、守屋の大 臣、山田の石河、蘇我の入鹿、大友の眞鳥、文屋の宮田、橘の逸勢、氷上の川繼、伊豫の親王、太宰少貳藤原の廣嗣、惠美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤 原仲成、平將門、藤原純友、安倍貞任、對馬守源義親、惡佐府、惡衞門督に至る迄、すべて廿餘人。され共一人として、素懷を遂ぐる者なし。尸を山野に曝し、 頭を獄門に懸らる。
此世にこそ王位も無下に輕けれ。昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實なり、飛鳥も隨ひけり。中頃の事ぞかし、延喜御門神泉苑に行幸在て、 池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召て、「あの鷺取て參らせよ。」と仰ければ、爭か取らんと思けれ共、綸言なれば歩み向ふ。鷺も羽つくろひして立んとす。 「宣旨ぞ。」と仰すれば、ひらんで飛去らず。是を取て參りたり。「汝が宣旨に隨て、參りたるこそ神妙なれ。やがて五位に成せ。」とて、鷺を五位にぞ成され ける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし。」と云ふ札を遊し、頸にかけて放たせ給ふ。全 く鷺の御料には非ず、唯王威の程を知召んが爲也。
咸陽宮
又先蹤を異國に尋るに、燕の太子丹と云者、秦の始皇帝に囚はれて、戒を蒙る事十二年、太子丹涙を流いて申けるは、「我本國に老母有り、暇を給はて彼 を見ん。」と申せば、始皇帝あざ笑て、「汝に暇を給ん事は馬に角生ひ、烏の頭の白く成んを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭 白く成ぬを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白くなしたべ。故郷に歸て、今一度母を見ん。」とぞ祈ける。彼妙音菩薩は、靈山 淨土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子、顏囘は、支那震旦に出て、忠孝の道を始め給ふ。冥顯の三寶、孝行の志を憐み給ふ事なれば、馬に角生て宮中に來り、烏 の頭白く成て庭前の木に栖りけり。始皇帝、烏頭馬角の變に驚き、綸言返らざる事を信じて、太子丹を宥つゝ、本國にこそ歸されけれ。始皇猶悔みて、秦の國と 燕の國の境に、楚國と云ふ國有り。大なる河流れたり。彼の河に渡せる橋をば楚國の橋と云へり。始皇官軍を遣て、燕丹が渡らん時、河中の橋を蹈まば落る樣に 認めて、燕丹を渡らせけるに、何かは落入らざるべき。河中へ落入ぬ。されども、ちとも水にも溺れず、平地を行如して、向の岸へ著にけり。こは如何にと思ひ て、後を顧ければ、龜共が幾らと云ふ數も知らず、水の上に浮れ來て、甲を竝てぞ歩ませたりける。是も孝行の志を冥顯憐給ふに依て也。
太子丹恨を含んで、又始皇帝に隨はず。始皇官軍を遣して、燕丹をうたんとし給ふに、燕丹 怖れ慄き、荊軻と云ふ兵を語らうて、大臣になす。荊軻又田光先生と云ふ兵を語らふ。かの先生申けるは、「君は此身が若う盛 なし事を知召されて憑仰らるゝか。麒麟は千里を飛べども、老ぬれば駑馬にも劣れり。今は如何にも叶ひ候まじ。兵をこそ語らうて參せめ。」とて歸らんとする 處に、荊軻、「此事穴賢、人に披露すな。」と言ふ。先生申けるは、「人に疑はれぬるに過たる恥こそ無けれ。此事漏ぬる物ならば、我疑がはれなんず。」と て、門前なる李の樹に首を突當て、打碎いてぞ死にける。又樊於期と云ふ兵有り。是は秦國の者なり。始皇の爲に、父伯叔兄弟を滅されて、燕の國に迯籠れり。 秦皇四海に宣旨を下いて、「樊於期が頭はねて參らせたらん者には、五百斤の金を與へん。」と披露せらる。荊軻是を聞き、樊於期が許にゆいて、「我れ聞く。 汝が頭を五百斤の金に報ぜらる。汝が首我にかせ、取て始皇帝にたてまつらん。悦んで叡覧を歴られん時、劍を拔き胸を刺んに易かりなん。」と云ひければ、樊 於期跳上り、大息ついて申けるは、「我親伯叔兄弟を始皇の爲に滅されて、夜晝これを思ふに、骨髄に徹て忍びがたし。げにも始皇帝を滅すべくば、首を與へん 事、塵芥よりも尚易し。」とて、手づから首を切てぞ死にける。
又秦舞陽と云ふ兵有り。是も秦の國の者なり。十三の歳敵を討て、燕の國に迯籠れり。ならびなき兵也。彼が嗔 て向ふ時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ時は、みどり子も抱かれけり。是を秦の都の案内者に語らうて具してゆく程に、或片山の邊に宿したりける夜、其邊近 き里に管絃をするを聞て、調子を以て本意の事を占ふに、敵の方は水也、我方は火也。さる程に 天も明ぬ。白虹日を貫て通らず。「我等が本意遂ん事、有がたし。」とぞ申ける。
さりながら歸るべきにもあらねば、始皇の都咸陽宮に到りぬ。燕の指圖竝に樊於期が首持て參りたる由を奏しけ れば、臣下を以て請取らんとし給ふ。「全く人しては參せじ、直に上まつらん。」と奏する間、「さらば。」とて、節會の儀を調て、燕の使を召されけり。咸陽 宮は、都のめぐり一萬八千三百八十里に積れり。内裏をば地より三里高く築上て、其上に立たり。長生殿不老門有り、金を以て日を作り、銀を以て月を作れり。 眞珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を布充てり。四方には高さ四十丈の鐵の築地を築き、殿の上にも同く鐵の網をぞ張たりける。是は冥途の使を入じと也。秋は田面の 鴈、春はこしぢへ歸るにも、飛行自在の障有れば、築地には鴈門と名附て、鐵の門を開てぞ通しける。其中にも阿房殿とて、始皇の常は行幸成て、政道行はせ給 ふ殿有り。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は、五丈の旗矛を立たるが、猶及ぬ程也。上は瑠璃の瓦を以て葺き、下は金銀にて磨きけり。荊 軻は燕の指圖を持ち、秦舞陽は樊於期が首を持て、玉の階をのぼりあがる。餘に内裏のおびたゞしきを見て、秦舞陽わな/\と振ひければ、臣下怪みて「舞陽謀 反の心在り。刑人をば君の側に置かず、君子は刑人に近づかず、刑人に近づくは則死を輕んずる道也。」と云へり、荊軻立歸て「舞陽全く謀反の心なし。唯田舎 の賤しきにのみ習て、皇居に馴ざる故に、心迷惑す。」と申ければ、臣下みな先靜りぬ。仍て王にちかづき奉る。燕の指圖ならびに樊於期が首見參にいるゝとこ ろに指圖の入たる櫃の底に、氷の樣なる劍の見えければ、始皇帝是を見て、や がて逃んとし給ふ。荊軻王の御袖をむずと引へて、劍を胸に差當たり。今はかうとぞ見えたりける。數萬の兵庭上に袖 を列ぬと云へども、救んとするに力なし。只君逆臣に犯れ給ん事をのみ悲み合り。始皇のたまはく、「われに暫時の暇を得させよ。朕が最愛の后の琴の音を、今 一度聞ん。」と宣へば、荊軻暫は侵し奉らず。始皇は三千人の后を持給へり。其中に華陽夫人とて、勝れたる琴の上手坐けり。凡此后の琴の音を聞ては、猛き武 士の怒れるも和ぎ、飛鳥も落ち、草木も颱ぐ程なり。況や今を限の叡聞に備んと、泣々彈給ひけん、さこそは面白かりけめ。荊軻も頭を低れ、耳をそばだてて謀 臣の思も怠にけり。其時后始めて更に一曲を奏す。「七尺の屏風は高くとも、跳らばなどか越ざらん。一條の羅穀は勁くとも、引かばなどかは絶ざらん。」とぞ 彈給ふ。荊軻はこれを聞知ず、始皇は聞知て、御袖を引切り、七尺の屏風を飛超えて、銅の柱の陰に迯隱れさせたまひぬ。荊軻怒て、劍を投懸奉る。折節御前に 番の醫師の候けるが、藥の袋を荊軻が劍に投合せたり。劍藥の袋を懸られながら、口六尺の銅の柱を、半迄こそ切たりけれ。荊軻又劍を持ねば、續いても投ず。 王立歸て、わが劍を召寄て、荊軻を八裂にこそし給ひけれ。秦舞陽も討れにけり。官軍を遣して燕丹を亡さる。蒼天宥し給はねば、白虹日を貫いて通らず、秦始 皇は遁れて、燕丹終に亡にき。されば今の頼朝もさこそは有らんずらめと、色代する人々も有けるとかや。
文學荒行
抑彼頼朝と申は、去る平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依て、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、伊豆國蛭島へ流され て、二十餘年の春秋を送り迎ふ。年來も有ばこそ有けめ、今年如何なる心にて、謀反をば起されけるぞと云ふに、高雄の文學上人の申勸められたりけるとかや。 彼文學と申は、本は渡邊の遠藤左近將監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の年道心發し出家して、修行にいでんとしけるが、「修行といふ は、いか程の大事やらん、試いて見ん。」とて、六月の日の草もゆるがず光たるに、片山の藪の中に這いり、仰のけに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂蟻など云ふ毒蟲共が 身にひしと取附て螫食などしけれども、ちとも身をも動かさず、七日迄は起上らず。八日と云ふに起上て、「修行と云ふは、是程の大事か。」と人に問へば、 「其程ならんには、爭か命も生べき。」と言ふ間、「さては安平ごさんなれ。」とて、軈て修行にぞ出にける。
熊野へ參り、那智籠せんとしけるが、行の試みに、聞ゆる瀑に暫くうたれて見んとて、瀑下へぞ參りける。比は 十二月十日餘の事なれば、雪降積り、つらゝいて、谷の小川も音もせず、峯の嵐吹凍り、瀑の白絲垂氷と成り、皆白妙に押竝べて、四方の梢も見え分かず。然る に文學瀑壺に下浸り、頸際漬て、慈救の咒を滿けるが、二三日こそ有けれ、四五日にも成ければ、堪へずして文學浮あがりにけり。數千丈漲り落る瀑なれば、な じかはたまるべき。さとおとされて、刀の刃の如くに、さしも嚴き岩角の中を、浮ぬ沈ぬ、五六町こそ流れたれ。時にうつくしげなる童子一人來て、文學が左右 の手を取て引上給ふ。人奇特の思を成し、火を燒 きあぶりなどしければ、定業ならぬ命では有り、ほどなく息いでにけり。文學少し人心地いできて、大の眼を見怒かし 「我此瀑に三七日打れて、慈救の三洛叉を滿うと思ふ大願有り。今日は纔に五日になる。七日だにも過ざるに、何者が爰へはとて來たるぞ。」と言ければ、見る 人身の毛よだて物いはず。又瀑壺に歸り立て打れけり。
第二日と云に、八人の童子來て、引上んとし給へども、散々に抓合うて上らず。第三日と云に、文學終にはかなくなりにけり。瀑壺を穢さじとや、鬟結う たる天童二人、瀑の上より下降り、文學が頂上より手足の爪さき手裏に至る迄、よに煖に香き御手を以て、撫下給ふと覺えければ夢の心地して息出ぬ「抑如何な る人にてましませば、かうは憐給ふらん。」と問奉る。「我は是大聖不動明王の御使に、金迦羅、逝多伽と云ふ二童子也。文學無上の願を發して勇猛の行を企 つ、行て力を合すべしと、明王の勅に依て、來れる也。」と答へ給ふ。文學聲を怒らかして、「さて明王は何くにましますぞ。」「兜率天に。」と答へて、雲井 遙に上り給ひぬ。掌を合せて是を拜したてまつる。「されば、我行をば、大聖不動明王までも知召れたるにこそ。」と、頼もしう覺えて、猶瀑壺に歸立て打れけ り。誠に目出たき瑞相ども在ければ、吹來る風も身に入ず、落來る水も湯の如し。かくて三七日の大願終に遂げにければ、那智に千日籠り、大峯三度、葛城二 度、高野、粉川、金峯山、白山、立山、富士の嶽、伊豆、箱根、信濃の戸隱、出羽の羽黒、惣じて日本國殘る所なく行廻て、さすが猶故郷や戀しかりけん、都へ 歸上たりければ、凡そ飛鳥も祈落す程の、やいばの驗者とぞ聞えし。
勸進帳
後には、高雄と云ふ山の奧に、行ひすましてぞ居たりける。彼高雄に神護寺と云ふ山寺有り。昔稱徳天皇の御時、和氣清麿が建 たりし伽藍也。久く修造無りしかば、春は霞に立籠られ、秋は霧に交り、扉は風に倒て、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵れて、佛壇更に顯也。住持の僧も無れば 稀に差入物とては、月日の光ばかり也。文學是を如何にもして、修造せんといふ大願を起し、勸進帳を捧て、十方檀那を勸めありきける程に、或時院の御所法住 寺殿へぞ參りたりける。御奉加有るべき由奏聞しけれども、御遊の折節で、聞召も入れられず。文覺は天性不敵第一の荒聖なり。御前の骨、内證をば知らず、只 申入ぬぞと心得て、是非なく御坪の内へ破り入り、大音聲を揚て申けるは、「大慈大悲の君にておはします、などか聞召入れざるべき。」とて、勸進帳を引廣 げ、高らかにこそ讀だりけれ。
沙彌文學敬白す。殊には貴賤道俗の助成を蒙て、高 雄山の靈地に一院を建立し、二世安樂の大利を勤行せんと請ふ勸進の状夫以れば、眞如廣大なり。生佛の假名を斷つと云へども、法性隨妄の雲厚く覆て、十二因 縁の峰に並び居しより以降、本有心蓮の月の光幽にして、未だ三徳四曼の大虚に現はれず。悲哉。佛日早く沒して、生死流轉の衢冥々たり。只色に耽り酒に耽 る。誰か狂象跳猿の迷を謝せん。徒に人を謗し法を謗す。豈閻羅獄卒の責を免れんや。爰に文學適俗塵 を打拂て、法衣を飾と云へ共、惡行猶心に逞して、日夜に造り、善苗又耳に逆て朝暮に廢る。痛哉。再度三塗の火坑に 歸て、永く四生の苦輪に廻らん事を。此故に無二の顯章千萬軸、軸々に佛種の因を明す、隨縁至誠の法、一として菩提の彼岸に至らずといふ事なし。故に文學無 常の觀門に涙を落し、上下の眞俗を勸めて、上品蓮臺に歩を運び、等妙覺王の靈場を建んとなり。抑高雄は山堆くして、鷲峯山の梢を表し、谷閑にして商山洞の 苔を敷けり。巖泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠うして囂塵なし、咫尺好して信心のみあり。地形勝れたり、尤佛天を崇むべし。奉加少しきな り、誰か助成せざらん。風に聞く、聚沙爲佛塔功徳忽に佛因を感ず。況や一紙半錢の寶財に於てをや。願くは建立成就して金闕鳳歴御願圓滿、乃至都鄙遠近隣民 親疎、堯舜無爲の化をうたひ、椿葉再會の笑を開かん。殊には又聖靈幽儀先後大小、速に一佛眞門の臺に至り、必ず三身萬徳の月を翫ばん。仍て勸進修行の趣、 蓋以如此。
治承三年三月 日 文學
とこそ讀上たれ。
文學被流
折節御前には、太政大臣妙音院、琵琶掻鳴し朗詠目出度うせさせ給。按察大納言資方卿拍子取て風俗、催馬樂歌はれけり。右馬頭資時、四位侍從盛定、和琴掻鳴し、今樣とり%\に歌 ひ、玉の簾、錦の帳の中さゞめき合ひ、誠に面白かりければ、法皇も附歌せさせ坐します。其に文學が大音聲出來て、調子も違 ひ、拍子も皆亂にけり。「何者ぞ。そ頸突け。」と仰下さるる程こそ有けれ。はやりの若者共、我も我もと進ける中に、資行判官と云ふ者、走出でゝ、「何條事 申ぞ。罷出よ。」と云ければ、「高雄の神護寺に庄一所寄られざらん程は全く文學いづまじ。」とて動かず。寄てそ頸を突うとしければ、勸進帳を取直し、資行 判官が烏帽子を、はたと打て打落し、拳を握て、しや胸を突て、仰に撞倒す。資行判官は、髻放て、おめ/\と大床の上へ迯上る。其後文學懷より、馬の尾で柄 巻たる刀の、氷の樣なるを拔出いて、寄來ん者を突うとこそ待懸たれ。左の手には勸進帳、右の手には刀を拔て走りまはる間、思設ぬ俄事では有り、左右の手に 刀を持たる樣にぞ見えたりける。公卿殿上人も、こは如何に/\と噪れければ、御遊もはや荒にけり。院中の騒動斜ならず。信濃國の住人、安藤武者右宗、其頃 當職の武者所で有けるが、「何事ぞ。」とて、太刀を拔て走出たり。文學悦でかゝる所を、斬ては惡かりなんとや思ひけん、太刀のみねを取直し、文學が刀持た る肘をしたゝかに打つ。打れてちと疼む處に太刀を捨てて「えたりやをう。」と、組だりける。組まれながら文學安藤武者が右の肘を突く。突れながらしめたり けり。互に劣らぬ大力なりければ、上に成り下に成り、轉合ふ所に、賢顏に、上下寄て、文學が動く所のぢやうをがうしてけり。去れ共、是を事ともせず、彌惡 口放言す。門外へ引出いて、廳の下部にたぶ。ゐてひはる。ひはられて立ながら、御所の方を睨まへ、大音聲をあげて、「奉加をこそし給はざらめ。是程文學に 辛い 目を見せ給ひつれば、思知せ申さんずる物を。三界は皆火宅也。王宮と云ふとも、其難を遁るべからず。十善の帝位に 誇たうとも、黄泉の旅に出なん後は、牛頭馬頭の責をば免れ給はじ物を。」と、躍上躍上ぞ申ける。此法師奇怪なりとて、やがて獄定せられたり。資行判官は、 烏帽子打落されて恥がましさに、暫は出仕もせず。安藤武者は、文學組だる勸賞に、一臈を歴ずして、右馬允にぞ成されける。さる程に其比美福門院隱れさせ給 ひて、大赦有りしかば、文學程なく赦されけり。暫はどこにも行ふべかりしが、さはなくして、又勸進帳を捧て、勸めけるが、さらば唯も無して、「あはれこの 世の中は、唯今亂れ、君も臣も皆滅失んずる物を。」など、怖き事のみ申ありく間、「此法師都に置ては叶ふまじ、遠流せよ。」とて伊豆國へぞ流されける。
源三位入道の嫡子、仲綱の其比伊豆守にておはしければ其沙汰として、東海道より船にて下すべしとて、伊勢國 へ將て罷りけるに、放免兩三人ぞつけられたる。是等が申けるは、「廳の下部の習、加樣の事についてこそ自らの依怙も候へ。如何に聖の御房、是程の事に逢 て、遠國へ流され給ふに、知人は持給はぬか、土産粮料如きの物をも乞給へかし。」といひければ、文學は「左樣の要事いふべき得意も持たず、東山の邊にぞ得 意は有る。いでさらば文を遣う。」と云ければ、怪しかる紙を尋て、得させたり。「か樣の紙で物書くやうなし。」とて、投返す。さらばとて、厚紙を尋て得さ せたり。文學笑て「法師は物をえ書ぬぞ、さらばおれら書け。」とて書するやう、「文學こそ、高雄の神護寺造立供養の志あて勸め候つる程に、かゝる君の代に しも逢て所願をこそ成就せざらめ。禁獄せられて剩へ伊豆國へ流罪せられ候。遠路の間で候。土産粮料如きの物も、大 切に候。此使に給べし。」と書けと云ければ、いふ儘に書て、「さて誰殿へとかき候はうぞ。」「清水の觀音房へと書け。」是は廳の下部を欺くにこそ。」と申 せば「さりとては文學は觀音をこそ深う憑奉たれ。さらでは誰にかは用事をば言ふべき。」とぞ申ける。
伊勢國阿濃の津より舟に乘て下りけるが、遠江國天龍灘にて、俄に大風吹き大波立て、既に此舟を打覆さんとす。水手梶取共、如何にもして、助らんとし けれども、波風彌荒ければ、或は觀音の名號を唱へ、或は最後の十念に及ぶ。されども、文學は是を事ともせず。高鼾かいて臥したりけるが、何とか思けん、今 はかうと覺えける時、かはと起、船の舳に立て、奥の方を睨へ大音聲を揚て、「龍王やある、龍王やある。」とぞ喚だりける。「如何に是程の大願發いたる聖が 乘たる船をば過うとはするぞ。唯今天の責蒙んずる龍神共かな。」とぞ申ける。其故にや波風程なく靜て、伊豆國へ著にけり。文學京を出ける日より祈誓する事 あり。「我都に歸て、高雄の神護寺造立供養すべくば、死ぬべからず。此願空かるべくば、道にて死ぬべし。」とて、京より伊豆へ著ける迄、折節順風無りけれ ば、浦傳ひ島傳ひして三十一日が間は、一向斷食にてぞ有ける。され共氣力少しも劣へず、行うちして居たりけり。誠に直人とも覺ぬ事共多かりけり。近藤四郎 國高といふ者に預けられて、伊豆國奈古屋が奥にぞすみける。
福原院宣
さる程に兵衞佐殿へ常は參て、昔今の物語ども申て慰む程に、ある時文學申しけるは、「平家には小松大臣殿こそ、心も剛に策 も勝て坐しか。平家の運命が末に成やらん、去年八月薨ぜられぬ。今は源平の中に、わどの程將軍の相持たる人はなし。早々謀反起して、日本國隨給へ。」兵衞 佐、「思も寄らぬ事宣ふ聖御房哉。我は故池尼御前にかひなき命を助けられ奉て候へば、其後世を弔はん爲に、毎日に法華經一部轉讀する外は他事なし。」とこ そ宣けれ、文學重て申けるは「天の與ふるを取ざれば、却て其咎を受く。時至て行はざれば、却て其殃を受と云ふ本文有り。か樣に申せば、御邊の心を見んと て、申など思ひ給か。御邊に志の深い色を見給へかし。」とて、懷より白布に裏だる髑髏を一つ取出す。兵衞佐殿、「あれは如何に。」と宣へば、「是こそわど のの父、故左馬頭殿の頭よ。平治の後、獄舎の前なる苔の下に埋れて、後世弔ふ人も無かりしを、文學存ずる旨有て、獄守に乞て此十餘年頸に懸け、山々寺々拜 みまはり、弔ひ奉れば、今は定て一劫もたすかり給ぬらん。去れば、文學は故頭殿の御爲にも、奉公の者でこそ候へ。」と申ければ、兵衞佐殿、一定とは覺ねど も、父の頭と聞く懷しさに、先涙をぞ流されける。其後は打解て物語し給ふ。「抑頼朝勅勘を許りずしては、爭か謀反をば起すべき。」と宣へば「それ易い事、 やがて上て申許いて奉らん。」「さもさうず、御房も勅勘の身で人を申許さうと宣ふ、あてがひ樣こそ、大に誠しからね。」「吾身の勅勘を許うと申さば こそ僻事ならめ。わどのの事申さうは、何か苦しかるべき。今の都福原の新都へ上らうに、三日に過まじ。院宣伺はう に、一日が逗留ぞ有らんずる。都合七日八日に過ぐべからず。」とてつき出ぬ。奈古屋に歸て、弟子共には、伊豆の御山に人に忍んで、七日參籠の志ありとて出 にけり。實にも三日と云に、福原の新都へ上りつゝ前右兵衞督光能卿の許に、聊縁有ければ、其に行いて、「伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝こそ勅勘を許され て、院宣をだにも給はらば、八箇國の家人ども催し集めて、平家を亡し、天下を靜んと申候へ。」兵衞督、「いさとよ、我身も當時は三官共に停られて、心苦し い折節なり。法皇も押籠られて渡せ給へば、如何有んずらん。さりながら伺うてこそ見め。」とて、此由竊に奏せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけ れ。聖是を頸にかけ、又三日と云に伊豆國へ下り著く。兵衞佐「あはれ、此聖の御房は、なまじひに由なき事申し出して、頼朝又如何なる憂目にか逢んずら ん。」と、思はじ事なう、あんじ續けて坐ける處に八日と云ふ午刻許に下著て、「すは院宣よ。」とて奉る。兵衞佐、院宣と聞く忝さに、手水鵜飼をし、新き烏 帽子淨衣著て、院宣を三度拜して披かれけり。
頻の年より以降、平氏王化を蔑如 し、政道に憚ることなし。佛法を破滅して朝威を亡さんとす。夫吾朝は神國なり、宗廟相並んで神徳惟新なり。故に朝廷開基の後、數千餘歳の間、帝猷を傾け、 國家を危ぶめんとする者、皆以て敗北せずといふことなし。然れば則、且は神道の冥助に任せ、且は勅宣の旨趣を守て、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を 退けよ。譜代弓箭の兵略を繼ぎ、累祖奉公の忠勤を抽で、身を立て家を興すべし、てへれば、院宣此の如し。仍執達如件。
治承四年七月十四日 前右兵衞督光能奉
謹上 前右兵衞佐殿
とぞ書かれたる。此院宣をば、錦の袋に入れて、石橋山の合戰の時も、兵衞佐殿頸に懸られたりけるとかや。
富士川
さる程に、福原には勢の附ぬ先に、急ぎ討手を下べしと公卿僉議有て、大將軍には小松權亮少將維盛、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢三萬餘騎、九月十 八日に新都を立て、十九日には舊都に著き、やがて廿日東國へこそ討立れけれ。大將軍權亮少將維盛は、生年二十三、容儀帶佩繪に書とも筆も及難し。重代の鎧 唐皮と云ふ著せ長をば、唐櫃に入て舁せらる。道中には、赤地の錦の直垂に、萌黄絲威の鎧著て、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘り給へり。副將軍薩摩守 忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧著て、黒き馬の太う逞に沃懸地の鞍置て乘り給へり。馬鞍鎧甲弓箭太刀刀に至る迄、光輝く程に出立れたりしかば、めで たかりし見物也。薩摩守忠度は、年來或る宮腹の女房の許へ通はれけるが、或時坐たりけるに、其女房の許へ、止事なき女房客人に來て、良久しう物語し給ふ。 小夜も遙に更行く迄に 客人歸り給はず。忠度軒端にしばしやすらひて、扇を荒く遣はれければ、宮腹の女房、「野もせに集く蟲の音よ。」と、優にや さしく口ずさみ給へば、薩摩守やがて遣ひ止て歸られけり。其後又坐たりけるに、宮腹の女房「さても一日、何とて扇をば遣ひ止にしぞや。」ととはれければ、 「いさ、かしがましなど聞え候しかば、さてこそ遣ひやみ候しか。」とぞ宣ひける。彼女房の許より忠度の許へ、小袖一重遣すとて、千里の名殘の悲しさに、一 首の歌をぞ、贈られける。
東路の草葉をわけん袖よりも、たゝぬ袂の露ぞこぼるゝ。
薩摩守返事には
別路を何かなげかんこえて行く、關もむかしの跡とおもへば。
關も昔の跡と詠る事は、平將軍貞盛、將門追討の爲に、東國へ下向せし事を、思ひ出て讀たりけるにや、最優うぞ聞えし。
昔は朝敵を平げに外土へ向ふ將軍は、先參内して節刀を賜る。宸儀南殿に出御して、近衞階下に陣を引き、内辨 外辨の公卿參列して、中儀の節會を行はる。大將軍副將軍各禮儀を正うして、是を給はる。承平天慶の蹤跡も、年久う成て准へ難しとて、今度は讃岐守正盛が、 前對馬守源義親追討の爲に、出雲國へ下向せし例とて、鈴ばかり賜て、皮の袋に入て、雜色が頸に懸させてぞ下られける。古朝敵を滅さんとて、都をいづる將軍 は、三つの存知有り。節刀を賜はる日家を忘れ、家をいづるとて妻子を忘れ、戰場にして敵に鬪ふ時身を忘る。さ れば今の平氏の大將軍維盛忠度も、定てか樣の事をば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。
同二十一日新院又安藝國嚴島へ御幸成る。去る三月にも御幸ありき。其故にや、中一兩月世も目出度治て、民の煩も無りしが、高倉宮の御謀反に依て、又 天下亂れて、世上も靜かならず。是に依て、且は天下靜謐の爲、且は聖代不豫の御祈念の爲とぞ聞えし。今度は福原よりの御幸なれば、斗藪の煩も無りけり。手 から自から御願文を遊ばいて、清書をば攝政殿せさせおはします。
蓋し聞く、法性 雲閑なり。十四十五の月高く晴れ、權化智深く一陰一陽の風旁扇ぐ。夫嚴島の社は稱名普く聞る場、効驗無雙の砌也。遙嶺の社壇を繞る、自大慈の高く峙を彰 し、巨海の祠宇に及ぶ、空に弘誓の深廣なる事を表す。夫以れば初庸昧の身を以て忝なく皇王の位を踐む。今賢猷を靈境の群に玩で閑放を射山の居に樂む。然る に竊に一心の精誠を抽で孤島の幽祠に詣、瑞離の下に冥恩を仰ぎ、懇念を凝して汗を流し、寶宮の内に靈託を垂。其告げの心に銘する在り。就中に特に怖畏謹愼 の期をさすに、專ら季夏初秋の候に當る。病痾忽に侵し、猶醫術の驗を施す事なし。萍桂頻に轉ず。彌神感の空からざる事を知ぬ。祈祷を求と云へども、霧露散 じ難し。しかじ、心府の志を抽でゝ、重て斗藪の行を企てんと思ふ。漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢を破り、凄々たる微陽の前、遠路に臨で眼を究む。遂に枌 楡の砌に著て、敬て清淨の席をのべ、書寫したて奉る色紙墨字 の妙法蓮華經一部、開結二經、阿彌陀、般若心經等の經、各一巻。手づから自から書寫しまつる金泥の提婆品一巻。時 に蒼松蒼柏の陰、共に善理の種を添へ、潮去潮來響空に梵唄の聲に和す。弟子北闕の雲を辭して八亥、涼燠の多くめぐる事なしと云へども、西海の浪を凌ぐ事二 度、深く機縁の淺からざる事を知ぬ。朝に祈る客一つにあらず。夕に賽しする者且千也。但尊貴の歸仰多しといへども院中の往詣未聞かず。禪定法皇初めて其儀 をのこい給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高山の月の前には漢武未だ和光の影を拜せず。蓬莱洞の雲の底にも天仙空く垂跡の塵を隔つ。仰願くは大明神、伏乞らく は、一乘經、新に丹祈を照して、唯一の玄應を垂給へ。
治承四年九月二十八日 太上天皇
とぞ遊ばされたる。
さる程に此人々は九重の都を立て、千里の東海に赴かれける。平かに歸上ん事も、まことに危き有樣共にて、或 は野原の露に宿をかり、或は高峯の苔に旅寢をし、山を越え河を重ね、日數歴れば、十月十六日には、駿河國清見が關にぞ著給ふ。都をば三萬餘騎で出しかど、 路次の兵召具して、七萬餘騎とぞ聞えし。前陣は蒲原富士川に進み、後陣は未手越宇津谷に支へたり。大將軍權亮少將維盛、侍大將上總守忠清を召て「只維盛が 存知には、足柄を打越えて坂東にて軍をせん。」と早られけるを上總守申けるは、「福原を立せ給し時、入道殿の御定には、軍をば忠清に任せさせ給へんと仰候 しぞかし。八箇國の兵共皆兵衞佐に隨ひついて候なれ ば、何十萬騎か候はん。御方の御勢は七萬餘騎とは申せども、國々の驅武者共也。馬も人も責伏せて候。伊豆駿河の勢の參るべきだにも未見えず候。只富士川を前に當てて、御方の御勢を待せ給ふべうや候らん。」と申ければ、力及ばでゆらへたり。
さる程に、兵衞佐は足柄の山を打越えて、駿河國黄瀬川にこそ著給へ。甲斐信濃の源氏ども馳來て一つになる。浮島が原にて、勢汰あり。廿萬騎とぞ記い たる。常陸源氏佐竹太郎が雜色、主の使に文持て京へ上るを、平家の先陣上總守忠清是を留て、持たる文を奪取り明て見れば、女房の許への文也。苦かるまじと て取せてけり。「抑兵衞佐殿の勢、いか程有ぞ。」と問へば、「凡そ八日九日の道に、はたとつゞいて、野も山も海も河も武者で候。下臈は四五百千迄こそ、物 の數をば知て候へ共其より上は知らぬ候。多いやらう少いやらうをば知候はず。昨日黄瀬川にて、人の申つるは、源氏の御勢二十萬騎とこそ申候つれ。」上總守 是を聞いて、「あはれ大將軍の御心の延させ給たる程、口惜い事候はず。今一日も先に討手を下させ給ひたらば、足柄の山越えて、八箇國へ御出候はゞ、畠山が 一族、大庭兄弟、などか參らで候べき。是等だにも參りなば、坂東には靡かぬ草木も候まじ。」と、後悔すれども甲斐ぞなき。
又大將軍權亮少將維盛、東國の案内者とて、長井齋藤別當實盛を召て、「やや實盛、汝程の強弓精兵、八箇國に如何程有ぞ。」と問ひ給へば、齋藤別當あざ笑て申けるは、「左候へば、君は實盛を大矢と思召し候か。僅に十三束こそ仕り候へ。實盛程射候者は八箇國に幾らも候。大 矢と申す定の者の、十五束に劣て引は候はず、弓の強さも、したゝかなる者五六人して張り候。かゝる精兵共が射候へ ば、鎧の二三兩をも重ねて、容易う射て徹し候也。大名一人と申は勢の少い定、五百騎に劣るは候はず。馬に乘つれば落る道を知らず。惡所を馳れども、馬を倒 さず。軍は又親も討れよ、子も討れよ、死ぬれば乘越々々戰ふ候。西國の軍と申は親討れぬれば孝養し、忌明て寄せ、子討れぬれば、其思ひ歎きに、寄候はず。 兵粮米盡ぬれば春は田作り、秋は刈収て寄せ、夏は熱しと云ひ、冬は寒しと嫌ひ候。東國には、惣て其儀候はず。甲斐信濃の源氏共、案内は知て候。富士のすそ より搦手にやまはり候らん。かう申せば、君を憶せさせ參せんとて申とや思召し候らん。其儀には候はず。軍は勢には依らず、策に依るとこそ申傳て候へ。實盛 今度の軍に命生て再都へ參るべしとも覺候はず。」と申ければ、平家の兵共是を聞て、皆震ひわなゝきあへり。
さる程に、十月二十三日にもなりぬ。明日は源平富士川にて、矢合と定めたりけるに、夜に入て、平家の方より 源氏の陣を見渡せば、伊豆駿河の人民百姓等が、軍に怖て、或は野に入り山に隱れ、或は舟に取乘て、海河に浮び、營の火見えけるを、平家の兵共「あなおびた だしの源氏の陣の遠火の多さよ。げにも誠に野も山も海も河も、皆敵で有けり。如何せん。」とぞあわてける。其夜の夜半ばかり、富士の沼に幾らもむれ居たり ける水鳥共が、何にか驚きたりけん、只一度にはと立ける羽音の、大風雷などの樣に聞えければ、平家の兵共、「すはやげんじの大勢の寄するは。齋藤別當が申 つる樣に、定めて搦手もまはるらん。取籠められて は叶ふまじ。爰をば引いて、尾張河、州俣を防げや。」とて、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。餘に遽て噪いで 弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、人の馬には我乘り、わが馬をば人に乘らる。或は繋いだる馬に騎て株を繞る事限なし。近き宿々より迎へ取て遊 びける遊君遊女共、或は頭蹴破れ、腰蹈折れて、喚叫ぶ者多かりけり。
あくる二十四日卯の刻に、源氏大勢廿萬騎、富士川に押寄て、天も響き大地も搖ぐ程に、閧をぞ三箇度作りける。
五節之沙汰
平家の方には、音もせず。人を遣はして見せければ、「皆落て候。」と申す。或は敵の忘たる鎧取て參りたる者も有り。或は敵の捨たる大幕取て參りたる 者も有り。「敵の陣には蠅だにも翔り候はず。」と申す。兵衞佐、馬より降り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、王城の方を伏拜み、「是は全く頼朝が私の高名にあ らず、八幡第菩薩の御計也。」とぞ宣ひける。やがて打取る所なればとて、駿河國をば一條次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に預けらる。平家續いても攻べけれ ども後もさすが覺束なしとて浮島原より引退き、相摸國へぞ歸られける。海道宿々の遊君遊女ども、「あな忌々し。射手の大將軍の矢一つだに射ずして、逃上り 給ふうたてさよ。軍には見逃と云事をだに心憂き事にこそするに、是は聞にげし給ひたり。」と笑ひあへり。落書共多かりけり。都の大將軍をば宗盛と云ひ、討 手の大將をば權亮と云ふ間、平家をひら屋 によみなして、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらん、柱とたのむすけをおとして。
富士河の瀬々の岩こす水よりも、はやくもおつるいせ平氏かな。
上總守たゞきよが、富士河に鎧を捨たりけるを讀めり。
富士河に鎧はすてつ、墨染の衣たゞきよ後の世のため。
たゞきよはにげの馬にぞのりにける、上總鞦かけてかひなし。
同十一月八日、大將軍權亮少將維盛、福原の新都へ上りつく。入道相國大に怒て、「大將軍權亮少將維盛をば鬼界が島へ流すべし、侍大將上總守忠清をば 死罪に行へ。」とぞ宣ひける。同九日平家の侍共、老少參會して、「忠清が死罪の事、いかゞ有らん。」と評定す。中に主馬判官盛國進出でて申けるは、「忠清 は昔より不覺人とは承り及ばず、あれが十八歳と覺え候、鳥羽殿の寶藏に五畿内の惡黨二人、迯籠て候しを、寄て搦めうと申す者候はざりしに、此忠清白晝に唯 一人築地を越え、はね入て、一人をば討取り、一人をば生捕て、後代に名を揚たりし者にて候。今度の不覺は、徒事とも覺え候はず。是に附ても、能々兵亂の御 愼候べし。」とぞ申ける。
同十日、大將軍權亮少將維盛、右近衞中將になり給ふ。「討手の大將と聞えしかども、させるし出たる事もおはせず。是は何事の勸賞ぞや。」と人々ささやき合へり。
昔將門追討の爲に、平將軍貞盛、田原藤太秀里、うけ給て坂東へ發向したりしかども、將門 容易う亡難かりしかば、重て討手を下すべしと、公卿僉議あて、宇治民部卿忠文、清原重藤、軍監と云ふ官を給て下ら れけり。駿河國清見關に宿したりける夜、彼重藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟火影寒うして浪を燒き、驛路鈴聲夜山をすぐ」と云ふ唐歌を高らかに口ずさ み給へば、忠文優に覺えて、感涙をぞ流されける。さる程に將門をば、貞盛秀里が終に討取てけり。其頭を持せて上る程に、清見關にて行逢うたり。其より先後 の大將軍打連て上洛す。貞盛秀里に勸賞行はれける時、忠文重藤にも勸賞有べきかと、公卿僉議有り。九條右丞相師輔公の申させ給ひけるは、「坂東へ討手は向 うたりと云へども、將門容易う亡ひ難き處に、此人共仰を蒙て、關の東へ赴く時、朝敵既に亡びたり。さればなどか勸賞無るべき。」と申させ給へども、其時の 執柄小野宮殿、「『疑しきをば成す事なかれ』と禮記の文に候へば。」とて、遂になさせ給はず。忠文是を口惜事にして、「小野宮殿の御末をば、奴に見なさ ん。九條殿の御末には、何の世迄も守護神と成ん。」と誓ひつゝ、干死にこそし給ひけれ。されば九條殿の御末は、目出たう榮させ給へども、小野宮殿の御末に は、然るべき人も坐さず、今は絶果給ひけるにこそ。
さる程に入道相國の四男、頭中將重衡、左近衞中將に成給ふ。同十一月十三日福原には、内裏造出して、主上御 遷幸有り。大嘗會あるべかりしかども、大嘗會は十月の末、東河に御幸して、御禊有り。大内の北の野に齋場所を作て、神服神具を調ふ。大極殿の前、龍尾道の 壇下に、迴立殿を建て、御湯をめす。同壇の竝に、大嘗宮を作て、神膳を備ふ。宸宴有り。御 遊有り。大極殿にて大禮有り。清暑堂にて御神樂有り。豊樂院にて宴會あり。然を此福原の新都には、大極殿も無けれ ば、大禮行ふべき處もなし。清暑堂無れば、御神樂奏すべき樣もなし。豊樂院も無れば、宴會も行はれず。今年は唯新嘗會五節許有るべきよし、公卿僉議有て、 猶新嘗の祭をば、舊都の神祇官にして遂られけり。
五節は、淨見原の當時、吉野宮にして、月白く風烈しかりし夜、御心を澄しつゝ琴を彈給しに、神女あま下り、五度袖を飜す。是ぞ五節の始なる。
都歸
今度の都遷をば、君も臣も御歎有り。山奈良を始て、諸寺諸社に至る迄、然べからざる由一同に訴申間、さしも横紙を破るゝ太政入道も、さらば都還有るべしとて京中ひしめきあへり。
同十二月二日、俄に都還有けり。新都は北は山にそひて高く、南は海近くして下れり。波の音常は喧く、鹽風烈しき所也。されば新院いつとなく、御惱の みしげかりければ、急ぎ福原を出させ給ふ。攝政殿を始奉て、太政大臣以下の公卿殿上人我も/\と供奉せらる。入道相國を始として平家一門の公卿殿上人我先 にとぞ上られける。誰か心憂かりつる新都に、片時も殘るべき。去る六月より屋ども壞よせ、資材雜具運び下し、形の如く取立たりつるに、又物狂はしう、都還 有ければ、何の沙汰にも及ばず、打捨々々上られけり。各すみかも無く して、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊について、御堂のくわい廊、社の拜殿などに、立宿てぞ然るべき人々もましましける。
今度の都遷の本意を如何にと云ふに、舊都は南都北嶺近くして、聊の事にも春日の神木、日吉の神輿など言て亂りがはし。福原は山隔たり江重て、程もさすが遠ければ、左樣の事たやすからじとて、入道相國の計ひ出されたりけるとかや。
同十二月二十三日、近江源氏の背きしを攻んとて、大將軍には左兵衞督知盛、薩摩守忠度、都合其勢二萬餘騎で、近江國へ發向して、山本、柏木、錦古里など云ふ溢れ源氏共一々に皆攻落し、やがて美濃尾張へ越え給ふ。
奈良炎上
都には又高倉宮園城寺へ入御の時、南都の大衆同心して、剩へ御迎に參る候、是以て朝敵なり。されば南都をも三井寺をも攻らるべしといふ程こそ在け れ、奈良の大衆おびただしく蜂起す。攝政殿より「存の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ。」と仰下されけれ共一切用たてまつらず。有官の別當忠成を御使に 下されたりければ、「しや乘物より取て引落せ、髻切れ。」と騒動する間、忠成色を失て迯上る。次に右衞門佐親雅を下さる。是をも「髻切れ。」と大衆ひしめ きければ、取る物も取敢ず、逃上る。其時は勸學院の雜色二人が、髻切れけり。
又南都には大なる毬杖の玉作て、是は平相國の頭と名附て、「打て、踏め。」などぞ申ける。 「詞の漏し易は殃を招く媒也。詞の愼まざるは、破れを取る道也。」と云へり。此入道相國と申は、かけまくも忝く當今の外祖にて坐ます。其をか樣に申ける南都の大衆、凡は天魔の所爲とぞ見えたりける。
入道相國か樣の事共傳聞給ひて、爭か好しと思はるべき。且々南都の狼藉を靜めんとて、備中國の住人瀬尾太郎 兼康、大和國の檢非所に補せらる。兼康五百餘騎で南都へ發向す。「相構て、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ。弓箭な帶しそ。」とて 向はれたりけるに、大衆かゝる内議をば知らず、兼康が餘勢六十餘人搦取て、一々に皆頸を斬て、猿澤の池の端にぞ懸竝べたる。入道相國大に怒て、「さらば南 都を攻よや。」とて、大將軍には頭中將重衡、副將軍には中宮亮通盛、都合其勢四萬餘騎で南都へ發向す。大衆老少嫌はず七千餘人甲の緒をしめ、奈良坂、般若 寺、二箇所の路を掘切て、堀ほり垣楯かき、逆茂木引て待かけたり。平家は四萬餘騎を二手に分て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押寄て、鬨をどとつくる。 大衆は皆歩立打物なり。官軍は馬にてかけまはしかけまはし、あそここゝに追懸/\指つめ引つめ散々に射ければ、防ぐ所の大衆數を盡いて討れにけり。卯刻に 矢合して一日戰ひ暮す。夜に入て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭共に破れぬ。落行く衆徒の中に、坂四郎永覺と云ふ惡僧あり。打物持ても弓箭を取ても力の強 さも七大寺十五大寺に勝たり。萌黄威の腹巻の上に、黒絲威の鎧を重てぞ著たりける。帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の手には茅の葉の樣に反たる白柄の大 長刀、黒漆の大太刀持つまゝに、同宿十餘人前後にたて、 てがいの門より打て出でたり。是ぞ暫支たる。多くの官兵、馬の足薙れて討れにけり。されども官軍は大勢にて、入替入替攻ければ、永覺が前後左右に防ぐ所の同宿皆討れぬ。永覺只獨猛けれども、後あらはになりければ、南を指いて落ぞ行く。
夜軍に成て、暗は暗し、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前に打立て、「火を出せ。」と宣ふ程こそ在けれ。平家の勢の中に播磨國の住人福井庄の下司、 次郎太夫友方と云ふ者、楯を破り續松にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しゝ、火本は一つなりけれども、吹迷ふ風 に、多くの伽藍に吹かけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。歩 も得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども、女童部は、大佛殿、山階寺の内へ我先にとぞ迯行ける。大佛殿の二階の上には、千餘人昇り上り、敵の續くを上せじと 階をば引てけり。猛火は正う押懸たり。喚叫ぶ聲、焦熱、大焦熱、無間阿鼻のほのほの底の罪人も、是には過じとぞ見えし。
興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂に坐ます佛法最初の釋迦の像、西金堂に坐ます自然湧出の觀 世音、瑠璃を竝べし四面の廊、朱丹を交へし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽に煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、實報寂光の生身の御佛と思め し準へて、聖武皇帝、手ら親ら琢き立給ひし金銅十六丈の盧舎那佛、鳥瑟高く顯れて、半天の雲にかくれ、白毫新に拜れ給ひし滿月の尊容も、御頭は燒落て大地 に有り、御身は鎔合 て山の如し。八萬四千の相好は、秋の月早く五重の雲に掩隱れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空く十惡の風に漂ふ。煙は 中天に滿々て、炎は虚空に隙もなし。親りに見奉る者、更に眼を當ず、遙に傳聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法門聖教、總て一巻も殘らず。我朝はいふに 及ばず、天竺震旦にも、是程の法滅有るべしともおぼえず。優填大王の紫磨金を瑩き、毘首羯摩が赤栴檀を刻じも、纔に等身の御佛なり。況や是は南閻浮提の中 には、唯一無雙の御佛、長く朽損の期あるべしとも覺えざりしに、今毒縁の塵に交て、久く悲を殘し給へり。梵釋四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒給ふらん とぞ見えし。法相擁護の春日大明神、如何なる事をか覺しけん。されば春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音、恨る樣にぞ聞えける。ほのほの中にて燒死ぬる人 數をしるいたりければ、大佛殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂には五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百 餘人なり。戰場にして討るゝ大衆千餘人、少々は般若寺の門に切かけ、少々は頸共持せて都へ上り給ふ。
二十九日、頭中將、南都亡して北京へ歸りいらる。入道相國ばかりぞ、憤晴て喜ばれける。中宮一院上皇攝政以 下の人々は、「惡僧をこそ滅すとも、伽藍を破滅すべしや。」とぞ御歎有ける。衆徒の頸ども本は大路を渡いて、獄門の木にかけらるべしと、聞えしかども、東 大寺興福寺の亡ぬる淺ましさに沙汰にも及ばず。あそここゝの溝や堀やにぞ捨置ける。聖武皇帝の宸筆の御記文には、「我寺興複せば、天下も興複し、我寺衰微 せば、天下も衰微すべし。」 と遊されたり。されば天下の衰微せん事、疑なしとぞ見えたりける。淺ましかりつる年も暮れ、治承も五年に成にけり。
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平家物語卷第六
新院崩御
治承五年正月一日のひ、内裏には、東國の兵革、南都の火災に依て、朝拜停められ、主上出御もなし。物の音も吹鳴さず、舞樂 も奏ぜず、吉野の國栖も參らず、藤氏の公卿一人も參ぜられず、氏寺燒失に依て也。二日のひ殿上の宴醉もなし。男女打ひそめて、禁中忌々しうぞ見えける。佛 法王法ともに盡ぬる事ぞ淺ましき。一院仰なりけるは、「我れ十善の餘薫に依て萬乘の寶位を保つ。四代の帝王、思へば子也孫也。如何なれば萬機の政務を停め られて、空う年月を送らむ。」とぞ御歎有ける。
同五日のひ、南都の僧綱等、闕官せられ、公請を停止し、所職を沒収せらる。衆徒は老たるも若きも、或は射殺され、或は斬殺され、或は煙の中を出で ず、炎に咽んで多く亡にしかば、纔に殘る輩は山林に交り、跡を留る者一人もなし。興福寺別當花林院僧正永圓は、佛像經卷の煙とのぼりけるを見て、あな淺ま しと、心打騒ぎ、心をくだかれけるより病附て、幾程もなく終に失給ぬ。此僧正は優に情深き人也。或時郭公の鳴を聞いて、
聞く度にめづらしければほとゝぎす、いつも初音の心地こそすれ。
と云歌を詠うで、初音僧正とぞ云れ給ける。
但しかたのやうにても御齋會は在べきにて僧名の沙汰在しに、南都の僧綱は闕官せられぬ、北京の僧綱を以て行はるべきかと公卿僉議あり。さればとて南 都をも捨果させたまふべきならねば、三論宗の學生、成法已講が勸修寺に忍つゝ隱れ居たりけるを召出されて、御齋會形のごとくに行はる。上皇は、去去年法皇 の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、去年高倉宮の討たれさせ給し御有樣、都遷とて淺間しかりし天下の亂れ、加樣の事共御心苦しう思食されけるより御惱つ かせ給ひて、常は煩しう聞えさせ給ひしが、東大寺興福寺の亡びぬるよし聞召されて、御惱彌重らせ給ふ。法皇斜ならず御歎有し程に、同正月十四日六波羅池殿 にて、上皇終に崩御成ぬ。御宇十二年、徳政千萬端、詩書仁義の廢ぬる道を興し、理世安樂の絶たる跡を繼給ふ。三明六通の羅漢も免れ給はず、幻術變化の權者 も遁ぬ道なれば、有爲無常の習なれども、理過てぞ覺えける。やがて其夜東山の麓、清閑寺へ遷し奉り、夕の煙とたぐへ、春の霞と上らせ給ひぬ。澄憲法印御葬 送に參會んと、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙と成らせ給ふを見參せて、
常に見し君が御幸をけふ問へば、かへらぬ旅ときくぞ悲き。
又或女房、君隱させ給ひぬと承て、かうぞ思ひつゞける。
雲の上に行末遠く見し月の、光きえぬときくぞかなしき。
御年廿一。内には十戒を保ち、外には五常を亂らず、禮義を正うせさせ給ひけり。末代の賢 王にて坐ましければ、世の惜み奉る事、月日の光を失へるが如し。かやうに人の願も叶はず、民の果報も拙き人間の境こそ悲けれ。
紅葉
「ゆうに優う人の思附き參らする方も恐くは延喜天暦の帝と申すとも、爭でか是には勝るべき。」とぞ人申ける。大方は兼王の名を揚げ、仁徳の行を施さ せまします事も、君御成人の後清濁を分たせ給ひての上の返事にてこそ有るに、此君は無下に幼主の御時より、性を柔和に受させ給へり。去ぬる承安の比ほひ、 御在位の始つかた、御年十歳許にも成せ給ひけん、餘に紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山を築せ、櫨楓の、色うつくしう紅葉したるを植させて、紅葉の山と 名づけて、終日に叡覧有に、猶飽足せ給はず。然を或夜野分はしたなう吹て、紅葉を皆吹散し、落葉頗狼藉なり。殿守の伴の造朝ぎよめすとて、是を悉く掃捨て てけり。殘れる枝、散れる木葉をば掻聚て、風寒じかりけるあしたなれば、縫殿の陣にて、酒煖てたべける薪にこそしてんげれ。奉行藏人、行幸より先にと、急 ぎ行て見るに、跡形なし。「如何に。」と問へば、「しか%\。」といふ。藏人大きに驚き、「あな淺まし。君のさしも執し思召されつる紅葉をか樣にしける淺 ましさよ。知らず、汝等、只今禁獄流罪にも及び、我身も如何なる逆鱗にか預らんずらん。」と、歎く處に、主上いとゞしく夜のおとゞを出させ給ひも敢ず、か しこへ行幸成て、紅葉を叡覧なるに、無りければ、「如何に。」と御尋有に、藏人 奏すべき方はなし、有の儘に奏聞す。天氣殊に御心好げに打笑せ給ひて、「『林間に酒を煖めて紅葉を燒く』と云ふ詩の心をば、其等には誰が教へけるぞや。優うも仕りける物哉。」とて、却て叡感に預し上は、敢て勅勘無りけり。
又安元の比ほひ、御方違の行幸有しに、さらでだに鶏人曉唱聲、明王の眠を驚す程にも成しかば、何も御寢覺が ちにて、つや/\御寢もならざりけり。況や冱る霜夜の烈きには、延喜聖代、國土の民共いかに寒るらんとて、夜のおとゞにして、御衣を脱せ給ける事などまで も思召し出して、我帝徳の至ぬ事をぞ御歎有ける。やゝ深更に及んで、程遠く人の叫ぶ聲しけり。供奉の人々は聞附られざりけれども、主上聞召て、「今叫ぶ者 は何者ぞ。きと見て參れ。」と仰ければ、上臥したる殿上人、上日の者に仰す。走り散て尋ぬれば、或辻に、怪の女童のながもちの蓋提て泣にてぞ有ける。「い かに。」と問へば、「主の女房の、院の御所に侍はせ給ふが、此程やうやうにして、したてられつる御裝束が持て參る程に、只今男の二三人詣來て、奪取て罷り ぬるぞや。今は御裝束が有ばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。はかばかしう立宿せ給ふべき親い御方も坐さず。此事思ひつゞくるに泣也。」とぞ申ける。さて 彼女童を具して參り、此由奏聞しければ、主上聞召て、「あな無慚。如何なる者のしわざにてか有らん。堯の代の民は、堯の心のすなほなるを以て心とするが故 に皆すなほ也。今の代の民は、朕が心を以て心とするが故に、かたましき者朝に在て罪を犯す。此吾恥に非ずや。」とぞ仰ける。「さて取られつらん衣は何色 ぞ。」と御尋あれば、「然々の色。」と奏す。建禮門院の未中宮にておは しましける時なり。其御方へ、「さやうの色したる御衣や候。」と仰ければ、先のより遙に美きが參たりけるを、件の 女童にぞ賜せける。「未夜深し、又さる目にもや逢ふ。」とて、上日の者をつけて、主の女房の局まで送せましましけるぞ忝き。されば怪の賤の男、賤の女に至 る迄、只此君千秋萬歳の寶算をぞ祈り奉る。
葵前
中にも哀成し御事は、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召使ける上童、思はざる外、龍顏に咫尺する事有けり。唯尋常の白地にても無して主上常はめされけ り。まめやかに御志深かりければ、主の女房も召使はず、却て主の如くにぞいつきもてなしける。そのかみ謠詠にいへることあり。「女を生でもひいさんする事 無れ。男を生でも喜歡する事無れ。男は侯にだにも封ぜられず、女は妃たり。」とて、后に立つと云へり。此人女御后とももてなされ、國母仙院ともあふがれな んず。目出たかりける幸かなとて其名をば葵前と云ければ、内々は葵女御などぞささやきける。主上是を聞召て、其後は召ざりけり。御志の盡ぬるには非ず、唯 世の謗を憚せ給ふに依て也。されば常に御詠がちにて、夜のおとゞにのみぞ入せ給ふ。
其時の關白松殿、御心苦しき事にこそあんなれ。申慰め參せんとて、急ぎ御參内有て、「さ樣に叡慮にかゝらせ坐さん事、何條事か候べき。伴の女房とく/\召さるべしと覺え候。品尋らるゝに及ばず、基房やがて猶子に仕り候はん。」と奏せさせ給へば、主上「いさとよ。そ こに申事はさる事なれども、位を退て後は、間さるためしもあんなり。正う在位の時、さ樣の事は後代の謗なるべし。」とて、聞召も入ざりけり。關白殿力及ばせ給はず、御涙を抑て、御退出有り。其後主上緑の薄樣の殊に匂深かりけるに、古きことなれ共、思召し出て遊れける。
しのぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人のとふまで。
此御手習を冷泉少將隆房賜り續で、件の葵前に賜せたれば、顏打ち赤め、例ならぬ心地出來たりとて里へ歸り、打臥す事五六日して終にはかなく成にけ り。「君が一日の恩の爲に妾が百年の身を誤つ。」ともか樣の事をや申べき。昔唐太宗の鄭仁基が娘を元觀殿に入んとし給ひしを、魏徴、「彼娘既に陸氏に約せ り。」と諫申しかば殿に入るゝ事をやめられけるには、少も違はせ給はぬ御心ばせ也。
小督
主上戀募の御思に沈ませおはします。申慰參せんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房を參せらる。此女房は、櫻町中納言重教卿の御娘、宮中一の美 人、琴の上手にておはしける。冷泉大納言隆房卿、未少將なりし時、見初たりし女房なり。少將初は歌を詠み文を盡し戀悲しみ給へども、靡く氣色も無りしが、 さすが歎に弱る心にや、終には靡給ひけり。されども今は君に召れ參せて、爲方もなく悲さに、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず。 少將餘所ながらも小督殿見奉る事もやと、常は參内せられけり。御座ける局の邊、御簾のあたりを彼方此方へ行き通りたゝずみ 歩き給へども、小督殿吾君に召されん上は、少將いかにいふとも、詞をもかはし文を見べきにもあらずとて、傳の情をだにも懸られず。少將若やと、一首の歌を 詠で、小督殿のおはしける御簾の中へ投入たる。
思かね心は空にみちのくの、ちかの鹽釜近きかひなし。
小督殿、やがて返事もせばやと思はれけれども、君の御爲、御後めたうや思はれけん、手にだに取ても見給はず。やがて上童に取せて、坪の内へぞ投出す。少將情なう恨めしけれども、人もこそ見れと、空恐しう思はれければ、急ぎ是を取て懷に入てぞ出られける。猶立歸て、
玉章を今は手にだにとらじとや、さこそ心に思ひすつとも。
今は此世にて相見ん事も難ければ、生て物を思んより、死んとのみぞ願れける。
入道相國是を聞き、中宮と申も御女也、冷泉少將も聟也。小督殿に、二人の聟を取られて、「いやいや小督があらん限りは世の中好まじ。召出して失は ん。」とぞ宣ひける。小督殿漏聞いて、「我身の事は爭でもありなん、君の御爲御心苦し。」とて或暮方に内裏を出て、行方も知ず失たまひぬ。主上御歎斜なら ず、晝は夜のおとゞに入せ給ひて、御涙にのみ咽び、夜は南殿に出御成て、月の光を御覧じてぞ、慰せ給ひける。入道相國是を聞き、「君は小督故に思召し沈せ 給ひたん也。さらむには。」とて、御介錯の女房達をも參せず、參内し給ふ臣下をも猜み給へば、入道の權威に憚て、通ふ人もなし。禁中彌忌々しうぞ見えけ る。
かくて八月十日餘に成にけり。さしも隈なき空なれど、主上は御涙に曇りつゝ、月の光も朦にぞ御覧ぜられける。やゝ 深更に及で、「人やある/\。」と召れけれども、御いらへ申す者もなし。彈正少弼仲國其夜しも御宿直にまゐて遙に遠う候が、「仲國」と御いらへ申たれば、 「近う參れ。仰下さるべき事有り。」何事やらんとて御前近う參じたれば、「汝若小督が行方や知たる。」仲國「爭か知り參せ候ふべき。努々知り參らせず 候。」「誠やらん、小督は嵯峨の邊に片折戸とかやしたる内に在りと申す者の有ぞとよ。主が名をば知らずとも、尋ねて參せなんや。」と仰ければ、「主が名を 知り候はでは、爭か尋參せ候べき。」と申せば、「實にも。」とて、龍顏より御涙を流させ給ふ。
仲國つく%\と物を案ずるに、誠や、小督殿は、琴彈給ひしぞかし。此月の明さに、君の御事思出參せて、琴彈 給はぬ事はよもあらじ。御所にて彈給ひしには、仲國笛の役に召されしかば、其琴の音は、何くなりとも聞知んずる物を。嵯峨の在家幾程かあるべき。打廻て尋 ねんに、などか聞出ざるべきと思ひければ、「さ候はば、主が名は知らずとも、若やと尋ね參せて見候はん。但し尋逢參らせて候とも御書を給はらで申さんには うはの空にや思召され候はんずらん。御書を賜はて向ひ候はん。」と申ければ、誠にもとて、御書をあそばいて給うだりけり。「寮の御馬に乘て行け。」とぞ仰 ける。仲國寮の御馬給はて、明月に鞭を揚げ、そことも知らずあくがれ行く。小鹿鳴く此山里と詠じけん、嵯峨の邊の秋の比、さこそは哀にも覺けめ。折片戸し たる屋を見附ては、此内にやおはすらんと、ひかへ/\聞けれども、琴彈く 所も無りけり。御堂などへ參り給へる事もやと、釋迦堂を始て、堂々見まはれども、小督殿に似たる女房だに見え給は ず。空う歸參たらんは、中々參らざらんよりは惡かるべし。これよりもいづちへも迷行かばやと思へども、何くか王地ならぬ、身をかくすべき宿もなし。如何せ んと思ひ煩ふ。誠や、法輪は程近ければ、月の光に誘れて、參り給へる事もやと、其方に向てぞ歩ませける。
龜山の傍近く、松の一村有る方に、幽に琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へ ども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈澄されたる。控へて是を聞ければ、少しも紛べうもなき小督殿の爪音也。樂は何ぞと聞ければ、夫を想 て戀ふると詠む想夫婦と云ふ樂なり。さればこそ、君の御事思出でまゐらせて、樂こそ多けれ、此樂を彈給ひける優さよ。在り難う覺て腰よりやうでう拔出し、 ちと鳴いて、門をほと/\と敲けば、軈て彈止給ぬ。高聲に「是は内裏より仲國が御使に參て候、開させ給へ。」とて、たゝけども/\、咎る人も無りけり。 やゝ有て、内より人の出る音のしければ嬉う思て待つ所に、鎖子をはづし、門を細目に開け、いたいけしたる小女房、顏ばかり指出いて、「門違にてぞ候らん。 是には、内裏より御使など給はるべき所にても候はず。」と申せば、中々返事して門たてられ、鎖子さゝれては惡かりなんと思ひて、押開てぞ入にける。妻戸の 際の縁に居て、「いかにか樣の所には御渡候やらん。君は御故に思召沈ませ給ひて、御命も既に危うこそ見えさせ御坐し候へ。只うはの空に申とや思召され候は ん。御書を給て參て候。」とて、取出 て奉る。有つる女房取次で、小督殿に參せたり。開て見給へば、誠に君の御書也けり。軈て御返事書き引結び、女房の 裝束一重添て出されたり。仲國、女房の裝束をば肩にうちかけ申けるは、「餘の御使で候はば御返事の上はとかう申に及び候はねども、日比内裏にて御琴遊しし 時、仲國笛の役に召され候し奉公をば爭か御忘候べき。直の御返事を承らで歸參らん事こそ世に口惜う候へ。」と申ければ、小督殿實もとや思はれけん、自ら返 事し給ひけり。「其にも聞せ給ひつらん。入道相國の餘に怖き事をのみ申すと聞しかば淺ましさに、内裏をばにげ出て、此程はかゝる栖ひなれば、琴など彈く事 無りつれども、さても有るべきならねば、明日よりは大原の奥に思ひ立つ事の候へば、主の女房の今夜ばかりの名殘を惜うで、今は夜も更ぬ、立聞く人もあらじ など勸れば、さぞな昔の名殘もさすが床くて、手馴し琴を彈く程に、安うも聞出されけりな。」とて、涙もせき敢給はねば、仲國も袖をぞ濕しける。やゝ有て、 仲國涙を抑へて申けるは、「明日より大原の奥に思召立つ事と候は、御樣などを變させ給ふべきにこそ。努々あるべうも候はず。さて君の御歎をば何とかし參せ 給べき。是ばし出し參すな。」とて、供に召具したる馬部吉上など留置き、其屋を守護せさせ、寮の御馬に打騎て、内裏へ歸參りたれば、ほの%\と明にけり。 「今は入御もなりぬらん。誰して申入べき。」とて、寮の御馬繋せ、ありつる女房の裝束をばはね馬の障子に打掛け、南殿の方へ参れば主上は未夜邊の御座にぞ まし/\ける。「南に翔北に嚮、寒温を秋鷹に付難し。東に出で西に流れ、唯瞻望を曉の月に寄す。」と、打詠めさせ給ふ處に、仲國つと參りたり。小督殿の御 返事をぞ參せた る。主上なのめならず御感なて、「汝やがてよさり具して參れ。」と仰ければ、入道相國の還聞給はん所は怖しけれど も、是又綸言なれば、雜色牛飼牛車清げに沙汰して、嵯峨へ行向ひ、參るまじき由やう/\に宣へども、樣々に拵へて、車にとり乘奉り、内裏へ參たりければ、 幽なる所に忍せて、夜々召されける程に、姫宮御一所出來させ給ひけり。此姫宮と申は坊門の女院の御事なり。入道相國何としてか漏聞たりけん。「小督が失た りといふ事は、跡形もなき虚言也けり。」とて小督殿を捕へつつ、尼に成てぞ放たる。小督殿出家は元よりの望なりけれども、心ならず尼に成されて、歳二十 三、濃墨染にやつれ果てて嵯峨の邊にぞすまれける。うたてかりし事ども也。主上はか樣の事共に、御惱はつかせ給て、遂に御隱れありけるとぞ聞えし。
法皇は打續き御歎のみぞ繁かりける。去る永萬には第一の御子、二條院崩御なりぬ。安元二年の七月には御孫六 條院かくれさせ給ぬ。天に栖まば比翼鳥、地にすまば連理枝と成んと、漢河の星を指て、御契淺からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、朝の露と消させ給ひ ぬ。年月は重なれ共、昨日今日の御別の樣に思召して、御涙も未盡せぬに、治承四年五月には、第二皇子高倉宮討たれさせ給ひぬ。現世後生たのみ思召されつる 新院さへ先立せ給ぬれば、とにかくに、かこつ方なき御涙のみぞ進ける。「悲の至て悲きは、老て後子に後たるよりも悲きはなし。恨の至て恨しきは、若うして 親に先立よりも恨しきはなし。」と、彼朝綱相公の、子息澄明に後て、書たりけん筆のあと今こそ思召し知られけれ。さるままには彼一乘妙典の 御讀誦も、怠らせ給はず、三密行法の御薫修も、積らせ給けり。天下諒闇に成しかば、大宮人も推竝て、華の袂や窶けん。
廻文
入道相國、か樣に痛う情なう振舞おかれし事を、さすが怖とや思はれけん、法皇慰め參せんとて、安藝の嚴島の内侍が腹の御娘、生年十八に成給ふが、優 に花やかにおはしけるを法皇へ參らせらる。上臈女房達餘た選ばれて、參られける。公卿殿上人多く供奉して、偏に女御參の如くにてぞありける。上皇隱させ給 て後、僅に二七日だにも過ざるに、然るべからずとぞ人々内々はささやきあはれける。
さる程に、其比信濃國に、木曽冠者義仲と云ふ源氏有りと聞えけり。故六條判官爲義が次男帶刀先生義方が子なり。父義方は、久壽二年八月十六日鎌倉の 惡源太義平が爲に誅せらる。其時義仲二歳なりしを、母泣々抱へて信濃へ越え、木曽中三兼遠が許に行き、「是如何にもして育て、人に成て見せ給へ。」と云ひ ければ、兼遠請取てかひ/\しう二十餘年養育す。漸長大する儘に、力も世に勝れてつよく、心も雙なく甲なりけり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちたち、 都て上古の田村、、利仁、餘五將軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣と云ふ共、爭か是には勝べきとぞ人申ける。
或時乳母の兼遠を召てのたまひける。「兵衞佐頼朝既に謀反を起し、東八箇國を討從へて、東 海道より上り、平家を追落んとするなり。義仲も東山北陸兩道を從へ、今一日も先に平家を責落し、譬へば日本國に、二人の將 軍と云はればや。」とほのめかしければ、中三兼遠大きに畏り悦で、「其料にこそ、君をば今迄養育し奉れ。かう仰らるゝこそ誠に八幡殿の御末とも覺えさせ給 へ。」とて、やがて謀反を企てけり。
兼遠に具せられて常は都へ上り平家の人々の振舞在樣をも見伺ひけり。十三で元服しけるも、八幡へまゐり八幡大菩薩の御前にて「我が四代の祖父義家朝 臣は此御神の御子と成て名をば八幡太郎と號しき。且つは其跡を追べし。」とて八幡大菩薩の御寶前にて髻取上げ、木曽次郎義仲とこそ付たりけれ。兼遠、先め ぐらし文候べしとて、信濃國には、禰井小彌太滋野行親を語ふに、背く事なし。是を始て、信濃一國の兵共、なびかぬ草木もなかりけり。上野國には故帶刀先生 義方が好にて田子郡の兵共、皆隨附にけり。平家の末に成る折を得て、源氏の年來の素懷を遂んとす。
飛脚到來
木曽と云所は、信濃に取ても南の端、美濃境なれば都も無下に程近し。平家の人々漏れ聞て、「東國の背だに有に北國さへ、こは如何に。」とぞ噪れけ る。入道相國仰られけるは、「其者心にくからず。思へば信濃一國の兵共こそ、隨附と云ふとも、越後國には、餘五將軍の末葉、城太郎助長、同四郎助茂、是等 は兄弟共に多勢の者也。仰下したらんずるに、安う討て參せ てんず。」と宣ひければ、「如何在んずらむ。」と内々はささやく者多かりけり。
二月一日、越後國住人、城太郎助長、越後守に任ず。是は木曽追討せられんずる謀とぞ聞えし。同七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王、書供養せらる。是は又兵亂の愼の爲也。
同九日、河内國石川郡に居住したりける武藏權守入道義基、子息石川判官代義兼、平家を背て、兵衞佐頼朝に心を通し既に東國へ落行べき由聞えしかば、 入道相國やがて討手を遣す。討手の大將には源大夫判官末方、攝津判官盛澄、都合其勢三千餘騎で發向す。城内には武藏權守入道義基、子息判官代義兼を先とし て、其勢百騎許には過ざりけり。鬨作り矢合して、入かへ/\數刻戰ふ。城の内の兵共、手のきは戰ひ、打死する者多かりけり。武藏權守入道義基討死す。子息 石川判官代義兼は、痛手負て生捕にせらる。同十一日義基法師が首都へ入て大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるゝ事、堀河天皇崩御の時、前對馬守源義親が首を 渡されし例とぞ聞えし。
同十二日、鎭西より飛脚到來、宇佐大宮司公通が申けるは、九州の者共、緒方三郎を始として、臼杵、戸次、松浦黨 に至る迄、一向平家を背いて源氏に同心の由申たりければ、「東國北國の背だに有に、こは如何に。」とて、手を打てあざみ合へり。
同十六日に、伊豫國より飛脚到來、去年の冬比より、河野四郎通清を初として、四國の者共皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後國の住人、額の入道西寂、平家に志深かりければ、 伊豫國へ押渡り、道前道後のさかひ、高直城にて、河野四郎通清を討候ぬ。子息河野四郎通信父が討たれける時、安藝 國の住人奴田次郎は母方の伯父なりければ、其へ越えてありあはず。通信父を討せて安らぬ者也。如何にもして西寂を討取むとぞ窺ひける。額入道西寂河野四郎 通清を討て後、四國の狼藉を鎭め、今年正月十五日に備後の鞆へ押渡り、遊君遊女共聚めて、遊戲れ酒もりしけるが、前後も知らず醉臥したる處に、河野四郎思 切たる者共百餘人相語て、はと押寄す。西寂が方にも三百餘人有ける者共、俄の事なれば、思も設けず周章ふためきけるを、立合ふ者をば射伏せ切伏せ、先西寂 を生捕して、伊豫國へ押渡り、父が討れたる高直城へさげて行き、鋸で頸を切たりとも聞えけり。又磔にしたりとも聞えけり。
入道死去
其後四國の者共、皆河野四郎に隨附く。熊野別當湛増も、平家の重恩の身なりしが、其も背いて源氏に同心の由聞えけり。およそ東國北國悉く背きぬ。南 海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚し、逆亂の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世は唯今失なんずとて、必平家の一門ならねども、心有る人々の歎き悲まぬ は無りけり。
同廿三日、公卿僉議あり。前右大將宗盛卿申されけるは坂東へ討手は向たりと云ども、させる爲出したる事も候はず。今度は宗盛大將軍を承て、向べき由申されければ、諸卿色代し て、「ゆゝしう候なん。」と申されけり。公卿殿上人も、武官に備り、弓箭に携らん人々は、宗盛卿を大將軍にて、東國北國の凶徒等追討すべき由仰下さる。
同二十七日前右大將宗盛卿源氏遂討の爲に、東國へ既に門出と聞えしが、入道相國違例の心地とて、留り給ひぬ。明る廿八日より重病を受給へりとて、京 中六波羅「すは仕つる事を。」とささやけり。入道相國病附給ひし日よりして、水をだに喉へ入たまはず、身の内の熱き事火を燒が如し。臥給へる所、四五間が 内へ入る者は、熱さ堪がたし。唯宣ふ事とては、「あたあた」とばかり也。少しも徒事とは見えざりけり。比叡山より、千手井の水を汲下し、石の船に湛へて、 其に下て冷給へば、水夥う湧上て、程なく湯にぞ成にける。若や扶かり給ふと筧の水をまかせたれば、石や鐡などの燒たる樣に、水迸て寄附ず。自ら中る水は、 ほのほと成て燃ければ、黒煙殿中に充滿て、炎渦巻いて上りけり。是や昔法藏僧都といし人、閻王の請に趣いて、母の生所を尋ねしに閻王憐み給ひて、獄卒を相 副へて焦熱地獄へ遣さる。鐡の門の内へ差入ば、流星などの如くに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそ思知られけれ。
入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ひける事こそ恐しけれ。譬へば、猛火の夥う燃たる車を門の内へ遣入た り。前後に立たる者は或は馬の面の樣なる者も有り、或は牛の面の樣なる者も有り。車の前には、無と云ふ文字ばかりぞ見えたる鐡の札をぞ立たりける。二位殿 夢の心に、「あれは何よりぞ。」と御尋あれば、「閻魔の廳より平家太政入道殿の御迎に參て候。」 と申す。「さて、其札は何といふ札ぞ。」と問せ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し給へる罪に依て、無 間の底に堕給ふべき由、閻魔の廳に御さだめ候が、無をば書かれて、間の字をば未だ書れぬ也。」とぞ申ける。二位殿打驚き、汗水になり、是を人に語給へば、 聞く人皆身の毛よだちけり。靈佛靈社に、金銀七寶を投げ、馬鞍鎧冑弓箭太刀刀に至る迄、取出し運出して祈られけれども、其驗も無りけり。男女の君達、跡枕 に指つどひて、如何にせんと歎悲み給へども叶べしとも見えざりけり。
閏二月二日、二位殿熱う堪難けれども、御枕の上に寄て、泣々宣けるは、「御有樣見奉に、日に添て憑少うこそ見えさせ給へ。此世に思食おく事あらば、 少し物の覺えさせ給ふ時、仰置け。」とぞ宣ひける。入道相國、さしも日來はゆゝしげに坐しかども、誠に苦げにて、息の下に宣ひけるは、「われ保元平治より 以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも帝祖太政大臣に至り、榮花子孫に及ぶ。今生の望、一事も殘る所なし。但し思置く事とては、伊豆國の流人前右 兵衞佐頼朝が頸を見ざりつるこそ安からね。我如何にも成なん後は堂塔をも立て孝養をもすべからず。やがて討手を遣し、頼朝が頭を刎て、我墓の前にかくべ し。其ぞ孝養にて有んずる。」と宣ひけるこそ、罪深けれ。
同四日、病に責められ、せめての事に、板に水を沃て、其に臥轉給へ共、助る心地もし給はず。悶絶びやく地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬車の馳違ふ音天も響き大地も搖ぐほど也。一天の君萬乘の主の、如何なる御事在すとも是には過じとぞ見えし。今年は六十四にぞ 成給ふ、老死と云べきにはあらねども、宿運忽に盡給へば、大法秘法の効驗もなく、神明三寶の威光も消え、諸天も擁 護し給はず。況や凡慮に於てをや。命に代り身に代らんと忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に竝居たれども、是は目にも見えず力にも關らぬ無常の刹鬼をば、 暫時も戰返さず。又歸り來ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空に、唯一所こそ赴き給ひけめ。日比作り置れし罪業計や、獄卒と成て、迎に來けん。哀なりし 事共也。さても有べきならねば、同七日に、愛宕にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼頸にかけて、攝津國へ下り、經島にぞ納ける。さしも日本一州に名を揚げ威 を振し人なれども、身は一時の煙と成て、都の空に立上り、屍は暫やすらひて、濱の眞砂に戲つゝ、空き土とぞ成給ふ。
築嶋
やがて葬送の夜不思議の事餘た有り。玉を磨き金銀を鏤て作られし西八條殿、其夜俄に燒ぬ。人の家の燒るは、常の習ひなれ共、淺間しかりし事共也。何 者の所爲にや有けん、放火とぞ聞えし。又其夜六波羅の南に當て、人ならば二三十人が聲して、「嬉や水鳴は瀧の水」と云ふ拍子を出して、舞躍り、どと笑ふ聲 しけり。去ぬる正月には、上皇隱させ給ひて、天下諒闇に成ぬ。僅に中一兩月を隔て、入道相國薨ぜられぬ。怪の賤の男賤の女に至る迄、如何が憂へざるべき。 是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、平家の侍の中にはやりをの若者共、百餘人笑ふ聲について、尋行て見れば、院の御所法住寺殿に、此二三年は院も渡 らせ 給はず、御所預備前前司基宗と云ふ者有り。彼基宗が相知たる者共、二三十人夜に紛れて來り集り酒を飲けるが、初はかゝる折 節に音なせそとて飲む程に、次第に飲醉て、か樣に舞躍ける也。はと押寄せて、酒に醉たる者共一人も漏さず三十人ばかり搦て、六波羅へ將て參り、前右大將宗 盛卿のおはしける坪の内にぞ引居たる。事の仔細を能々尋聞給ひて實も其程に醉たらんずる者をば斬るべきにもあらずとて皆許されけり。人の失ぬる跡には、恠 しの者も朝夕に鐘打鳴し、例時懺法讀む事は、常の習ひなれども、此禪門薨ぜられぬる後は、供佛施僧の營と云ふ事もなし。朝夕は唯軍合戰の策より外は、他事 なし。
凡は最後の所勞の有樣こそうたてけれ共、直人とも覺ぬ事共多かりけり。日吉社へ參り給ひしにも、當家他家の公卿多く供奉して、攝ろくの臣の春日御參 詣、宇治入など云ふもとも、是には爭か勝るべきとぞ人申ける。又何事よりも福原の經島築いて今の世に至る迄、上下往來の船の煩なきこそ目出たけれ。彼島は 去る應保元年二月上旬に築始められたりけるが、同年の八月に俄に大風吹き大浪立て、皆淘失ひてき。同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて、築かせられ けるが、人柱立てらるべしなど、公卿僉議有しかども、罪業なりとて、石の面に一切經を書いて、築れたりける故にこそ、經島とは名づけたれ。
慈心坊
古い人の申されけるは、清盛公は惡人とこそ思へども、誠は慈慧僧正の再誕也。其故は、攝 津國清澄寺と云ふ山寺あり。彼寺の住僧慈心房尊慧と申しけるは本は叡山の學侶、多年法華の持者也。然るに道心を發し離山し て、此寺に年月を送りければ皆人是を歸依しけり。去ぬる承安二年十二月廿二日の夜、脇息に倚懸り法華經讀奉りけるに、丑刻ばかりに夢ともなく現ともなく、 年五十計なる男の淨衣に立烏帽子著て、草鞋脛巾したるが、立文を持て來れり。尊慧「あれは何くよりの人ぞ。」と問ければ、「閻魔王宮よりの御使也。宣旨 候。」とて、立文を尊慧に渡す。尊慧是を開いて見れば、
くつ請、閻浮提大日本國攝津國清澄寺の慈心房尊慧、來廿六日、閻魔羅城大極殿にして、十萬人の持經者を以て十萬部の法華經を轉讀せらるべき也。仍て參勤せらるべし。閻王宣に依てくつ請如件。
承安二年十二月廿二日 閻魔廳
とぞ書かれたる。尊慧いなみ申べき事ならねば、左右なう領承の請文を書て奉ると覺て、覺にけり。偏に死去の 思なして、院主の光影房に此事を語る。皆人奇特の思ひをなす。尊慧口には彌陀の名號を唱へ、心に引攝の悲願を念ず。やう/\二十五日の夜陰に及で常住の佛 前にいたり例の如く脇息に倚懸て念佛讀經す。子刻に及で眠切なるが故に、住房に歸て打臥す。丑刻許に又先の如くに淨衣裝束なる鬼二人來て、はや/\參らる べしと勸る間、閻王宣を辭せんとすれば、甚其恐有り。參詣せんとすれば、更に衣鉢なし。此思をなす時、法衣自然に身に纒て肩に懸り、天より金の鉢下る。二 人の童子、二人の從僧、十人の下僧、七 寶の大車、寺坊の前に現ず。尊慧なのめならず喜で即時に車に乘る。從僧等西北の方に向て空を翔て、程なく閻魔王宮にいたりぬ。
王宮の體を見るに、外郭渺々として、其内曠々たり。其内に七寶所成の大極殿あり。高廣金色にして、凡夫の褒る所にあらず。其日の法會終て後、請僧皆 歸る時、尊慧は南方の中門に立て遙に大極殿を見渡せば、冥官冥衆、皆閻魔法王の御前に畏る。尊慧あり難き參詣也。此次に後生の事尋申さんとて、大極殿へ參 る。其間に二人の童子かいを指し、二人の從僧箱を持ち、十人の下僧列を引て、漸々歩近附く時、閻魔法王、冥官冥衆皆悉下迎ふ。多聞持國二人の童子に現じ、 藥王菩薩勇施菩薩、二人の從僧に變ず。十羅刹女十人の下僧に現じて、隨逐給仕し給へり。閻王問て曰く、「餘僧皆歸去ぬ。御房來る事如何。」「後生の在所承 はらん爲也。」「但し往生不往生は、人の信不信に有り云々。」閻王又冥官に勅してのたまはく、「此御房の作善の文箱南方の寶藏にあり。取出して一生の行、 化他の碑の文見せ奉れ。冥官承て、南方の寶藏に行て、一の文箱を取て參りたり。即蓋を開て是を悉く讀聞す。尊慧悲歎啼泣して、「唯願くは我を哀愍して出離 生死の方法を教へ、證大菩提の直道を示給へ。」其時閻王哀愍教化して、種々の偈を誦す。冥官筆を染て一々に是を書く。
妻子王位財眷屬 死去無一來相親常隨業鬼繋縛我 苦受叫喚無邊際
閻王此偈を誦し終て、即ち彼の文を尊慧に附屬す。尊慧なのめならず悦で、「日本の大相國 と申す人攝津國和田御崎を點じて、四面十餘町に屋を作り、今日の十萬僧會の如く持經者を多くくつ請して、坊ごとに 一面に座につき、説法讀經、丁寧に勤行を致され候。」と申ければ、閻王隨喜感嘆して、「件の入道は、たゝ人に非ず、慈慧僧正の化身也。天台の佛法護持の爲 に、日本に再誕す。故に、毎日に三度彼人を禮する文あり。則此文を以て彼人に奉るべし。」とて、
敬禮慈慧大僧正 天台佛法擁護者示現最初將軍身 惡業衆生同利益
尊慧是を給はて、大極殿の南方の中門を出づる時、官士等十人門外に立て、車に乘せ、前後に隨ふ。又、空を翔て歸り來る。夢の心地して息出きにけり。 尊慧是を以て、西八條へ參り、入道相國に參せたりければ、斜ならず悦て、樣々もてなし樣々の引出物共給で、其勸賞に律師に成されけるとぞ聞えし。さてこ そ、清盛公をば、慈慧僧正の再誕也と人知りてけれ。
祇園女御
又或人の申けるは、清盛公は忠盛が子には非ず、誠には白河院の皇子也。其故は、去る永久の比ほひ、祇園女御と聞えし幸人御座ける。件の女房のすまひ 所は、東山の麓祇園の邊にてぞ有ける。白河院常は御幸なりけり。或時殿上人一兩人、北面少々召具して、しのびの御幸有しに、比は五月廿日餘のまだ宵の事な れば、目さすとも知ぬ闇ではあり、五月雨さへ掻暮し、誠にいぶせかりけるに、件の女房の宿所近く御堂あり。御堂の傍に光物出來たり。首 は銀の針を磨立たる樣にきらめき、左右の手と覺しきを差上たるが、片手には槌の樣なる物を持ち、片手には光る物をぞ持たり ける。君も臣も「あな恐ろし、是は誠の鬼と覺る。手に持てる物は、聞る打出の小槌なるべし。如何せん。」と噪せ御座す處に、忠盛其比は未だ北面の下臈に て、供奉したりけるを召て、「此中にて汝ぞあるらん、あの者射もころし、斬も停なんや。」と仰せければ、忠盛畏まり承て行向ふ。内々思けるは、此者さしも 猛き者とは見えず。狐狸などにてぞあるらん。是を射も殺し、斬も殺したらんは、無下に念なかるべし。生捕にせんと思て、歩倚る。と計有ては颯と光り、と計 有ては颯と光り、二三度しけるを、忠盛走り寄て、むずと組む。組まれて、「こは如何に。」と騒ぐ。變化の者にては無りけり、はや人にてぞ在ける。其時上下 手々に火をともいて、是を御覧じ見給ふに、六十計の法師也。譬へば御堂の承仕法師で有けるが、御明參せんとて、手瓶と云ふ物に油を入て、片手には土器に火 を入てぞ持たりける。雨は沃にいて降る、濡じとて、かしらに小麥の藁を笠の樣に引結うでかついだり、土器の火に小麥藁耀て、銀の針の樣には見えける也。事 の體一々に露れぬ。「是を射も殺し、切も殺したらんは、如何に念無らん。忠盛が振舞樣こそ思慮深けれ。弓矢取る身は優かりけり。」とて、其勸賞にさしも御 最愛と聞えし祇園の女御を忠盛にこそ給だりけれ。
さて彼女房院の御子を孕み奉しかば、「産らん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身に仕立よ。」と仰けるに即男を産めり。此事奏聞せんと伺ひけれど も、然るべき便宜も無りけるに、或時白河院熊野へ御幸なりけるが紀伊國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき居させ暫御休息有けり。藪にぬかごの幾らも有けるを、忠盛袖にもり入て、御前へ參り、
いもが子は這ふ程にこそ成にけれ。
と申たりければ、院やがて御心得有て、
たゞもりとりてやしなひにせよ。
とぞ附させ坐ける。其よりしてこそ、吾子とは持成ける。此若君餘に夜啼をし給ひければ、院聞食されて、一首の詠を遊して下されけり。
夜啼すとたゞもりたてよ末の代は、清く盛る事もこそあれ。
さてこそ、清盛とは名乘られけれ。十二の歳兵衞佐に成る。十八の歳四品して四位の兵衞佐と申しを、仔細存知せぬ人は、「華族の人こそかうは。」と申せば、鳥羽院も知召されて、「清盛が華族は、人に劣じ。」とぞ仰ける。
昔も天智天皇孕み給へる女御を、大織冠に賜ふとて、「此女御の産らん子女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ。」と仰けるに、即男を産み 給へり。多武峰の本願、定慧和尚是なり。上代にもかゝるためし有ければ、末代にも平大相國、誠に白河院の御子にておはしければにや、さばかりの天下の大事 都遷などといふ輙からぬ事共、思立たれけるにこそ。
州俣合戰
同閏二月廿日、五條大納言國綱卿失せ給ぬ。平大相國と、さしも契深う志し淺からざりし人也。せめての契の深にや、同日に病 附て、同月にぞ失せられける。此大納言と申は兼資中納言より八代の末葉、前右馬助守國が子也。藏人にだに成らず、進士の雜色とて候はれし、近衞院御在位の 時、仁平の比ほひ、内裡に俄に燒亡出きたり。主上南殿に出御在しかども、近衞司一人も參ぜられず、あきれて立せおはしましたる處に、此國綱腰輿を舁せて參 り、「か樣の時は、かかる御輿にこそ召され候へ。」と奏しければ、主上是に召て出御在り。「何者ぞ。」と御尋在ければ、「進士の雜色藤原國綱」と名乘り 申。「かかるさか/\しき者こそあれ、召仕るべし。」と其時の殿下法性寺殿へ迎含られければ、御領餘た給ひなどして召仕はれける程に、同帝の御代に八幡へ 行幸在しに、人長が酒に醉て水に倒れ入、裝束を濕し、御神樂遲々したりけるに、此國綱、神妙にこそ候はねども、人長が裝束は持せて候。」とて、一具取出さ れたりければ、是を著て御神樂調へ奏しけり。程こそ少しも推移たりけれども、歌の聲もすみのぼり、舞の袖、拍子に合て面白かりけり。物の身にしみて面白事 は神も人も同心也。昔天の岩戸をおしひらかれけん神代の事わざ迄も今こそ思食知られけれ。
やがて此國綱の先祖に山蔭中納言といふ人おはしき。其子に如無僧都とて智慧才覺身に餘り、徳行持律の僧おはしけり。昌泰の比ほひ、寛平法皇、大井河へ御幸在しに、勸修寺の内大臣 高藤公の御子、泉の大將貞國、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹入られ袖にて髻を押へ、爲方なくてぞ立たりけるに、此如 無僧都三衣箱の中より烏帽子一つとり出されたるけるとかや。彼僧都は、父、山蔭中納言、太宰大貳に成て鎭西へ下られける時、二歳なりしを、繼母惡であから さまに抱くやうにして、海に落し入殺さんとしけるを、死にける誠の母、存生の時、桂の鵜飼が鵜の餌にせんとて、龜を取て殺さんとしけるを著給へる小袖を脱 ぎ、龜にかへ、放たれたりしが、其恩を報ぜんと、此若君落し入けるを水の上に浮び來て、甲に乘てぞ扶けたりける。其れは上代の事なれば如何有けん。末代に 國綱卿の高名在がたき事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせ給ひて後入道相國存ずる旨ありとて、此人に語らひより給へり。大福長者に ておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば入道相國の許へ贈られけり。現世のとくいこの人に過べからずとて、子息一人養子にして、清國と名乘らせ、又入 道相國の四男、頭中將重衡は彼大納言の聟になる。
治承四年の五節は福原にて行はれけるに、殿上人中宮の御方へ推參ありしが、或雲客の「竹湘浦に斑なり。」と いふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞して、「あな淺間し、是は禁忌也とこそ承れ。かかる事きくとも聞じ。」とて、ぬき足して遁出られぬ。譬へば、此 朗詠の心は、昔堯の帝に二人の姫宮ましましき。姉をば娥黄と云ひ、妹をば女英と云ふ。共に舜の御門の后也。舜の御門かくれ給ひて後、彼蒼梧の野邊へ送り奉 り、烟となし奉る時、二人の后名殘を惜み奉り、湘浦といふ所迄隨ひつゝ、泣悲しみ給ひしに、其涙岸の竹に懸て斑にぞ染たり ける。其後も常には彼所におはして瑟を引て慰み給へり。今彼所を見るなれば、岸の竹は斑にて立けり。琴を調べし迹 には雲たなびいて、物哀なる心を橘相公の賦に作れる也。此大納言はさせる文才詩歌麗しうおはせざりしか共、かゝるさかしき人にてか樣の事までも聞咎められ けるにこそ。此人大納言までは思も寄らざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、「願くは、我子の國綱一日でも候へ、藏人頭歴させたまへ。」と、百日肝膽を 碎いて祈申されけるが、或夜の夢に檳榔の車をゐて來て、我家の車寄に立と夢を見て、是を人に語り給へば、「其れは、公卿の北方に成せ給ふべきにこそ。」と あはせたりければ、「我年已に闌たり。今更さ樣の振舞在べしとも覺えず。」と宣ひけるが、御子國綱藏人頭は事も宜し。正二位大納言に上り給ふこそ目出け れ。
同廿二日、法皇は院の御所法性寺殿へ御幸なる。彼御所は去ぬる應保三年四月十五日に造り出されて、新比叡、新熊野なども間近う勸請し奉り、山水木立 に至る迄思召まゝなりしが、此二三年は平家の惡行に依て、御幸もならず。御所の破壞したるを修理して、御幸成し奉るべき由、前右大將宗盛卿奏せられたりけ れば、何の樣もあるべからず、唯とう/\とて御幸成る。先故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳年經にけりと覺て、木高くなれるに附ても、太液の 芙蓉、未央の柳、是に向ふに如何が涙進ざらん。彼南内西宮の昔の跡、今こそ思召知れけれ。
三月一日南都の僧綱等、本官に復して末寺庄園もとの如く知行すべき由仰下さる。同三日大 佛殿造り始めらる。事始の奉行には藏人左少辨行隆とぞ聞えし。此行隆、先年八幡へ參り、通夜せられたりけるが、夢 に御寶殿の内よりびんづら結たる天童の出て、「是は大菩薩の使なり。大佛殿奉行の時は是を持つべし。」と笏を賜はると云ふ夢を見て、覺て後見給へば、現に 在けり。「あな不思議や當時何事あてか、大佛殿奉行に參るべき。」とて懷中して宿所へ歸り、深う納て置れけるが、平家の惡行に依て、南都炎上の間、此行 隆、辨の中に選ばれて、事始の奉行に參られける宿縁の程こそ目出たけれ。
同三月十日、美濃國の目代、都へ早馬を以て申けるは、東國の源氏共すでに尾張國迄攻上り、道を塞ぎ、人を通さぬ由申たりければ、やがて討手を差遣 す。大將軍には、左兵衞督知盛、左中將清經、小松少將有盛、都合其勢三萬餘騎で發向す。入道相國うせたまひて後、纔に五旬をだにも過ざるに、さこそ亂たる 代といひながら、淺ましかりし事共也。源氏の方には十郎藏人行家、兵衞佐の弟卿公義圓、都合其勢六千餘騎、尾張河を中に隔て、源平兩方に陣をとる。
同十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千餘騎河を渡て、平家三萬餘騎が中へをめいて懸入る。明れば十七日寅刻よ り矢合して、夜の明る迄戰ふに、平家の方には些も騒がず。「敵は河を渡いたれば馬物具も皆濡たるぞ、其を標にして討てや。」とて、大勢の中に取籠て、「餘 すな、漏すな。」とて責め給へば、源氏の勢殘少なに討なされ、大將軍行家辛き命生て河より東へ引退く。卿公義圓は深入して討たれにけり。平家やがて河を渡 て、源氏を追物射に射て行く。 源氏あそこ此で歸し合せ/\防けれ共、敵は大勢、御方は無勢也。かなふべしとも見ざりけり。『水澤を後にする事無れ。』とこそ云ふに、今度の源氏の策、愚なり。」とぞ人申ける。
去程に大將軍十郎藏人行家、參河國に打越て、矢矧川の橋を引き、垣楯掻て待懸たり。平家やがて押寄せ攻給へば、こらへずして、そこをも、又、攻落れ ぬ。平家やがて續て攻給はば、參河遠江の勢は、隨つくべかりしに大將軍左兵衞督知盛、勞有て參河國より歸上らる。今度も僅に一陣を破ると云へども、殘黨を 攻ねば、し出たる事なきが如し。平家は去々年小松大臣薨ぜられぬ。今年又入道相國失給ひぬ。運命の末に成る事あらはなりしかば、年來恩顧の輩の外は、隨附 く者無りけり。東國には草も木も皆源氏にぞ靡きける。
嗄聲
去程に越後國の住人、城太郎助長、越後守に任ず。朝恩の忝さに、木曽追討の爲に、都合三萬餘騎同六月十五日門出して、明る十六日の卯刻にすでに討立 んとしけるに、夜半許、俄に大風吹き、大雨降り、雷おびたゞしう鳴て、天晴て後雲井に大なる聲のしはがれたるを以て、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡 し奉る平家の方人する者爰に有り、召取や。」と、三聲叫んでぞ通ける。城太郎を始として、是をきく者、皆身の毛よだちけり。郎等共、「是程怖しい天の告の 候ふに、唯理を枉て留せ給へ。」と申けれども、「弓矢取る者の、其によるべき樣なし。」とて、明る十六日卯刻に城を出て僅に十餘町ぞ行たりける。黒雲一村 立來て、助 長が上に掩ふとこそ見えけれ、俄に身すくみ心ほれて、落馬してけり。輿に舁乘せ館へ歸り、打臥す事三時許して、遂に死にけり。飛脚を以て、此由都へ申たりければ、平家の人々、大に噪がれけり。
同七月十四日改元有て、養和と號す。其日筑後守貞能、筑前肥後兩國を給はて、鎭西の謀反平げに、西國へ發向す、其日又非常の大赦行はれて、去ぬる治 承三年に流され給ひし人々、召還さる。松殿入道殿下備前國より御上洛、太政大臣妙音院尾張國より上らせたまふ。按察大納言資方卿信濃國より歸洛とぞ聞え し。
同廿八日、妙音院殿御院參。去ぬる長寛の歸洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城樂を彈せ給しに、養和の今の歸京には、仙洞にして秋風樂をぞ遊し ける。何も/\風情折を思召よらせ給けん御心の程こそ目出けれ。按察大納言資方卿も、其日院參せらる。法皇、「如何にや夢の樣にこそ思食。習ぬ鄙の住ひし て、郢曲なども、今は跡方あらじと思召せども、先今樣一つ有ばや。」と仰ければ、大納言拍子取て、「信濃に有なる木曽路川。」と云ふ今樣を、是は見給ひた りし間、「信濃に有し木曽路川」と歌はれけるぞ時に取ての高名なる。
横田河原合戰
八月七日の日官の廳にて、大仁王會行はる。是は將門追討の例とぞ聞えし。九月一日、純友追討の例とて、鐵の鎧甲を伊勢大神宮へ參せらる。勅使は祭主神祇權大副大中臣定高、 都を立て近江國甲賀の驛より病附き、伊勢の離宮にして、死にけり。謀反の輩調伏の爲に、五壇の法承て行はれける降三世の大 阿闍梨、大行事の彼岸所にして、ね死にしぬ。神明も三寶も、御納受なしと云ふ事いちじるし。又大元法承て修せられける安祥寺の實玄阿闍梨が御巻數を進じた りけるを、披見せられければ、平家調伏の由を註進したりけるぞ怖しき。「こは如何に。」と仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。當世の體を見候ふに、平家 專朝敵と見え給へり。仍て是を調伏す、何のとがや候べき。」とぞ申ける。「此法師奇怪也。死罪か流罪か。」と有しが、大小事の怱劇に、打紛れて其後沙汰も 無りけり。源氏の代と成て後、鎌倉殿「神妙なり。」と感じ思食して、其勸賞に、大僧正に成されけるとぞ聞えし。
同十二月廿四日、中宮院號蒙せ給ひて、建禮門院とぞ申ける。未幼主の御時、母后の院號是始とぞ承る。さる程に今年も暮て、養和も二年に成にけり。
二月廿一日、太白昴星を侵す。天文要録に曰、「太白昴星を侵せば、四夷起る。」と云へり。又「將軍勅令を蒙て、國の境を出。」とも見えたり。
三月十日、除目行はれて、平家の人々大略官加階し給ふ。四月十日、前權少僧都顯眞、日吉社にして、如法に法 華經一萬部轉讀する事有けり。御結縁の爲に、法皇も御幸なる。何者の申出したりけるやらん、一院山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍 兵内裏へ參て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。本三位中將重衡卿、法皇の御むかへに其勢三千餘騎で日吉の社へ參向す。山門に又聞えけ るは、平家山攻んとて、 數百騎の勢を率して登山すと聞えしかば、大衆皆東坂本へ降下て、「こは如何に。」と僉議す。山上洛中の騒動斜なら ず。供奉の公卿殿上人色を失なひ、北面の者の中には餘にあわて噪いで、黄水つく者多かりけり。本三位中將重衡卿、穴太の邊にて、法皇迎取參せて還御なし奉 る。「かくのみ有んには此後は御物詣なども今は御心に任すまじき事やらん。」とぞ仰ける。まことには山門大衆平家を追討せんといふ事もなし。平家山せめん といふ事もなし。是跡形なき事共也。「天魔の能く荒たるにこそ。」とぞ人申ける。同四月廿日、臨時に官幣あり。是は飢饉疾疫に依て也。
同五月二十四日改元有て、壽永と號す。其日又越後國の住人城四郎助茂、越後守に任ず。兄の助長逝去の間、不吉なりとて頻に辭し申けれども、勅令なれば力不及。助茂を長茂と改名す。
同九月二日、城四郎長茂木曽追討の爲に、越後、出羽、會津四郡の兵共を引率して、都合其勢四萬餘騎、信濃國 へ發向す。同九日、當國横田河原に陣をとる。木曽は依田城に有りけるが、是を聞て依田城を出て三千餘騎で、馳向ふ。信濃源氏、井上九郎光盛が謀に、俄に赤 旗七旒作り三千餘騎を七手に分ち、あそこの峯、こゝの洞より赤旗ども手に/\指揚て寄ければ、城四郎是を見て、「あはや此國にも平家の方人する人有けり と、力附ぬ。」とて、勇のゝしる處に、次第に近う成ければ、相圖を定めて、七手が一つに成り、一度に閧をどとぞ作ける。用意したる白旗、さと差揚たり。越 後の勢共、是を見て、「敵何十萬騎有らん。如何せん。」と 色を失ひ、あわてふためき、或は河に追はめられ、或は惡所におひ落され、助る者は少う、討るゝ者ぞ多かりける。城四郎が頼切たる越後の山太郎、會津の乘丹房と云ふ聞ゆる兵共、そこにて皆討れぬ。我身手負ひ、辛き命生つゝ、河に傳うて越後國へ引退く。
同十六日、都には平家是をば事共し給はず前右大將宗盛卿、大納言に還著して、十月三日、内大臣に成給ふ。同七日悦申あり。當家の公卿十二人扈從し て、藏人頭以下、殿上人十六人前駈す。東國北國の源氏共、蜂の如くに起合ひ、唯今都へ責上らんとするに、か樣に波の立つやらん、風の吹やらんも知ぬ體にて 花やかなりし事共、中々云ふかひなうぞ見えたりける。
さる程に、壽永二年に成にけり。節會以下常の如し。内辨をば平家の内大臣宗盛公勤めらる。正月六日主上朝覲の爲に、院御所法住寺殿へ行幸なる。鳥羽 院六歳にて、朝覲行幸、其例とぞ聞えし。二月廿二日、宗盛公從一位し給ふ。軈て其日内大臣をば上表せらる。兵亂愼の故とぞ聞えし。南都北嶺の大衆、熊野金 峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に至る迄、一向平家を背いて、源氏に心を通しける。四方に宣旨を成下し、諸國に院宣遣せども、院宣宣旨も、皆平家の下知 とのみ心得て隨附く者無りけり。
7
平家物語卷第七
清水冠者
壽永二年三月上旬に、兵衞佐と木曾冠者義仲、不快の事ありけり。兵衞佐木曾追討の爲に、其勢十萬餘騎で、信濃國へ發向す。 木曾は依田城に有けるが、之を聞て、依田の城を出て信濃と越後の境熊坂山に陣を取る。兵衞佐は同信濃國、善光寺に著給。木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者 で、兵衞佐の許へ遣す。「如何なる子細のあれば義仲討むとは宣ふなるぞ。御邊は東八箇國を打隨へて、東海道より攻上り、平家を追おとさむとし給ふ也。義仲 も東山北陸兩道を從へて、今一日も先に平家を攻落さむとする事でこそ有れ。なんの故に、御邊と義仲と中を違て、平家に笑れんとは思ふべき。但十郎藏人殿こ そ、御邊を恨むる事有りとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、如何ぞや候へば、打連申たり。全く義仲に於ては、御邊に意趣思 ひ奉らず。」と云遣す。兵衞佐の返事には、「今こそさ樣には宣へ共、たしかに頼朝討つべき由謀反の企有りと、申者あり。其にはよるべからず。」とて、土 肥、梶原を先として、既に討手を差向らるゝ由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由を顯さむが爲に、嫡子清水冠者義重とて、生年十一歳に成る小冠者に、海野、望 月、諏訪、藤 澤など云ふ聞ゆる兵共をつけて、兵衞佐の許へ遣す。兵衞佐は、「此上は誠に意趣無りけり。頼朝未成人の子を持たず。好々さらば子にし申さむ。」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。
北國下向
さる程に、木曾、東山北陸兩道を隨がへて、五萬餘騎の勢にて既に京へ攻上る由聞えしかば、平家は去年よりして、「明年は、馬の草飼に附て、軍有べ し。」と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞の如くに馳參る。東山道は近江、美濃、飛騨の兵共は參たれ共、東海道は遠江より東は參 らず、西は皆參りたり。北陸道は若狹より北の兵共一人も參らず。先木曾冠者義仲を追討して其後兵衞佐を討んとて、北陸道へ討手を遣す。大將軍には小松三位 中將維盛、越前三位通盛、但馬守經正、薩摩守忠度、參河守知度、淡路守清房、侍大將には、越中前司盛俊、上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長 綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門有國、越中二郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、以上大將軍六人、しかるべき侍三百四十餘人、都合 其勢十萬餘騎、壽永二年四月十七日辰の一點に都を立て、北國へこそ趣きけれ。片道を給はてければ、相坂の關より始て、路次にもて逢ふ權門勢家の正税官物を も恐れず、一々に皆奪取る。志賀、唐崎、三河尻、眞野、高島、鹽津、貝津の道の邊を、次第に追捕して通ければ、人民こらへずして、山野に皆逃散 す。
竹生島詣
大將軍維盛、通盛は進給へ共、副將軍經正、忠度、知度、清房なんどは、未近江國鹽津、貝津に引へたり。其中にも經正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれ ば、かゝる亂の中にも、心を澄し、湖の端に打出て、遙に澳なる島を見渡し伴に具せられたる藤兵衞有教を召て、「あれをば何くと云ぞ。」と問はれければ、 「あれこそ聞え候ふ竹生島にて候へ。」と申。「げにさる事あり。いざや參らん。」とて、藤兵衞有教、安衞門守教以下、侍五六人召具して、小船に乘り、竹生 島へぞ渡られける。比は卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情を殘すと覺え、 澗谷の鶯舌の聲老て、初音床しき郭公、折知顏に告渡る。松に藤なみさきかゝて 誠に面白かりければ、急ぎ船より下り、岸に上て此島の景色を見給ふに、心も詞も及れず。彼秦皇、漢武、或は童男丱女を遣はし、或は方士をして不死の藥を尋 ね給ひしに、蓬莱を見ずばいなや歸らじと云て、徒に船の中にて老い、天水茫々として求る事を得ざりけん蓬莱洞の有樣もかくや在けんとぞ見えし。或經の文に 云く、「閻浮提の内に湖有り、其中に金輪際より生出たる水精輪の山有り、天女住む處。」と云り。即此島のこと也。經正、明神の御前につい居給ひつゝ、「夫 大辯功徳天は、往古の如來、法身の大士なり。辯才妙音二天の名は、各別なりとは云へ共、本地一體にして、衆生を濟度し給ふ。一度参詣の輩は、所願成就圓滿 すと承は る。憑しうこそ候へ。」とて、しばらく法施參らせ給に、漸々日暮れ、居待の月指出て、海上も照渡り、社壇も彌輝きて、誠に 面白かりければ、常住の僧共、「聞ゆる御事なり。」とて、御琵琶を參らせたりければ、經正是を彈給ふに、上原石上の秘曲には、宮の中も澄渡り、明神感應に 堪ずして、經正の袖の上に、白龍現じて見え給へり。忝なく嬉しさの餘りに、なくなくかうぞ思續け給ふ。
ちはやぶる神にいのりの叶へばや、しるくも色のあらはれにけり。
されば怨敵を目の前に平らげ、凶徒を唯今責落さむ事も、疑なしと悦で、又船に取乘て、竹生島をぞ出られける。
火打合戰
木曾義仲自は信濃に有ながら、越前國火打城をぞ構ける。彼城郭に籠る勢、平泉寺長吏齋明威儀師、稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓、土 田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を始として、六千餘騎こそ籠けれ。火打本より究竟の城郭也。磐石峙ち廻て、四方に嶺を列ねたり。山を後ろにし、山を前に あつ。城郭の前には能美河、新道河とて流たり。二つの河の落合に、大木を伐て逆茂木に曳き、柵をおびたゞしうかき上たれば、東西の山の根に、水塞こうで湖 に向へるが如し。影南山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして隱淪たり。彼無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、とくせいの 船を浮たり。此火打城の築池には、堤をつき、水を濁して、人の心を誑かす。船なくしては輙う渡すべき樣無ければ、平家の大勢、向への山に宿して、徒に日數を送る。
城の内に在ける平泉寺長吏齋明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を廻りて、消息を書き、蟇目の中に入れ て忍びやかに平家の陣へぞ射入たる。「彼湖は往古の淵に非ず、一旦山川を塞上て候。夜に入、足輕共を遣て柵を切落させ給へ、水は程なく落べし。馬の足立好 所で候へば急ぎ渡させ給へ。後矢は射て參らせむ。是は、平泉寺長吏齋明威儀師が申状。」とぞ書たりける。大將軍大に悦び、やがて足輕どもを遣して、柵を切 落す。おびたゞしう見えつれども、げにも山川なれば水は程なく落にけり。平家の大勢暫の [1]遲々にも及ばす、 さと渡す。城の内の兵共暫し支へて防ぎけれ共、敵は大勢也、御方は無勢也ければ、叶べしとも見えざりけり。平泉寺長吏齋明威儀師、平家に附て忠をいたす。 稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓こゝをば落て、猶平家を背き加賀國に引退き、白山河内に引籠る。平家やがて加賀に打越て、林、富樫が城郭二箇 所燒拂ふ。何面を向ふべしとも見ざりけり。近き宿々より飛脚を立て、此由都へ申たりければ、大臣殿以下殘り留まり給ふ一門の人々勇悦事なのめならず。
同五月八日、加賀國篠原にて勢汰へ在り。軍兵十萬餘騎を二手に分て大手搦手へ向はれけり。大手の大將軍は小松三位中將維盛、越前三位通盛、侍大將には越中前司盛俊を始として、都合其勢七萬餘騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ向れける。搦手の大將軍は、薩摩守忠度、 參河守知度、侍大將には、武藏三郎左衞門を先として、都合其勢三萬餘騎、能登越中の境なる志保の山へぞ懸かられける。木曾 は越後の國府に有けるが、是を聞て、五萬餘騎で馳向ふ。我が軍の吉例なればとて、七手に作る。先叔父の十郎藏人行家、一萬餘騎で志保山へぞ向ける。仁科、 高梨、山田次郎、七千餘騎で北黒坂へ搦手に差遣す。樋口次郎兼光、落合五郎兼行七千餘騎で南黒坂へ遣しけり。一萬餘騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の 柳原、茱萸木林に引隱す。今井四郎兼平、六千餘騎で鷲の瀬を打渡し、日宮林に陣を取る。木曾我身は一萬餘騎で、をやべの渡をして、砥浪山の北のはづれはに ふに陣をぞ取たりける。
願書
木曾宣ひけるは、「平家は定めて大勢なれば、砥浪山打越て、廣みへ出で懸合の軍にてぞ有んずらむ。但し懸合の軍は、勢の多少による事也。大勢かさに 懸て、取籠られては惡かりなん。先づ旗差を先だてゝ、白旗を差あげたらば平家是を見て、『あはや源氏の先陣は向たるは。定めて大勢にてぞ有らん。左右なう 廣みへ打出て、敵は案内者、我等は無案内也、取籠られては叶まじ。此山は四方岩石であんなれば、搦手へはよも廻じ、暫下居て馬休ん。』とて、山中にぞ下居 んずらん。其時義仲暫會釋ふ樣に持なして、日を待昏し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追落さうと思ふなり。」とて先白旗三十旒、先立てゝ黒坂の上にぞ打立た る。案の如く平家是を見て、「あはや源氏の先陣は向たるは、定めて大勢成らん。左右無う廣みへ打出なば、敵は 案内者、我等は無案内也。とりこめられては惡かりなん。此山は四方岩石であん也。搦手へはよも廻はらじ。馬の草飼水便共に よげ也、暫下居て馬休ん。」とて、砥浪山の山中、猿の馬場と云所にぞ下居たる。木曾は羽丹生に陣取て、四方をきと見廻せば、夏山の峯の緑の木の間より朱の 玉垣ほの見えて、かたそぎ作の社有り。前に鳥居ぞ立たりける。木曾殿國の案内者を召て、「あれは何れの宮と申ぞ、如何なる神を崇奉るぞ。」「あれは八幡で まし/\候。軈て此所は八幡の御領で候。」と申す。木曾殿大に悦て、手書に具せられたる大夫房覺明を召て、「義仲こそ幸に新八幡の御寶殿に近附奉て、合戰 を既に遂げむとすれ。如何樣にも今度の軍には相違なく勝ぬと覺ゆるぞ。さらんにとては、且は後代の爲、且は當時の祈祷にも願書を一筆書て參せばやと思ふは 如何に。」覺明「尤然るべう候。」とて、馬より下て書んとす。覺明が爲體、あかぢの直垂に黒革威の鎧著て、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負 ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、箙より小硯疊紙取出し、木曾殿の御前に畏て願書を書く。あはれ文武二道の達者哉とぞ見えにける。此覺明 は、本儒家の者也。藏人道廣とて、勸學院に在けるが、出家して最乘坊信救とぞ名乘ける。常は南都へも通ひけり。一とせ高倉宮の園城寺に入せ給ひし時、牒状 を山奈良へ遣したりけるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞ書せたりける。「清盛は、平氏の糟糠、武家の塵芥。」と書たりしを太政入道大に怒て「其信救法師 めが、淨海を平氏のぬかゝす、武家のちりあくたと書くべき樣は如何に。其法師め搦捕て、死罪に行へ。」と宣ふ間、南都をば逃て北國へ落下り、木曾殿の手書 して、大夫坊 覺明とぞ名乘ける。其願書に云、
歸命頂 禮、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖也。寶祚を守らんが爲、蒼生を利せんが爲に、三身の金容を顯し、三所の權扉をおし排き給へり。爰に頻の年 以來、平相國と云者あり、四海を管領して萬民を惱亂せしむ。是既に佛法の怨、王法の敵なり。義仲苟も弓馬の家に生れて、僅に箕裘の塵を續ぐ。彼暴惡を案ず るに、思慮を顧に能はず。運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して、凶器を退けんと欲す。然るを鬪戰兩家の陣を合はすと云へども、士卒未だ 一致の勇を得ざる間、區々の心恐れたる處に、今一陣、旗を擧る戰場にして、忽に三所和光の社壇を拜す。機感の純熟明か也。兇徒誄戮疑なし。歡喜の涙こぼれ て、渇仰肝に染む。就中に曾祖父前陸奧守義家朝臣、身を宗廟の氏族に歸附して、名を八幡太郎と號せしより以降、門葉たる者の歸敬せずといふことなし。義仲 其後胤として、首を傾て年久し。今此大功を發す事、譬へば嬰兒の貝を以て巨海を量り、蟷螂が斧を怒かして隆車に向が如し。然ども國の爲、君の爲にして是を 發す、家の爲身の爲にして是を起さず。志の至神感天にあり。憑哉。悦哉。伏て願くは、冥顯威を加へ、靈神力を戮て勝事を一時に決し、怨を四方に退け給へ。 然則丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護をなすべくば、先づ一の瑞相を見せしめ給へ。
壽永二年五月十一日 源 義仲 敬白
と書て、我身を始めて、十三人が上矢の鏑と拔き、願書に取具して、大菩薩の御寶殿にぞ納 めける。憑哉八幡大菩薩の眞實の志二なきをや遙に照覧し給けん、雲の中より山鳩三つ飛來て源氏の白旗の上に翩翻す。
昔神功皇后新羅を攻させ給ひしに、御方の戰弱く、異國の軍強して、既にかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、靈鳩三つ飛來て、楯の面に顯れ て、異國の軍敗れにけり。又此人人の先祖、頼義の朝臣、貞任、宗任を攻給ひしにも、御方の戰弱くして、凶徒の軍強かりしかば、頼義朝臣敵の陣に向て、是は 全く私の火には非ず、神火なりとて火を放つ。風忽に夷賊の方へ吹掩ひ、貞任が館厨河の城燒ぬ。其後軍敗て貞任、宗任亡びにき。木曾殿か樣の先蹤を忘れ給は ず、馬より下り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、今靈鳩を拜し給ひけん心の中こそ憑しけれ。
倶利迦羅落
さる程に源平兩方陣を合す。陣の交僅に三町許に寄せ合せたり。源氏も進まず、平家も進まず。源氏の方より、精兵十五騎楯の面に進ませて、十五騎が上 矢の鏑を、平家の陣へぞ射入たる。平家又策とも知らず、十五騎を出いて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出いて、射さすれば、平家三十騎を出いて、三十の 鏑を射返す。五十騎を出せば、五十騎を出し合せ、百騎を出せば百騎を出し合せ、兩方百騎づゝ陣の面に進んだり。互に勝負をせんと疾りけれ共、源氏の方より 制して、勝負をせさせず。源氏はか樣にして日を暮し、平家の大勢を倶利 迦羅谷へ追落さうとたばかりけるを、少しも悟らずして、共に會釋ひ日を暮すこそはかなけれ。
次第に闇うなりければ北南より廻れる搦手の勢一萬餘騎、倶利迦羅の堂の邊にまゐり會ひ、箙の方立打敲き、鬨 をどとぞ作ける。平家後を顧みければ、白旗雲の如く差上あり。此山は四方巖石であんなれば、搦手よもまはらじとこそ思つるに、こは如何にとて噪ぎあへり。 去程に木曾殿大手より鬨のこゑをぞ作合せ給ふ。松長の柳原、茱萸木林に一萬騎引へたりける勢も、今井四郎が六千餘騎で、日宮林に在けるも同う鬨をぞ作け る。前後四萬騎が喚く聲、山も河も唯一度に崩るるとこそ聞えにけれ。案のごとく平家。次第に闇うはなる、前後より敵は攻來る、「きたなしや返せや返せ。」 と云ふ族多かりけれ共、大勢の傾立ちぬるは、左右なう取て返す事難ければ、倶利迦羅谷へ、我先にとぞ落しける。ま先に落したる者が見えねば、此谷の底に、 道の有にこそとて、親落せば子も落し、兄落せば弟も續く。主落せば家子郎等落しけり。馬には人、人には馬、落重り落重りさばかり深き谷一つを、平家の勢七 萬餘騎でぞ填たりける。巖泉血を流し、死骸岳を成せり。されば其谷の邊には、矢の穴刀の瑕殘て今に有りとぞ承はる。平家には宗と憑まれたりける上總大夫判 官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀國も、此谷に埋もれて失にけり。備中國住人瀬尾太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて加賀國住人藏光次郎成澄が手に 懸て、生捕にせらる。越前國火打が城にて、返忠したりける平泉寺の長吏齋明威儀師も捕はれぬ。木曾殿「あまりに憎きに其法師をば先切れ。」と て、切られけり。平氏の大將維盛、通盛、希有の命生て加賀國へ引退く。七萬餘騎が中より、僅に二十餘騎ぞ遁たりける。
明る十二日奧の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹はつき毛一匹は連錢葦毛なり。やがて是に鏡鞍置て白山社へ神馬に立てられたり。木曾殿宣ひ けるは、「今は思ふ事なし。但十郎藏人殿の、志保の戰こそ覺束なけれ。いざ行て見ん。」とて、四萬餘騎が中より、馬や人を勝て、二萬餘騎で馳向ふ。氷見湊 を渡さんとするに、折節潮滿て深さ淺さを知ざりければ、鞍置馬十匹許追入たり。鞍瓜浸る程にて、相違なく向の岸へ著にけり。「淺かりけるぞ、渡せや。」と て二萬餘騎の大勢、皆打入て渡しけり。案のごとく十郎藏人行家、散々に懸なされ、引退いて、馬の息休むる處に、木曾殿「さればこそ」とて、荒手二萬餘騎、 入かへて平家三萬餘騎が中へをめいて駈入り、揉に揉で、火出る程にぞ攻たりける。平家の兵共暫し支へて防ぎけれ共、こらへずして、そこをも遂に攻落さる。 平家の方には大將軍參河守知度討れ給ぬ。是は入道相國の末子也。侍共多く亡にけり。木曾殿は志保山打越えて、能登の小田中、親王の塚の前に陣を取る。
篠原合戰
そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山社へは横江、宮丸、菅生社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、氣比社へは飯原庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。
一年石橋山の合戰の時、兵衞佐殿射奉し者共、都へにげ上て、平家の方にぞ候ける。宗との者には俣野五郎景久、長井齋藤別當 實盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、眞下四郎重直、是等は暫く軍の有ん時迄休まんとて、日毎に寄合々々、巡酒をしてぞ慰みける。先實盛が許に寄合たりける 日、齋藤別當申けるは、「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は、負色に見えさせ給ひけり。いざ各木曾殿へ參う。」と申ければ、皆「さ なう」と同じけり。次日浮巣三郎が許に寄合たりける時、齋藤別當、「さても昨日申し事は如何に、各。」其中に俣野五郎、進出でて申けるは、「我等はさす が、東國では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。好きに附て彼方へ參り、此方へ參らう事も、見苦かるべし。人をば知參せず候。景久に於ては、平家の御方 にて、如何にも成らう。」と申ければ、齋藤別當あざ笑て、「誠には各の御心共をがな引奉んとてこそ申たれ。其上實盛は今度の軍に討死せうと思切て候ぞ。二 度、都へ參るまじき由、人々にも申置たり。大臣殿へも此樣を申上て候ぞ。」と云ひければ、皆人此議にぞ同じける。されば其約束を違じとや、當座に有し者 共、一人も殘らず北國にて皆死けるこそ無慚なれ。
さる程に平家は人馬の息を休めて加賀國篠原に陣をとる。同五月廿一日の辰の一點に、木曾、篠原に押寄せて鬨 をどと作る。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別當有重、去る治承より今迄召籠められたりしを「汝らは故い者共也。軍の樣をもおきてよ。」とて、北國へ 向られたり。是等兄弟三百餘騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎三百余騎でうちむか ふ。今井四郎、畠山始めは互に五騎十騎づゝ出し合せて、勝負をせさせ、後には兩方亂れ合てぞ戰ひける。五月二十一日午刻、草も ゆるがず照す日に、我劣じと戰へば、遍身より汗出て、水を流すに異ならず。今 井が方にも兵多く亡にけり。畠山、家子郎等殘り少なに討成され力及ばで引退く。次に平家の方より、高橋判官長綱、五百餘騎で進んだり。木曾殿の方より、樋 口次郎兼光、落合五郎兼行、三百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、高橋勢は、國々の驅武者なれば、一騎も落合はず、我先にとこそ落行きけれ。高橋心は猛く 思へども、後あらはに成ければ、力及ばで引退く。唯一騎落て行處に越中國の住人入善小太郎行重、よい敵と目を懸け、鞭鐙を合て馳來り、押双てむずと組む。 高橋、入善を掴うで鞍の前輪に押附け、「わ君は何者ぞ、名乘れ聞う。」といひければ、「越中國の住人入善小太郎行重、生年十八歳。」と名乘る。「あら無 慚、去年おくれし長綱が子も今年はあらば、十八歳ぞかし。わ君ねぢ切て捨べけれども、助ん。」とて許しけり。吾身も馬より下り、暫く御方の勢待んとて休み 居たり。入善「我をば助たれども、あはれ敵や、如何にもしてうたばや。」と思居たる所に、高橋打解て物語しけり。入善勝たる早わざの士で、刀を拔き、取て 懸り、高橋が内甲を二刀さす。さる程に、入善が郎黨三騎後馳に來て落合たり。高橋心は猛く思へども、運や盡にけん、敵はあまた有り、痛手は負つ、そこにて 遂に討たれにけり。
又平家の方より武藏三郎左衞門有國、三百騎許で喚てかく。源氏の方より、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、有國が方の勢多く討たれぬ。有國深入し て戰ふほどに、矢種皆射盡して馬をも射させ、歩立になり、打物拔て戰ひけるが、敵餘た討取り矢七つ八つ射立られて、立死にこそ死にけれ。大將か樣になりしかば、其勢皆落行ぬ。
實盛
又武藏國の住人長井齋藤別當實盛御方は皆落行けども、只一騎返合返合防ぎ戰ふ。存ずる旨有ければ、赤地の錦の直垂に、萠黄威の鎧著て、鍬形打たる甲 の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢葦毛なる馬に金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。木曾殿の方より、手塚太郎光盛好い敵と目をか け「あなやさし。如何なる人にてましませば、御方の御勢は皆落候に、唯一騎殘らせ給ひたるこそゆかしけれ。名乘らせ給へ。」と詞を懸ければ、「かう言ふわ 殿は誰そ。」「信濃國の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名乘たれ。「さては互に好い敵ぞ。但わ殿をさぐるには非ず、存ずる旨があれば、名乘るまじいぞ。よれ 組う手塚。」とて、押竝る處に、手塚が郎黨、後馳に馳來て、主を討せじと中に隔たり、齋藤別當にむずと組む。「あはれ己は日本一の剛の者にくんでうずな、 うれ。」とて、取て引寄せ鞍の前輪に押附け、頸掻切て捨てけり。手塚太郎、郎等が討るゝを見て、弓手に廻りあひ、鎧の草摺引擧て、二刀刺し、弱る所に組で 落つ。齋藤別當心は猛く思へども、軍にはしつかれぬ、其上老武者では有り、手塚が下に成にけり。又手塚が郎等後れ馳に出きたるに首取せ、木曾殿の御前に馳 參りて、「光盛こそ奇異の曲者組で討て候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候。又大將 軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘々々と責候つれども、遂に名乘候はず。聲は坂東聲にて候つる。」と申せば、木曾殿 「あはれ是は齋藤別當で有ござんなれ。其ならば、義仲が上野へこえたりし時、少目に見しかば、白髮の糟尾なりしぞ。今は定めて、白髮にこそ成ぬらんに、鬢 鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎は、馴遊で、見知たるらん樋口召せ。」とて召されけり。樋口次郎唯一目見て、「あな無慚や、齋藤別當で候けり。」木曾殿、 「其ならば、今は七十にも餘り、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いは如何に。」と宣へば、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「さ候へば其樣を申上うと仕候 が、餘に哀で、不覺の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりは、聊の所でも、思出の詞をば兼て仕置くべきで候ける者哉。齋藤別當、兼光に逢て、常は物語に仕候し、 『六十に餘て、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黒う染て、若やがうと思ふ也。其故は若殿原に爭ひて、先を懸んも長げなし。又老武者とて人の侮らんも口惜かるべ し。』と申候しが、誠に染て候けるぞや。洗はせて御覽じ候へ。」と申ければ、さも有らんとて、洗せて見給へば、白髮にこそ成にけれ。
錦の直垂を著たりける事は、齋藤別當最後の暇申に大臣殿へ參て申けるは、「實盛が身一つの事では候はねど も、一年東國へ向ひ候し時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだにも射ずして、駿河國の蒲原より迯上て候し事、老後の恥辱、唯此事候。今度北國へ向ひては、討死仕 候べし。さらんにとては、實盛、本、越前國の者で候しかども、近年御領に就て、武藏の長井に居住せしめ候き。事の譬候ぞかし。故郷へは錦を著て歸れと云ふ 事の候。錦の直垂御許し候 へ。」と申ければ、大臣殿、「優うも申たる物哉。」とて、錦の直垂を御免有けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は、錦の袂を會稽山に翻し、今の齋藤別當は、其名を来た國の巷に揚とかや。朽もせぬ空き名のみ留め置き、骸は越路の末の塵と成るこそ悲しけれ。
去ぬる四月十七日、十萬餘騎にて都を立し事柄は、何に面を向ふべしとも見えざりしに、今、五月下旬に歸り上るには、其勢僅に二萬餘騎「流を盡して漁 る時は、多くの魚を得と云へども、明年に魚なし。林を燒て獵る時は、多くの獸を得と云へども、明年に獸なし。後を存じて、少々は殘さるべかりける者を。」 と、申す人々も有けるとかや。
還亡
上總守忠清、飛騨守景家はをとゝし入道相國薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、今度北國にて子ども皆亡びぬときいて其のおもひのつもりにや、 終に歎き死にぞ死にける。是を始めて親は子に後れ、婦は夫に別れ、凡遠國近國もさこそ在けめ。京中には、家々に門戸を閉て、聲聲に念佛申し、喚叫ぶ事おび ただし。
六月一日藏人右衞門權佐定長、神祇權少副大中臣親俊を、殿上の下口へ召て、兵革靖まらば、大神宮へ行幸成るべき由仰下さる。大神宮は高天原より天降 せ給ひしを垂仁天皇の御宇、廿五年三月に、大和國笠縫の里より、伊勢國渡會の郡、五十鈴の河上、下津磐根に大宮柱をふとしきたて、祝初奉てより以降、日本 六十餘州、三千七百五十餘社の、大小の神祗冥道の中 には無雙也。され共、代々の御門臨幸は無りしに、奈良の御門の御時左大臣不比等の孫、參議式部卿宇合の子、右近衞權少將兼 太宰少貳藤原廣嗣と云ふ人有けり。天平十五年十月、肥前國松浦郡にして、數萬の凶賊を語らて、國家を既に危めんとす。是によて大野東人を大將軍にて、廣嗣 追討せられし時、始めて大神宮へ行幸なりけるとかや、其例とぞ聞えし。彼廣嗣は肥前の松浦より都へ一日に下上る馬を持たりけり。追討せられし時も、御方の 凶賊落行き、皆亡て後、件の馬に打乘て、海中へ馳入けるとぞ聞えし。其亡靈あれて、怖き事共多かりける中に、天平十六年六月十八日、筑前國御笠郡、太宰府 の觀世音寺、供養せられし導師には、 [2]玄 ばう僧正とぞ聞えし。高座に上り敬白の鐘打鳴す時、俄に空掻曇り雷おびたゞしう鳴て、 [3]玄 ばうの上に落懸り、其首を取て雲の中へぞ入にける。是は廣嗣調伏したりける故とぞ聞えし。
此僧正は吉備大臣入唐の時、相伴て渡り、法相宗渡たりし人也。唐人が玄 ばうと云ふ名を笑て「玄ばうは還亡ぶと云ふ音あり。如何樣にも、歸朝の後事に逢ふべき人也。」と相したりけるとかや。同天平十九年六月十八日、髑髏に [4]玄 ばうと云ふ銘を書て、興福寺の庭に落し、虚空に人ならば千人許が聲にて、どと笑ふ事在けり。興福寺は法相宗の寺たるに依て也。彼僧正の弟子共是を取て、塚を築き、其首を納て、頭墓と名づけて、今に有り。是即廣嗣が靈の致す所也。是によて彼亡靈を崇られて、今松浦の鏡宮と號す。
嵯峨皇帝の御時は平城先帝、尚侍の勸に依て、世を亂り給ひし時、其御祈の爲に、御門第 三皇女祐智子内親王を、賀茂の齋院に奉らせ給けり。是齋院の始めなり。朱雀院の御宇には、將門純友が兵亂に依て八幡の臨時の祭を始めらる。今度もか樣の例を以て樣々の御祈共始められけり。
木曾山門牒状
木曾、越前の國府について、家子郎等召集めて評定す。「抑義仲近江國を經てこそ、都へは入らんずるに、例の山僧共は防ぐ事もや有んずらん。懸け破て 通ん事は安けれども、平家こそ當時は佛法とも云はず、寺を亡し、僧を失ひ、惡行をば致せ。其を守護の爲に上洛せん者が、平家と一つになればとて、山門の大 衆に向て、軍せん事、少も違はぬ二の舞なるべし。是こそさすが安大事よ。如何にせん。」と宣へば手書に具せられたる大夫坊覺明進出て申けるは、「山門の衆 徒は三千候、必一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。或は源氏に附んと申す衆徒も候らん、或は平家に同心せんと云ふ大衆も候らん、牒状を遣して御覽 候へ。事の樣返牒に見え候はんずらん。」と申ければ、「此議尤然るべし、さらば書け。」とて、覺明に牒状書せて、山門へ送る。其状に云、
義仲倩平家の惡逆を見るに、保元平治より以來、永く人臣の禮を失ふ。雖然、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで國郡を掠領す。道理非理を論ぜず、權門勢家を追捕し、有罪無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。其資材を奪取て、悉く郎從に 與へ、彼庄園を沒収して、猥がはしく子孫に省む。就中、去治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域 に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以す。加之同四年五月、二の宮の朱閣を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れん爲に、竊に園城寺へ 入御の時、義仲先日に令旨を給るに依て、鞭を擧げんとする處に、怨敵巷に滿て、豫參路を失ふ。近境の源氏、猶參候せず、況や遠境に於てをや。然るを園城は 分限なきによて、南都へ趣かしめ給ふ間、宇治橋にて合戰す。大將三位入道頼政父子、命を輕んじ義を重んじて、一戰の功を勵すと云へ共、多勢の責を免かれ ず、形骸を古岸の苔にさらし、生命を長河の波に流す。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲魂を消す。是によて東國北國の源氏等、各參洛を企て、平家を亡さんと欲 す。義仲去年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を擧げ劍を取て、信州を出でし日、越後國の住人、城の四郎長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國横田河 原にして合戰す。義仲僅に三千餘騎を以て、かの數萬の兵を破り畢ぬ。風聞廣きに及て、平氏の大將十萬の軍士を率して、北陸に發向す。越州、加州、砥浪、黒 坂、鹽坂、篠原以下の城郭にして、數箇度合戰す。策を帷幄の中に運らして、勝事を咫尺のもとに得たり。然を討てば必ず伏し、攻れば必ず降る。秋風の芭蕉を 破るに異ならず。冬の霜の群葉を枯すに同じ。是偏に神明佛陀の助けなり、更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、參洛を企る者也。今叡岳の麓を過ぎて、 洛陽の衢に入るべし。此時に當て、竊に疑殆あり。抑天台の衆徒、平家に同心か、源氏に與力か。若 しかの逆徒を助けらるべくば、衆徒に向て合戰すべし。若し合戰をいたさば、叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲 哉、平氏宸襟を惱し、佛法を滅す間、惡逆を靜めんが爲に、義兵を發す處に、忽ち三千の衆徒に向て、不慮の合戰を致さんことを。痛哉、醫王、山王に憚り奉 て、行程に遲留せしめば、朝廷緩怠の臣として、永く武略瑕瑾の謗を遺さんことを。猥しく進退に迷て、案内を啓する所なり。庶幾三千の衆徒神の爲、佛の爲、 國の爲、君の爲に源氏に同心して兇徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹白。
壽永二年六月十日 源 義仲
進上 惠光坊律師御房
とぞかいたりける。
返牒
案の如く、山門の大衆此状を披見して、僉議區々也。或は源氏に附んといふ衆徒もあり、或は又平家に同心せんと云大衆もあり。思々異議區々也。老僧共 の僉議しけるは、詮ずる所、我等專金輪聖主天長地久と祈奉る。平家は當代の御外戚、山門に於て歸敬を致さる。去れば今に至る迄彼繁昌を祈誓す。然りといへ ども惡行法に過て、萬人是を背く。討手を國々へ遣すと云へ共、却て異賊の爲にほろぼさる。源氏は近年より以降、度々の軍に討勝て、運命開けんとす。何ぞ當 山獨宿運盡ぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須く平家 値遇の義を翻して、源氏合力の旨に任ずべき由、一味同心に僉議して、返牒を送る。木曾殿又家の子郎等を召集めて、覺明に此返牒を開かせらる。
六 月十日の牒状、同十六日到來、披閲の處に數日の欝念一時に解散す。凡平家の惡逆累年に及で朝廷の騒動止時なし。事人口にあり、遺失するに能はず。夫叡岳に 至ては、帝都東北の仁祠として、國家靜謐の精祈を致す。然るを、一天久しくかの夭逆に侵されて、四海鎭に、その安全を得ず。顯密の法輪なきが如く、擁護の 神威屡すたる。此に貴家適累代武備の家に生れて、幸に當時清選の仁たり。豫じめ奇謀を囘らして忽に義兵を起す。萬死の命を忘れて一戰の功をたつ。其勞未だ 兩年を過ぎざるに、其名既に四海に流る。吾山の衆徒、且且以て承悦す。國家の爲、累家の爲、武功を感じ、武略を感ず。此の如くならば、則山上の精祈空しか らざる事を悦び、海内の衞護怠りなき事を知んぬ。自寺、他寺、常住の佛法、本社、末社、祭奠の神明、定て教法の再び榮えんことを喜び、崇敬のふるきに復せ んことを隨喜し給ふらむ。衆徒等が心中、唯賢察を垂れよ。然則、冥には十二神將、醫王善逝の使者として凶賊追討の勇士にあひ加り、顯には三千の衆徒、暫く 修學鑽仰の勤節を止て、惡侶治罰の官軍を扶けしめん。止觀十乘の梵風は、奸侶を和朝の外に拂ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を堯年の昔に囘さん。衆議かくの如 し。倩是を察せよ。
壽永二年七月二日 大衆等
とぞ書たりける。
平家山門連署
平家は是を夢にも知らずして、興福園城兩寺は、欝憤を含める折節なれば、語ふとも靡じ。當家は未だ山門の爲に怨を結ばず、山門又當家の爲に不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を語らはばやとて、一門公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送る。其状に云、
敬 白延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰べき事右當家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何となれば、叡山は是桓武天皇 の御宇、傳教大師入唐歸朝の後、圓頓の教を此所に廣め、遮那の大戒を其内に傳てより以降、專ら佛法繁昌の靈崛として、鎭護國家の道場に備ふ。方に今伊豆國 流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却て朝憲を嘲る。加之奸謀に與して、同心を致す源氏等、義仲、行家以下黨を結て數あり。隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬 物を押領す。これによて或は累代勳功の跡を逐ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速に賊徒を追討し、凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで類に征伐を企つ。 爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乘に似たり。若神明佛陀の加被にあらずば、爭か反逆の凶亂を鎭めん。是を以て、一向天台の佛法に 歸し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまくのみ。何ぞ況や忝なく、臣等が曩祖を思へば本願の餘裔と云つべし。彌崇重すべし、彌恭敬すべし。自今以後、山門に悦 あらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、各子孫に傳へて永く失墜せじ。藤氏は春日社興福寺を以て氏社 氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。平氏は日吉社延暦寺を以て、氏社氏寺として、目の當り圓實頓悟の教に値遇せん。彼は昔の遺跡なり、家の爲榮幸を思 ふ。是は今の誓祈なり、君の爲追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷屬、東西滿山護法聖衆、十二上願醫王善逝、日光月光十二神將、無二の丹誠を照し て、唯一の玄應を垂給へ。然る間邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆殘害の輩、首を京土に傳へん。仍て當家の公卿等、異口同音に禮をなして祈誓如件。
從三位行兼越前守平朝臣通盛
從三位行兼右近衞中將平朝臣資盛
正三位行右近衞權中將兼伊豫守平朝臣維盛
正三位行左近衞中將兼播磨守平朝臣重衡
正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗
參議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛
從二位行中納言兼左兵衞督征夷大將軍平朝臣知盛
從二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛
正二位行權大納言兼出羽陸奧按察使平朝臣頼盛
從一位平朝臣宗盛
壽永二年七月五日 敬白
とぞ書かれたる。
貫首是を憐み給ひて、左右なく披露せられず。十禪寺權現の御殿に籠て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。始は有とも見えざりし一首の歌願書の上卷に、出來たり。
平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそなれ。
山王大師是に憐を垂れ給ひ、三千の衆徒力を合せよと也。されども年比日比の振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れども叶はず語へども靡ざ りけり。大衆誠に、事の體を憐けれども、「既に源氏に同心の返牒を送る。今又輕々しく、其議を改るに能はず。」とて是を許容する衆徒もなし。
主上都落
同七月十四日、肥後守貞能、鎭西の謀反平げて、菊池、原田、松浦黨以下、三千餘騎を召具して上洛す。鎭西は、纔に平げども、東國、北國の軍如何にも靜まらず。
同二十二日の夜半許、六波羅の邊おびたゞしう騒動す。馬に鞍置き腹帶しめ、物共東西南北へ運び隱す。唯今敵の打入たる樣なり。明て後聞えしは、美濃 源氏、佐渡衞門尉重貞と云ふ者有り。一年保元の合戰の時、鎭西八郎爲朝が、方の軍に負て、落人と成たりしを搦て出たりし勸賞に、本は兵衞尉たりしが、其時 右衞門尉に成ぬ。是に依て一門にはあたまれて、平家 に諂ひけるが、其夜の夜半計六波羅に馳參て申けるは、木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に充滿て候。郎等に楯六郎親忠、手書に大夫坊覺明、六千餘騎で、天台山に競登り、三千の衆徒皆同心して、唯今都へ攻入る由申たりける故也。平家の人々 [5]大に噪いで、方々へ討手を向けられけり。大將軍には新中納言知盛卿、本三位中將重衡卿、都合其勢三千餘騎都を立て先づ山階に宿せらる。越前三位通盛、能登守教經、二千餘騎で宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。
源氏の方には、十郎藏人行家、數千騎で宇治橋より入るとも聞えけり。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛すとも申あへり。攝津河 内の源氏等雲霞の如くに同う都へ亂入由聞えしかば、平家の人々此上は唯一所にて如何にも成給へとて、方々へ向られたる討手共都へ皆呼返れけり。帝都、名利 の地鷄鳴て安き事なし。治れる世だにもかくの如し。況や亂たる世に於てをや。吉野山の奧の奧へも入なばやとは思はれけれども、諸國七道、悉く背きぬ。何れ の浦か穩しかるべき。三界無安猶如火宅とて如來の金言一乘の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。
同七月廿四日の小夜更方に、前内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ六波羅殿へ參て申されけるは、「此世の中の在樣、さりともと存候つるに今はかうに こそ候めれ。唯都の内で如何にもならんと人人は申あはれ候へども、目のあたり浮目を見せ參せんも口惜候へば、院をも内をも取奉て、西國の方へ御幸行幸をも 成し參せて見ばやとこそ思成て候へ。」と申されければ、 女院、「今は只ともかうもそこの計らひにてこそ有んずらめ。」とて御衣の御袂に餘る御涙塞あへさせ給ず。大臣殿も直衣の袖絞る許に見えられけり。
其夜法皇をば内々平家の取奉て、都の外へ落行べしといふ事を聞召されてや有けん、按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時計御伴にて、竊に御所を出させ 給ひ鞍馬へ御幸なる。人是を知らざりけり。平家の侍に橘内左衞門尉季康と云ふ者有り。さか/\しき士にて、院にも召使はれけり。其夜しも法住寺殿に御宿直 して候けるに、常の御所の方よに噪がしうさゝめきあひて、女房達忍ねに泣などし給へば、何事やらんと聞程に、「法皇の俄に見えさせ給ぬは、何方へ御幸やら ん。」といふ聲に聞なしつ。「あな淺まし。」とて、やがて六波羅へ馳參り、大臣殿に此由申ければ、「いで僻事でぞ有るらん。」と宣ひながら、聞もあへず、 急ぎ法住寺殿へ馳參て見參させ給へば、げに見えさせ給はず。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿、丹後殿以下、一人もはたらき給はず。「いかにや如何に。」と 申されけれども「我こそ御行方知參せたれ。」と申さるゝ人、一人もおはせず、皆あきれたる樣也けり。
さる程に、法皇都の内にも渡らせ給はずと申す程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。況や平家の人々の遽て噪がれける有樣、家々に敵の打入たりとも、限 あれば是には過じとぞ見えし。日頃は平家院をも内をも取參らせて、西國の方へ御幸行幸をも成したてまつらんと支度せられたりしに、かく打捨させ給ぬれば、 憑む木の本に雨のたまらぬ心地ぞせられける。
さりとては行幸ばかりなり共成參せよとて、卯刻計に既に行幸の御輿寄たりければ、主上は 今年六歳、未幼なうましませば何心もなう召されけり。御母儀建禮門院御同輿に參らせ給ふ。「内侍所、神璽、寶劔、 渡し奉る。印鑰、時札、玄上、鈴鹿などをも取具せよ。」と平大納言時忠卿下知せられけれども、餘りに遽噪いで、取落す物ぞ多かりける。晝の御座の御劔など をも取忘させ給ひけり。やがて此時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實三人計ぞ、衣冠にて供奉せられける。近衞司、御綱佐、甲冑をよろひ弓箭を帶して、供奉せ らる。七條を西へ朱雀を南へ行幸なる。
明れば七月廿五日也。漢天既に開きて、雲東嶺にたなびき、明方の月白く冴て、鷄鳴又忙し。夢にだにかゝる事は見ず。一年都遷とて俄にあわたゞしかりしは、かゝるべかりける先表とも今こそ思知れけれ。
攝政殿も行幸に供奉して、御出なりけるが、七條大宮にて、髫結たる童子の、御車の前をつと走通るを御覽ずれば、彼童子の左の袂に、「春の日」と云ふ 文字ぞ顯れたる。「春の日」と書ては「春日」と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守らせ給ひけりと、憑敷思召す處に、件の童子の聲と覺しく て、
いかにせん藤の末葉のかれゆくを、唯春の日に任せてや見ん。
御伴に候進藤左衞門尉高直を近う召て、「倩事の體を案ずるに行幸はなれ共、御幸も成ず、行末憑からず思召すは如何に。」と仰ければ、御牛飼に目を見合たり。やがて心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに飛が如くに仕り、北山の邊、知足院へ入せ給ふ。
維盛都落
平家の侍越中次郎兵衞盛嗣是を承はて逐ひ留め參せんと頻に進み出けるが、人人に制せられて留まりけり。
小松三位中將維盛卿は、日比より思食設られたりけれ共、指當ては悲かりけり。北方と申は、故中御門新大納言 成親卿の御娘也。桃顏露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髮風に亂るゝ粧、又人有べし共見え給はず。六代御前とて、生年十に成給ふ若君、其妹八歳の姫君おはし けり。此人々皆後じと慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「日比申し樣に、我は一門に具して、西國の方へ落行なり。何く迄も具足し奉るべけれ共、道にも敵待 なれば、心安う通ん事も有難し。縱我討れたりと聞給ふ共、樣など替給ふ事は努々有るべからず。其故は、如何ならん人にも見えて、身をも助け、少き者共をも 育み給ふべし。情を懸る人も、などか無かるべき。」と、慰め給へども、北方とかうの返事もし給はず引被てぞ臥給ふ。既に打立んとし給へば、袖にすがて「都 には父もなし母もなし、捨られ參らせて後、誰にかはみゆべき。如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨しけれ。前世の契り有ければ、人こそ憐み給ふとも、又 人毎にしもや情を懸くべき。何く迄も伴ひ奉り、同野原の露とも消え、一つの底の水屑とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寢覺の睦語は、皆僞に成にけ り。責ては身一つならば如何がせん。捨られ奉る身の憂さ、思知ても留まりなん。少き者共をば、誰に見讓り、如何にせよとか思 召す。恨しうも留め給ふ者哉。」と、且は恨み且は慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「誠に人は十三、我は十五より 見初奉り、火の中水の底へも、倶に入り倶に沈み、限ある別路迄も後れ先立じとこそ申しかども、かく心憂き有樣にて、軍の陣へ趣けば、具足し奉て、行方も知 ぬ旅の空にて、憂目を見せ奉らんも、うたてかるべし。其上今度は用意も候はず。何くの浦にも心安う落著いたらば、其よりこそ迎へに人をも奉らめ。」とて、 思ひ切てぞ立れける。中門の廊に出て、鎧取て著、馬引寄させ、既に乘らんとし給へば、若君姫君走出でて、父の鎧の袖、草摺に取附き、「是はされば何地へと て、渡せ給ぞ。我も參ん、我も行ん。」と面々に慕ひ泣給ふにぞ、浮世のきづなと覺えて、三位中將、いとゞ爲方なげには見えられける。
さる程に御弟新三位中將資盛卿、左中將清經、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乘ながら、門の中へ打入り、庭にひかへて、「行幸 は遙に延させ給ひぬらん、如何にや今迄。」と、聲々に申されければ、三位中將馬に打乘て出給ふが、猶引返し、縁の際へうち寄せて、弓の弭で御簾をさと掻揚 げ、「是御覽ぜよ各、少き者共が餘りに慕ひ候を、とかうこしらへ置んと仕る程に、存の外の遲參。」と宣ひもあへず、泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、 皆鎧の袖をぞ濡されける。
こゝに齋藤五、齋藤六とて、兄は十九、弟は十七に成る侍あり。三位中將の御馬の左右のみづつきに取著き、何く迄も御とも仕るべき由申せば、三位中將宣ひけるは、「己等が父齋藤別當北國へ下し時、汝等が頻に伴せうと云しかども、存ずる旨が有ぞとて、汝等を留置き、北 國へ下て遂に討死したりけるは、かゝるべかりける事を、故い者で、兼て知たりけるにこそ。あの六代を留て行に、心 安う扶持すべき者のなきぞ。誰理を枉て留まれ。」と宣へば、力及ばず、涙を押へて留りぬ。北方は、「年比日比、是程情なかりける人とこそ、兼ても思はざり しか。」とて臥まろびてぞ泣かれける。若君姫君女房達は、御簾の外迄まろびいで、人の聞をも憚らず聲をはかりにぞ喚叫び給ひける。此聲々耳の底に留て、西 海の立つ浪の上、吹風の音迄も聞く樣にこそ思はれけめ。
平家都を落行に、六波羅、池殿、小松殿、八條、西八條以下、一門の卿相雲客の家々、二十餘箇所、次々の輩の宿所々々、京白川に四五萬の在家一度に火をかけて、皆燒拂ふ。
聖主臨幸
或は聖主臨幸の地也。鳳闕空しく礎を殘し、鸞輿只跡を留む。或は后妃遊宴の砌也。椒房の嵐聲悲み、掖庭の露色愁ふ。粧鏡翠帳の基戈林釣渚の館、槐棘の座 えん鸞の栖、多日の經營を空うして、片時の灰燼と成果ぬ。況や郎從の蓬 篳に於てをや。況や雜人の屋舎に於てをや。餘炎の及ぶ所、在々所々數十町也。強呉忽に亡て、姑蘇臺の露荊棘に移り、暴秦既に衰て、咸陽宮の烟 へいけいを隱しけんも、かくやと覺て哀也。日來は函谷二 かうの嶮しきを固うせしか共、北狄の爲に是を破られ、今は江河 けい渭の深きを憑みしか共、東夷の爲に是を取られたり。豈圖きや、忽に禮儀の郷を攻出されて、泣々無智の境に身を寄んとは。昨日は雲 の上にて雨を降す神龍たりき。今日は肆の邊に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同うし、盛衰掌を反す。今目前にあり、誰か是を悲ざらん。保元の昔は春の花と榮しかども、壽永の今は秋の紅葉と落果ぬ。
去治承四年七月大番の爲に上洛したりける畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門尉朝綱、壽永迄、召籠られたりしが、其時既に斬るべかりしを、 新中納言知盛卿申されけるは「御運だに盡させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所從等如何に歎 き悲み候らん。若し不思議に運命開けて、又都へ立歸らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本國へ返し遣さるべうや候らむ。」と申さ れければ、大臣殿、「此義尤然るべし。」とて暇を給ぶ。是等首を地に著け、涙を流いて申けるは、「去治承より今までかひなき命を扶けられ參せて候へば、何 くまでも御供仕て行幸の御ゆくへを見參せん。」と頻に申けれ共、大臣殿、「汝等が魂は皆東國にこそあるらんに、ぬけがらばかり西國へ召具すべき樣なし。急 ぎ下れ。」と仰られければ、涙を押へて下けり。是等も二十餘年の主なれば、別れの涙押へ難し。
忠度都落
薩摩守忠度は、いづくよりか歸られたりけん、侍五騎、童一人、我身共に七騎取て返し、五條の三位俊成卿の宿所におはして見給へば門戸をとぢて開かず。忠度と名乘給へば、落人 歸り來たりとて、其内噪ぎあへり。薩摩守馬より下り、自高らかに宣ひけるは、「別の子細候はず、三位殿に申べき事有て、忠 度が歸り參て候。門を開れず共、此際迄立寄らせ給へ。」と宣へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならば苦かるまじ。入れ申せ。」とて、門をあけて對面有 り。事の體何となうあはれなり。薩摩守宣ひけるは、「年來申承はて後、愚ならぬ御事に思ひ參らせ候へ共、この二三年は京都の噪、國々の亂併當家の身の上の 事に候間疎略を存せずといへども、常に參り寄る事も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門の運命はや盡候ぬ。撰集の有るべき由承りしかば、生涯の面目に、 一首なり共御恩を蒙らうと存じて候しに、やがて世の亂出で來て、其沙汰なく候條、唯一身の歎きと存ずる候。世靜まり候なば勅撰の御沙汰候はんずらん。是に 候ふ卷物の中に、さりぬべきもの候はゞ、一首なりとも御恩を蒙て、草の蔭にても嬉しと存候はば、遠き御守りとこそ成參せ候んずれ。」とて、日來詠置れたる 歌共の中に、秀歌と覺きを百餘首書集られたる卷物を、今はとて打立れける時、是を取て持れたりしが、鎧の引合せより取出でて、俊成卿に奉る。三位是をあけ て見て、「かゝる忘れ形見を給り置候ぬる上は、努々疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても只今の御渡りこそ情も勝れて深う、哀れも殊に思ひしられ て感涙抑へ難う候へ。」と宣へば、薩摩守悦で「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に尸をさらさばさらせ、浮世に思置く事候はず。さらば暇申て。」とて、 馬に打乘り、甲の緒をしめ、西を指いてぞ歩せ給ふ。三位後を遙に見送て立たれたれば、忠度の聲と覺しくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳。」と、高 らかに口ずさ み給へば、俊成卿、いとゞ名殘惜しう覺えて、涙を抑てぞ入給ふ。其後世靜て、千載集を撰ぜられけるに、忠度のあり し有樣、言置し言の葉、今更思出て哀なりければ、彼の卷物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれど、勅勘の人なれば、名字をば顯されず、「故郷花」といふ題 にて詠まれたりける歌一首ぞ、讀人しらずと入られける。
さゝ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山櫻かな。
其身朝敵と成にし上は、仔細に及ばずと云ながら、恨めしかりし事共なり。
經正都落
修理大夫經盛の子息、皇后宮亮經正、幼少にては、仁和寺の御室の御所に、童形にて、候はれしかば、かゝる怱劇の中にも、其御名殘きと思出て、侍五六 騎具して、仁和寺殿へ馳參り、門前にて馬より下り、申入られけるは、「一門運盡て今日既に帝都を罷出候。浮世に思ひ殘す事とては、唯君の御名殘計也。八歳 の時參り始め候て、十三で元服仕り候し迄は、相勞る事の候はぬ外は、白地にも御前を立去事も候はざりしに、今日より後西海千里の浪路に趣いて、又何の日、 何の時、歸り參るべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。今一度御前へ參て、君をも見參せたう候へども、既に甲冑を鎧ひ弓箭を帶し、あらぬ樣なる粧に罷成て候へ ば、憚存候。」とぞ申されける。御室哀に思召し、「唯其姿を改めずして參れ。」とこそ仰せけれ。經正其日は、紫地の錦の直垂に、萠黄匂の鎧著て、長覆輪の 太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籘 の弓脇に挾み、甲をば脱高紐にかけ、御前の御坪に畏る。御室やがて御出有て、御簾高く揚させ「是へ/\」と召されければ、 大床へこそ參られけれ。供に具せられたる藤兵衞有教を召す。赤地の錦の袋に入たる御琵琶持て參たり。經正是を取次で、御前にさし置き申されけるは、「先年 下し預て候し青山持せて參て候。餘りに名殘は惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成ん事口惜う候。若不思議に運命開けて、又都へ立歸る事候はゞ、 其時こそ猶下し預り候はめ。」と泣々申されければ、御室哀におぼしめし一首の御詠をあそばいて下されけり。
あかずして別るゝ君が名殘をば、後の形見につゝみてぞおく。
經正御硯下されて、
呉竹のかけひの水はかはれども、猶すみあかぬ宮の中かな。
さては暇申て出られけるに、數輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至迄、經正の袂にすがり、袖を引へて、名殘を惜み、涙を流さぬは無りけり。其中にも經 正幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。餘に名殘を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其より暇請う て泣々別れ給ふに、法印かうぞ思續け給ふ。
あはれなり老木若木も山櫻、おくれ先だち花は殘らじ。
經正の返事には、
旅衣よな/\袖をかたしきて、思へば我は遠くゆきなん。
さて、卷て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこ爰にひかへて待奉る侍共、「あはや」とて馳集まり、其勢百騎許鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。
青山之沙汰
此經正十七の年、宇佐の勅使を承てくだられけるに、其時青山を給て、宇佐へ參り、御殿に向ひ參り、祕曲を彈給ひしかば、いつ聞馴たる事は無れ共、供の宮人推竝て、緑衣の袖をぞ絞ける。聞知らぬ奴子迄も村雨とは紛はじな。目出かりし事ども也。
彼青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶博士廉妾夫に逢ひ、三曲を傳へて歸朝せしに、玄象、獅子丸、 青山、三面の琵琶を相傳して渡りけるが、龍神や惜み給ひけん、浪風荒く立ければ、獅子丸をば海底に沈めぬ。今二面の琵琶を渡して、吾朝の御門の御寶とす。
村上聖代應和の比ほひ、三五夜中の新月白く冴え、凉風颯々たりし夜半に、御門清凉殿にして、玄象をぞ遊されける。時に影の如くなる者、御前に參じ て、優にけだかき聲にて、唱歌を目出たう仕る。御門御琵琶を差置かせ給て、「抑汝は如何なる者ぞ。何くより來れるぞ。」と御尋あれば、「是は昔貞敏に三曲 を傳へし大唐の琵琶博士、廉妾夫と申す者で候が、三曲の中、祕曲を一曲殘せるに依て、魔道に沈淪仕て候。今御琵琶の御撥音妙に聞えて侍る間、參入仕る處 也。願くは此曲を君に授け奉り、佛果菩提を證すべき」由申て、御前に立られたる青山 を取り、轉手をねぢて、祕曲を君に授け奉る。三曲の中に上玄、石上是也。其後は、君も臣も恐させ給て、此御琵琶を遊し彈く 事もせさせ給はず、御室へ參せられたりけるを、經正の幼少の時御最愛の童形たるに依て、下し預りたりけるとかや。甲は紫藤の甲、夏山の嶺の緑の木間より、 有明の月の出るを、撥面に書かれたりける故にこそ、青山とは附られたれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物なりけり。
一門都落
池の大納言頼盛卿も、池殿に火を懸て出られけるが、鳥羽の南の門に引へつゝ、「忘たる事あり。」とて、赤印切捨て、其勢三百餘騎都へ取て歸られけ り。平家の侍越中次郎兵衞盛嗣、大臣殿の御前に馳參て「あれ、御覽候へ、池殿の御留まり候に、多の侍共の付參らせて、罷留まるが、奇怪に覺え候。大納言殿 迄は恐れも候、侍共に矢一つ射懸候はん。」と申ければ。「年比の重恩を忘て、今此有樣を見果ぬ不當人をば、さなくとも有なん。」と宣へば、力及ばで留まり けり。「さて小松殿の君達は如何に。」と宣へば「未御一所も見えさせ給はず。」と申す。其時、新中納言殿、涙をはらはらと流いて「都を出て未だ一日だにも 過ざるに、何しか人の心共の變行くうたてさよ。まして行末とてもさこそはあらんずらめと思しかば都の内で如何にも成らんと、申つる者を。」とて、大臣殿の 御方を、世にも恨げにこそ見給ひけれ。
抑池殿の留まり給ふ事を如何にと云に兵衞佐頼朝、常は頼盛に情をかけて、「御方をば全く愚 に思ひ參らせ候はず。只故池殿の渡らせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩薩も御照覽候へ。」など、度々誓状を以て申されける上、 平家追討の爲に討手の使の上る度ごとに、「相構て池殿の侍共に向て弓引な。」と情を懸れば「一門の平家は運盡き既に都を落ぬ。今は兵衞佐に助られんずるに こそ。」と宣ひて、都へ歸られけるとぞ聞えし。八條女院の仁和寺の常磐殿に渡らせ給ふに參り籠られけり。女院の御乳母子宰相殿と申す女房に、相具し給へる に依てなり。「自然の事候はゞ、頼盛構へて助させ給へ。」と申されけれども、女院、「今は世の世にても有らばこそ。」とて、憑氣もなうぞ仰ける。凡は兵衞 佐許こそ、芳心は存ぜらるゝとも、自餘の源氏共は如何あらんずらん。憖に一門には離れ給ひぬ。浪にも磯にも附ぬ心地ぞせられける。さる程に、小松殿の君達 は三位中將維盛卿を始め奉て、兄弟六人其勢千騎許にて淀の六田河原にて、行幸に追附奉る。大臣殿待うけ奉り嬉げにて、「いかにや今迄。」と宣へば、三位中 將、「少き者共が餘に慕ひ候を、とかうこしらへ置んと遲參仕候ぬ。」と申されければ、大臣殿、「などや心つよう六代殿をば具し奉給候はぬぞ。」と宣へば、 維盛卿、「行末とても憑しうも候はず。」とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。
落行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫經盛、右衞門督 清宗、本三位中將重衡、小松三位中將維盛、新三位中將資盛、越前三位通盛、殿上人には、内藏頭信基、讃岐中將時實、左中將清經、小松少將有盛、丹後侍從忠 房、皇后宮亮經正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教經、武藏守知明、備中守師盛、淡路守清 房、尾張守清定、若狹守經俊、兵部少輔正明、藏人大夫成盛、大夫敦盛、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納 言律師仲快、經誦坊阿闍梨祐圓、侍には受領、檢非違使、衞府、諸司百六十人、都合其勢七千餘騎、是は東國北國度々の軍に此二三箇年が間、討泄れて、僅に殘 る所也。山崎關戸院に玉の御輿を舁居て、男山を伏拜み、平大納言時忠卿「南無歸命頂禮八幡大菩薩、君を始參せて、我等都へ歸し入させ給へ。」と祈れけるこ そ悲しけれ。各後を顧給へば、霞める空の心地して、烟のみ心細く立のぼる。平中納言教盛卿
はかなしな主は雲井に別るれば、跡は煙とたちのぼるかな。
修理大夫經盛、
故郷をやけのの原にかへり見て、末もけぶりのなみぢをぞ行く。
誠に故郷をば、一片の烟塵に隔つゝ、前途萬里の雲路に赴れけん人々の心の中、推量られて哀也。
肥後守 [6]貞能ほ、 川尻に源氏待と聞て、蹴散さんとて、五百餘騎で發向したりけるが、僻事なれば歸り上る程に、宇度野の邊にて行幸に參り合ふ。貞能馬より飛下り、弓脇挾み大 臣殿の御前に、畏て申けるは、「是は、抑何地へとて落させ給候やらん。西國へ下せ給たらば、落人とて、あそこ爰にて討散らされ浮名を流させ給はん事こそ口 惜う候へ。只都のうちでこそ、如何にも成せ給はめ。」と申ければ、大臣殿、「貞能は知ぬか。木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に滿々たん なり。此夜半ばかり法皇も渡らせ給はず。各が身ばかりな らば如何がせん、女院二位殿に目の當り憂目を見せ參せんも、心苦しければ、行幸をも成し參らせ、人々をも引具し奉て、一ま ともやと思ふぞかし。」と仰られければ、「左候はゞ、貞能は暇賜はて、都で如何にも成り候はん。」とて、召具したる五百餘騎の勢をば、小松殿の君達に附奉 り、手勢三十騎許で都へ引かへす。
京中に殘り留まる平家の餘黨を伐んとて、貞能が歸り入由聞えしかば、池大納言「頼盛が身の上でぞ有らん。」とて、大に怖れ噪がれけり。貞能は、西八 條の燒跡に、大幕ひかせ一夜宿したりけれども、歸り入給ふ平家の君達一所も坐ねば、さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄に懸じとて、小松殿の御墓掘せ、 御骨に向ひ奉て、泣々申けるは、「あな淺まし、御一門の御果御覽候へ。『生ある者は必滅す。樂み盡て悲み來る。』と古より書置たる事にて候へ共、まのあた りかかる憂事候はず。君は斯樣の事を先づ悟せ給ひて、兼て佛神三寶に御祈誓有て、御世を早うせさせまし/\けるにこそ。有難うこそ覺え候へ。其時貞能も最 後の御供仕るべう候ける物を、かひなき命を生て、今はかゝる憂目に逢候事こそ口惜う候へ。死期の時は、必一佛土へ迎へさせ給へ。」と泣々遙に掻口説き、骨 をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川に流させ、世の在樣たのもしからずや思けん、主と後合に、東國へこそ落行けれ。宇都宮をば貞能が申預て、情有けれ ば、其好にや貞能又宇都宮を頼うで下られければ芳心しけるとぞ聞えし。
福原落
平家は小松三位中將維盛卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられけれ共、次樣の人共はさのみ引しろふに及ばねば、後會其期を知 らず、皆打捨てぞ落行ける。人は何れの日、何れの時、必ず立歸べしと其期を定置だにも、久しきぞかし。況や是は今日を最後、唯今限の事なれば、行くも止ま るも、互に袖をぞ濕しける。相傳譜代の好年比日比の重恩、爭か忘べきなれば、老たるも若きも、後のみ歸り見て、前へは進みもやらざりけり。或は磯邊の波 枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌ぎつゝ、駒に鞭打人もあり舟にさをさす者もあり、思々心々に落行けり。
平家は福原の舊都に著て、大臣殿然るべき侍共老少數百人召て仰られけるは、「積善の餘慶家に盡き、積惡の餘 殃身に及ぶ故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨られ參らせて、帝都を出て旅泊に漂ふ上は、何の憑みか有るべきなれ共、一樹の蔭に宿るも、前世の契淺から ず、同じ流を掬ぶも、他生の縁尚深し。如何に況や、汝等は一旦隨ひ付く門客にあらず、累祖相傳の家人也。或は近親の好他に異なるも有り、或は重代芳恩是深 きも有り。家門繁昌の古へは、恩波に依て、私を顧みき。今何ぞ芳恩を酬ひざらんや。且は十善帝王、三種神器を帶して渡らせ給へば、如何ならん野の末山の奧 迄も、行幸の御供仕らんとは思はずや。」と仰られければ老少皆涙を流いて申けるは、「怪しの鳥獸も、恩を報じ徳を酬ふ心は候なり。況や、人倫 の身として、いかが其理を存知仕らでは候べき。廿餘年の間、妻子を育み、所從を顧み候事、併ら君の御恩ならずとい ふ事なし。就中に弓箭馬上に携る習ひ、二心あるを以て恥とす。然ば則ち日本の外、新羅、百濟、高麗、契丹、雲の果海の果迄も、行幸の御供仕て、如何にも成 候はん。」と、異口同音に申ければ、人々皆憑氣にぞ見えられける。
福原の舊里に、一夜をこそ明されけれ。折節秋の初の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寢の床の草枕、露 も涙も爭ひて、唯物のみぞ悲き。何歸るべし共覺えねば、故入道相國の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、泉殿、松蔭 殿、馬場殿、二階の棧敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども五條大納言國綱卿の承て造進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の甃、何れも/\三年が程に荒果 てゝ、舊苔徑を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ垣に蔦茂れり。臺傾て苔むせり、松風ばかりや通ふらん。簾絶え閨露は也、月影のみぞ差入ける。明ぬれば福 原の内裏に火を懸て、主上を始奉て人々皆御船に召す。都を立し程こそ無れども是も名殘は惜かりけり。海士の燒藻の夕煙、尾上の鹿の曉の聲、渚々に寄する浪 の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきり/\す、惣て目に見耳に觸る事、一として哀れを催し、心を痛しめずといふ事なし。昨日は東關の麓に轡を竝 べて十萬餘騎、今日は西海の浪に纜を解て七千餘人、雲海沈々として、青天既に暮なんとす。孤島に夕霧隔て、月海上に浮べり。極浦の浪を分け、鹽に引かれて 行船は、半天の雲に泝る。日數歴れば、都は既に山川 程を隔て、雲井の餘所にぞ成にける。遙々來ぬと思ふにも、唯盡ぬ者は涙なり。浪の上に白き鳥のむれゐるを見給ひては、彼ならん、在原のなにがしの隅田川にて言問ひけん、名も睦敷き都鳥にやと哀也。壽永二年七月二十五日に、平家都を落果ぬ。