[1] The kanji in our copy-text is New Nelson 3330.
1
平家物語卷第一
祇園精舎
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の 夢のごとし。たけき者も遂にほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政にも したがはず、樂みをきはめ、諫をおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざりしかば、久からずして亡じし者ども也。近く本朝を うかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前 太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、傳へうけたまはるこそ心も詞も及ばれね。
其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男な り。彼親王の御子、高親王無官無位にして、うせ給ひぬ。其御子高望の王の時始めて平の姓を給て、上總介になり給しより、忽に王氏を出て人臣につらなる。其 子鎭守府將軍義茂後には國香とあらたむ。國香より正盛に至る迄、六代は諸國の受領たりし かども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
殿上闇討
しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長壽院を造進して三十三間の御堂をたて、一千一體の御佛をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勸 賞には闕國を給ふべき由仰下されける。境節但馬國のあきたりけるを給にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す。雲の上人 是を嫉み、同き年の十一月廿三日、五節豐明の節會の夜、忠盛を闇討にせむとぞ擬せられける。忠盛是を傳へ聞て、「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れ て、今不慮の恥にあはむ事、家の爲、身の爲、こゝろうかるべし。せむずるところ、身を全して君に仕といふ本文あり。」とて、兼て用意をいたす。參内のはじ めより大なる鞘卷を用意して束帶のしたにしどけなげにさし、火のほのくらき方にむかて、やはら、此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、氷などの樣にぞ みえける。諸人目をすましけり。其上忠盛の郎等もとは一門たりし木工助平貞光が孫しんの三郎太夫家房が子、左兵衞尉家貞といふ者ありけり。薄青の狩衣の下 に萠黄威の腹卷をき、弦袋つけたる太刀脇はさんで、殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下あやしみをなし、「うつぼ柱よりうち、鈴の綱のへんに布衣の者の候 ふはなにものぞ。狼藉なり。罷出よ。」と、六位をもていはせければ、家貞申けるは「相傳の主、備前守殿今夜闇討にせられ給べき由承候あひだ、其ならむ樣を 見むと て、かくて候。えこそ罷出まじけれ。」とて畏て候ければ、是等をよしなしとやおもはれけん、其夜の闇討なかりけり。
忠盛御前のめしにまはれければ、人々拍子をかへて「伊勢平氏はすがめなりけり。」とぞはやされける。此人々はかけまくもかたじけなく柏原天皇の御末 とは申ながら、中比は都の住居もうと/\しく、地下にのみ振舞なて伊勢國に住國ふかかりしかば、其國の器に事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ忠盛目の すがまれたりければ、加樣にはやされけり。いかにすべき樣もなくして、御遊もいまだをはらざるに、竊に罷出らるとて、よこたへさされたりける刀をば紫宸殿 の御後にして、かたへの殿上人のみられける所にて、主殿司をめしてあづけ置てぞ出られける。家貞待うけたてまつて、「さていかゞ候つる。」と申ければ、か くともいはまほしう思はれけれども、いひつるものならば、殿上までもやがてきりのぼらんずる者にてある間、「別の事もなし。」とぞ答られける。
五節には、「白薄樣、こぜむじの紙、卷上の筆、鞆繪ゑがいたる筆の軸」なんどさま%\面白き事をのみこそうたひ まはるるに、中比太宰權帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに色のくろかりければ、見る人黒帥とぞ申ける。其人いまだ藏人頭なりし時、五節にまはれければ、 それも拍子をかへて、「あなくろ/\、くろき頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ。」とぞはやされける。又花山院前太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申し時、 父中納言忠宗卿におくれたてまつて孤にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿いまだ播磨守たりし時、 聟に執て、聲花にもてなされければ、それも五節に「播磨米はとくさか、むくの葉か、人のきらをみがくは。」とぞはやされける。上古には加樣にありしかども事いでこず。末代いかゞあらんずらむ、おぼつかなしとぞ人申ける。
案のごとく五節はてにしかば、殿上人一同に申されけるは、「夫雄劍を帶して公宴に列し、兵仗を給て、宮中を出入 するはみな格式の禮をまもる綸命よしある先規なり。しかるを忠盛朝臣或は相傳の郎從と號して布衣の兵を殿上の小庭にめしおき、或は腰の刀を横へさいて節繪 の座につらなる。兩條希代いまだきかざる狼藉なり。事既に重疊せり。罪科尤ものがれがたし。早く御札をけづて闕官停任せらるべき由」おの/\訴へ申されけ れば、上皇大に驚きおぼしめし、忠盛をめして御尋あり。陳じ申けるは、「まづ郎從小庭に祗候の由、全く覺悟つかまつらず。但し、近日人々あひたくまるゝ旨 子細ある歟の間、年來の家人、事をつたへきくかによて其恥をたすけむが爲に、忠盛にしられずして竊に參候の條力及ざる次第なり。若し猶其咎あるべくば、彼 身をめし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司に預け置をはぬ。是をめし出され刀の實否について咎の左右あるべき歟。」と申。しかるべしとて、其刀をめし出して 叡覽あれば、上は鞘卷のくろくぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける。「當座の恥辱をのがれん爲に刀を帶する由あらはすといへども、後日の訴訟 を存知して、木刀を帶しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭に携らむ者のはかりごとは尤かうこそあらまほしけれ。兼ては又郎從小庭に祗候の條且は武士の郎等 のならひなり。忠盛が咎にあらず。」とて却て叡 感にあづかしうへは敢て罪科の沙汰もなかりけり。
鱸
其子どもは諸衞の佐になり、昇殿せしに殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比、忠盛、備前國より都へのぼりたりけるに、鳥羽院「明石浦はいかに。」と御尋ありければ、
あり明の月もあかしのうら風に、浪ばかりこそよると見えしか。
と申たりければ、御感ありけり。この歌は金葉集にぞ入られける。
忠盛又仙洞に最愛の女房をもてかよはれけるが、ある時、其女房のつぼねに、つまに月出したる扇をわすれて出られたりければ、かたへの女房たち「是はいづくよりの月影ぞや。出どころおぼつかなし。」などわらひあはれければ、彼女房、
雲井よりたゞもりきたる月なれば、おぼろげにてはいはじとぞ思ふ。
とよみたりければ、いとゞあさからずぞおもはれける。薩摩守忠度の母、是なり。にるを友とかやの風情に忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。かくて忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせにき。清盛嫡男たるによてその迹をつぐ。
保元々年七月に宇治の左府代をみだり給し時、安藝守とて御方にて勳功ありしかば、播磨守にうつて同三年太宰大貳になる。次に平治元年十二月、信頼卿が謀反の時、御方にて賊徒を うちたひらげ、勳功一にあらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年正三位に敍せられ、うちつゞき、宰相、衞府督、檢非違使別當、 中納言、大納言に歴あがて、剰へ丞相の位にいたり、左右を歴ずして内大臣より太政大臣從一位にあがる。大將にあらね共、兵仗をたまはて隨身をめし具す。牛 車輦車の宣旨を蒙て、のりながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として四海に儀刑せり。國を治め、道を論じ、陰陽をやはらげ をさむ。其人にあらずば即ち闕けよ。」といへり。されば則闕の官とも名付たり。其人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を掌の内ににぎられしうへは 子細に及ばず。
平家かやうに繁昌せられけるも熊野權現の御利生とぞきこえし。其故は、古へ清盛公、いまだ安藝守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へまゐられける に、大きなる鱸の船にをどり入たりけるを、先達申けるは、「是は權現の御利生なり。いそぎまゐるべし。」と申ければ、清盛のたまひけるは、「昔、周の武王 の船にこそ白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり。」とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔齋の道なれども、調味して家の子、侍ともにくはせられけり。其故 にや吉事のみうちつゞいて太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も龍の雲に上るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。
禿髮
角て清盛公、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病にをかされ、存命の爲に忽に出家入道す。 法名は淨海とこそなのられけれ。其しるしにや、宿病たちどころにいえて、天命を全す。人のしたがひつく事吹風の草木をなびかすがごとし。世のあまねく仰げる事ふる雨の國土をうるほすに同じ。
六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花族も英雄も面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相國のこしうと、平大納言時忠卿ののたまひけるは 「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構へて其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかきやう 烏帽子のため樣よりはじめて何事も六波羅樣といひてければ、一天四海の人皆是をまなぶ。
又いかなる賢王聖主の御政も攝政關白の御成敗も世にあまされたるいたづら者などの、人のきかぬ處にてなにとなうそしり傾け申事は常の習なれども、此 禪門世ざかりの程は聊いるかせにも申者なし。其故は入道相國のはかりごとに十四五六の童部を三百人そろへて、髮をかぶろにきりまはし、あかき直垂をきせ て、めしつかはれけるが、京中にみち/\て、往反しけり。自ら平家の事あしざまに申者あれば、一人きゝ出さぬほどこそありけれ、餘黨に觸廻して、其家に亂 入し資材雜具を追捕し、其奴を搦とて、六波羅へゐてまゐる。されば目に見、心に知るといへども、詞にあらはれて申者なし。六波羅殿の禿と云ひてしかば、道 をすぐる馬車もよぎてぞ、通りける。禁門を出入すといへども姓名を尋らるゝに及ばず、京師の長吏これが為に目を側むとみえたり。
吾身榮花
吾身の榮花を極るのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大將、次男宗盛、中納言の右大將、三男知盛、三位中將、嫡孫維盛、四位少將、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十餘人、諸國の受領、衞府、諸司、都合六十餘人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。
昔奈良の御門の御時、神龜五年、朝家に中衞の大將をはじめおかれ、大同四年に中衞を近衞と改られしよりこのかた、兄弟左右に相並事僅に三四箇度な り。文徳天皇の御時は左に良房右大臣左大將、右に良相、大納言の右大將、是は閑院の左大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇には左に實頼、小野宮殿、右に師 輔、九條殿、貞信公の御子なり。御冷泉院の御時は、左に教通、大二條殿、右に頼宗、堀河殿、御堂の關白の御子なり。二條院の御宇には左に基房、松殿、右に 兼實、月輪殿、法性寺殿の御子なり。是皆攝 祿の臣の御子息、凡人にとりては其例なし。殿上の交をだにきらはれし人の子孫にて禁色雜袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣大將になて、兄弟、左右に相並事、末代とはいひながら不思議なりし事どもなり。
其外御娘八人おはしき。皆とり/\に幸給へり。一人は櫻町の中納言重教卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の時約束ばかりにて平治の亂以後ひきちがへられ、花山院の左大臣殿の御臺盤所にならせ給て君達あまたましましけり。
抑この重教卿を櫻町の中納言と申ける事はすぐれて心數奇給へる人にて、つねは吉野山をこひ、町に櫻をうゑならべ、其内 に屋を立て、すみたまひしかば、來る年の春ごとに、みる人櫻町とぞ申ける。櫻はさいて七箇日にちるを、名殘を惜み天照御神に祈申されければ、三七日迄名殘 ありけり。君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齡をたもちけり。
一人は后にたゝせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號かうぶらせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なるうへ、 天下の國母にてましましければとかう申におよばず。一人は六條の攝政殿の北政所にならせ給ふ。高倉院御在位の時御母代とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿 とておもき人にてましましけり。一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方。一人は七條修理大夫信隆卿に相具し給へり。又安藝 國嚴島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へまゐらせたまひて女御のやうにてぞましましける。其外九條院の雜仕常葉が腹に一人。これは花山院殿に上 臈女房にて廊の御方とぞ申ける。
日本秋津島は纔に六十六箇國、平家知行の國三十餘箇國、既に半國にこえたり。其外莊園田畠いくらといふ數をしらず。綺羅充滿して、堂上花の如し。軒 騎群集して門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬寶一として闕たる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬の翫物、恐らくは帝闕も仙洞も 是にはすぎじとぞ見えし。
祇王
入道相國、一天四海をたなごゝろのうちににぎりたまひし間、世のそしりをもはばからず、人の嘲りをもかへり見ず、不思議の事 をのみし給へり。たとへば其比都に聞えたる白拍子の上手、祇王祇女とて兄弟あり、とぢといふ白拍子が娘なり。姉の祇王を入道相國最愛せられければ、是によ て妹の祇女をも世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくてとらせ、毎月百石百貫をおくられければ、家内富貴してたのしい事なのめならず。
抑我朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽院の御宇に島の千歳和歌の前とてこれら二人がまひいだしたりけるなり。始めは水干に立烏帽子、白鞘卷をさ いて、舞ひければ、男舞とぞ申ける。然るを中比より烏帽子、刀をのけられ、水干ばかりをもちゐたり、さてこそ白拍子とは名付けれ。
京中の白拍子ども祇王が幸の目出度きやうをきいてうらやむ者もあり、そねむ者もありけり。羨む者共は「あなめでたの祇王御前が幸や。おなじあそび女 とならば、誰もみなあの樣でこそありたけれ。いかさま是は祇といふ文字を名についてかくはめでたきやらん。いざ我等もついて見む。」とて或は祇一と付き、 祇二と付き、或は祗福祗徳などいふ者も有けり。そねむ者どもは「なん條名により、文字にはよるべき。幸はたゞ前世の生れつきにてこそあんなれ。」とてつか ぬ者もおほかりけり。
かくて三年と申に又都にきこえたる白拍子の上手一人出來たり。加賀國のものなり。名をば佛とぞ申ける。年十六とぞき こえし。「昔よりおほくの白拍子ありしかども、かかる舞は、いまだ見ず。」とて京中の上下もてなす事なのめならず。佛御前申けるは「我天下に聞えたれど も、當時さしもめでたうさかえさせ給ふ平家太政の入道殿へめされぬ事こそ本意なけれ。あそびもののならひ、なにかはくるしかるべき。推參して見む。」と て、ある時西八條へぞまゐりたる。人まゐて「當時都にきこえ候佛御前こそまゐて候へ。」と申しければ、入道「なんでうさやうのあそびものは人の召に隨てこ そ參れ。左右なう推參する樣やある。祇王があらん處へは神ともいへ、佛ともいへ、かなふまじきぞ。とう/\罷出よ。」とぞの給ひける。佛御前はすげなうい はれたてまつて、已にいでんとしけるを、祇王、入道殿に申けるは「あそび者の推參は常の習でこそ候へ。其上、年もいまだをさなう候ふなるが、たま/\思た てまゐりて候を、すげなう仰られてかへさせ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしうかたはらいたくも候ふらむ。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえ ず。たとひ舞を御覽じ、歌をきこしめさずとも、御對面ばかりさぶらうてかへさせ給ひたらば、ありがたき御情でこそ候はんずれ。たゞ理をまげて、めしかへし て御對面さぶらへ。」と申ければ、入道、「いで/\、我御前があまりにいふ事なれば、見參してかへさむ。」とてつかひを立てぞめされける。佛御前はすげな ういはれたてまつて車に乘て既にいでんとしけるが、めされて歸參りたり。入道出あひ對面して「今日の見參はあるまじかりつるを、祇王が何と思ふやらん、餘 りに申しすゝむる 間、か樣に見參しつ。見參する程にてはいかで聲をもきかであるべきぞ。今樣一つうたへかし。」とのたまへば、佛御前「承りさぶらふ。」とて今樣一つぞ歌うたる。
君をはじめて見るをりは、千代も歴ぬべし姫小松、
御前の池なる龜岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶめれ。
とおし返し/\三返歌すましたりければ、見聞の人々みな耳目をおどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「我御前は今樣は上手でありけるよ。此定では舞も定めてよかるらん。一番見ばや。鼓打めせ。」とてめされけり。うたせて一番舞たりけり。
佛御前は髮姿よりはじめてみめ形うつくしく聲よく節も上手でありければ、なじかは舞もそんずべき。心も及ばず 舞すましたりければ、入道相國舞にめで給ひて佛に心をうつされけり。佛御前「こはされば何事さぶらふぞや。もとよりわらはは、推參の者にていだされまゐら せさぶらひしを、祇王御前の申状によてこそ召返されても候に、加樣にめしおかれなば、祇王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。はや/\暇をたう で出させおはしませ。」と申ければ、入道、「すべて其儀あるまじ。但祇王があるをはゞかるか。其儀ならば祇王をこそいださめ。」と宣ひける。佛御前「それ 又いかでかさる御事候べき。諸共にめしおかれんだに心うう候べきに、まして祇王御前を出させ給ひて、わらは一人めしおかれなば、祇王御前の心のうちはづか しう候ふべし。おのづから後までわすれぬ御事ならば、めされて又は參るとも、今日は暇を給らむ。」とぞ申ける。入道「なんでう其儀あるべき。祇王とう/\ 罷出で よ。」と御使かさねて三度までこそ立てられけれ。祇王もとよりおもひ設けたる道なれども、さすがに昨日今日とは思よ らず。いそぎ出べき由頻にのたまふ間、はき拭ひ、塵ひろはせ、見苦しき物共とりしたためて出づべきにこそ定まりけれ。一樹の陰に宿り合ひ、同じ流をむすぶ だに別はかなしき習ぞかし。まして此三年が間住なれし處なれば、名殘もをしう悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてもあるべき事ならねば、祇王すでに、 今はかうとて、出けるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけむ、障子になく/\一首の歌をぞかきつけける。
萠出るも枯るゝも同じ野邊の草、何れか秋にあはではつべき。
さて車に乘て宿所に歸り、障子の内に倒れ臥し、唯泣くより外の事ぞき。母や妹是をみて「如何にやいかに。」ととひけれども、とかうの返事にも及ば ず。具したる女に尋ねてぞさる事ありともしりてける。さる程に毎月に送られつる百石百貫をも今はとゞめられて、佛御前がゆかりの者共ぞ、始めて、樂み榮え ける。京中の上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はて出でたんなれ。いざ見參して遊ばむ。」とて、或は文をつかはす人もあり、或は使を立つる者もあり。祇 王さればとて今更人に對面してあそびたはぶるべきにもあらねば、文を取入るゝ事もなく、まして使にあひしらふ迄もなかりけり。是につけても悲しくていとゞ 涙にのみぞしづみける。
かくて今年も暮れぬ。あくる春の比、入道相國、祇王が許へ使者を立てて、「いかに其後何事 かある。佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、まゐて今樣をもうたひ、舞などをも舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひけ る。祇王とかうの御返事にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。參るまじいか。參るまじくば、其樣を申せ。淨海もはからふ旨あり。」とぞ宣ひける。母 とぢ是を聞くにかなしくて、 [1]いかなるべしともおぼえす、な く/\教訓しけるは、「いかに祇王御前、ともかくも御返事を申せかし、さやうにしかられ參らせんよりは。」といへば、祇王「參らんとおもふ道ならばこそや がて參るとも申さめ。參らざらんもの故に何と御返事を申すべしともおぼえず。此度めさんに參らずばはからふ旨ありと仰せらるゝは、都の外へ出さるゝか、さ らずば命を召さるゝか、是二つによも過ぎじ。縱都を出さるゝとも、歎くべきにあらず。たとひ命を召さるゝとも、惜かるべき又わが身かは。一度憂きものに思 はれ參らせて二度面をむかふべきにもあらず。」とて、なほ御返事をも申さゞりけるを、母とぢ重ねて教訓しけるは、「天が下に住ん程はともかうも入道殿の仰 をば背くまじき事にてあるぞ。男女の縁宿世今にはじめぬ事ぞかし。千年萬年と契れども、軈て離るゝ中もあり。白地とは思へどもながらへ果る事もあり。世に 定なきものは男女の習なり。それに我御前は此三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき御情でこそあれ。めさんに參らねばとて命をうしなはるゝまではよも あらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縱ひ都を出さるとも、我御前たちは年若ければ、如何ならん岩木のはざまにても過さん事安かるべし。年老い衰へたる母 都の外へぞ出されんずらん。習はぬ旅の住居こそかねて思ふも悲しけれ。唯我を都の内にて住果させよ。 其ぞ今生後生の孝養と思はむずる。」といへば、祇王うしと思し道なれども、親の命を背かじと、なく/\又出立ける心の中こそ 無慚なれ。一人參らむはあまりにものうしとて妹の祇女をも相具しけり。其外白拍子二人、惣じて四人一車に乘て、西八條へぞ參たる。さき/\召されたる處へ はいれられずして、遙に下りたる處に座敷しつらうて置かれたり。祇王「こは、されば、何事ぞや。我身に過つ事は無けれども、すてられたてまつるだにある に、座敷をさへ下げらるゝ事の心うさよ。いかにせむ。」と思ふに、知らせじと押ふる袖のひまよりも餘りて涙ぞこぼれける。佛御前是を見て、あまりにあはれ に思ければ、「あれはいかに、日頃召されぬ所にても候はばこそ。是へ召され候へかし。さらずばわらはに暇を給べ。出でて見參せん。」と申ければ、入道「す べて其儀あるまじ。」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。其後入道は祇王が心の内をも知たまはず、「いかに其後何事かある。さては佛御前があまりにつれ/\ げに見ゆるに、今樣一つ歌へかし。」とのたまへば、祇王參る程では、ともかうも入道殿の仰をば背くまじと思ひければ、落つる涙をおさへて、今樣一つぞ歌う たる。
佛も昔は凡夫なり、我等も遂には佛なり、
何も佛性具せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ。
と泣く/\二返歌うたりければ、其座にいくらも並居たまへる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで皆感涙をぞ流されける。入道も面白げにおもひ給ひて「時にとては神妙に申したり。さては舞も見たけれども、今日は紛るゝ事いできたり。此後は召さずとも、常に參 て今樣をも歌ひ、舞などを舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかくの返事にも及ばず、涙を押へて出でにけり。
「親の命を背かじとつらき道におもむいて、二度、うき目を見つる事の心うさよ。かくて此世にあるならば、又憂 き目をも見むずらん。今は只身を投げんとおもふなり。」といへば妹の祇女も「姉身を投げば、われもともに身を投ん。」といふ。母とぢ、是をきくに悲しくて いかなるべしともおぼえず。泣々又教訓しけるは「誠に我御前の恨むるもことわりなり。さやうの事あるべしとも知らずして教訓して參らせつる事の心うさよ。 但我御前身を [2]投げは、 妹もともに身を投げんといふ。二人の娘共に後れなん後、年老衰へたる母命いきてもなにゝかはせむなれば、我もともに身を投げむとおもふなり。いまだ死期も 來らぬ親に身を投げさせん事五逆罪にやあらんずらむ。此世は假の宿なり。慚ても慚ても何ならず。唯長き世の闇こそ心うけれ。今生でこそあらめ。後生でだに 惡道へ趣かんずる事の悲しさよ。」とさめざめとかき口説ければ、祇王なみだをおさへて「げにもさやうにさぶらはゞ五逆罪疑なし。さらば自害は思ひ止まり候 ひぬ。かくて都にあるならば、又うき目をも見むずらん。今は都の外へ出でん。」とて祇王二十一にて尼になり、嵯峨野の奧なる山里に柴の庵をひきむすび念佛 してこそ居たりけれ。妹の祇女も「姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、まして世を厭はむに誰かは劣るべき。」とて十九にて樣をかへ、姉と一 所に籠居て後世を願ふぞあはれなる。母とぢ是をみて若き娘どもだに樣を替る世中に年老い衰へたる母白髮をつけても何にかはせ むとて四十五にて髮を剃り、二人の娘諸共に一向專修に念佛して、ひとへに後世をぞ願ひける。
かくて春過ぎ夏闌ぬ、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつゝ、天のと渡る梶の葉に思ふ事かく比なれや。夕 日の影の西の山の端に隱るゝを見ても、日の入給ふ所は西方淨土にてあんなり。いつか我等も彼處に生れて物を思はですぐさんずらんと、かゝるにつけても過ぎ にし方の憂き事ども思ひ續けて、たゞ盡せぬ物は涙なり。黄昏時も過ぎぬれば竹の編戸を閉じ塞ぎ、燈かすかにかきたてて、親子三人念佛して居たる處に、竹の 編戸を、ほと/\と打ちたゝく者出できたり。その時尼ども膽をけし「あはれ、是はいひかひなき我等が念佛してゐたるを妨げんとて、魔縁のきたるにてぞある らん。晝だにも人の問ひ來ぬ山里の柴の庵の内なれば、夜深て誰かは尋ぬべき。僅の竹の編戸なれば、あけずとも推破んこと安かるべし。なか/\たゞあけてい れんと思ふなり。それに情をかけずして、命を失ふものならば、年比頼たてまつる彌陀の本願を強く信じて、ひまなく名號を唱へ奉るべし。聲を尋ねて迎へ給ふ なる聖衆の來迎にてましませば、などか引接なかるべき。相構へて念佛怠り給ふな。」と、互に心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけ り、佛御前ぞ出できたる。祇王「あれはいかに。佛御前と見奉るは夢かや、うつゝか。」といひければ、佛御前涙をおさへて、「か樣の事申せば、事あたらしう 候へども、申さずば、又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして申すなり。もとよりわらは推參の者にて、出され參らせ候ひしを、 祇王御前の申状によてこそ、召し返されても候ふに、女のかひなきこと、我身を心に任せずして、おしとゞめられまゐら せし事心うゝさぶらひしが、いつぞや又めされまゐらせていまやううたひ給ひしにも思しられてこそさぶらへ。いつか我身の上ならんと思へば、嬉しとは更にお もはず。障子にまた、『いづれか秋にあはではつべき。』と書置給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。その後は在所をいづくとも知りまゐらせざりつる に、かやうにさまを替て、一處にと承はて後は、あまりに羨しくて常は暇を申しかども、入道殿さらに御用ゐましまさず。つく%\物を案ずるに、娑婆の榮花は 夢の夢、樂み榮えて何かせん。人身は受け難く、佛教には遇ひ難し。此度泥梨に沈みては、多生昿劫をば隔つとも、浮み上らんこと難し。年の若きを憑むべきに あらず。老少不定のさかひ、出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稻妻よりも猶はかなし。一旦の樂に誇りて、後生を知らざらんことの悲しさに、今朝ま ぎれ出でゝ、かくなりてこそ參りたれ。」とて、かつぎたる衣を打ちのけたるを見れば、尼になてぞ出できたる。「かやうに樣をかへて參りたれば、日比の科を ば許し給へ。許さんと仰せられば、諸共に念佛して、一蓮の身とならん。それに猶心行かずば、是よりいづちへも迷ひ行き、如何ならん苔の席、松が根にも倒れ 臥し、命のあらんかぎり念佛して、往生の素懷を遂げんとおもふなり。」とさめざめとかきくどきければ、祇王涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひ けるとは。夢にだに知らず、憂き世の中のさがなれば、身の憂とこそおもふべきに、ともすれば、わごぜの事のみうらめしくて往生の素懷を遂ん事かなふべしと もおぼ えず、今生も後生も、なまじひに仕損じたるこゝちにてありつるに、かやうにさまをかへておはしたれば、日比の咎は露 塵ほども殘らず、今は往生疑ひなし。此度素懷を遂げんこそ何よりも又嬉しけれ。我等が尼になりしをこそ世にためしなきことのやうに、人もいひ我身にも又思 ひしか。それは世を恨み身を恨みて成しかば、樣を替るも理なり。今 わこぜの 出家にくらぶれば事の數にもあらざりけり。わごぜは恨もなし歎もなし。今年は纔に十七にこそなる人の、かやうに穢土を厭ひ、淨土を願はんと、深く思ひいれ 給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん。」とて、四人一所に籠り居て、朝夕佛前に花香を供へ、餘念なく願ひ ければ、遲速こそありけれ、四人の尼共皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。されば、後白河の法皇の、長講堂の過去帳にも、祇王、祇女、佛、とぢ等が尊靈と四 人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads いかなるべしともおぼえず。.
[2] NKBT reads なげば.
[3] NKBT reads わごぜ.
二代后
昔より今に至るまで、源平兩氏朝家に召しつかはれて、王化に隨はず、自朝權を輕んずる者には、互に誡を加しかば、代の亂れもなかりしに、保元に爲義 きられ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども、或は流され、或は失はれ、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさし出す者なし。如何ならん末の代まで も、何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院、御晏駕の後は、兵革打ち續き、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も靜かならず。 世間も末落居せず。就中に永暦應保の比よりして、院の近習者をば、内より御誡あり、内の近習者をば、院より誡めらるゝ間、上 下おそれをのゝいて、安い心もなし。只深淵にのぞんで薄氷をふむに同じ、主上上皇、父子の御間には何事の御隔かあるべきなれども、思の外の事どもありけ り。是も世澆季に及んで、人梟惡を先とする故なり。主上院の仰を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目を驚し、世以て大きに傾け申すことありけり。
故近衞院の后、太皇太后宮と申しは大炊御門右大臣公能公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重の外、 近衞川原の御所にぞ移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、幽なる御在樣にて渡らせ給ひしが、永歴のころほひは、御年二十二三にもやならせたまひけん、御盛 りも少し過させおはしますほどなり。されども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみ染める御心にて、竊に高力士に詔して、外宮に引き求めし むるに及んで、この大宮へ御艶書あり。大宮敢て聞食しもいれず。されば、ひたすらはやほに現はれて、后御入内あるべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。此事 天下に於て、異なる勝事なれば、公卿僉議あり、各意見をいふ。「先づ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の繼母なり。太宗 崩御の後、高宗の后に立ち給へることあり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。然れども我朝には、神武天皇より以降、人皇七十餘代に及まで、いまだ二 代の后に立たせ給へる例を聞かず。」と、諸卿一同に申されけり。上皇も然るべからざるよし、こしらへ申させ給へば、主上仰なりけるは、「天子に父母なし、 我十善の戒功によて、萬乘の寶 位をたもつ、是程のこと、などか叡慮に任せざるべき。」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、力及ばせ給はず。
大宮かくと聞しめされけるより、御涙に沈ませおはします。先帝に後させ參らせにし久壽の秋のはじめ、同じ野原の露と消え、家をも出、世をも遁れたり せば、かゝる憂き耳をば聞かざらましとぞ、御歎ありける。父の大臣、こしらへ申させ給ひけるは、「世に從はざるを以て、狂人とすと見えたり。既に詔命を下 さる。仔細を申すにところなし。只速に參らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生ありて、君も國母といはれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらむ。是偏 に愚老をたすけさせおはします御孝行の御至なるべし。」と、申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮その比、なにとなき御手習の次に、
うきふしにしづみもやらで河竹の、世にためしなき名をやながさん。
世にはいかにして漏れけるやらん、哀にやさしきためしにぞ人々申しあへりける。
既に御入内の日になりしかば、父の大臣供奉の上達部、出車の儀式など、心ことにだしたて參らせ給ひけり。大宮 ものうき御出立なれば、とみにもたてまつらず。遙に夜も深け、小夜も半になて後、御車に抜け乘せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\ける。ひ たすら、朝政をすゝめ申させ給ふ御在樣なり。彼紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、 ろく里先生、李勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李將軍が姿をさながら寫せる障子もあり。尾張守小野道風が、七囘賢聖の障子と書 けるも、理とぞ見えし。かの清凉殿の畫圖の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の在明の月もありとかや。故院の未幼 主にてましましけるそのかみ、何となき御手まさぐりの次に、かきくもらかさせ給ひしが、ありしながらに少しもたがはぬを御覽じて、先帝の昔もや御戀しくお ぼし召されけん。
思ひきや憂き身ながらにめぐり來て、おなじ雲井の月を見むとは。
その間の御なからへ、いひしらず哀にやさしかりし御事なり。
さる程に、永萬元年の春の比より、主上御不豫の御事と聞えさせ給ひしが、夏の初になりしかば、事の外に重らせ給ふ。是によて、大藏の大輔伊吉兼盛が 娘の腹に、今上の一の宮の二歳にならせ給ふがまし/\けるを、太子にたてまゐらせ給ふべしと聞えし程に、同六月二十五日、俄に親王の宣旨下されて、やがて その夜受禪ありしかば、天下何となうあわてたるさま也。その時の有職の人々申しあはれけるは、本朝に、童帝の例を尋ぬれば、清和天皇九歳にして、文徳天皇 の御禪を受けさせ給ふ。それは彼周公旦の成王に代り、南面にして、一日萬機の政を治め給ひしに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。是ぞ攝政のはじめ なる。鳥羽院五歳、近衞院三歳にて踐祚あり。かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。
額打論
さる程に、同七月廿七日、上皇竟に崩御なりぬ。御歳二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦の帳のうち、皆御涙に咽ばせ 給ふ。やがて、その夜、香隆寺の艮、蓮臺野の奧、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、延暦寺、興福寺の大衆、額打論といふ事しいだして、互に狼藉に及ぶ。一 天の君崩御なて後、御墓所へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、御墓所の廻に、わが寺々の額をうつことあり。先づ聖武天皇の御願、爭ふべ き寺なければ、東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額をうつ。北京には、興福寺に向へて延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教待和尚、 智證大師の草創とて、園城寺の額をうつ。然るを山門の大衆、いかがおもひけん、先例を背て、東大寺の次ぎ、興福寺のうへに、延暦寺の額を打つ間、南都の大 衆、とやせましかやうせましと僉議するところに、興福寺の西金堂の衆、觀音房、勢至房とて聞えたる大惡僧二人ありけり。觀音房は黒絲威の腹卷に、白柄の長 刀くきみじかに取り、勢至房は、萠黄威の腹卷に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額をきて落し、散々に打わり、「うれしや水、なるは瀧の水、 日はてるとも、絶えずとうたへ。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。
清水寺炎上
山門の大衆、狼藉をいたさば、手向へすべき處に、心深うねらふ方もやありけん。一詞も出さず。御門かくれさせ給ひては、心なき草木までも、愁へたる色にてこそあるべきに、この 騒動のあさましさに、高きも賤きも、肝魂を失て四方へ皆退散す。同二十九日の午の刻ばかり、山門の大衆おびたゞしう下洛すと聞えしかば、武士、 檢非違使、西坂本に馳向て、防ぎけれども、事ともせずおしやぶて亂入す。何者 の申出したりけるやらむ、一院、山門の大衆に仰せて、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏に參じて、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ 馳集る。一院も、急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公其比、いまだ大納言にておはしけるが、大に恐れさわがれけり。小松殿「何によてか、唯今さる事あるべき。」 と、しづめられけれども、上下ののしりさわぐことおびたゞし。山門の大衆、六波羅へは寄せずして、すずろなる清水寺におしよせて、佛閣僧房一宇も殘さず燒 はらふ。是はさんぬる御葬送の夜の會稽の耻を雪めんがためとぞ聞えし。清水寺は、興福寺の末寺たるによてなり。清水寺燒けたりける朝、何者の態にや在け ん、「觀音火坑變成池はいかに」と札に書て、大門の前にたてたりければ、次の日、又「歴劫不思議力不及」と、返しの札をぞ打たりける。
衆徒返り上りければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿ばかりぞ、御ともには參られける。父の卿は參られず。猶 用心のためかとぞ聞えし。重盛卿、御送よりかへられたりければ、父の大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大きに恐れおぼゆれ。かねても思しめしより、仰 せらるゝ旨のあればこそかうは聞ゆらめ、それにも打解給ふまじ。」とのたまへば、重盛卿申されけるは、「此事ゆめ/\御けしきにも、御詞にも出させ給ふべ からず、人に心附けがほに、 中々惡しき御事なり。それにつけても叡慮に背き給はで、人のために御なさけを施させましまさば、神明三寶加護あるべし。さらんにとては、御身の恐れ候ふまじ。」とて、立たれければ「重盛卿は、ゆゝしく大樣なるものかな。」とぞ父の卿ものたまひける。
一院還御の後、御前にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出したるものかな。露もおぼし召よらぬものを。」と仰けれ ば、院中の切者に西光法師といふ者あり。境節御前近う候ひけるが、「天に口なし、人を以ていはせよと申す。平家以外に過分に候間、天の御計らひにや。」と ぞ申しける。人々「この事よしなし。壁に耳あり、おそろしおそろし。」とぞ申あはれける。
東宮立
さる程に、その年は諒闇なりければ、御禊大甞會も行はれず。同十二月二十四日、建春門院その比はいまだ東の御方と申しける御腹に、一院の宮まし/\けるが、親王の宣旨下され給ふ。
明くれば、改元ありて仁安と號す。同年の十月八日、去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東三條にて春宮に立たせ給ふ。春宮は御伯父六歳、主上は御甥三 歳、何れも昭穆に相叶はず。但し寛和二年、一條院七歳にて御即位。三條院十一歳にて東宮に立せ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御禪を受けさせ 給ひ、纔に五歳と申二月十九日、東宮踐祚ありしかば、 位をすべらせ給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服もなくして、太上天皇の尊號あり。漢家本朝是やはじめならむ。
仁安三年三月二十日、新帝大極殿にして御即位あり。此君の位につかせ給ぬるは、いよ/\平家の榮花とぞ見えし。御母儀建春門院と申すは、平家の一門 にてましますうへ、とりわき入道相國の北の方、二位殿の御妹なり。又平大納言時忠卿と申も、女院の御兄なれば、内の御外戚なり。内外につけたる執權の臣と ぞ見えし。叙位除目と申すも、偏にこの時忠卿のまゝなり。楊貴妃が幸ひし時、楊國忠が盛えし如し。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相國天下の大 小事をのたまひあはせられければ、時の人平關白とぞ申しける。
殿下乘合
さる程に、嘉應元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も、萬機の政をきこめしされし間、院内わく方なし。院中にちかくめしつかはるゝ公卿殿上 人、上下の北面に至るまで、官位俸禄、皆身に餘るばかりなり。されども人の心の習なれば、猶飽きたらで、「あはれその人の亡びたらば、その國はあきなむ、 その人失せたらば、その官にはなりなん。」など、疎からぬどちは、寄り合ひ寄り合ひさゝやきあへり。法皇も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵を平ぐる もの多しといへども、いまだ加樣の事なし。貞盛、秀郷が、將門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡し、義家が武平、家平を攻めたりしも、勸賞行はれしこと、受領 には過ぎざり き。清盛がかく心のまゝにふるまふこそ然るべからね。これも世末になりて、王法の盡きぬる故なり。」と仰なりけれども、次で なければ御いましめもなし。平家も又別して、朝家を恨み奉ることもなかりしほどに、世の亂れそめける根本は、去じ嘉應二年十月十六日に、小松殿の次男新三 位中將資盛卿、その時はいまだ越前守とて十三になられけるが、雪ははだれに降たりけり。枯野の景色まことに面白かりければ、わかき侍ども三十騎ばかりめし 具して、蓮臺野や、紫野、右近馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉、雲雀をおたて/\、終日にかり暮し、薄暮に及んで六波羅へこそ歸られけれ。その 時の御攝祿は、松殿にてましましけるが、中御門東洞院の御所より御參内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資 盛朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出に鼻突に參りあふ。御供の人々「何者ぞ、狼藉なり。御出なるに、乘物より下り候へ/\。」と、云てけれども、餘に誇 り勇み、世を世ともせざりける上、めし具したる侍ども、皆二十より内の若物共なり、禮義骨法辨へたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の禮義 にも及ばず、驅け破て通らむとする間、暗さはくらし、つや/\入道の孫とも知らず。又少々は知たれども、空しらずして、資盛朝臣を始として、侍共皆馬より 取て引落し、頗る耻辱に及びけり。資盛朝臣、はふ/\六波羅へおはして、祖父の相國禪門に、此由訴へ申されければ、入道大きに怒て、「縱ひ殿下なりとも、 淨海があたりをば憚り給ふべきに、少者に左右なく、耻辱を與へられけるこそ遺恨の次第なれ。かゝる事よりして、人にはあざむかるゝぞ。 此事思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや。」とのたまへば、重盛卿申されけるは「是は少しも 苦しう候まじ。頼政、光基など申源氏共にあざむかれて候はんには、誠に一門の耻辱でも候ふべし。重盛が子どもとて候はんずるものの、殿下の御出に參りあひ て、乘物より下候はぬこそ尾籠に候へ。」とて、その時事にあうたる侍共めしよせ、「自今以後も、汝等よく/\心得べし、誤て、殿下へ無禮の由を申さばやと こそ思へ。」とて歸られけり。
その後、入道相國小松殿には仰られもあはせず、片田舎の侍どものこはらかにて、入道殿の仰より外は、又恐しき 事なしと思ふ者ども、難波妹尾を始として、都合六十餘人召し寄せ、「來二十一日、主上御元服の御定めの爲に殿下御出あるべかんなり。いづくにても待かけ奉 り、前驅御隨身共が髻きて、資盛が耻雪げ。」とぞのたまひける。殿下、是をば夢にもしろしめさず、主上、明年御元服、御加冠、拜官の御定のために、御直盧 に暫く御座あるべきにて、常の御出よりも引き繕はせ給ひ、今度は待賢門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀川の邊に、六波羅の兵ども、直 冑三百餘騎待ち受け奉り、殿下を中に取りこめ參らせて、前後より一度に、鬨をどとぞつくりける。前驅御隨身共が今日を晴としやうぞいたるを、あそこに追か け、こゝに追つめ、馬よりとて引落し、散々に陵礫して、一々に髻をきる。隨身十人が中、右の府生武基が髻もきられにけり。その中に、藤藏人大夫隆教が髻を きるとて、「是は汝が髻と思ふべからず、主の髻と思ふべし。」と、言ひ含めてきてけり。其後 に御車の内へも、弓の筈つき入れなどして、簾かなぐり落し、御牛の鞦、 胸懸切りはなち散々にし散して、悦のときをつくり、六波羅へこそ參りけれ。入 道「神妙なり。」とぞのたまひける。御車副には、因幡のさい使、鳥羽の國久丸といふをのこ、下臈なれども、なさけある者にて、泣々御車つかまつて、中御門 の御所へ還御なし奉る。束帶の御袖にて、御涙をおさへつゝ、還御の儀式あさましさ、申すもなか/\おろかなり。大織冠、淡海公の御事は、擧げて申すに及ば ず、忠仁公、昭宣公より以降、攝政關白の、かゝる御目にあはせ給ふ事、未だ承り及ばず。是こそ平家の惡行の始なれ。
小松殿こそ大に噪がれけれ。行向ひたる侍共、皆勘當せらる。「たとひ入道如何なる不思議を下知し給とも、など重盛に夢をば見せざりけるぞ。凡は資盛 奇怪なり、旃檀は二葉よりかうばしとこそ見えたれ。已に十二三歳にならむずる者が、今は禮義を存知してこそ振舞ふべきに、かやうに尾籠を現じて、入道の惡 名を立つ、不孝のいたり、汝一人にありけり。」とて、暫く伊勢の國に追ひ下さる。さればこの大將をば、君も臣も御感ありけるとぞ聞えし。
鹿谷
是によて主上御元服の御定め、その日は延させ給ぬ。同廿五日、院の殿上にてぞ、御元服の定めはありける。攝政殿さても渡らせ給ふべきならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同十七日慶申しありしかども、世の中はにが/\し うぞ見えし。
さる程に今歳も暮ぬ。明れば嘉應三年正月五日、主上御元服あり。同十三日朝覲の行幸ありけり。法皇、女院、待ち受け參らせさせ給て、初冠の御粧いかばかりらうたく思しめされけん。入道相國の御娘、女御に參らせ給ひけり。御歳十五歳。法皇御猶子の儀なり。
其比妙音院の太政のおほいとの、其時は未内大臣の左大將にてましましけるが、大將を辭し申させ給ふことありけり。時に徳大寺の大納言實定卿、その仁 に當り給ふ由聞ゆ。又花山院の中納言兼雅卿も所望あり。その外、故中御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。院の御氣色よかりけ れば、樣樣の祈をぞ始められける。先づ八幡に百人の僧を籠て、眞讀の大般若を七日讀ませられける最中に、甲良の大明神の御前なる橘の木に、男山の方より山 鳩三つ飛來て、食ひ合ひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺にかゝる不思議なしとて、時の 檢校匡清法印奏聞す。神祗官にして御占あり。天下の噪ぎと占申。「但し君の愼 みにあらず、臣下のつゝしみ。」とぞ申ける。新大納言是に恐れをも致されず、晝は人目の滋ければ、夜な/\歩行にて、中御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社 へ七夜續けて參られけり。七夜に滿ずる夜、宿所に下向して、苦しさに、うちふし、ちと目睡給へる夢に、賀茂の上の社へ參りたると思しくて、御寶殿の御戸推 開き、ゆゝしくけだかげなる御聲にて
櫻花賀茂の川かぜうらむなよ、散るをばえこそとゞめざりけれ。
新大納言猶恐れをも致されず、賀茂の上の社に、ある聖を籠て、御寶殿の御後なる杉の洞に壇を立てて、拏吉尼の法を百 日行はせられけるほどに、彼の大杉に雷落ちかゝり、雷火おびただしく燃え上て、宮中已に危く見えけるを、宮人ども多く走り集て、これを打消つ。かの外法行 ひける聖を、追出せんとしければ、「我當社に百日參籠の大願あり、今日は七十五日になる。全く出まじ。」とてはたらかず。此の由を社家より内裏へ奏聞しけ れば「唯法に任せて追出せよ。」と宣旨を下さる。その時神人白杖を以て、彼聖がうなじをしらけ、一條の大路より南へ追ひ出してけり。神は非禮をうけ給はず と申すに、この大納言、非分の大將を祈り申されければにや、かゝる不思議も出で來にけり。
其比の叙位除目と申は、院内の御はからひにもあらず、攝政關白の御成敗にも及ばず、唯一向平家のまゝにてありしかば、徳大寺、花山院もなり給はず、 入道相國の嫡男小松殿、右大將にておはしけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言におはせしが、數輩の上臈を超越して、右に加はられけるこそ、申すばかりも なかりしか。中にも徳大寺殿は、一の大納言にて華族、英雄、才覺雄長、家嫡にてまし/\けるが、越えられ給けるこそ遺恨なれ。定めて御出家などやあらむず らむと、人々内々は申あへりしかども、暫く世のならむ樣を見んとて、大納言を辭し申て、籠居とぞ聞えし。
新大納言成親卿宣ひけるは、「徳大寺、花山院に越えられたらむは、いかゞせん。平家の次男に越えらるゝこそ安からね。是も萬づ思ふさまなるがいたす所也。いかにもして平家を亡し 本望を遂げむ。」とのたまひけるこそ怖しけれ。父の卿は中納言までこそ至られしか。その末子にて、位正二位、官大納 言にあがり、大國あまた給はて、子息所從朝恩に誇れり。何の不足に、かゝる心つかれけん。是偏に天魔の所爲とぞ見えし。平治にも、越後中將とて、信頼卿に 同心の間、既に誅せらるべかりしを、小松殿やう/\に申て、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具をとゝのへ、軍兵を語らひおき、其 營みの外は他事なし。
東山の麓鹿の谷といふ所は、後は三井寺に續いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常 は寄りあひ/\、平家滅さむずる謀をぞ囘しける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息、淨憲法印御供仕る。その夜の酒宴に、此由を淨憲法印に仰あ はせられければ、「あなあさましや、人あまた承候ぬ。唯今漏きこえて、天下の大事に及び候ひなんず。」と大に噪ぎ申ければ、新大納言氣色かはりて、さと立 たれけるが、御前に候ける瓶子を、狩衣の袖にかけて引きたふされたりけるを、法皇「あれはいかに。」と仰せければ大納言立かへて、「平氏たふれ候ひぬ。」 と申されける。法皇ゑつぼに入らせおはしまして、「物ども參て猿樂つかまつれ。」と仰ければ、平判官康頼參りて、「あゝ餘にへいじの多う候に、もて醉て 候。」と申す。俊寛僧都「さてそれをいかゞ仕らむずる。」と申されければ、西光法師「頸を取るにはしかじ。」とて、瓶子の首を取てぞ入にける。淨憲法印餘 りのあさましさに、つや/\物も申されず。返す/\も恐しかりしことどもなり。與力の輩誰々ぞ。近江中將入道蓮淨俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守 基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、 新平判官資行、攝津國源氏多田藏人行綱を始として北面の輩多く與力したりけり。
鵜川軍
此法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓箭を取る家にはあらねども、あまりに腹あ しき人にて、三條坊門京極の宿所の前をば、人をもやすく通さず、つねは中門にたゝずみ、齒をくひしばり、怒てぞおはしける。かゝる人の孫なればにや、この 俊寛も僧なれども、心も猛くおごれる人にて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田の藏人行綱を呼て、「御邊をば、一方の大將に憑むな り。此事しおほせつるものならば、國をも庄をも所望によるべし。先づ弓袋の料に。」とて、白布五十端送られたり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に轉じ給へるかはりに、大納言定房卿を越えて、小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大將めでたかりき。やがて大饗行はる。尊者には、大炊御門左大臣經宗公とぞ聞えし。一のかみこそ先途なれども、父宇治の惡左府の御例憚あり。
北面は上古にはなかりけり。白河院の御時、始め置かれてより以降、衞府ども數多候けり。爲俊、盛重、童より千手丸、、今犬丸とて、是等は左右なき切 者にてぞありける。鳥羽院の御時も、季教、季頼父子、共に朝家に召仕はれ傳奏する折もありなど聞えしかども、皆身の程をばふるまうてこそありしに、此時の 北面の輩は、以外に過分にて、公卿殿上人をも物とも せず、禮儀禮節もなし。下北面より上北面にあがり、上北面より殿上の交を許さるゝ者もあり。かくのみ行はるゝ間、おごれる心 どもも出きて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。中にも故少納言入道信西が許に召使ける師光成景といふものあり。師光は阿波の國の在廰、成景は京の者、熟 根賤しき下臈なり。健兒童、もしは恪勤者などにて被召仕けるが、賢々しかりしによりて、師光は左衞門尉、成景は右衞門尉とて、二人一度に靱負尉になりぬ。 信西が事にあひし時、二人ともに出家して、左衞門入道西光、右衞門入道西敬とて、此等は出家の後も、院の御倉預にてぞ在ける。
かの西光が子に、師高といふ者あり。是も切者にて、檢非違使五位尉に歴上て、安元元年十二月廿九日、追儺の除 目に加賀守にぞなされける。國務を行ふ間、非法非禮を張行し、神社佛寺、權門勢家の庄領を沒倒し、散々の事共にてぞありける。假令せう公が跡を隔つといふ とも、穩便の政を行ふべかりしに、かく心のまゝにふるまひし程に、同二年夏の比、國司師高が弟、近藤判官師經、加賀の目代に補せらる。目代下著のはじめ、 國府の邊に鵜川といふ山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかいて浴びけるを、亂入しておひあげ、我身あび、雜人共おろし、馬洗はせなどしけり。寺僧怒をなし て、「昔より此處は國方の者入部することなし。速に先例に任せて、入部の押妨をとゞめよ。」とぞ申ける。「先先の目代は、不覺でこそいやしまれたれ。當目 代はその儀あるまじ。唯法に任せよ。」といふ程こそありけれ、寺僧どもは、國方の者を追出せむとす。國方の者共は次を以て、亂入せんとす。うちあひ張合ひ しけ る程に、目代師經が秘藏しける馬の足をぞ打折りける。その後は互に弓箭兵仗をたいして、射合ひ截合ひ數刻戰ふ。目代 かなはじとや思ひけむ、夜に入て引退く。其後當國の在廳ども催し集め、其勢一千餘騎鵜川に押寄せて、坊舎一宇も殘さず燒拂ふ。鵜川といふは、白山の末寺な り。この事訴へんとて進む老僧誰々ぞ。智釋、學明、寶臺房、正智、學音、土佐阿闍梨ぞ進みける。白山三社、八院の大衆、悉く起りあひ、都合その勢二千餘 人、同七月九日の暮方に、目代師經が館近うこそ押寄せたれ。今日は日暮れぬ。明日の軍と定めて、その日はよせでゆらへたり。露ふき結ぶ秋風は、射向の袖を 飜し、雲井を照す稻妻は冑の星を耀す。目代かなはじとや思ひけん、夜逃にして京へのぼる。明くる卯刻に押寄て、閧をどとつくる。城の中には音もせず。人を 入れて見せければ、皆落て候と申す。大衆力及ばで引退く。然らば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿をかざり奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月十二日の午 刻許、白山の神輿、既に比叡山東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ。北國の方より雷おびたゞしく鳴て、都をさして鳴りのぼる。白雪くだりて地を埋み、山 上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙になりけり。
願立
神輿をば、客人の宮へ入れ奉る。客人と申は、白山妙理權現にておはします。申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は知らず、生前の御悦、只この事にあり。浦島が子の七世の孫に遭へり しにも過ぎ、胎内の者の靈山の父を見しにも超えたり。三千の衆徒踵をつぎ、七社の神人袖を列ね、時々刻々の法施、祈念、言語道斷の事ども也。
山門の大衆、國司加賀の守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由奏聞す。御裁斷遲かりければ、さも可然公卿殿上人は、「あはれ とく御裁許あるべきものを、昔より山門の訴訟は他に異なり、大藏卿爲房、太宰の權帥季仲は、さしも朝家の重臣たりしかども、山門の訴訟によて、流罪せられ にき。況や師高などは、事の數にやはあるべきに、子細にや及ぶべき。」と申あはれけれども、「大臣は祿を重んじて諫めず、小臣は罪に恐れて申さず。」とい ふ事なれば、各口を閉ぢたまへり。「賀茂川の水、雙六の賽、山法師、これぞ我心にかなはぬもの。」と白河院も仰なりけるとかや。鳥羽院の御時、越前の平泉 寺を、山門へつけられけるには、當山を御歸依淺からざるによて、「非を以て理とす。」とこそ、宣下せられて、院宣をば下されけれ。江帥匡房卿の申されし樣 に、「神輿を陣頭へ振奉て、訴申さんには、君はいかゞ御計ひ候ふべき。」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし。」とぞ仰せける。
去じ嘉保二年三月二日、美濃守源義綱朝臣、當國新立の庄を倒す間、山の久住者圓應を殺害す。是によて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十餘人、申文 をささげて陣頭へ參じけるを後二條關白殿、大和源氏中務權少輔頼春に仰せてふせがせらる。頼春が郎等矢を放つ。矢庭に射殺さるゝ者八人、疵を被むる者十餘 人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、仔細を奏聞のために下洛すと聞えしかば、武士、檢非違使、西坂本に馳向て、皆おかへす。
山門には、御裁斷遲々の間、七社の神輿を根本中堂に振上げ奉り、その御前にて、眞讀の大般若を七日讀で、關白殿を呪 咀し奉る。結願の導師には、仲胤法印、その比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に上り、かね打ならし、表白の詞にいはく、「我等なたねの二葉よりおふし立て 給ふ神達、後二條の關白殿に、鏑矢一つ放ち當て給へ、大八王子權現。」と高らかにぞ祈誓したりける。やがてその夜不思議の事あり。八王子の御殿より、鏑矢 の聲いでて、王城をさしてなん行くとぞ、人の夢には見たりける。そのあした、關白殿の御所の御格子をあげけるに、只今山よりとてきたるやうに、露にぬれた る樒、一枝たたりけるこそ怖しけれ。やがて山王の御咎めとて、後二條の關白殿、重き御病をうけさせ給ひしかば、母上、大殿の北の政所大に歎かせ給つゝ、御 樣をやつし、賤しき下臈のまねをして、日吉の社に御參籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。あらはれての御祈には、百番の芝田樂、百番の一物、競馬、流鏑 馬、相撲各百番、百座の仁王講、百座の藥師講、一 ちやく手半の藥師百體、等身の藥師一體並に釋迦、阿彌陀の像、各造立供養せら れけり。又御心中に、三つの御立願あり。御心のうちの事なれば、人いかで知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日に滿ずる夜、八王子の御社にいくらも ありける參人どもの中に、陸奧より遙々と上りたりける童神子、夜半ばかりに俄にたえ入けり。遙にかき出して祈りければ、程なくいき出て、やがて立て舞ひか なづ。人奇特の思をなして是を見る。半時ばかり舞て後、山王おりさせ給て、やう/\の御託宣こそ恐しけれ。「衆生等確に承れ。大殿の北の政所、今日七日我 が御前に籠らせ給たり。御立願三つあり。一つには今度殿下の壽命 を助けてたべ、さも候はゞ、下殿に候ふ諸のかたはうどに交て、一千日が間、朝夕宮仕申さんとなり。大殿の北の政所に て、世を世とも思し召さで、すごさせ給ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせきことも忘れて、あさましげなるかたはうどに交はて、一千日が間、朝夕 宮仕申さむと仰せらるゝこそ、誠に哀に思しめせ。二つには、大宮の波止土濃より八王子の御社まで、囘廊作て參らせむとなり。三千人の大衆、降にも照にも、 社參の時いたはしうおぼゆるに、囘廊作られたらば、いかにめでたからん。三つには今度の殿下の壽命を助させ給はゞ、八王子の御社にて、法花問答講毎日退轉 なく行べしとなり。何れもおろかならねども、かみ二つはさなくともありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそ思召せ。但今度の訴訟は、むげに安か りぬべき事にてありつるを、御裁許なくして、神人宮仕射殺され、疵を被り、泣く泣く參て訴申す事の餘に心憂て、如何ならむ世までも忘るべしともおほえず。 その上かれらに當る處の矢は、しかしながら和光垂跡の御膚に立たるなり。誠か虚言か是を見よ。」とて、肩ぬいだるを見れば、左の脇の下、大なるかはらけの 口ばかりうげのいてぞ見えたりける。「是が餘に心憂ければ、如何に申とも、始終のことは叶ふまじ。法花問答講一定あるべくば、三年が命を延べて奉らむ。そ れを不足に思し召さば、力及ばず。」とて山王あがらせ給ひけり。母上は御立願の事、人にも語らせ給はねば誰漏しつらむと、少しも疑ふ方もましまさず。御心 の内の事どもを、ありのまゝに御託宣ありければ、心肝にそうて、ことに貴くおぼしめし、泣々申させ給けるは「縱ひ一日片時にて候ふとも、ありがたうこそ候 ふべきに、まして三年 が命を延べて給らむ事しかるべう候ふ。」とて、泣々御下向あり。急ぎ都へ入せ給て、殿下の御領紀伊國に、田中庄といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世に至るまで毎日退轉なしとぞ承る。
かゝりし程に、後二條關白殿、御病かろませ給て、もとの如くにならせ給ふ。上下喜びあはれし程に、三年の過ぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。 六月二十一日、又後二條の關白殿、御髮の際に惡しき御瘡出きさせ給て、打ち臥させ給ひしが、同二十七日、御年三十八にて終にかくれさせ給ぬ。御心の猛さ、 理の強さ、さしもゆゝしき人にてましましけれ共、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜ませ給ひける也。誠に惜しかるべし。四十にだにも滿たせ給はで、 大殿に先立まゐらせ給こそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしといふことはなけれども、生死のおきてに順ふならひ、萬徳圓滿の世尊、十地究竟の大士達も、力 及び給はぬ事どもなり、慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御咎めなかるべしとも覺えず。
御輿振
さる程に山門の大衆、國司加賀守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉 の祭禮を打ち留めて、安元三年四月十三日辰の一點に、十禪師、客人、八王子三社の神輿かざり奉りて、陣頭へ振奉る。下松、きれ堤、賀茂の川原、糺、梅 たゞ、柳原、東北院の邊に、しら大衆、神人、宮仕、専當みち/\ て、幾らといふ數を知らず、神輿は一條を西へいらせ給ふ。御神寶天にかゞやいて、日月地に落給かと驚かる。是によて、源平兩 家の大將軍、四方の陣頭を固めて、大衆防ぐべきよし仰下さる。平家には、小松の内大臣の左大將重盛公、其勢三千餘騎にて、大宮面の陽明、待賢、郁芳、三つ の門をかため給ふ。弟宗盛、知盛、重衡、伯父頼盛、教盛、經盛などは、西南の陣を固められけり。源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡邊の省授をむねとし て、その勢僅に三百餘騎、北の門、縫殿の陣を固め給ふ。處は廣し、勢は少し、まばらにこそ見えたりけれ。
大衆無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より、神輿を入れ奉らんとす。頼政卿さる人にて、馬よりおり冑をぬい で、神輿を拜し奉る。兵ども皆かくの如し。衆徒の中へ使者を立てゝ、申送る旨あり。その使は、渡邊の長七唱と云者なり。唱その日は、きちんの直垂に、小櫻 を黄にかへいたる鎧著て、赤銅作の太刀を帶き、白羽の箭負ひ、滋籐の弓脇にはさみ、冑をばぬぎ高紐に掛け、神輿の御前に畏て申けるは、「衆徒の御中へ源三 位殿の申せと候。今度山門の御訴訟、理運の條勿論に候。御成敗遲々こそよそにても遺恨に覺え候へ。さては神輿入れ奉らむこと仔細に及び候はず。但頼政無勢 に候ふ。その上明けて入れ奉る陣より入せ給て候はば、山門の大衆は目たりがほしけりなど、京童の申候はむこと、後日の難にや候はんずらむ。神輿を入れ奉ら ば、宣旨を背くに似たり。又防ぎ奉らば年來醫王、山王に首を傾け奉て候ふ身が、今日より後、弓箭の道に分れ候ひなむず。彼と云ひ、此といひ、旁難治のやう に候。東の陣は、小松殿大勢で固められて候。其陣より入らせ給ふべうもや候ふらむ。」と、いひ送たりければ、 唱がかくいふに防がれて、神人、宮仕暫くゆらへたり。
若大衆共は、「何でうその義あるべき、只此陣より神輿を入れ奉れ。」といふ族多かりけれども、老僧のなかに、三塔一の僉議者と聞えし、攝津の堅者豪 雲進み出て申けるは、「尤もさいはれたり。神輿を先立て參らせて、訴訟をいたさば、大勢の中をうち破てこそ、後代の聞えもあらむずれ。就中にこの頼政の卿 は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓矢を取て未だ其不覺を聞かず。凡武藝にも限らず、歌道にも勝れたり。近衞院御在位の時、當座の御會ありしに、『深 山花』といふ題を出されたりけるに、人々讀煩ひしに、此頼政卿、
深山木のその梢とも見えざりし、櫻ははなにあらはれにけり。
といふ名歌仕て、御感に預る程のやさしき男に、時に臨んで、いかがなさけなう耻辱をば與ふべき。此神輿かき返し奉れや。」と僉議しければ、數千人の 大衆、先陣より後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神輿を先立てまゐらせて、東の陣頭待賢門より入れ奉らむとしければ、狼藉忽に出來て、武士ども散々に射 奉る。十禪師の御輿にも、矢どもあまた射立たり。神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被る。をめき叫ぶ聲梵天までも聞え、堅牢地神も驚くらんとぞ覺えける。大 衆神輿をば、陣頭に振り棄て奉り、泣く/\本山へ歸り上る。
内裏炎上
藏人の左少辨兼光に仰せて、殿上にて、俄に公卿僉議あり。保安四年七月に、神輿入洛の時は座主に仰せて、赤山の社へ入れ奉る。又保延四年四月に、神輿入洛の時 は、祇園の別當に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園の別當權大僧都澄兼に仰て、秉燭に及で、祇 園の社へ入奉る。神輿に立つ所の箭をば、神人してこれを拔かせらる。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振奉ること、永久より以降、治承までは六箇度なり。毎 度に武士を召てこそ防がれけれども神輿射奉ること、是始とぞ奉る。「靈神怒をなせば、災害岐に滿つといへり。怖し怖し。」とぞ人々申合はれける。
同十四日夜半ばかり、山門の大衆、又下洛すと聞えしかば、夜中に主上腰輿に召して、院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は御車に奉て、行啓あり。小松 の大臣、直衣に箭負て供奉せらる。嫡子權亮少將維盛、束帶に平胡録負て參られけり。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿、殿上人、我も/\と馳せ參る。 凡京中の貴賤、禁中の上下、噪ぎのゝしること夥し。山門には神輿に箭立ち、神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被りしかば、大宮、二宮以下、講堂、中堂、すべ て諸堂一宇も殘さず皆燒拂て、山野にまじはるべきよし、三千一同に僉議しけり。是によて大衆の申す所、御はからひあるべしと聞えしかば、山門の上綱等、子 細を衆徒に觸れむとて、登山したりけるを、大衆おこて西坂本より皆おかへす。
平大納言時忠卿、その時はいまだ左衞門督にておはしけるが、上卿に立つ。大講堂の庭に三塔會合して、上卿を取 てひはらんとす。「しや冠打ち落せ、その身を搦めて、湖に沈めよ。」などぞ僉議しける。既にかうと見えけるに、時忠卿、「暫くしづまられ候へ。衆徒の御中 へ申すべきこ と有り。」とて、懷より小硯疊紙を取出し、一筆書いて大衆の中へ遣す。是を披いて見れば、「衆徒の濫惡を致すは魔縁 の所行なり。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり。」とこそ書かれたれ。是を見て、ひはるに及ばず、皆尤々と同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一 紙一句をもて、三塔三千の憤をやすめ、公私の耻を逃れ給へる時忠卿こそゆゝしけれ。人々も山門の大衆は、發向のかまびすしきばかりかと思たれば、理も存知 したりけりとぞ、感ぜられける。
同廿日、花山院權中納言忠親卿を上卿にて、國司加賀守師高つひに闕官せられて、尾張の井戸田へ流されけり。目代近藤判官師經禁獄せらる。又去る十三 日神輿射奉し武士六人獄定せらる。左衞門尉藤原正純、右衞門尉正季、左衞門尉大江家兼、右衞門尉同家國、左兵衞尉清原康家、右兵衞尉同康友、是等は皆小松 殿の侍なり。
同四月二十八日亥刻ばかりに、樋口富小路より火出來て、辰巳の風烈しう吹きければ、京中多く燒にけり。大なる 車輪の如くなるほむらが、三町五町を隔てゝ、戌亥の方へすぢかへに、飛び越え/\燒け行けば、怖しなどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天 神の紅梅殿、橘逸勢のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三條、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀川殿、これを始めて、昔今の名所三十餘箇所、公卿の家だに も、十六箇所まで燒にけり。その外殿上人、諸大夫の家々は注すに及ばず。はては大内に吹きつけて、朱雀門より始めて、應天門、會昌門、大極殿、豐樂院、諸 司、八省、朝所、一時がうちに灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍萬寶さながら塵灰となりぬ。その間の費如何ばかりぞ。人の燒 け死ぬること數百人、牛馬の類は數を知らず。これ徒事にあらず、山王の御咎とて、比叡山より大なる猿共が、二三千お りくだり、手に手に松火をともいて、京中を燒くとぞ、人の夢には見えたりける。大極殿は清和天皇の御宇、貞觀十八年に始めて燒けたりければ、同十九年正月 三日、陽成院の御即位は、豐樂院にてぞありける。元慶元年四月九日事始ありて同二年十月八日にぞ造り出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二月二十六 日、又やけにけり。治歴四年八月十四日事始ありしかども、造りいだされずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三條院の御宇、延久四年四月十五日造り出して、文人 詩を作り奉り、伶人樂を奏して遷幸なし奉る。今は世末になて、國の力も皆衰たれば、その後はつひに造られず。
2
平家物語卷第二
座主流
治承元年五月五日、天台座主明雲大僧正、公請を停止せらるゝ上、藏人を御使にて如意輪の御本尊を召返て、御持僧を改易せら る。既使廳の使を附て、今度神輿内裏へ振奉る衆徒の張本をめされける。加賀國に座主の御坊領あり。國司師高是を停廢の間、その宿意に依て、大衆を語らひ訴 訟をいたさる。既に朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子が讒奏によて、法皇大に逆鱗ありけり。殊に重科に行はるべしと聞ゆ。明雲は法皇の御氣色惡かりけれ ば、印鎰をかへし奉て、座主を辭し申さる。同十一日鳥羽院七の宮、覺快法親王、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子也。同じき十二日 先座主所職を停めらるゝうへ、檢非違使二人を附て、井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに及ぶ。是に依て、大衆猶參洛すべき由聞えしかば、京中又噪ぎあ へり。
同十八日太政大臣以下の公卿十三人參内して、陣の座につき、先の座主罪科の事議定あり。八條中納言長方卿、其時はいまだ左大辨宰相にて、末座に候はれけるが、申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて、遠流せらるべしと見えて候へ共、前座主明雲大僧正は、顯 密兼學して、淨行持律の上、大乘妙經を公家に授奉り、菩薩淨戒を法皇に持せ奉る。御經の師、御戒の師、重科に行はれ ん事は、冥の照覽測り難し。還俗遠流を宥らるべきか。」と、憚る處もなう申されければ、當座の公卿皆長方の議に同ずと申あはれけれ共、法皇の御憤深かりし かば、猶遠流に定らる。太政入道も此事申さんとて、院參せられたりけれ共、法皇御風の氣とて、御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪す る習とて、度縁をめし返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔、藤井松枝と俗名をぞ附られける。此明雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より六代の御末、久 我大納言顯通卿の御子也。誠に無雙の碩徳、天下第一の高僧にて坐たれば、君も臣も尊み給ひて、天王寺、六勝寺の別當をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍泰 親が申けるは、「さばかりの智者の明雲と名乘給ふこそ心得ね。うへに月日の光を竝て、下に雲有。」とぞ難じける。仁安元年二月廿日、天台の座主にならせ給 ふ。同三月十五日御拜堂あり。中堂の寶藏を開かれけるに、種々の重寶共の中に、方一尺の箱有り。白い布で包まれたり、一生不犯の座主、彼箱を開けて見給ふ に、黄紙に書る文一卷有り。傳教大師、未來の座主の名字を兼てしるし置れたり。我が名の有所迄は見て、それより奧をば見ず、元の如く卷返して置るゝ習也。されば此僧正も、さこそ坐けめ。貴き人なれども、先世の宿業をば免れ給はず。哀なりし事ども也。
同二十一日配所伊豆國と定らる。人々樣々に申あはれけれ共、西光法師父子が讒奏に依て、加樣に行はれけり。軈て今日都の内をおひ出さるべしとて、追立の官人、白河の御坊に向てお ひ奉る。僧正なく/\御坊を出て、粟田口の邊、一切經の別所へ入らせ給ふ。山門には、詮ずる所、我等が敵は、西光父 子に過たる者なしとて、彼等親子が名字を書いて、根本中堂に坐ます十二神將のうち、金毘羅大將の左の御足の下に蹈せ奉り、「十二神將、七千夜叉、時刻をめ ぐらさず西光父子が命をめし取り給へや。」と、喚き叫で咒咀しけるこそ聞も怖しけれ。
同廿三日一切經の別所より配所へ赴き給けり。さばかりの法務の大僧正程の人を、追立の欝使が先にけたてさせ、 今日を限りに都を出て、關の東へ趣かれけん心の中推量られて哀也。大津の打出の濱にもなりしかば、文殊樓の軒端の白々として見えけるを、二目共見給はず、 袖を顏に推當て、涙に咽び給ひけり。山門に宿老碩徳多といへども、澄憲法印、其時はいまだ僧都にて坐けるが、餘に名殘を惜み奉り、粟津まで送り參せ、さて もあるべきならねば、それより暇申てかへられけるに、僧正志の切なる事を感じて、年來御心中に祕せられたりし、一心三觀の血脈相承をさづけらる。此法は釋 尊の附屬、波羅奈國の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩より、次第に相傳し來れるを、今日の情に授けらる。さすが我朝は粟散邊地の境、濁世末代といひながら、澄 憲是を附屬して、法衣の袂を絞りつゝ、都へ歸のぼられける心の中こそ尊けれ。山門には大衆起て僉議す。「抑義眞和尚より以降、天台座主始まて、五十五代に 至るまで、未流罪の例を聞かず。倩事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は當山に攀上て、四明の教法を此所に弘め給しより以降、五障の 女人跡絶て、三千の淨侶居を占たり。嶺には一乘讀誦年經て、麓には七社の靈驗日新なり。彼月氏の靈山は、王城の東北大聖 の幽窟也。此日域の叡岳も、帝都の鬼門に峙て、護國の靈地なり。代々の賢王智臣、此所に壇場を占む。末代ならんからに、いかんが當山に瑕をばつくべき。心うし。」とて、喚き叫といふ程こそ有けれ、滿山の大衆、皆東坂本へ降下る。
一行阿闍梨之沙汰
「抑我等粟津へ行向て、貫首をうばひとゞめ奉るべし。但追立の欝使領送使有なれば、事故なう執得奉らん事有難し。山王大師の御力の外は憑方なし。「誠に別の仔細なく、取え奉るべくは、爰にて先瑞相を見せしめ給へ。」と老僧共肝膽を碎て祈念しけり。
爰に無動寺の法師乘圓律師が童、鶴丸とて生年十八歳になるが、心身を苦しめ、五體に汗を流いて、俄に狂ひ出たり。「我十憚師乘居させ給へり。末代と いふ共、爭か我山の貫首をば、他國へは遷さるべき。生々世々に心憂し。さらむに取ては、我此麓に跡をとゞめても、何にかはせん。」とて、左右の袖を顏に押 あてゝ、涙をはら/\と流す。大衆これをあやしみて、「誠に十禪師權現の御託宣にてあらば、我等驗を參らせん、少しもたがへず元の主に返し給へ。」とて、 老僧共四五百人、手手に持たる數珠どもを、十禪師の大床の上へぞ投上たる。此物狂、走りまはて、拾ひ集め、少も違ず、一々に皆元の主にぞ賦ける。大衆神明 の靈験新なる事の尊さに、皆掌を合て、隨喜の感涙をぞ催ける。「其儀ならば行向て奪留奉れ。」といふ程こそありけれ、雲霞の如くに發向す。或は志賀唐崎の 濱路に歩みつゞける大衆も有り。或は山田矢ばせの湖上に舟 押出す衆徒も有り。是を見て、さしも緊しげなりつる追立の欝使領送使、四方へ皆逃去りぬ。
大衆國分寺へ參向ふ。前座主大に驚いて、「勅勘の者は、月日の光にだにも當らずとこそ申せ。如何に況や、急ぎ都のうちを逐出さるべしと、院宣宣旨の なりたるに、しばしもやすらふべからず。衆徒とう/\歸り上り給へ。」とて、端近うゐ出て宣けるは、「三台槐門の家をいでて、四明幽溪の窓に入しより以 降、廣く圓宗の教法を學して、顯密兩宗を學き。只吾山の興隆をのみ思へり。又國家を祈奉る事おろそかならず。衆徒を育む志も深かりき。兩所山王定て照覽し 給ふらん。我身に誤つ事なし。無實の罪に依て、遠流の重科を蒙れば、世をも人をも神をも佛をも恨み奉る事なし。是まで訪ひ來給ふ衆徒の芳志こそ、報じ盡し がたけれ。」とて香染の御衣の袖絞も敢させ給はねば、大衆も皆涙をぞ流しける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候。」と申ければ、「昔こそ三千の衆 徒の貫首たりしが、今はかゝる流人の身と成て、如何がやごとなき修學者、智慧深き大衆達には舁捧られては上るべき。縱のぼるべきなり共、鞋などいふ物をし ばりはき、同樣に歩續いてこそ上らめ。」とてのり給はず。
爰に西塔の住侶、戒淨坊の阿闇梨祐慶といふ惡僧あり。長七尺 計有けるが、黒革縅の鎧の、大荒目に金まぜたるを、草摺ながに著成て、冑をば脱ぎ法師原に持せつゝ、白柄の大長刀杖につき、「あけられ候へ。」とて、大衆 の中を押分々々先座主のおはしける所へつと參りたり。大の眼を見瞋し、暫にらまへ奉り、「その御心でこそ、かゝる御目にも逢せ給へ。とう/\召 るべう候。」と申ければ、怖さに急ぎのり給ふ。大衆取得奉る嬉さに、賤き法師原にはあらで、止事なき修學者ども、舁 捧奉り喚き叫んで上けるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、前輿舁て、長刀の柄も輿の轅も、碎けよと取まゝに、さしも嶮しき東坂平地を行が如く也。大講堂の 庭に輿舁居て、僉議しけるは、「抑我等粟津に行向て、貫首をば奪とゞめ奉りぬ。すでに勅勘を蒙りて、流罪せられ給ふ人をとりとゞめ奉て、貫首に用申さん 事、如何有べからん。」と僉議す。戒淨坊阿闇梨、又先の如くに進み出て僉議しけるは、「夫當山は日本無雙 の靈地、鎭護國家の道場、山王の御威光盛にして、佛法王法牛角也。されば衆徒の意趣に至るまで、雙なく、賤き法師原までも、世以て輕しめず。況や智慧高貴 にして、三千の貫首たり。今は徳行おもうして一山の和尚たり。罪なくして罪を蒙る。是山上洛中の憤り、興福園城の嘲に非ずや。此時顯密の主を失て、數輩の 學侶、螢雪の勤怠らむ事心うかるべし。詮ずる所、祐慶張本に稱せられ、禁獄流罪もせられ、首を刎られん事、今生の面目冥土の思出なるべし。」とて、雙眼よ り涙をはら/\と流す、大衆尤々とぞ同じける。其よりしてこそ、祐慶をばいかめ房とはいはれけれ。其弟子に慧慶律師をば、時の人小いかめ房とぞ申ける。
大衆先座主をば、東塔の南谷、妙光坊へ入奉る。時の横災は、權化の人ものがれ給はざるやらん。昔大唐の一行阿 闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にて坐けるが、玄宗の后楊貴妃に名をたち給へり。昔も今も、大國も小國も、人の口のさがなさは、跡形なき事なりしかども、その疑 に依て、果羅國へ流されさせ給ふ。件の國へは三つ道有り。輪池道とて、御幸道、幽地道と て、雜人の通ふ道、暗穴道とて、重科の者を遣す道なり。されば彼一行阿闇梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ遣しける。七日七夜が間、月日の光をみずして行道なり。冥々として人もなく、行歩に前途迷ひ、森森として山深し。唯 [1] 澗谷に鳥の一聲計にて、苔のぬれ衣ほしあへず、無實の罪に依て、遠流の重科を蒙むる事を、天道憐み給ひて、九曜の形を現じつゝ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を噬切て、左の袂に九曜の形を寫されけり。和漢兩朝に眞言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。
[1] The kanji in our copy-text is New Nelson 3330.
西光被斬
大衆先座主を取とゞむる由、法皇聞召て、いとゞやすからずぞおぼしめされける。西光法師申けるは、「山門の大衆、亂がはしき訴仕る事、今にはじめず と申ながら、今度は以の外に覺候。これ程の狼藉いまだ承り及候はず。能々御誡め候へ。」とぞ申ける。身のたゞ今滅びんずるをもかへりみず、山王大師の神慮 にもかゝはらず、か樣に申て宸襟を惱し奉る。讒臣は國を亂ると云へり。實なる哉、「叢蘭茂からんとすれども、秋の風是を敗り、王者明ならんとすれば、讒臣 是を暗す。」とも、か樣の事をや申べき。此事新大納言成親卿以下近習の人々に仰合せられ、山責らるべしと聞えしかば、山門の大衆さのみ王地に孕れて、詔命 をそむくべきにあらずとて、内々院宣に隨奉る衆徒もありなど聞えしかば、前座主明雲大僧正は妙光坊に坐けるが、大衆二心有ときいて、「終に如何なる目にか 逢はむずらん。」と、心細げにぞ宣ける。さ れども流罪の沙汰はなかりけり。
新大納言成親卿は、山門の騒動に依て、私の宿意をばしばらくおさへられけり。そも内議支度は樣々なりしかども、義勢計にては、此謀反叶ふべうも見え ざりしかば、さしも憑れたりける多田藏人行綱、無益なりと思ふ心附にけり。弓袋の料に、送られたりける布共をば、直垂帷に裁縫せて、家子郎等共に著せ つゝ、目うちしばたゝいて居たりけるが、倩平家の繁昌する有樣をみるに、當時輙く傾けがたし。由なき事に與してけり。若此事もれぬる物ならば、行綱まづ失 はれなんず。他人の口より漏れぬ先に廻忠して、命生うと思ふ心ぞ附にける。
同五月二十九日の小夜深方に、多田藏人行綱、入道相國の西八條の亭に參て、「行綱こそ申べき事候間參て候 へ。」と、いはせければ、入道「常にも參らぬ者が參じたるは何事ぞ。あれきけ。」とて、主馬判官盛國を出されたり。「人傳には申まじき事也。」といふ間、 さらばとて、入道自中門の廊へ出られたり。「夜は遙に更ぬらん、唯今如何に、何事ぞや。」とのたまへば、「晝は人目の繁う候間、夜に紛れ參て候。此程に院 中の人々の兵具を調へ、軍兵を召され候をば、何とか聞召されて候。」「其は山攻めらるべしとこそきけ。」といと事もなげにぞのたまひける。行綱近うより、 小聲に成て申けるは、「其儀にては候はず、一向御一家の御上とこそ承り候へ。」「さて其をば法皇も知召されたるか。」「仔細にや及び候。成親卿の軍兵催さ れ候も、院宣とてこそ召され候へ。俊寛がと振舞て、康頼がかう申て、西光がと申て。」など云ふ事共、始よりありの儘には指過ていひ散し、暇申てとて出にけ り。入道大に驚き大聲をもて、 侍共よびのゝしり給ふ事聞もおびたゞし。行綱なまじひなる事申出して證人にや引れんずらんとおそろしさに、大野に火 を放たる心地して、人も追はぬに執袴して、急ぎ門外へぞにげ出ける。入道、先づ貞能を召て、「當家傾うとする謀反の輩、京中に滿々たんなり。一門の人々に も觸申、侍共催せ。」と宣へば、馳廻て催す。右大將宗盛卿、三位中將知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛以下の人々、甲冑を鎧ひ、弓箭を帶し馳集る。其外軍兵雲 霞の如くに馳つどふ。其夜の中に西八條には、兵ども六七千騎も有らんとこそ見えたりけれ。明れば六月一日なり。未暗かりけるに、入道、檢非違使安倍資成を めして、「きと院の御所へ參れ。信成を招いて申さんずる樣はよな、近習の人々、此一門を亡して天下を亂らんとする企あり。一々に召取て、尋沙汰仕るべし。 夫をば君も知召るまじう候と申せ。」とこそ宣けれ。資成急ぎ馳參り、大膳大夫信成喚出いて、此由申に、色を失ふ。御前へ參て、此よし奏聞しければ、法皇、 「あは此等が内々計りし事の、泄にけるよ。」と思召にあさまし。さるにても、「こは何事ぞ。」とばかり仰られて、分明の御返事もなかりけり。資成急ぎ馳歸 て、入道相國に此由申せば、「さればこそ。行綱は、實をいひけり。此事行綱知らせずば、淨海安穩にあるべしや。」とて、飛騨守景家、筑後守貞能に仰て、謀 反の輩、搦捕べき由下知せらる。仍二百餘騎、三百餘騎、あそここゝに押寄々々搦捕る。
太政入道先雜色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許へ、「申合すべき事あり。きと立寄給へ。」とのたまひつかはされたりければ、大納言我身の上とは、露しらず、「あはれ是は法皇の 山攻らるべきよし、御結構有を、申とゞめられんずるにこそ。御いきどほり深げ也。如何にもかなふまじきものを。」と て、ないきよげなる布衣たをやかに著なし、鮮なる車に乘り、侍三四人召具して、雜色牛飼に至るまで、常よりも引繕れたり。そも最後とは後にこそおもひ知れ けれ。西八條近う成て見給へば、四五町に軍兵滿々たり。あな夥し。こは何事やらんと、胸打騒ぎ、車より下り、門の内に差入て見給へば、内にも、兵共隙はざ まも無ぞ滿々たる。中門の口に怖げなる武士共、數多待受て、大納言の左右の手を取て引張り、「縛べう候らん。」と申、入道相國簾中より見出して、「有べう もなし。」とのたまへば、武士共前後左右に立圍み、縁の上に引のぼせて、一間なる處に押籠てけり。大納言夢の心地して、つや/\物もおぼえ給はず。供なり つる侍共、押隔られて、散々に成ぬ。雜色牛飼色を失ひ、牛車を捨て逃去ぬ。
さる程に、近江中將入道蓮淨、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も、捕れて出來たり。
西光法師此事聞て、我身の上とや思ひけん、鞭を擧院の御所法住寺殿へ馳參る。平家の侍共、道にて馳向ひ、「西 八條へ召るゝぞ。きと參れ。」と言ければ、「奏すべき事有て、法住寺殿へ參る。軈てこそ參らめ。」と云ければ、「惡い入道哉。何事をか奏すべかんなる。さ ないはせそ。」とて、馬より取て引落し、中に縛て、西八條へさげて參る。日の始より根元與力の者なりければ、殊によう縛て、坪の内にぞ引居たる。入道相國 大床に立て、「入道傾うとする奴が なれる姿よ。しやつ爰へ引寄よ。」とて、縁のきはに引寄させ、物はきながら、しや頬をむずむずとぞふまれける。「本 より己らが樣なる下臈の果を君の召仕はせ給ひて、なさるまじき官職をなし給び、父子ともに過分の振舞をすると見しに合せて、過たぬ天台座主流罪に申行ひ、 天下の大事引出いて、剩へ此一門ほろぼすべき謀反に與してける奴なり。有のまゝに申せ。」とこそのたまひけれ。西光元より勝れたる大剛の者なりければ、ち とも色も變ぜず、惡びれたる景氣もなし。居直り、あざ笑て申けるは、「さもさうず、入道殿こそ過分の事をばのたまへ。他人の前はしらず、西光が聞ん處に左 樣の事をば、えこそのたまふまじけれ。院中に召仕るる身なれば、執事の別當成親卿の院宣とてもよほされし事に與せずとは申べき樣なし。それは與したり。但 し耳に留まる事をも宣ふ物かな。御邊は故刑部卿忠盛の子で坐しか共、十四五までは出仕もし給はず、故中御門藤中納言家成卿の邊に立入り給ひしをば、京童部 は高平太とこそ言しか。保延の頃、大將軍承り海賊の張本三十餘人、搦進ぜられたりし賞に四品して、四位の兵衞佐と申ししをだに、過分とこそ時の人々は申合 れしか。殿上の交をだに嫌はれし人の子孫にて太政大臣迄なりあがたるや過分なるらむ。侍品の者の、受領檢非違使に成る事、先例傍例なきに非ず。なじかは過 分なるべき。」と、憚る所なう申ければ、入道餘にいかて、物も宣はず。斬し有て「しやつが頸左右なう切な。よく/\戒めよ。」とぞ宣ける。松浦太郎重俊承 て、足手を挾み樣々に痛問ふ。本より爭がひ申さぬ上、糺問は緊かりけり。殘なうこそ申けれ。白状四五枚に記され、やがて、しやつが口をさけとて、口を裂 れ、五條朱 雀にて、きられにけり。嫡子前加賀守師高、尾張の井戸田へ流されたりけるを、同國の住人小胡麻の郡司維季に仰て討れ ぬ。次男近藤判官師經禁獄せられけるを、獄より引出され、六條河原にて誅せらる。其弟左衞門尉師平、郎等三人、同く首を刎られけり。是等は云甲斐なき者の 秀て、いろふまじき事に綺ひ、あやまたぬ天台座主流罪に申行ひ、果報や盡にけん、山王大師の神罰冥罰を立處に蒙て、斯る目に逢へりけり。
小教訓
新大納言は一間なる所に押籠られ、汗水に成りつゝ、あはれ是は日比の有まし事の洩聞えけるにこそ。誰漏しつらん。定て北面の者共が中にこそ有らむな ど、思はじ事なう案じ續けて坐けるに、後の方より足音の高らかにしければ、すは唯今我命を失はむとて、武士共が參るにこそと待給に、入道自ら板敷高らかに 踏鳴し、大納言の坐ける後の障子を、さとあけられたり。素絹の衣の、短らかなるに、白き大口ふみくゝみ、聖柄の刀押くつろげてさす儘に、以の外に怒れる氣 色にて、大納言を暫睨まへ、「抑御邊は平治にも已に誅せらるべかりしを、内府が身にかへて申宥、頸を繼たてましは如何に。何の遺恨を以て、此一門ほろぼす べき由御結構は候けるやらん。恩を知を人とはいふぞ、恩を知ぬをば畜生とこそいへ。されども當家の運命盡ざるに依て、迎へたてまつたり。日比の御結構の次 第、直に承らん。」とぞ宣ける。大納言「全くさること候はず。人の讒言にてぞ候らむ。能々御尋候へ。」と申されければ、入 道言せも果ず。「人やある、人やある。」と召れければ、貞能參りたり。「西光めが白状參せよ。」と仰られければ、持て參りた り。是を取て二三返押返々々讀きかせ、「あなにくや、此上は何と陳ずべき。」とて、大納言の顏にさと投懸け、障子をちやうとたててぞ出られける。入道猶腹 を居兼て、「經遠、兼康」と召せば、瀬尾太郎、難波次郎、參りたり。「あの男取て、庭へ引落せ。」と宣へば、是等は左右なうもし奉らず、「小松殿の御氣色 いかゞ候はんずらん。」と申ければ、入道相國大にいかて、「よし/\、己らは内府が命をば重して、入道が仰をば輕うじけるごさんなれ。その上は力及ば ず。」と宣へば、此事あしかりなんとや思けん、二人の者共立上て、大納言を庭へ引落し奉る。其時入道心地よげにて、「取て伏せて、喚かせよ。」とぞ宣け る。二人の者ども、大納言の左右の耳に口をあて、「如何樣にも御聲の出べう候。」と私語いて引伏奉れば、二聲三聲ぞ喚れける。其體、冥途にて娑婆世界の罪 人を、或は業の秤にかけ、或は淨頗梨鏡に引向て、罪の輕重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、是には過じとぞ見えし。蕭樊囚れ囚て韓彭俎醢たり。晁錯戮 をうけて周儀罪せらる。たとへば、蕭何、樊 、韓信、彭越、是等は皆高祖の忠臣なりしか共、小人の讒に依て、過敗の恥をうくとも、か樣の事をや申べき。
新大納言は我身のかくなるにつけても、子息丹波の少將成經以下、をさなき人々如何なる目にか遭らむと、おもひやるにもおぼつかなし。さばかり熱き六月に裝束だにもくつろげず、熱さもたへがたければ、 胸せき上る心地して、汗も涙も爭ひてぞ流れける。「さり共小松殿は、 思召はなたじ者を。」とのたまへ共、誰して申べしと覺給はず。
小松大臣は、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將車のしりにのせつゝ、衞府四五人、隨身二三人召具して、兵一人も召 具せられず、殊に大樣げで坐したり。入道を始奉て、人々皆思はずげにぞ見給ひける。車より下給ふ處に、貞能つと參て、「など是程の御大事に、軍兵をば一人 も召具せられ候はぬぞ。」と申せば、「大事とは天下の大事をこそいへ、か樣の私事を大事と云樣やある。」とのたまへば、兵仗を帶したりける者共もそゞろい てぞ見えける。そも大納言をば何くに置かれたるやらんと、此彼の障子引明け/\見給へば、ある障子の上に蜘手結たる所あり。爰やらんとて開られたれば、大 納言坐けり。涙に咽びうつぶして、目も見合せ給はず。「如何にや。」と宣へば、その時見附奉り、うれしげに思はれたる氣色、地獄にて罪人共が、地藏菩薩を 見奉るらんもかくやと覺えて哀なり。「何事にて候やらん、かゝる目にあひ候。さて渡らせ給へば、さり共とこそ憑まゐらせて候へ。平治にも已に誅せらるべき にて候しが、御恩を以て頸をつがれ參せ、正二位の大納言に上て、歳已に四十に餘り候。御恩こそ生々世々にも報じ盡しがたう候へ。今度も同じくは、かひなき 命を助けさせ坐ませ。命だに生て候はゞ、出家入道して、高野粉川に閉籠り、後世菩提の勤を營み候はん。」とぞ被申ければ、「さ候共、御命失ひ奉るまではよ も候はじ。縱さは候共、重盛かうて候へば、御命にもかはり奉るべし。」とて出られけり。父の禪門の御前に坐て、「あの成親卿失れん事、よく/\御計候べ し。先祖修理大夫顯季、白河院に召仕はれてより以降、家に其例なき正二位の大納言に上 て、當時君無雙の御いとほしみ也。軈て頸を刎られん事、いかがさぶらふべからん。都の外へ出されたらんに、事たり候 なん。北野天神は時平大臣の讒奏にて、憂名を四海の浪に流し、西宮の大臣は、多田滿仲が讒言にて、恨を山陽の雲によす。各無實なりしか共、流罪せられ給ひ にき。是皆延喜の聖代、安和の御門の御僻事とぞ申傳へたる。上古猶かくの如し。況や末代に於てをや。既に召置れぬる上は、急ぎ失はれず共、何の苦みか候べ き。『刑の疑しきをば輕んぜよ。功の疑しきをば重んぜよ。』とこそ見えて候へ。事新しく候へども、重盛彼大納言が妹に相具して候。維盛又聟なり。か樣に親 しく成て候へば、申とや思召され候らん。其儀では候はず。世の爲君の爲、家の爲の事を以て申候。一年故少納言入道信西が執權の時に相當て、 我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衞督藤原仲成を誅られてより以來、保元までは、君二十五代の間、行はれざりし死罪を始て執行ひ、宇治の惡左府の死骸を掘おこ いて、實檢せられたりし事などは餘なる御政とこそ覺え候しか。されば古の人々も、『死罪を行へば、海内に謀反の輩絶ずと。』こそ申傳て候へ。此詞に附て、 中二年有て平治に又世亂れて、信西が埋れたりしを掘出し、首を刎て大路を渡され候にき。保元に申行ひし事、幾程もなく、身の上にむかはりにきと思へば、怖 しうこそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。旁恐あるべし。御榮花殘る所なければ、思召す事在まじけれ共、子々孫々迄も繁昌こそあらまほしう候へ。父祖の 善惡は、必子孫に及ぶと見えて候。積善家必餘慶あり積惡門には必餘殃とどまるとこそ承れ。如何樣にも、今夜首を刎られん事は、然べう候はず。」と申されけ れば、 入道相國げにもとや思はれけん、死罪は思とゞまりぬ。
其後大臣中門に出て、侍共に宣けるは、「仰なればとて、大納言左右なう失ふ事有るべからず。入道腹のたちの まゝに、物噪き事し給ては、後に必悔しみ給ふべし。僻事してわれ恨な。」と宣へば、兵共、皆舌を振て恐慄く。「さても經遠、兼康が、けさ大納言に情なう當 りける事、返返も奇怪也。重盛が還聞ん所をばなどかは憚らざるべき。片田舎の者はかゝるぞとよ。」と宣へば、難波も瀬尾も、共に恐入たりけり。大臣はか樣 に宣て、小松殿へぞ歸られける。さる程に大納言のともなりつる侍ども、中御門烏丸の宿所へ走り歸て、此由申せば、北方以下の女房達、聲も惜まず泣叫ぶ。 「既に武士の向ひ候。少將殿を始參らせて、君達も捕れさせ給ふべしとこそ聞え候へ。急ぎ何方へも忍ばせ給へ。」と申ければ、「今は是程の身に成て、殘り留 る身とても、安穩にて何かはせん。唯同じ一夜の露とも消ん事こそ本意なれ。さても今朝を限と知らざりける悲しさよ。」とて、臥まろびてぞ泣かれける。已に 武士共の近附よし聞えしかば、かくて又恥がましくうたてき目を見んもさすがなればとて、十に成給ふ女子、八歳の男子、車に取乘せ、何くを指共なくやり出 す。さても有べきならねば、大宮を上りに、北山の邊雲林院へぞ坐ける。其邊なる僧坊に下置奉て、送の者ども、身の捨がたさに、暇申て歸りけり。今は幼き 人々計殘居て、又事問ふ人もなくして御座けむ北方の心の中、推量られて哀なり。暮行影を見給ふにつけては、大納言の露の命、此夕を限也と、思ひやるにも消 ぬべし。女房侍多かりけれ共、物をだに取したゝめず、門をだに推もたてず。馬どもは厩 に竝たちたれ共、草飼ふ者一人もなし。夜明れば馬車門に立なみ、賓客座に列て、遊戯れ舞躍り、世を世とも思ひ給は ず、近き傍の人は、物をだに高く言はず、怖畏てこそ昨日までも有しに、夜の間に變る有樣、盛者必衰の理は目の前にこそ顯れけれ。樂盡て哀來ると書れたる江 相公の筆の跡、今こそ思しられけれ。
少將乞請
丹波少將成經は、其夜しも院の御所法住寺殿に上臥して、未出られざりけるに、大納言の侍共、急ぎ御所へ馳參て、少將殿を呼出し奉り、此由申に、「な どや宰相の許より今まで告知せざるらん。」と、宣も果ねば、宰相殿よりとて使あり。此宰相と申は、入道相國の弟也、宿所は六波羅の惣門の内なれば門脇の宰 相とぞ申ける。丹波少將には舅なり。「何事にて候やらん、入道相國のきと西八條へ具し奉れと候と申せ。」といはせられたりければ、少將此事心得て、近習の 女房達呼出し奉り、「夜邊何となう世の物騒う候しを、例の山法師の下るかと餘所に思て候へば、早成經が身の上にて候ひけり。大納言よさり斬らるべう候なれ ば、成經も同罪にてこそ候はんずらめ。今一度御所へ參て、君をも見まゐらせたう候へ共、既にかゝる身に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。女房達御 前へ參り、此由奏せられければ、法皇大に驚かせ給て、さればこそ今朝の入道相國が使に早御心得あり。「あは此等が内々謀し事の漏にけるよ。」と思召すにあ さまし。「さるにても是へ。」と御氣色有ければ、參られたり。法皇も御 涙を流させ給ひて、仰下さるゝ旨もなし。少將も涙に咽で申あぐる旨もなし。良有てさてもあるべきならねば少將袖を顏に押當 てゝ、泣々罷出られけり。法皇は後を遙に御覽じ送らせ給ひて、末代こそ心憂けれ、是かぎりで又御覽ぜぬ事もやあらんずらんとて、御涙を流させ給ぞ忝き。院 中の人々、少將の袖をひかへ、袂にすがて名殘ををしみ、涙を流さぬはなかりけり。
舅の宰相の許へ出られたれば、北方は近う産すべき人にて御座けるが、今朝より此歎を打添て、已に命も消入る心地ぞせられける。少將御所を罷出つるよ り、流るゝ涙つきせぬに、北方の有樣を見給ひてはいとゞ爲方なげにぞ見えられける。少將乳母に六條と云女房あり。「御乳に参り始候らひて、君をちの中より 抱上参て、月日の重なるに隨ひて、我身の年の行をば歎ずして、君の成人しう成せ給ふ事をのみうれしう思ひ奉り、白地とは思へども、既に二十一年、片時も離 れ参らせず。院内へ参らせ給ひて、遲う出させ給ふだにも、覺束なう思ひ参らするに、如何なる御目にか遭せ給はんずらん。」と泣く。少將、「痛な歎そ。宰相 さて坐れば、命許はさり共乞請給はんずらん。」と、慰たまへども、人目もしらず、泣悶えけり。
西八條殿より、使しきなみに有ければ、宰相「行むかうてこそ、ともかうも成め。」とて出給へば少將も宰相の車 の後に乘てぞ出られける。保元平治より以來、平家の人々、樂榮えのみ有て、愁歎はなかりしに、此宰相計こそ、由なき聟ゆゑに、かゝる歎をばせられけれ。西 八條近うなて、車を停め、先案内を申入られければ、太政入道「丹波少將をば此内へは入らるべから ず。」と宣ふ間、其邊近き侍の家におろし置つゝ、宰相計ぞ門の内へは入給ふ。少將をば、いつしか兵共打圍んで守護し 奉る。憑れつる宰相殿には離れ給ひぬ。少將の心の中、さこそは便無りけめ。宰相中門に居給ひたれば、入道對面もし給はず。源大夫判官季貞をもて申入られけ るは、「由なき者に親うなて、返々悔しう候へども、甲斐も候はず。相具せさせて候者の、此程惱む事の候なるが、今朝より此歎を打そへては既に命も絶なん ず。何かはくるしう候べき。少將をば暫く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじかは僻事せさせ候べき。」と申されければ、季貞参て此由申す。 「あはれ例の宰相が、物に心得ぬ。」とて、頓に返事もし給はず。良有て入道宣けるは、「新大納言成親、此一門を滅して天下を亂むとする企あり。此少將は既 に彼大納言が嫡子也。疎うもあれ、親うもあれ、えこそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、御邊とてもおだしうや御座べきと申せ。」とこそのたまひけ れ。季貞歸参て、此由宰相殿に申ければ、誠に本意なげにて、重て申されけるは、「保元平治より以降、度々の合戰にも、御命に代り参らせんとこそ存候へ。此 後もあらき風をば、先防ぎ参らせ候はんずるに、縱教盛こそ年老て候とも、若き子供數多候へば、一方の御固にはなどか成で候べき。それに成經暫預らうと申 を、御容れ無きは、教盛を一向二心ある者と思召にこそ。是程後めたう思はれ参らせては、世に有ても何にかはし候べき。今は只身の暇を賜て、出家入道し、片 山里に籠て、一筋に後世菩提の勤を營み候はん。由なき憂世の交なり。世にあればこそ望もあれ、望の叶はねばこそ恨もあれ。しかじ憂世を厭ひ、眞の道に入な んには。」とぞ宣 ける。季貞参て、「宰相殿は早思召切て候ぞ。ともかうも能樣に御計ひ候へ。」と申ければ、入道、大に驚いて、「され ばとて出家入道まではあまりにけしからず。其儀ならば、少將をば暫御邊に預奉ると云べし。」とこそ宣けれ。季貞歸まゐて、宰相殿に此由申せば、「あはれ人 の子をば持まじかりける物かな。我子の縁に結れざらむには、是程心をば碎じ物を。」とて出られけり。
少將待受奉て、「さていかゞ候つる、」と申されければ、「入道餘に腹をたてて、教盛には終に對面もし給はず。 叶ふまじき由頻に宣ひつれ共、出家入道まで申たればにやらん、暫く宿所に置奉れとの給ひつれども、始終よかるべしとも覺えず。」少將、「さ候へばこそ成經 も御恩をもて、暫の命も延候はんずるにこそ。其につき候ては、大納言が事をばいかゞ聞召され候ぞ。」「其迄は思も寄ず。」と宣へば、其時涙をはら/\と流 いて、「誠に御恩を以てしばしの命もいき候はんずる事は然るべう候へども、命の惜う候も、父を今一度見ばやと思ふ爲也。大納言が斬れ候はんに於ては、成經 とても、かひなき命を生て何にかはし候べき。唯一所でいかにもなる樣に、申てたばせ給ふべうや候らん。」と申されければ、宰相世にも苦げにて、「いさと よ、御邊の事をこそとかう申つれ。其までは思も寄ねども、大納言殿の御事をば、今朝内の大臣の樣々に申されければ、其も暫は心安い樣にこそ承はれ。」と宣 へば、少將、泣々手を合てぞ悦れける。「子ならざらむ者は、誰か唯今我身の上をさしおいて、是程までは悦べき。實の契は親子の中にぞ有ける。子をば人の持 べかりける物哉。」とやがて思ぞ返されける。さて今朝 の如くに同車して歸られけり。宿所には女房達、死だる人の生かへりたる心地して、差つどひて皆悦び泣どもせられけり。
教訓状
太政入道は、か樣に人々數多縛め置ても、猶心行ずや思はれけん。既に赤地の錦の直垂に、黒絲縅の腹卷の、白金物打たる胸板せめて、先年安藝守たりし 時、神拜の次に、靈夢を蒙て、嚴島の大明神より現に賜はられたりける銀の蛭卷したる小長刀、常の枕を放ず立られたりしを脇挾み、中門の廊へぞ出られける。 其氣色大方ゆゝしうぞ見えし。貞能を召す。 [2]筑後守貞能は木蘭地の直垂に緋 縅の鎧著て、御前に畏て候。やゝあて入道宣けるは、「貞能、此事如何思ふ。保元に平右馬助を始として、一門半過て、新院の御方へ参にき。一宮の御事は、故 刑部卿殿の養君にて坐いしかば、旁々見放ち参らせ難かしども、故院の御遺誡に任て、御方にて先を懸たりき。是一の奉公也。次に平治元年十二月、信頼義朝が 院内を取奉り、大内にたて籠り天下黒闇と成しに、入道身を捨て、凶徒を追落し、經宗惟方を召縛しに至まで、既に君の御爲に命を失んとする事度度に及ぶ。た とひ人何と申す共、七代までは此一門をば爭でか捨させ給べき。其に成親と云ふ無用の徒者、西光と云下賤の不當人めが申す事に附かせ給て、此一門を滅すべき 由、法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏する者あらば、當家追討の院宣下されつと覺るぞ。朝敵となて後は、いかに悔ゆとも益あるまじ。世を靜めん 程、 法皇を鳥羽の北殿へ移奉るか、然らずは、是へまれ、御幸をなし参らせんと思ふは如何に。其儀ならば、北面の輩、箭をも一つ射んずらん。侍共にその用意せよと觸べし。大方は入道院方の奉公思切たり。馬に鞍おかせよ。きせながとり出せ。」とぞ宣ける。
主馬判官盛國、急ぎ小松殿へ馳參て、「世は既にかう候。」と申ければ、大臣聞も敢ず。「あは早成親卿が首を刎られたるな。」と宣へば、「さは候はね ども、入道殿御著背長召され候。侍共も皆打立て法住寺殿へ寄んと出たち候。法皇をば鳥羽殿へ押籠参らせうと候が、内々は鎭西の方へ流し参らせうと被擬 候。」と申せば、大臣、爭かさる事在べきと思へ共、今朝の禪門の氣色、さる物狂しき事もあるらむとて、車を飛して、西八條へぞおはしたる。
門前にて車よりおり、門の内へ指入て見給へば、入道腹卷を著給ふ上は一門の卿相雲客數十人、各色々の直垂に、思々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せ られたり。其外諸國の受領衞府諸司などは、縁に居溢れ、庭にもひしと竝居たり。旗竿共引そばめ/\、馬の腹帶を固め、甲の緒を縮め、唯今皆打立んずる氣色 共なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指貫のそば取て、さやめき入給へば、事の外にぞ見えられける。
入道ふし目に成て、あはれ例の内府が、世をへうする樣に振舞、大に諫ばやとこそ思はれけめども、さすが子なが らも、内には五戒を保て慈悲を先とし、外には五常を亂らず、禮儀を正しうし給ふ人なれば、あの姿に腹卷を著て向はむ事、面はゆう辱しうや思はれけん、障子 を少し引立て、素絹の衣を腹卷の上に、周章著に著給たりけるが、胸板の金物の少しはづれ て見えけるを藏さうと、頻に衣の胸を引ちがへ引ちがへぞし給ひける。大臣は舎弟宗盛卿の座上につき給ふ。入道も宣ひ出さず、大臣も申しいださるゝ事もなし。
良有て入道のたまひけるは、「成親卿が謀反は事の數にもあらず。一向法皇の御結構にて在けるぞや。世をしづめ ん程、法皇を鳥羽の北殿へ遷奉るか、然らずば、是へまれ、御幸を成まゐらせんと思ふは如何に。」と宣へば、大臣聞も敢ず、はら/\とぞ泣れける。入道、 「如何に/\。」とあきれ給ふ。大臣涙を抑て申されけるは、「此仰承候に、御運は早末に成ぬと覺候。人の運命の傾んとては、必惡事を思立候也。又御有樣、 更現共覺候はず。さすが我朝は邊地粟散の境と申ながら、天照大神の御子孫、國の主として、天兒屋根命の末、朝の政を司どり給ひしより以降、太政大臣の官に 至る人の、甲冑をよろふ事禮儀を背にあらずや。就中に御出家の御身なり。夫三世の諸佛解脱幢相の法衣を脱捨て、忽に甲冑を鎧ひ、弓箭を帶しましまさむ事、 内には既に破戒無慙の罪を招くのみならず、外には又仁義禮智信の法にも背き候なんず。旁々恐ある申事にて候へども、心の底に旨趣を殘すべきに非ず。先世に 四恩あり。天地の恩、國王の恩、父母の恩、衆生の恩是也。其中に最重きは朝恩也。普天の下王地に非ずと云ふ事なし。さればかの頴川の水に耳を洗ひ、首陽山 に蕨を折し賢人も、勅命背き難き禮儀をば存知すとこそ承はれ。何に況、先祖にも未聞ざし太政大臣を極めさせ給ふ。所謂重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐門 の位に至る。加之國郡半過て一門の所領と成、田園悉く一家の進止たり。是希代の朝恩に非ずや。今是等の莫大の御恩を思召忘れて、猥しく法皇 を傾け参らせ給はん事、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非禮を受給はず。然れば 君の思召立ところ、道理半無に非ず。中にも此一門は、代々の朝敵を平げて、四海の逆浪を靜る事は無雙の忠なれ共、其賞に誇る事は傍若無人共申つべし。聖徳 太子十七箇條の御憲法に『人皆心有り、必各執あり、彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理誰か能く定べき。相共に賢愚なり。環の如くして端なし。 爰を以て縱人怒ると云とも、かへて我咎を懼れよ。』とこそ見えて候へ。然れ共御運盡ざるに依て、御謀反已に露ぬ。其上仰合せらるゝ成親卿を召置れぬる上 は、縱君如何なる不思議を思召し立せ給ふとも、何の恐か候べき。所當の罪科行れん上は、退いて事の由を陳じ申させ給て、君の御爲には彌奉公の忠勤を盡し、 民の爲には益撫育の哀憐を致させ給はば、神明の加護に預り佛陀の冥慮に背べからず。神明佛陀感應あらば、君も思召なほす事などか候はざるべき。君と臣とを 比るに親疎別く方なし。道理と僻事を竝べんに、爭か道理に附ざるべき。
[2] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads 筑後守貞能、木蘭地の直垂に.
烽火之沙汰
是は君の御理にて候へば、叶はざらむまでも院御所法住寺殿を守護し参らせ候べし。其故は重盛叙爵より今大臣の大將に至迄、併ら君の御恩ならずと云ふ 事なし。其恩の重き事を思へば、千顆萬顆の玉にも越え、其恩の深き色を案ずれば、一入再入の紅にも過たらん。然れば院中に参り籠り候べし。其儀にて候は ば、重盛が身に代り、命に代らんと契りたる侍共、少 少候らん。是等を召具して、院の御所法住寺殿を守護しまゐらせ候はば、さすが以の外の御大事でこそ候はんずらめ。悲哉、君の 御爲に奉公の忠を致んとすれば、迷盧八萬の頂より猶高き父の恩忽に忘れんとす。痛哉、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御爲に已に不忠の逆臣と成ぬべし。進 退惟谷れり。是非いかにも辨へ難し。申請る所詮は、唯重盛が頸を召され候へ。院中をも守護し参らすべからず。院参の御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功 かたへに越たるに依て、官大相國に至り、劔を帶し沓を履ながら殿上に昇る事を許されしか共、叡慮に背く事あれば、高祖重う警て、深う罪せられにき。か樣の 先蹤を思ふにも、富貴と云ひ、榮花と云ひ、朝恩と云ひ、重職と云ひ、旁極させ給ぬれば、御運の盡ん事難かるべきに非ず。何迄か命生て、亂れん世をも見候べ き。唯末代に生を受けて、かゝる憂目に逢候重盛が果報の程こそ拙う候へ。只今侍一人に仰附て、御坪の内に引出されて、重盛が首の刎られん事は、易い程の事 でこそ候へ。是おの/\聞給へ。」とて直衣の袖も絞る許に涙を流し、かき口説かれければ、一門の人々、心あるも心なきも皆袖をぞ濕れける。
太政入道も、頼切たる内府はか樣に宣ふ。力もなげにて、「いや/\是迄は思も寄さうず。惡黨共が申す事につか せ給ひて、僻事などや出こむずらんと思ふ計でこそ候へ。」とのたまへば、大臣、「縱如何なる僻事出來候とも、君をば何とかし参らせ給ふべき。」とて、つい 立て中門に出で侍共に仰られけるは、「唯今重盛が申しつる事をば、汝等承ずや。今朝より是に候う てか樣の事共申靜むと存じつれ共、餘にひた噪に見えつる間、歸りたりつる也。院参の御供に於ては、重盛が頸の召され むを見て仕れ。さらば人参れ。」とて、小松殿へぞ歸られける。主馬判官盛國を召て、「重盛こそ天下の大事を別して聞出したれ。我を我と思はん者共は、皆物 具して馳参れと披露せよ。」と宣へば、此由披露す。「朧げにては噪がせ給はぬ人の、かゝる披露の有は別の仔細のあるにこそ。」と、皆物具して我も/\と馳 参る。淀、羽束師、宇治、岡屋、日野、勸修寺、醍醐、小栗栖、梅津、桂、大原、靜原、芹生の里に溢居たる兵共或は鎧著て、未甲を著ぬもあり、或は矢負て未 弓を持たぬもあり。片鐙蹈や蹈まずにて、周章噪いで馳参る。小松殿に噪ぐ事ありと聞えしかば、西八條に數千騎ありける兵共、入道にかうとも申も入ず、さざ めき連て、皆小松殿へぞ馳たりける。少しも弓箭に携る程の者は一人も殘ず。其時入道大に驚き、貞能を召て、「内府は何と思ひて、是等をば呼とるやらん。是 で言つる樣に、入道が許へ討手などや向んずらん。」と宣へば、貞能涙をはら/\と流いて「人も人にこそ依せ給ひ候へ。爭かさる御事候べき。これにて申させ 給ひつる事共も、皆御後悔ぞ候らん。」と申ければ、入道、内府に中違うては、惡かりなんとや思はれけん。法皇仰参らせん事も、はや思とゞまり、腹卷脱お き、素絹の衣に袈裟打掛て、最心にも起らぬ念誦してこそ坐しけれ。
小松殿には、盛國承て著到附けり。馳参たる勢共、一萬餘騎とぞ註いたる。著到披見の後、大臣中門に出て侍共に宣けるは、日比の契約を違へずして参たるこそ神妙なれ。異國にさる ためし有り。周の幽王、褒 じと云最愛の后をもち給へり。天下第一の美人なり。され共幽王の御心にかなはざりける事は、褒 じ笑をふくまずとて、惣て此后笑ふ事をし給はず。異國の習には、天下に兵革起 る時、所々に火を擧げ、大鼓を撃て、兵を召す謀有り。是を烽火と名付たり。或時天下に兵亂起て、烽火を揚たりければ、后是を見給ひて、『あな不思議、火も あれ程多かりけるな。』とて、其時始て笑給へり。此后一度笑ば百の媚有りけり。幽王嬉き事にして、其事となう、常に烽火を擧給ふ。諸候來に寇なし。寇なけ れば即ち去ぬ。加樣にする事度々に及べば、参る者も無りけり。或時隣國より凶賊起て、幽王の都を攻けるに、烽火をあぐれ共、例の后の火に慣て、兵も参ら ず。其時都傾て、幽王終に亡にき。さてこの后は野干と成て走失けるぞ怖き。か樣の事在なれば、自今以後も、是より召んには、みなかくの如くに参るべし。重 盛不思議の事を聞出して召つるなり。され共此事聞直しつ、僻事にてありけり。疾う/\歸れ。」とて、皆歸されけり。實にはさせる事をも聞出されざりけれ共 父を諫め被申つる詞に順ひ、我身に勢の著か、著ぬかの程をも知り、又父子軍をせんとにはあらねども、角して入道相國の謀反の志も和げ給ふとの謀也。「君雖 不君、不可臣以下臣、父雖不父不可子以不子。君の爲には忠有て、父の爲には孝あれ。」と文宣王の宣けるに不違。君の此由聞召て、「今に始ぬ事なれ共、内府 が心の中こそ愧しけれ。あたをば恩を以て報ぜられたり。」とぞ仰ける。「果報こそ目出たうて、大臣の大將にこそ至らめ。容儀帶佩人に勝れ、才智才學さへ世 に超たるべしやは。」とぞ時の人々感じ合れける。「國に諫る臣あれ ば、其國心安く、家に諫る子あれば、其家必たゞし。」と云へり。上古にも末代にも有がたかりし大臣なり。
新大納言被流
同六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出し奉て、御物参せたりけれども、胸せき塞て、御箸をだにもたてられず。御車を寄て、とう/\と申せ ば、大納言心ならず乘り給ふ。軍兵共前後左右に打圍みたり。我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見え奉らばや。」とのたまへども、其も叶はず。「縱重 科を蒙て遠國へ行く者も、人一人身に順へぬ者やある。」と車の内にてかき口説かれければ、守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。西の朱雀を南へ行ば、大 内山も今は餘所にぞ見給ける。年來見馴奉りし雜色牛飼に至るまで、涙を流し袖を絞らぬはなかりけり。増て都に殘りとゞまり給ふ北方少き人々の心の中、推量 れて哀也。鳥羽殿を過給ふにも、此御所へ御幸なりしには、一度も御供には外れざりし物をとて、我山庄洲濱殿とてありしをも、餘所に見てこそ通られけれ。南 の門へ出て、舟遲とぞ急がせける。「こは何地へやらん、同う失はるべくば、都近き此邊にてもあれかし。」と宣けるぞ責ての事なる。
近う副たる武士を、「誰そ」と問給へば、難波次郎經遠と申す。「若此邊に我方樣の者やある。舟に乘ぬ先に言置べき事あり。尋て参せよ。」と宣ひければ、其邊をはしりまはて尋けれども、 我こそ大納言殿の御方と云者一人もなし。「我世なりし時は、隨ひついたりし者共、一二千人も有つらん。今は餘所にてだにも此 有樣を見送る者の無りける悲さよ。」と泣れければ、猛き武士共もみな袖をぞぬらしける。身にそふ物とてはたゞつきせぬ涙計也。熊野詣、天王寺詣などには、 二瓦の三棟に造たる舟に乘り、次の船二三十艘漕つゞけてこそ有しに、今は怪かるかきすゑ屋形舟に、大幕引せ、見もなれぬ兵共に具せられて、今日を限に都を 出て、浪路遙に赴れけん心の中、推量られて哀なり。其日は攝津國大物の浦に著給ふ。
新大納言、既に死罪に行はるべかりし人の、流罪に宥られける事は、小松殿のやう/\に申されけるに依てなり。 此人いまだ中納言にておはしける時、美濃國を知行し給ひしに嘉應元年の冬、目代右衞門尉正友が許へ山門の領平野庄の神人が葛を賣てきたりけるに、目代酒に 飮醉て葛に墨をぞ付たりける。神人惡口に及ぶ間、さないはせそとて散々に陵礫す。さる程に神人共數百人、目代が許へ亂入す。目代法に任せて防ぎければ、神 人等十餘人打殺さる。是によて同年の十一月三日、山門の大衆おびたゞしう蜂起して、國司成親卿を流罪に處せられ、目代右衞門尉正友を禁獄せらるべき由奏聞 す。既に成親卿備中國へ流さるべきにて西の七條迄出されたりしを、君いかゞ思召されけん、中五日在て召返さる。山門の大衆おびただしう呪咀すと聞えしか 共、同二年正月五日、右衞門督を兼して、檢非違使の別當に成給ふ。其時、資方、兼雅卿越えられ給へり。資方卿はふるい人おとなにておはしき。兼雅卿は榮華 の人也。家嫡にて越えられ給けるこそ遺恨なれ。是は三條殿造進の賞也。同三年四月十三日、正 二位に叙せらる。其時は中御門中納言宗家卿越えられ給へり。安元元年十月二十七日、前中納言より權大納言に上り給 ふ。人嘲て、「山門の大衆にはのろはるべかりけるものを。」と申ける。されども、今は其故にや、かゝる憂目に逢給へり。凡は神明の罰も人の呪咀も、疾もあ り、遲きもあり、不同なる事也。
同三日、大物の浦へ、京より御使有とて犇きけり。新大納言「其にて失へとにや。」と聞給へば、さはなくして、備前の兒島へ流すべしとの御使なり。小 松殿より御文有り。「如何にもして、都近き片山里にも置奉らばやと、さしも申つれども叶はぬ事こそ、世に有かひも候はね。さりながらも御命ばかりは申請て 候。」とて、難波が許へも、「構てよく/\宮仕へ御心に違な。」と仰られ遣し、旅の粧細々と沙汰し送られたり。新大納言はさしも忝う思召されける君にも離 れ参せ、つかの間もさりがたう思はれける北方少き人々にも別はてゝ、「こは何地へとて行やらん。再び故郷に歸て、妻子を相見んことも有がたし。一年山門の 訴訟によて、流れしをば君惜ませ給ひて、西の七條より召還されぬ。是はされば君の御誡にもあらず。こは如何にしつる事ぞや。」と、天に仰ぎ地に俯て、泣悲 めどもかひぞなき。明ぬれば舟おし出いて下り給ふに、道すがらも只涙に咽んで、ながらふべしとはおぼえねど、さすが露の命は消やらず。跡の白浪隔つれば、 都は次第に遠ざかり、日數やう/\重なれば、遠國は近附けり。備前の兒島に漕よせて、民の家のあさましげなる柴の庵に置奉る。島のならひ、後は山、前は 海、磯の松風、波の音、いづれも哀は盡せず。
阿古屋松
大納言一人にもかぎらず、警を蒙る輩多かりけり。近江中將入道蓮淨佐渡國、山城守基兼伯耆國、式部大輔正綱播磨國、宗判官信房阿波國、新平判官資行は美作國とぞ聞えし。
其比入道相國、福原の別業に御座けるが、同廿日、攝津左衞門盛澄を使者として、門脇の宰相の許へ、「存ずる旨 あり。丹波少將急ぎ是へたべ。」と宣ひ遣はされたりければ、宰相、「さらば、たゞ有し時ともかくも成たりせばいかがせむ。今更物を思はせんこそ悲しけ れ。」とて、福原へ下給べき由宣へば、少將泣々出立給ひけり。女房達は、叶ざらん物故に、猶も唯宰相の申されよかしとぞ歎かれける。宰相、「存る程の事は 申つ。世を捨るより外は、今は何事をか申べき。されども縱何くの浦に坐すとも、我命の有ん限は、訪奉るべし。」とぞ宣ける。少將は今年三つに成給ふをさな き人を持給へり。日ごろはわかき人にて君達などの事もさしも濃にも坐ざりしか共、今はの時になりしかば、さすが心にやかゝられけん。「此少き者を今一度見 ばや。」とこそ宣ひけれ。乳母抱て参りたり。少將膝上に置、髮かき撫で、涙をはら/\と流て、「哀汝七歳に成ば、男に成して君へ参せんとこそ思つれ。され 共今は云かひなし。もし命生て、生たちたらば、法師に成り、我後の世弔へよ。」と宣へば、いまだ幼き心に、何事をか聞わき給ふべきなれども、打點頭給へ ば、少將を始奉て母上乳母の女房、其座に竝居たる人々、心有も心無も、皆袖をぞ濡しける。福原の御使、やがて今夜鳥羽まで出させ給ふべき 由申ければ、「幾程も延ざらん者故に、今宵許は、都の内にて明さばや。」と宣へ共、頻に申せば、其夜鳥羽へぞ出られける。宰相餘にうらめしさに、今度は乘も具し給はず。
同廿二日福原へ下著給ひたりければ、太政入道瀬尾太郎兼康に仰て、備中國へぞ流されける。兼康は宰相の還聞給 はん所を恐れて、道すがらも樣々に痛り慰め奉る。され共、少將少も慰み給ふ事もなし。夜晝只佛の御名をのみ唱て父の事をぞ嘆かれける。新大納言は、備前の 兒島に御座けるを、預の武士難波次郎經遠是は猶舟津近うて惡かりなんとて、地へ渡奉り、備前備中兩國の境、庭瀬の郷有木の別所と云ふ山寺に置奉る。備中の 瀬尾と、備前の有木の別所の間は、僅五十町に足ぬ所なれば、丹波少將其方の風もさすが懷うや思はれけむ、或時兼康を召て、「是より大納言殿の御渡有なる備 中の有木の別所へは、如何程の道ぞ。」と問給へば、直に知せ奉ては、惡かりなんと思ひけむ、「片道十二三で候。」と申。其時少將涙をはらはらと流いて、 「日本は昔三十三箇國にて有けるを、中比六十六箇國には分られたんなり。さ云ふ備前備中備後も、本は一國にて有ける也。又東に聞ゆる出羽陸奧兩國も、昔は 六十六郡が一國にてありけるを、其時十二郡を割分て、出羽の國とは立られたり。されば實方中將、奧州へ流されたりける時、此國の名所阿古耶の松と云所を見 ばやとて、國中を尋ありきけるが、尋かねて歸りける道に、老翁の一人行逢たりければ『やゝ御邊はふるい人とこそ見奉れ、當國の名所に阿古屋の松と云ふ所や しりたる。』と問に、『全く當國の内には候はず、出羽の國にや候らん。』と申ければ、『さては御邊も知ざりけり。世末に成て、 國の名所をも早皆呼失ひけるにこそ。』とて、空しく過んとしければ、老翁中將の袖を控へて、『あはれ君は、
みちのくの阿古耶の松に木隱て、出べき月の出もやらぬか。
と云ふ歌の心を以て、當國の名所阿古耶の松とは仰られ候か。其は兩國が一國なりし時詠侍る歌なり。十二郡を割分て後は、出羽國にや候らん。』と申け れば、さらばとて、實方中將も出羽國に越てこそ阿古耶の松をば見たりけれ。筑紫の太宰府より都へ、腹赤の使の上るこそ、かた路十五日とは定たれ。既に十二 三日と云は、是より殆鎭西へ下向ごさんなれ。遠しと云とも、備前備中の間、兩三日にはよもすぎじ。近きを遠う申は、大納言殿の御渡有なる所を成經に知せじ とてこそ申らめ。」とて、其後は戀しけれ共問ひ給はず。
大納言死去
さる程に法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少將相具して薩摩潟鬼界が島へぞ流されける。彼島は、都を出て遙々と波路を凌で行く處なり。おぼろ げにては船もかよはず。島には人稀なり。自ら人はあれども、此土の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛生つゝ、言詞をも聞知らず。男は烏帽子も せず、女は髮もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物も無ければ、唯殺生をのみ先とす。賤が山田をかへさねば、米穀の類もなく、薗の桑をとらざ れば、絹帛の類も無りけり。島のなかには高き山有り。鎭に火燃ゆ。硫 黄と云ふ物充滿てり。かるが故に硫黄が島とも名附たり。雷常に鳴上り、鳴下り、麓には雨しげし。一日片時、人の命堪て有るべき樣もなし。
さる程に新大納言は少しくつろぐ事もやと思はれけるに、子息丹波少將成經も、はや鬼界が島へ流され給ぬときいて、今はさのみつれなく何事をか期すべ きとて、出家の志の候よし、便に付て小松殿へ申されければ、此由法皇に窺ひ申て、御免ありけり。やがて出家し給ひぬ。榮花の袂を引かへて、浮世を餘所の墨 染の袖にぞ窶れ給ふ。
大納言の北方は、都の北山雲林院の邊にしのびてぞ御座ける。さらぬだに、住馴ぬ處は物うきに、いとゞしのばれ ければ、過行く月日も明し兼ね暮し煩ふ樣なりけり。女房侍多かりけれども、或は世を恐れ、或は人目をつゝむ程に、問訪ふ者一人もなし。され共其中に、源左 衞門尉信俊と云ふ侍一人、情殊に深かりければ、常に訪奉る。或時北方信俊を召て、「まことや是には備前の兒島にと聞えしが、此程聞ば有木の別所とかやに御 座なり。如何にもして今一度はかなき筆の跡をも奉り、御音信をも聞ばや。」とこそ宣ひけれ。信俊涙を押へ申けるは、「幼少より、御憐を蒙て、片時も離れ参 せ候はず。御下の時も、何共して御供仕らうと申候しが、六波羅より容されねば力及候はず。召され候し御聲も耳に留り、諫められ參らせし御詞も肝に銘じて片 時も忘れ參らせ候はず。縱此身は如何なる目にも遇候へ。疾々御文賜はて參り候はん。」とぞ申ける。北方斜ならず悦で、やがて書てぞたうだりける。少人々も 面々に御文有り。信俊此を賜はて、遙々と備前國有木の別所へ尋下る。先預の武士難波次郎經遠 に案内を云ければ、志の程を感じて、やがて見參に入たりけり。大納言入道殿は、唯今も都の事をのみ宣出し、歎沈で御 座ける所に、「京より信俊が參て候。」と申入たりければ、「夢かや。」とて聞もあへず、起なほり、「是へ/\。」と召されければ、信俊參て見奉るに、先御 住ひの心憂さもさる事にて、墨染の御袂を見奉るにぞ、信俊目もくれ心も消て覺えける。北方の仰蒙し次第、細々と申て、御文とりいだいて奉る。是を開けて見 給へば、水莖の跡は、涙にかき暮て、そことは見ね共、「少き人々の餘に戀悲み給ふ有樣、我身も盡ぬ思に堪忍べうもなし。」と書かれたれば、日來の戀しさ は、事の數ならずとぞ悲み給ふ。かくて四五日過ければ、信俊「是に候て、御最後の御有樣見參せん。」と申ければ、預の武士難波次郎經遠、叶まじき由頻に申 せば、力及ばで、「さらば上れ。」とこそ宣けれ。「我は近う失はれんずらむ。此世になき者と聞ば、相構て我後世とぶらへ。」とぞ宣ける。御返事かいてたう だりければ、信俊是を賜て、「又こそ參候はめ。」とて暇申て出ければ、「汝が又來ん度を待つくべしとも覺えぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、暫暫。」 と宣ひて、度々呼ぞ返されける。さても有べきならねば、信俊涙を抑つゝ、都へ歸のぼりけり。北方に文參らせたりければ、是を開て御覽ずるに、早出家し給た ると覺敷て、御髮の一房文の奧に有けるを、二目とも見給はず。形見こそ中々今はあたなれとて、臥まろびてぞ泣かれける。少き人々も、聲々に泣き悲み給け り。
さる程に大納言入道殿をば同八月十九日、備前備中兩國の境、庭瀬の郷、吉備の中山といふ處にて終に失ひ奉る。其最期の有樣やう/\に聞えけり。酒に毒を入てすゝめたりけれども 叶はざりければ、岸の二丈許有ける下にひしを植て、上より突落し奉れば、ひしに貫かて失給ぬ。無下にうたてき事共也 本少うぞ覺えける。大納言の北方は此世に無き人と聞給ひて、如何にもして今一度かはらぬ姿を見もし見えんとてこそ、今日迄樣をも變ざりつれ。今は何にかは せんとて、菩提院と云寺に御座し、樣を變へ、かたの如くの佛事を營み後世をぞ弔らひ給ひける。この北方と申は、山城守敦方の娘也。勝たる美人にて、後白河 法皇の御最愛ならびなき御思人にて御座けるを、成親卿ありがたき寵愛の人にて、賜はられたりけるとぞ聞えし。をさなき人人も花を手折り、閼伽の水を掬ん で、父の後世を弔ひ給ふぞ哀なる。さる程に時移り事去て、世の替行有樣は只天人の五衰に異ならず。
徳大寺殿之沙汰
爰に徳大寺の大納言實定卿は、平家の次男宗盛卿に大將を越られて、暫籠居し給へり。出家せんと宣へば、諸大夫侍共、いかがせんと歎合り。其中に藤藏 人重兼と云ふ諸大夫あり。諸事に心得たる人にて、或月の夜、實定卿南面の御格子上させ、只獨月に嘯て御座ける處に、慰さめまゐらせんとや思ひけん、藤藏人 參りたり。「誰そ。」「重兼候。」「如何になに事ぞ。」と宣へば、「今夜は特に月さえて萬心のすみ候まゝに、參て候。」とぞ申ける。大納言、「神妙に參た り。餘りに何とやらん心細うて徒然なるに。」とぞ仰られける。其後何と無い事共申て慰め奉る。大納言宣けるは、「倩此世の中の有樣を見るに、平家の世は彌 盛なり。入道相國の嫡子、 次男、左右の大將にてあり。やがて三男知盛、嫡孫維盛もあるぞかし。彼も是も次第にならば、他家の人々、大將をいつ當附べし ともおぼえず。されば終の事なり。出家せん。」とぞ宣ける。重兼涙をはら/\と流いて申けるは、「君の御出家候なば、御内の上下皆惑者に成候ひなんず。重 兼、珍い事をこそ案出して候へ。譬ば安藝の嚴島をば、平家斜ならず崇敬はれ候に、何かは苦しう候べき、彼宮へ御參あり、御祈誓候へかし。七日計御參籠候 はゞ、彼社には内侍とて、優なる舞姫共おほく候。珍しう思參せて、持成參せ候はんずらん。何事の御祈誓に御參籠候やらんと申候はば、有の儘に仰候へ。さて 御上の時御名殘惜みまゐらせ候はんずらん。むねとの内侍共召具して都迄御上候へ。都へ上なば、西八條へぞ參候はんずらん。『徳大寺殿は何事の御祈誓に嚴島 へは參らせ給ひたりけるやらん。』と尋られ候はゞ内侍共有の儘に申候はむずらん。入道相國はことに物めでし給ふ人にて、我崇め給ふ御神へ參て、祈申されけ るこそ嬉しけれとて、好き樣なる計ひもあんぬと覺え候。」と申ければ徳大寺殿、「是こそ思ひも寄ざりつれ。ありがたき策かな。軈て參む。」とて、俄に精進 始めつゝ、嚴島へぞ參られける。
誠に彼宮には内侍とて優なる女共多かりけり。七日參籠せられけるに、夜晝著副奉りもてなす事限りなし。七日七 夜の間に舞樂も三度までありけり。琵琶、琴ひき、神樂、舞歌ひなど遊ければ、實定卿も面白き事におぼしめし、神明法樂の爲に今樣、朗詠歌ひ、風俗、催馬樂 などありがたき郢曲どもありけり。内侍共「當社へは、平家の公達こそ御參候ふに、この 御まゐりこそ珍しう候へ。何事の御祈誓、御參籠さぶらふやらん。」と申ければ、「大將を人に越えられたる間、其祈の 爲也。」とぞ被仰ける。さて七日參籠畢て、大明神に暇申て都へ上らせ給ふに、名殘を惜み奉り、むねとの若き内侍十餘人、船押立て一日路を送り奉る。暇申け れども、さりとては餘に名殘の惜きに、今一日路、今二日路と仰られて都までこそ具せられけれ。徳大寺の邸へ入させ給ひて、樣々にもてなし、樣々の御引出物 共たうでかへされけり。
内侍共これまで上る程では、我等が主の太政入道殿へいかで參らであるべきとて、西八條へぞ參じたる。入道相國急ぎ出合給ひて、「如何に内侍共は何事 の列參ぞ。」「徳大寺殿の御參候うて七日こもらせ給ひて御上り候を一日路送り參せて候へば、さりとては餘りに、名殘の惜きに、今一日路二日路と仰られて、 是まで召具せられて候ふ。」「徳大寺は何事の祈誓に、嚴島までは參られたりけるやらん。」との給へば、「大將の御祈の爲とこそ仰られ候ひしか。」其時入道 打うなづいて、「あないとほし、王城にさしも尊き靈佛靈社の幾も御座を指置て、我が崇め奉る御神へ參て祈申されけるこそありがたけれ。是程志切ならむ上 は。」とて、嫡子小松殿内大臣の左大將にてましましけるを辭せさせ奉り、次男宗盛大納言の右大將にて御座けるを超させて、徳大寺を左大將にぞ成されける。 あはれ目出度かりける策かな。新大納言も、か樣に賢き計らひをばし給はで、由なき謀反おこいて、我身も滅び、子息所從に至るまで、かゝる憂目を見せ給ふこ そうたてかりけれ。
堂衆合戰
さる程に、法皇は三井寺の公顯僧正を御師範として、眞言の祕法を傳受せさせましけるが、大日經、金剛頂經、蘇悉地經、此三部 の祕法を受させ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂有るべしとぞ聞えける。山門の大衆憤申、「昔より御灌頂御受戒、皆當山にして遂させまします事先規也。 就中に山王の化導は、受戒灌頂の爲なり。然るを今三井寺にて遂させましまさば、寺を一向燒拂ふべし。」とぞ申ける。是無益なりとて、御加行を結願しておぼ しめし留らせ給ひぬ。さりながらも猶本意なればとて、三井寺の公顯僧正を召具して、天王寺へ御幸なて、御智光院を建て、龜井の水を五瓶の智水として、佛法 最初の靈地にてぞ、傳法灌頂は遂させましましける。
山門の騒動を靜られんが爲に、三井寺にて御灌頂は無りしか共、山上には堂衆學生、不快の事出來て、合戰度々に 及ぶ。毎度に學侶打落されて山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。堂衆と申は、學生の所從なりける童部が法師に成たるや、若は中間法師原にてありけるが、 金剛壽院の座主、覺尋權僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆と號して、佛に花進せし者共也。近年行人とて、大衆をも事共せざりしが、かく度々の軍に打 勝ぬ。堂衆等師主の命を背いて、合戰を企つ、速に誅罰せらるべき由、大衆公家に奏聞し、武家へ觸訴ふ。これに依て太政入道院宣を承り、紀伊國の住人、湯淺 權守宗重以下、畿内の兵二千餘騎、大衆に指 添て、堂衆を攻らる。堂衆日來は東陽坊にありしが、近江の國三箇の庄に下向して、數多の勢を率し、又登山して、早尾坂に城をして立籠る。
同九月廿日、辰の一點に大衆三千人、官軍二千餘騎、都合其勢五千餘人、早尾坂に押よせたり。今度はさり共と思ひけるに、大衆は官軍を先立てんとし、 官軍は又大衆を先立てんと爭ふ程に心心にて、はか%\しうも戰はず。城の内より石弓弛懸たりければ、大衆官軍數を盡て討れにけり。堂衆に語ふ惡黨と云は、 諸國の竊盗、強盗、山賊、海賊等也。欲心熾盛にして、死生不知の奴原なれば、我一人と思切て戰ふ程に、今度も又學生軍に負にけり。
山門滅亡
其後は山門彌荒はてゝ、十二禪衆の外は、止住の僧侶も稀なり、谷々の講演磨滅して、堂堂の行法も退轉す。修學の窓を閉ぢ、坐禪の床を空うせり。四教 五時の春の花も香はず、三諦即是の秋の月も曇れり。三百餘歳の法燈を挑る人もなく、六時不斷の香の煙も、絶やしぬらん。堂舎高く聳えて、三重の構を青漢の 内に挿み、棟梁遙に秀て、四面の椽を白霧の間に懸たりき。され共今は供佛を嶺の嵐に任せ、金容を紅瀝に濡す。夜の月燈を挑て檐の隙より漏り、曉の露珠を垂 れて蓮座の粧を添とかや。夫末代の俗に至ては、三國の佛法も次第に衰微せり。遠く天竺に佛跡を弔へば、昔佛の法を説給ひし竹林精舎、給孤獨園も此比は狐狼 野干の栖と成て、礎のみや殘るらん。白鷺池には水絶て、草のみ深くしげれり。退梵下乘 の卒都婆も苔のみむして傾きぬ。震旦にも天台山、五臺山、白馬寺、玉泉寺も、今は住侶なく樣々に荒果て、大小乘の法門も、箱 の底にや朽ぬらん。我朝にも南都七大寺荒果て、八宗九宗も跡絶え、愛宕高雄も昔は堂塔軒を竝たりしか共、一夜の中に荒にしかば、天狗の栖と成り果てぬ。さ ればにや、さしも止事無りつる天台の佛法も、治承の今に及で、亡果ぬるにやと、心有る人歎悲まずと云事なし。離山しける僧の坊の柱に、歌をぞ一首書いたり ける。
祈りこし我立杣のひきかへて、人なき嶺となりや果なん。
是は傳教大師、當山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の佛たちに、祈申されける事を、思ひ出て詠たりけるにや。いと優うぞ聞えし。八日は藥師の日なれども、南無と唱る聲もせず。卯月は垂跡の月なれ共幣帛を捧る人もなし。朱の玉垣神さびて、しめ繩のみや殘るらん。
善光寺炎上
其比善光寺炎上の由其聞あり。彼如來と申は昔天竺舎衞國に、五種の惡病起て、人多く滅しに月蓋長者が致請に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、釋尊、目連、長者心を一にして、鑄現し給へる一 ちやく手半の彌陀の三尊、閻浮提第一の靈像なり。佛滅度の後、天竺に留らせ給 ふ事、五百餘歳、佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝齊明王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼國より此國へ移らせ給ひて、攝 津國難波の浦にして、星霜を送らせ給ひけり。常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、 晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。 「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。
康頼祝言
さる程に鬼界が島の流人共、露の命草葉の末に懸て、惜むべきとには有ね共、丹波少將の舅平宰相教盛の領、肥前國鹿瀬の庄より、衣食を常に送られけれ ば、其にてぞ俊寛僧都も康頼も命を生て過しける。康頼は、流されける時、周防の室つみにて出家してけり。法名は性照とこそ附たりけれ。出家は本よりの望な りければ、
つひにかくそむきはてける世の中を、とくすてざりし事ぞくやしき。
丹波少將、康頼入道は、本より熊野信心の人なれば、如何にもして此島の内に熊野三所權現を勸請し奉て歸洛の事を祈申さばやと云に、僧都は天性不信第 一の人にて是を用ゐず。二人は同じ心に、若熊野に似たる所やあると、島の内を尋廻るに、或は林塘の妙なる有り、紅錦繍の粧品々に、或は雲嶺の恠あり、碧羅 綾の色一つに非ず。山の景色樹の木立に至る迄、外よりも猶勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪深く、北を顧れば、 又山岳の峨々たるより、百尺の瀧水漲落たり。瀧の音殊に凄じく、松風神さびたる栖、飛瀧權現の御座す那智の御山にもさも似た りけり。さてこそ、やがてそこをば那智の御山とは名附けれ。此嶺は本宮、彼は新宮、是はそんぢやう其王子、彼王子など、王子々々の名を申て、康頼入道先達 にて、丹波少將相具しつゝ、日ごとに熊野詣の眞似をして、歸洛の事をぞ祈ける。「南無權現金剛童子、願は憐を垂させ御座して、故郷へかへし入させ給へ、妻 子共をも今一度見せ給へ。」とぞ祈ける。日數積りて、裁更べき淨衣も無ければ、麻の衣を身に纏ひ、澤邊の水をこりにかいては、岩田川の清き流と思やり、高 所に上ては、發心門とぞ觀じける。參る度毎には康頼入道、祝言を申に、御幣紙も無ければ、花を手折て捧つつ、
維當れる歳次、治承元年丁酉、月のならび十月二月、日の數三百五十餘箇日、吉日良辰を擇で、掛卷も忝なく、日本第一大靈驗、熊野三所權現、飛瀧大薩 たの教令、宇豆の廣前にして、信心の大施主、羽林藤原成經、並に沙彌性照、一 心清淨の誠を致し三業相應の志を抽て、謹で以て敬白す。夫證誠大菩薩は、濟度苦海の教主、三身圓滿の覺王なり。或は東方淨瑠璃醫王の主、衆病悉除の如來な り。或は南方補陀落能化の主、入重玄門の大士、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士。頂上の佛面を現じて、衆生の所願をみて給へり。これによて上一人 より下萬民に至るまで、或は現世安穩のため、或は後生善所のために朝には淨水を掬で、煩惱の垢を濯ぎ、夕には深山に向て寶號を唱ふるに、感應怠ることな し。峨々たる峯の高をば、神徳の高きにたとへ、嶮々たる谷の深をば、弘誓の深きに 准へて、雲を分て上り、露を凌でくだる。爰に利益の地をたのまずんば、いかんが歩を險難の道に運ばん。權現の徳を仰かずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさむ。仍て證誠大權現、飛瀧大薩 た、青蓮慈悲の眸を相並べ、小鹿の御耳を振り立てゝ、我等が無二の丹誠を知見 して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結早玉の兩所權現、各機に隨て、有縁の衆生を導き、無縁の群類を救はんがために、七寶莊嚴の栖を捨てゝ、八萬 四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ給へり。かるがゆゑに定業亦能轉、求長壽得長壽の禮拜、袖を連ね、幣帛禮奠を捧ぐること隙なし。忍辱の衣を重ね、覺道 の花を捧げて、神殿の床を動し、信心の水をすまして、利生の池を湛へたり。神明納受し給はゞ、所願何ぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所權現、利生の翼 を並て、遙に苦海の空にかけり、左遷の愁を息めて、歸洛の本懷を遂げしめ給へ。再拜
とぞ康頼祝言をば申ける。
卒都婆流
丹波少將、康頼入道、常は三所權現の御前に參て、通夜する折も有けり。或時二人通夜して、夜もすがら今樣をぞ歌ひける。曉方に康頼入道、ちと目睡たる夢に、沖より白い帆掛たる小舟を一艘漕寄て、舟の中より紅の袴きたる女房、二三十人あがり、皷を打ち聲を調て、
萬の佛の願よりも、千手の誓ぞたのもしき、
枯れたる草木も忽に、花さき實なるとこそきけ。
と三辺歌澄して、掻けす樣にぞ失にける。夢覺て後、奇異の思をなし、康頼入道申けるは、「是は龍神の化現と覺えたり。三所權現のうちに、西の御前と 申は、本地千手觀音にておはします。龍神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて御納受こそ頼敷けれ。」又或夜二人通夜して同じう目睡たりける夢に、沖より 吹くる風の、二人が袂に木の葉を二つ吹懸たりけるを、何となう取て見ければ、御熊野の南木の葉にてぞ有ける。かの二の南木の葉に一首の歌を蟲くひにこそし たりけれ。
ちはやぶる神にいのりの繁ければ、などか都へ歸らざるべき。
康頼入道、故郷の戀しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆を作り、 あ字の梵字、年號月日、假名、實名、二首の歌をぞ書たりける。
薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風。
思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を。
是を浦に持て出て、「南無歸命頂禮、梵天帝釋、四大天王、けんろう地神、王城の鎭守諸大明神、殊には熊野權 現、嚴島大明神、せめては一本なり共、都へ傳てたべ。」とて、沖つ白波の、よせては歸る度毎に、卒都婆を海にぞ浮べける。卒都婆を造出すに隨て、海に入れ ければ、日數の積れば、卒都婆の數もつもりけり。その思ふ心や便の風とも成たりけむ。又神明佛陀もや送らせ給ひけむ。千本の卒都婆のなかに、一本、安藝國 嚴島の大明神の御前の渚に打あ げたり。
こゝに康頼入道がゆかりありける僧、然るべき便もあらば、如何にもして彼島へ渡て、其行へを聞むとて、西國修 行に出たりけるが、先嚴島へぞ參りたりける。爰に宮人とおぼしくて、狩衣裝束なる俗、一人出來たり。此僧何となき物語しけるに、「夫和光同塵の利生、樣々 なりと申せども、如何なりける因縁を以て、此御神は海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん。」と問奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎 藏界の垂跡也。」此島へ御影向有し始より濟度利生の今に至るまで、甚深奇特の事共をぞ語ける。さればにや、八社の御殿甍を竝べ、社はわたつみの邊なれば、 汐の滿乾に月ぞすむ。汐滿くれば、大鳥居緋の玉垣瑠璃の如し。汐引ぬれば夏の夜なれど、御前の白洲に霜ぞおく。いよ/\尊く覺て、法施參せて居たりける に、漸々日暮月指いでて、汐の滿けるが、そこはかとなき、藻くづ共のゆられける中に、卒都婆の形の見えけるを、何となう取て見ければ、沖の小島に我あり と、書流せる言葉也。文字をば彫入刻附たりければ、波にも洗はれず、あざあざとしてぞ見えける。「あな、不思議。」とて、是を笈のかたにさし、都へ上り、 康頼が老婆の尼公妻子共が、一條の北、紫野と云處に忍つゝ住けるに、見せたりければ、「さらば此卒都婆が唐の方へもゆられ行かで、なにしに是迄傳ひ來て、 今更物を思はすらん。」とぞ悲みける。遙の叡聞に及で、法皇之を御覽じて、「あな無慚や、さればいまだこの者共は命の生て有にこそ。」と、御涙を流させ給 ふぞ忝き。小松の大臣の許へ送らせ給ひたりければ、是を父の入道相國に見せ奉り給ふ。柿本人 丸は、島がくれ行舟を思ひ、山邊赤人は、蘆邊の田鶴をながめ給ふ。住吉明神は、かたそぎの思をなし、三輪明神は、杉 立る門をさす。昔素盞嗚尊、三十一字の和歌を始めおき給しより以來、諸の神明佛陀も、彼詠吟を以て、百千萬端の思を述給ふ。入道も岩木ならねば、さすが哀 げにぞ宣ひける。
蘇武
入道相國の憐み給ふ上は、京中の上下、老たるも若きも、鬼界が島の流人の歌とて、口ずさまぬは無りけり。さても千本迄造り出せる卒都婆なれば、さこそは小さうも有けめ。薩摩潟より遙々と、都まで傳はりけるこそ不思議なれ。餘に思ふ事はかく驗有にや。
古漢王胡國を攻られけるに、始は李少卿を大將軍にて、三十萬騎むけられたりけるが、漢王の軍弱く、胡國の戰強して、官軍皆討ち滅さる。剩へ大將軍李 少卿、胡王のために生擒らる。次に蘇武を大將軍にて、五十萬騎を向けらる。猶漢の軍弱く夷の戰強して官軍皆滅にけり。兵六千餘人生擒らる。其中に大將軍蘇 武を始として、宗との兵六百三十餘人、勝出し一々に片足を切て、追放つ。即死する者もあり、程へて死ぬる者もあり。其中にされ共蘇武は死ざりけり。片足な き身となて、山に上ては木の實を拾ひ、春は澤の根芹をつみ、秋は田面の落穗を拾ひなどして露の命を過しけり。田にいくらもありける鴈ども、蘇武に見馴て恐 ざりければ、是等は皆我故郷へ通ふ者ぞかしと懷しさに、思ふ事を一筆書て、「相構て是漢王 に上れ。」と云含め、鴈の翅に結つけてぞ放ける。かひ%\しくも田面の鴈、秋は必ずこしぢより都へ通ふものなるに、漢の昭帝 上林苑に御遊ありしに、夕されの空うす曇り、なにとなう物哀なりけるをりふし、一行の鴈飛渡る。其中より鴈一つ飛さがて、己が翅に結附たる玉章をくひ切て ぞ落しける。官人これを取て、御門に上る。披て叡覽あれば、「昔は巖窟の洞に籠られて、三春の愁歎を送り、今は昿田の畝に捨られて、胡狄の一足となれり。 縱骸は胡の地に散すと云とも、魂は二度君邊に仕へん。」とぞ書たりける。其よりしてぞ文をば鴈書ともいひ、鴈札とも名付たる。「あな無慚や蘇武が譽の跡な りけり。未胡國にあるにこそ。」とて、今度は李廣と云將軍に仰て、百萬騎を差遣す。今度は漢の戰強くして、胡國の軍破れにけり。御方戰勝ぬと聞えしかば、 蘇武は昿野の中より這出て、「是こそ古の蘇武よ。」と名乘る。十九年の星霜を送て、片足は切れながら、輿に舁れて、故郷へぞ歸りける。蘇武十六の歳より胡 國へ向けられけるに、御門より賜りたりける旗をば何としてかかくしたりけん、身を放たず持たりけり。今取出して御門の見參に入たりければ、君も臣も感嘆斜 ならず。君の爲大功雙無りしかば、大國數多賜り、其上典屬國と云司を下されけるとぞ聞えし。
李少卿は、胡國に留て、終に歸らず。如何にもして漢朝へ歸らんとのみ歎けども、胡王許さねば叶はず。漢王是を ば知り給はず、君の爲に不忠の者なりとて、はかなくなれる二親の骸を掘起いて打せらる。其外六親を皆罪せらる。李少卿此由を傳聞いて、恨深うぞ成にける。 さりながら猶故郷を戀つゝ、君に不忠なき樣を一卷の書に作て參らせたりければ、「さては 不愍の事ごさんなれ。」とて、父母が骸を掘いだいて打せられたる事をぞ、悔しみ給ひける。漢家の蘇武は、書を鴈の翅 に附て舊里へ送り、本朝の康頼は、浪の便に歌を故郷に傳ふ。彼は一筆のすさみ、是は二首の歌、彼は上代、是は末代、胡國、鬼界が島、境を隔て、世々は替れ ども、風情は同じ風情。ありがたかりし事ども也。
3
平家物語卷第三
赦文
治承二年正月一日、院御所には拜禮行はれて、四日の日朝覲の行幸在けり。何事も例にかはりたる事は無れ共、去年の夏新大納言 成親卿以下、近習の人々多く失れし事、法皇御憤未止ず、世の政も懶く思召されて、御心よからぬ事にてぞ在ける。太政入道も、多田藏人行綱が告知せて後は、 君をも御後めたき事に思ひ奉て、上には事なき樣なれ共、下には用心して、苦笑てのみぞ在ける。
同正月七日彗星東方に出づ。蚩尤氣とも申す。又赤氣共申す。十八日光を増す。
去程に入道相國の御女建禮門院、其比は未中宮と聞えさせ給しが、御惱とて、雲の上、天が下の歎にてぞ在ける。 諸寺に御讀經始り、諸社へ官幣使を立らる、醫家藥を盡し、陰陽術を窮め、大法秘法一つとして殘る所なう修せられけり。され共、御惱たゞにも渡せ給はず、御 懷姙とぞ聞えし。主上今年十八、中宮は二十二に成せ給ふ。然共、未皇子も姫宮も出來させ給はず。若皇子にてわたらせ給はば、如何に目出度からんと、平家の 人々は唯今皇子御誕生の有樣に、勇悦びあはれけり。他家の人々も、「平氏の御繁昌折を得たり、皇子御誕生疑なし。」 とぞ申あはれける。御懷姙定らせ給しかば、有驗の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿佛菩薩につけて、皇子御誕 生と祈誓せらる。六月一日、中宮御著帶有けり。仁和寺の御室守覺法親王、御參内有て、孔雀經の法をもて、御加持あり。天台の座主覺快法親王、同う參せ給 て、變成男子の法を修せられけり。
かゝりし程に、中宮は月の重るに隨て、御身を苦うせさせ給ふ。一度笑ば百の媚有けん漢の李夫人、昭陽殿の病の床もかくやと覺え、唐の楊貴妃、梨花一 枝春の雨を帶び、芙蓉の風にしをれ、女郎花の露重げなるよりも猶痛しき御樣なり。かゝる御惱の折節に合せて、こはき御物怪共、取入奉る。よりまし明王の縛 に掛て、靈顯れたり。殊には讃岐院の御靈、宇治惡左府の憶念、新大納言成親の死靈、西光法師が惡靈、鬼界島の流人共の生靈などぞ申ける。是によて太政入道 生靈も死靈も、宥らるべしとて、其比やがて讃岐院御追號有て、崇徳天皇と號す。宇治惡左府、贈官贈位行はれて、太政大臣正一位を贈らる。勅使は少内記惟基 とぞ聞えし。件の墓所は、大和國添上の郡、河上の村、般若野の五三昧也。保元の秋掘起して捨られし後は死骸道の邊の土となて、年々に只春の草のみ茂れり。 今勅使尋來て、宣命を讀けるに、亡魂いかに嬉とおぼしけん。怨靈はかく怖ろしき事也。されば早良の廢太子をば崇道天皇と號し、井上内親王をば、皇后の職位 に復す。是皆怨靈を宥められし策也。冷泉院の御物狂う坐し、花山の法皇十善萬乘の定位をすべらせ給しは、基方民部卿が靈とかや。三條院の御目も御覽ぜられ ざりしは、寛算供奉が靈也。
門脇宰相か樣の事共傳聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈樣々に候也。何と申候とも非常の赦に過たる事 有るべし共覺え候はず。中にも鬼界島の流人共召還されたらん程の功徳善根、爭か候べき。」と申されければ、小松殿父の禪門の御前に坐て、「あの丹波少將が 事を宰相の強ちに歎申候が不便に候。中宮御惱の御事、承及ぶ如くんば、殊更成親卿が死靈などと聞え候。大納言が死靈を宥んと思召んにつけても、生て候少將 をこそ召還され候はめ。人の念ひを休させ給はば、思召す事も叶ひ、人の願を叶へさせ給はば、御願も既成就して中宮やがて、皇子御誕生有て、家門の榮花彌盛 に候べし。」など被申ければ、入道相國、日來にも似ず事の外に和いで、「さて俊寛と康頼法師が事は、如何に。」「其も同う召こそ還され候はめ。若一人も留 られむは、中中罪業たるべう候。」と申されたりければ、「康頼法師が事はさる事なれ共、俊寛は隨分入道が口入を以て、人と成たる者ぞかし。其に所しもこそ 多けれ、我山莊鹿谷に城廓を構へて、事にふれて、奇怪の振舞共が有けんなれば、俊寛をば思もよらず。」とぞ宣ける。小松殿歸て叔父の宰相殿呼奉り、「少將 は既に赦免候はんずるぞ。御心安う思召され候へ。」とのたまへば、宰相手を合てぞ悦ばれける。「下し時もなどか申請ざらんと思ひたり氣にて、教盛を見候度 毎には涙を流し候しが、不便に候。」と申されければ、小松殿、「誠にさこそは思召され候らめ。子は誰とても悲ければ、能々申候はん。」とて入給ぬ。
去程に鬼界が島の流人共召還るべく定められて、入道相國許文下されけり。御使既に都をたつ。宰相餘の嬉さに、御使に私の使をそへてぞ下されける。「夜を晝にして急ぎ下れ。」とありし か共、心に任ぬ海路なれば、浪風を凌いで行程に、都をば七月下旬に出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が島には著にける。
足摺
御使は丹左衞門尉基康と云者なり。船より上て「是に都より流され給し丹波少將殿平判官入道殿やおはする。」と、聲々にぞ尋ける。二人の人々は、例の 熊野詣して無りけり。俊寛僧都一人殘りけるが、是を聞き、「餘に思へば夢やらん、又天魔波旬の我心を誑さんとて言やらん、現共覺ぬ物かな。」とて、周章ふ ためき走ともなく、倒るともなく、急ぎ御使の前に走り向ひ、「何ごとぞ、是こそ京より流されたる俊寛よ。」と名乘給へば、雜色が頸に懸させたる文袋より、 入道相國の許文取出いて奉る。披いて見れば、「重科免遠流、早可成歸洛思。依中宮御産御祈被行非常赦。然間鬼界島流人少將成經、康頼法師赦免。」と計書か れて、俊寛と云文字はなし。禮紙にぞ有らんとて、禮紙を見るにも見えず。奧より端へ讀み、端より奧へ讀けれ共、二人と計書かれて、三人とはかゝれず。
さる程に少將や判官入道も出來たり、少將の取てよむにも、康頼入道が讀けるにも、二人と計かかれて、三人とはかゝれざりけり。夢にこそかゝる事は有 れ、夢かと思ひなさんとすれば現也、現かと思へば又夢の如し。其上二人の人々の許へは、都より言づけ文共、幾らも有けれ共、俊寛僧都の許へは、事問文一つ もなし。さればわがゆかりの物どもは都のうちにあと をとゞめず成りにけりとおもひやるにもしのびがたし。「抑我等三人は罪もおなじ罪、配所も一つ所也。如何なれば赦免の時、二 人は召還されて、一人爰に殘るべき。平家の思忘かや、執筆の誤か。こは如何にしつる事共ぞや。」と、天に仰ぎ地に臥して、泣悲め共かひぞなき。少將の袂に すがて、「俊寛がかく成といふも、御邊の父、故大納言殿、由なき謀反故也。されば餘所の事とおぼすべからず。赦れ無れば、都迄こそ叶はずとも、此船にのせ て、九國の地へ著けて給べ。各の是に坐つる程こそ、春は燕、秋は田面の雁の音信る樣に、自ら故郷の事をも傳聞つれ。今より後、何としてかは聞べき。」とて 悶え焦れ給ひけり。少將、「誠にさこそは思召され候らめ。我等が召還るゝ嬉さは、去事なれ共、御有樣を見置奉るに、行べき空も覺えず。打乘奉ても上たう候 が、都の御使も叶ふまじき由申す上、赦れも無に、三人ながら島を出たりなど聞えば、中々惡う候なん。成經先罷上て、人々にも申合せ、入道相國の氣色をも窺 て、迎に人を奉らん。其間は此日比坐しつる樣に思成て待給へ。何としても命は大切の事なれば、今度こそ漏させ給ふ共、終にはなどか赦免なうて候べき。」 と、慰め給へども、人目も知らず泣悶えけり。既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乘ては下つ、下ては乘つあらまし事をぞし給ひける。少將の形見には 夜の衾、康頼入道が形見には、一部の法華經をぞ留ける。纜解て押出せば、僧都綱に取附き、腰に成り、脇に成り、長の立つまでは引かれて出で、長も及ばす成 ければ、船に取附き「さて如何に各、俊寛をば終に捨果給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日來の情も今は何ならず。只理を枉て乘せ給へ。責ては、九國の地 迄。」と口説かれけれ共、都の御使「如何にも叶ひ候まじ。」とて、取附給へる手を引のけて、船は終に漕出す。僧都せ ん方なさに、渚に上り倒伏し、少き者の乳母や母などを慕ふ樣に、足摺をして、「是乘て行け、具して行け。」と、喚叫べ共、漕行船の習にて、跡は白浪ばかり なり。未遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都高き所に走あがり、澳の方をぞ招ける。彼松浦小夜姫が、唐舟を慕つゝ、領巾ふりけんも、是に は過じとぞ見えし。船も漕隱れ、日も暮れ共、怪の臥處へも歸らず、浪に足打洗せ、露に萎て、其夜は其にてぞ明されける。さり共少將は情深き人なれば、能き 樣に申す事も在んずらんと憑をかけ、其瀬に身をも投ざりける心の程こそはかなけれ。昔壯里息里が、海巖山へ放たれけん悲も、今こそ思ひ知られけれ。
御産
去程に此人々は、鬼界が島を出て、平宰相の領肥前國鹿瀬庄に著給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風も烈しう、道の間も覺束なう候に、それにて能々身いたはて、春に成て上り給へ。」とありければ、少將鹿瀬庄にて、年を暮す。
さる程に同年十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の氣坐すとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅池殿にて有けるに法皇も御幸なる。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人と數へられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、一人 も漏るは無りけり。先例も、女御、后、御産の時に臨んで大赦行はるゝ事あり。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦有りき。其例とて今度も、重科の輩多く許されける中に、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。
御産平安に在ならば、八幡、平野、大原野などへ、行啓なるべしと御立願有けり。仙源法印、是を敬白す。神社は太神宮を始奉て、二十餘箇所、佛寺は東 大寺、興福寺、已下十六箇所に御誦經あり。御誦經の御使は、宮の侍の中に、有官の輩是を勤む。平紋の狩衣に帶劔したる者共が、色々の御誦經物、御劍御衣を 持續いて、東の臺より南庭を渡て、西の中門に出づ。目出たかりし見物なり。
小松大臣は例の善惡に噪がぬ人にて坐ければ、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將以下公達の車共遣續させ、色々の 御衣四十領、銀劔七つ、廣蓋に置せ、御馬十二匹引せて參り給。寛弘に上東門院御産の時、御堂殿御馬を參せられし其例とぞ聞えし。此大臣は中宮の御兄にて坐 ける上、父子の御契なれば、御馬參せ給ふも理なり。五條の大納言國綱卿、御馬二匹進ぜらる。志の至か、徳の餘かとぞ人申ける。猶伊勢より始て、安藝の嚴島 に至まで、七十餘箇所へ神馬を立らる。内裏にも寮の御馬に四手附て、數十匹引立たり。仁和寺御室は、孔雀經の法、天台座主覺快法親王は、七佛藥師の法、寺 の長吏圓慶法親王は、金剛童子の法、其外五大虚空藏、六觀音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで、殘所なう修せられけり。護摩 の煙御所中にみち、鈴の音雲を響し、修法の聲身の毛堅て、如何なる 御物のけなり共、面をむかふべしとも見えざりけり。猶佛所の法印に仰て、御身等身の藥師竝に五大尊の像を作り始らる。
かゝりしか共、中宮は隙なく頻らせ給ふばかりにて、御産も頓に成遣ず。入道相國、二位殿、胸に手を置て、こはいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申し けれども、唯ともかくも好樣にとぞ宣ける。さり共「軍の陣ならば、是程淨海は臆せじ物を。」とぞ後には仰られける。御驗者は、房覺性運兩僧正、春堯法印、 豪禪、實專兩僧都、各僧伽の句どもあげ、本寺本山の三寶、年來所持の本尊達、責ふせ々々々もまれけり。誠にさこそはと覺えて尊かりける中に法皇は、折しも 新熊野へ御幸なるべきにて、御精進の次なりける間、錦帳近く御座有て、千手經を打上遊されけるにこそ、今一際事替て、さしも躍狂ふ御よりまし共が縛も、暫 打靜けれ。法皇仰なりけるは、「如何なる御物氣なり共、此老法師がかくて候はんには、爭か近附奉るべき。就中に今現るる所の怨靈共は、皆我朝恩によて、人 と成し者共ぞかし。縱報謝の心をこそ存ぜず共、豈障碍を成すべきや。速に罷退き候へ。」とて女人生産し難からん時に臨で、邪魔遮障し、苦忍難からんにも、 心を致して大悲呪を稱誦せば、鬼神退散して、安樂に生ぜんと遊いて、皆水精の御數珠を推揉せ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそ坐けれ。
頭中將重衡卿、其時は未中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと出て、御産平安、皇子御誕生候ぞや。」と、高らかに申されければ、法皇を始參せて、關白殿以下の大臣、公卿、殿 上人、各の助修、數輩の御驗者、陰陽頭、典藥頭、惣て堂上堂下、一同にあと悦あへる聲は、門外までどよみて、暫は 靜りやらざりけり。入道餘りの嬉さに、聲をあげてぞ泣ける。悦泣とは是を云べきにや。小松殿、中宮の御方に參せ給て、金錢九十九文、皇子の御枕に置き、 「天を以て父とし、地を以て母と定め給へ。御命は方士東方朔が齡を保ち、御心には天照大神入替らせ給へ。」とて、桑の弓蓬の矢を以て、天地四方を射させら る。
公卿揃
御乳には前右大將宗盛卿の北方と定められたりしが、去七月に難産をして失給しかば、御乳母平大納言時忠卿の北方、御乳に參せ給ひけり。後には帥典侍 とぞ申ける。法皇軈て還御の御車を、門前に立られたり。入道相國嬉さの餘りに、砂金千兩、富士の綿二千兩、法皇へ進上せらる。然るべからずとぞ人人内々 ささやきあはれける。
今度の御産に笑止數多あり。先法皇の御驗者、次に后御産の時御殿の棟より甑を轉かす事あり。皇子御誕生には南へ落し、皇女誕生には北へ落すを、是は 北へ落したりければ、こは如何にと噪がれて取上て落なほしたりけれ共、惡き御事に人人申あへり。をかしかりしは入道相國のあきれ樣、目出たかりしは小松大 臣の振舞、本意なかりしは前右大將宗盛卿の、最愛の北方に後れ奉て、大納言大將兩職を辭して籠居せられし事、兄弟共に出仕あらば、如何に目出たからん。次 に七人の陰陽師を召されて、千度の御祓仕るに、其中に、掃部頭時晴と云ふ 老者有り。所從なども乏少なりけり。餘に人多く參つどひて、たかんなをこみ、稻麻竹葦の如し。「役人ぞ、あけられよ。」と て、押分々々參る程に、右の沓を踏拔れて、そこにて些立休ふが、冠をさへ突落されぬ。さばかりの砌に、束帶正しき老者が、髻放てねり出たりければ、若き殿 上人こらへずして、一度にどと笑ひあへり。陰陽師など云は、返陪とて足をもあだにふまずとこそ承れ。其に懸る不思議の有けるを、其時は何共覺えざりしか 共、後こそ思合する事共も多かりけれ。御産によて、六波羅へ參らせ給ふ人々、關白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左 大將實定、源大納言定房、三條大納言實房、五條大納言國綱、藤大納言實國、按察使資方、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、權中納言實 綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衞門督時忠、別當忠親、左宰相中將實家、右宰相中將實宗、新宰相中將通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀川宰相頼定、 左大辨宰相長方、右大辨三位俊經、左兵衞督重教、右兵衞督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、太宰大貳親宣、新三位實清、以上三十三人、右大辨の外は 直衣なり。不參の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿、已下十餘人、後日に布衣著して、入道相國の西八條の邸へ向はれけるとぞ聞えし。
大塔建立
御修法の結願には、勸賞共行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべし。並に後七日の御修 法、大元の法、灌頂興行せらるべき由仰下さる。御弟子覺誓僧都、法印に擧せらる。座主の宮は、二品竝に牛車の宣旨を申させ 給ふ。仁和寺の御室さゝへ申させ給ふによて、法眼圓良、法印に成さる。其外の勸賞共毛擧に遑あらずとぞ聞えし。中宮は日數經にければ、六波羅より内裏へ參 せ給ひけり。此御娘、后に立せ給しかば、入道相國夫婦共に、「哀れ、如何にもして皇子御誕生あれかし。位に即奉て、外祖父、外祖母と仰れん。」と願ける。 我が崇奉る安藝の嚴島に申さんとて、月詣を始て、祈り申されければ、中宮やがて、御懷姙有て、思ひのごとく皇子にて坐けるこそ目出度けれ。
抑平家安藝の嚴島を信じ始られける事は如何にと云に、鳥羽院の御宇に清盛公未安藝守たりし時、安藝國を以 て、高野の大塔を修理せよとて、渡邊遠藤六郎頼方を雜掌に附られ、六年に修理畢ぬ。修理畢て後、清盛高野へ上り、大塔拜み、奧院へ參られたりければ、何く より來る共なき老僧の、眉には霜を垂れ、額に浪を疊み、鹿杖の兩股なるにすがて、出來給へり。稍久しう御物語せさせ給ふ。「昔より今にいたる迄此れは密宗 をひかへて退轉なし。天下に又も候はす。大塔既に修理終候たり。さては、安藝の嚴島、越前の氣比の宮は、兩界の垂跡で候が、氣比の宮は榮たれ共、嚴島はな きが如くに荒果て候。此次に、奏聞して修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は肩を竝ぶる人、有まじきぞ。」とて立れけり。此老僧の居給へる所に異香薫 じたり。人を附て見せ給へば、三町許は見給て其後は掻消すやうに失せ給ぬ。是唯人には非ず。すなはち大師にて坐けりと、彌々尊く思召し、娑婆世界の思出に とて、高 野の金堂に曼陀羅を書かれけるが、西曼陀羅をば、常明法印といふ繪師に書せらる。東曼陀羅をば、清盛書んとて、自筆にかゝれけるが、何とかおもはれけん、八葉の中尊の寶冠をば我首の血を出いて、書かれけるとぞ聞えし。
さて都へ上り、院參して、此由奏聞せられければ、君もなのめならず御感有り。猶任を延られて、嚴島を修理せらる。鳥居を立替へ、社々を造りかへ、百 八十間の廻廊をぞ造られける。修理畢て、清盛嚴島へ參り、通夜せられたりける夢に、御寶殿の内より、鬟結たる天童の出て、「是は大明神の御使なり。汝此劔 を以て一天四海をしづめ、朝家の御まもりたるべし。」とて、銀の蛭卷したる小長刀を賜ると云夢を見て、覺て後見給へば。現に枕上にぞ立たりける。大明神御 託宣有て、「汝知れりや忘れりや、或聖を以て言せし事は。但惡行有らば、子孫迄は叶ふまじきぞ。」とて、大明神あがらせ給ぬ。目出度かりし御事なり。
頼豪
白河院御在位の御時、京極大殿の御娘の后に立せ給て、賢子の中宮とて、御最愛有けり。主上此御腹に、皇子御誕生あらまほしう思召、其比、有驗の僧と 聞えし三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ、御願成就せば、勸賞はこふによるべし。」とぞ仰ける。「安う候」とて三井寺に歸 り、百日肝膽を摧て祈申されければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承保元年十二月十六日。御産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず御感有て 三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝が所望の事は如何に。」と仰下されければ、三井寺に戒壇建立の事を奏す。主上「是こそ存の 外の所望なれ。一階僧正などをも申べきかとこそ思召つれ。凡は皇子御誕生有て、皇祚を繼しめん事も、海内無爲を思ふ爲なり。今汝が所望達せば、山門憤て、 世上も靜なるべからず。兩門合戰して、天台の佛法亡なんず」とて、御許されも無りけり。
頼豪口惜い事なりとて、三井寺に歸て、干死にせんとす。主上大に驚かせ給て、江帥匡房卿其比は未美作守と聞えしを召て、「汝は頼豪と師檀の契有な り。行いて拵て見よ。」と仰ければ、美作守綸言を蒙て、頼豪阿闍梨が宿坊に行向ひ、勅定の趣を仰含んとするに、以の外にふすぼたる持佛堂に立籠て、怖氣な る聲して、「天子には戯の言なし、綸言汗の如しとこそ承れ。是程の所望叶はざらんに於ては、我祈出したる皇子なれば、取奉て魔道へこそ行んずらめ。」と て、遂に對面も爲ざりけり。美作守歸り參て、此由を奏聞す。頼豪は軈て干死に死けり。君如何せんずると叡慮を驚させおはします。皇子やがて御惱附せ給て、 樣々の御祈共有しかども、叶ふべし共見えさせ給はず。白髮なりける老僧の、錫杖を以て、皇子の御枕に彳み、人々の夢にも見え、幻にも立けり。怖なども愚 也。
去程に承暦元年八月六日、皇子御年四歳にて遂に隱させ給ぬ。敦文の親王是也。主上斜ならず御歎有けり。山門に又西京の座主、良信大僧正、其比は圓融坊の僧都とて有驗僧と聞えしを内裏へ召て、「こは如何せんずる。」と仰ければ、「何も、吾山の力にてこそか樣の御願は成就 する事で候へ。九條右丞相、慈慧大僧正に契申させ給しに依てこそ、冷泉院の皇子御誕生は候しか。安い程の御事 候。」とて、比叡山に歸り上り、山王大師に、百日肝膽を摧て祈申ければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承暦三年七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。 堀川の天皇是なり。怨靈は昔もかく怖しかりし事也。今度さしも目出度き御産に、非常の大赦行はれたりといへ共、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけ れ。
同十二月八日。皇子東宮に立せ給ふ。傅には、小松内大臣、大夫には池中納言頼盛卿とぞ聞えし。
少將都歸
明れば治承三年正月下旬に丹波少將成經、肥前國鹿瀬庄を立て、都へと急がれけれ共餘寒猶烈しく、海上も痛く荒ければ、浦傅島傅して、きさらぎ十日比 にぞ、備前の兒島に著給ふ。其より父大納言殿の住給ける處を尋いりて見給ふに、竹の柱、舊たる障子なんどに書置れたる筆のすさびを見給て、「人の形見には 手跡に過たる物ぞなき。書置給はすば、爭か是を見るべき。」とて、康頼入道と二人、讀では泣き、泣いては讀む。「安元三年七月廿日出家、同廿六日、信俊下 向。」とも書かれたり。さてこそ源左衞門尉信俊が參りたりけるも知れけれ。そばなる壁には、「三尊來迎便有り、九品往生疑なし。」とも書かれたり。此形見 を見給てこそ、「さすが欣求淨土の望も御座けり。」と、限なき歎の中にも、聊頼しげには宣けれ。
其墓を尋て見給へば、松の一村ある中に、甲斐々々しう壇を築たる事もなし。土の少し高き所に少將袖掻合せ、生たる人に申樣 に、泣々申されけるは、「遠き御守と成せ御座して候事をば、島にて幽に傳へ承しか共、心に任せぬ憂世なれば、急ぎ參る事も候はず。成經彼島へ流れて露の命 の消やらずして、二年を送て、召還さるる嬉さは、さる事にて候へ共、此世に渡せ給ふを見參て候はばこそ、命の長きかひもあらめ。是までは急がれつれ共、今 日より後は、急ぐべし共覺えずと、掻口説てぞ泣かれける。誠に存生の時ならば、大納言入道殿こそ、如何に共宣ふべきに、生を隔たる習程、恨めしかりける物 はなし。苔の下には誰か答ふべき。唯嵐に騒ぐ松の響計也。
其後はよもすがら康頼入道と二人、墓の廻を行道して念佛申し、明ぬれば新う壇築き、釘貫せさせ、前に假屋作り、七日七夜、念佛申し經書て結願には大 なる卒塔婆を立て、「過去聖靈出離生死、證大菩提」と書て、年號月日の下に、「孝子成經」と書かれたれば、賤山賤の心無も、子に過たる寶はなしとて、涙を 流し、袖を絞ぬは無りけり。年去年來れ共、忘難きは撫育の昔の恩。夢の如く幻の如し。盡難きは戀慕の今の涙なり。三世十方の佛陀の聖衆も憐み給ひ、亡魂尊 靈も、如何に嬉しと覺しけん。「今暫候て、念佛の功をも積べう候へ共、都に待つ人共も心元なう候らん。又こそ參候は。」とて、亡者に暇申つゝ、泣々そこを ぞ立れける。草陰にても名殘惜うや思はれけん。
三月十六日少將殿鳥羽へあかうぞ著給ふ。故大納言殿の山庄、洲濱殿とて鳥羽に在り。住荒 して年經にければ、築地は有共覆もなく、門は有共扉もなし。庭に立入り見給へば、人跡絶て苔深し。池の邊を見まは せば、秋の山の春風に、白浪頻に折懸て紫鴛白鴎逍遙す。興ぜし人の戀さに、盡ぬ物は涙也。家はあれ共、欄門破れ、蔀遣戸も絶てなし。「爰には大納言殿のと こそ坐しか、此妻戸をばかうこそ出入給しか、あの木をば、自らこそ植給しか。」など言ひて、言の葉に附て、父の事を戀しげにこそ宣ひけれ。彌生中の六日な れば、花は未名殘あり。楊梅桃李の梢こそ、折知顏に色々なれ。昔の主はなけれ共、春を忘れぬ花なれや。少將花の下に立寄て、
桃李不言春幾暮、煙霞無跡昔誰栖。
故郷の花の言ふ世なりせば、如何に昔の事を問まし。
此古き詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も折節哀に覺えて、墨染の袖をぞ濕しける。暮る程とは待れけれ共、餘 に名殘惜くて、夜更る迄こそ坐けれ。更行まゝに、荒たる宿の習とて、古き軒の板間よりもる月影ぞ隈もなき。鷄籠の山明なんとすれ共、家路は更に急がれず。 さてしも有べき事ならねば、迎に乘物ども遣て、待らんも心なしとて、泣々洲濱殿を出つゝ、都へ歸り入給けん人々の心の中共、さこそは哀にも嬉しうも有け め。康頼入道が迎にも乘物有けれ共其には乘らで、「今更名殘の惜に。」とて、少將の車の尻に乘て、七條河原までは行く。其より行別れけるに、猶行もやらざ りけり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よて、別るゝ名殘も惜きぞかし。況や是は憂かりし島の栖、 船の中、浪の上、一業所感の身なれば、前世の芳縁も不淺や思ひしられけん。
少將は舅平宰相の宿所へ立入給ふ。少將の母上は、靈山に坐けるが、昨日より宰相の宿所に坐て待れけり。少將の立入給ふ姿を一目見て、「命あれば」と 計ぞのたまひける。引被てぞ臥給ふ。宰相の内の女房侍共さしつどひて、皆悦び泣共しけり。増て少將の北の方、乳母の六條が心の中、さこそは嬉しかりけめ。 六條は盡せぬ物思ひに黒かりし髮も皆白く成り、北の方、さしも花やかにうつくしう坐しか共、いつしか痩衰へて、其人とも見え給はず。少將の流され給し時、 三歳にて別給し稚き人、長う成て髮結ふ程也。又其傍に三つ計なる少き人の坐けるを、少將「あれは如何に。」と宣へば、六條「是こそ」とばかり申て、袖を顏 におし當て、涙を流しけるにこそ、「さては下りし時、心苦げなる有樣を見置しが、事故なく育けるよ。」と思出ても悲かりけり。少將は本の如く院に召仕はれ て、宰相中將にあがり給ふ。
康頼入道は、東山雙林寺に、我山庄の有ければ、其に落著て、先思續けけり。
故郷の軒の板間に苔むして、思し程は洩ぬ月かな。
軈てそこに籠居して、憂かりし昔を髮思續け、寶物集と云ふ物語を書けけるとぞ聞えし。
有王
去程に鬼界島へ三人流されたりし流人二人は召還され都へ上りぬ。俊寛僧都一人、憂かりし島の島守と成にけるこそうたてけれ。僧都の、少うより不便にして召仕はれける童あり。名 をば有王とぞ申ける。鬼界島の流人、今日既に京都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行向うて見けれ共、我主は見え給はず。「如何 に」と問へば、「其は猶罪深しとて、島に殘され給ぬ。」と聞て、心憂なども愚也。常は六波羅邊にたゝずみありいて聞けれども、赦免有るべし共聞出ず。僧都 の御娘の忍びて坐ける所へ參て、「此せにも洩させ給て、御上りも候はず。如何にもして彼島へ渡て、御行へを尋參らせんとこそ思立て候へ。御文賜はらん。」 と申ければ、泣々書て賜だりけり。暇を請共、よも赦さじとて、父にも母にも知せず。唐船の纜は、卯月五月にも解なれば、夏衣立を遲くや思けん。三月の末に 都を出て、多くの波路を凌つゝ、薩摩潟へぞ下りける。薩摩より彼島へ渡る船津にて、人怪み、著たる物を剥取などしけれ共、少しも後悔せず、姫御前の御文計 ぞ人に見せじとて、髻結の中に隱したり。さて商人船に乘て件の島へ渡て見に、都にて幽に傳聞しは、事の數にもあらず。田もなし。畑もなし。村もなし。里も なし。自ら人は有共、言ふ詞も聞知らず。若しか樣の者共の中に我が主の行末知たる者や在んと、「物申さう」と言ば、「何事」と答ふ。「是に都より流され給 し法勝寺執行御房と申す人の、御行末や知たる。」と問に、法勝寺とも執行とも、知たらばこそ返事もせめ。唯頭を掉て「知ず」と言ふ。其中に或者が心得て、 「いさとよ、左樣の人は三人是に有しが、二人は召還されて都へ上りぬ。今一人は殘されて、あそこ此に惑ひ歩けども、行方も知らず。」とぞ言ひける。山の方 の覺束なさに、遙に分入り、嶺に攀、谷に下れ共、白雲跡を埋んで、往來の道もさだかならず、晴嵐夢を破て其面影も見ざりけり。山にては終に尋も逢はず、海 の邊に著て尋るに、沙頭に印を 刻む鴎、澳の白洲に集く濱千鳥の外は、跡問ふ者も無りけり。
或朝磯の方より、蜻蛉などの樣に痩衰たる者一人よろぼひ出來り。本は法師にて有けりと覺て、髮は虚樣へ生あ がり、萬の藻屑取附て、荊を戴たるが如し。節見れて皮ゆたひ、身に著たる物は絹、布の分も見えず。片手には荒海布を拾ひ持ち、片手には網人に魚を貰て持 ち、歩む樣にはしけれ共、はかも行かず、よろ/\として出來たり。「都にて多くの乞丐人見しか共、かゝる者をば未見ず、『諸阿修羅等故在大海邊』とて、修 羅の三惡四趣は深山大海の邊に有と、佛の説置給ひたれば、知らず、我餓鬼道に尋來るか。」と思ふほどに、彼も此も次第に歩近づく「若か樣の者も、我主の御 行末知たる事や在ん。」と、「物申さう。」と言ば「何事」と答ふ。「是に都より流され給し法勝寺の執行御房と申す人の御行末や知たる。」と問に、童は見忘 たれ共、僧都は何か忘べきなれば、「是こそ其よ。」と云も敢ず、手に持る物を投捨て、沙の上に倒伏す。さてこそ我主の行末も知てけれ。軈て消入給ふを、膝 の上に掻乘奉り「有王が參て候。多くの浪路を凌て、是迄尋參りたる甲斐もなく、いかに軈て憂目をば見せさせ給ふぞ。」と、泣々申ければ、良在て、少し人心 地出來、扶起されて「誠に汝が是まで尋來たる志の程こそ神妙なれ。明ても暮ても、都の事のみ思ひ居たれば、戀き者共が面影は、夢に見る折も有り、幻に立つ 時も有り。身も痛く疲弱て後は、夢も現も思分かず。されば汝が來れるも唯夢とのみこそ覺れ。若この事夢ならば、覺ての後は如何せん。」有王、「現にて候 也。此有樣にて、今まで御命の延させ給て候こそ。不思議には覺候へ。」と申せば、「さればこそ。去年 少將や判官入道に棄られて後の便無さ、心の中をば只推量るべし。その瀬に身をも投げんとせしを、由なき少將の、 『今一度都の音信をも待かし。』など、慰置しを、愚に若やと頼つゝ、存へんとはせしかども、此島には人の食物絶て無き所なれば、身に力の有し程は、山に上 て硫黄と云ふ物をとり、九國より通ふ商人にあひ、物に換などせしかども、日に副て弱行ば、今は其態もせず。か樣に日の長閑なる時は、磯に出て網人釣人に手 を摺り、膝を屈て、魚を貰ひ、汐干の時は貝を拾ひ、荒海布を取り、磯の苔に露の命を懸てこそ、今日までも存たれ。さらでは憂世を渡よすがをば、如何にしつ らんとか思らん。」僧都、「是にて何事をも言ばやとは思共、いざ我家へ。」と宣へば、此御有樣にても、家を持給へる不思議さよ。」と思て行程に、松の一村 ある中に、より竹を柱とし、蘆を結て、桁梁に渡し、上にも下にも松の葉をひしと取懸たれば、風雨たまるべうも無し。昔は法勝寺の寺務職にて、八十餘箇所の 庄務を司りしかば、棟門平門の内に、四五百人の所從眷屬に圍繞せられてこそ坐せしか。目のあたりかゝる憂目を見給けるこそ不思議なれ。業にさま/\あり。 順現、順生、順後業と云へり。僧都一期の間、身に用る所、皆大伽藍の寺物佛物にあらずと云ふ事なし。去れば彼信施無慚の罪に依て、今生にはや感ぜられけり とぞ見えたりける。
僧都死去
僧都現にて有けりと思定て、「抑去年少將や判官入道が迎にも、是等が文と云ふ事もなし。今 汝が便にも、音信の無きはかう共謂ざりけるか。」有王涙に咽び俯して、暫は物も申さず。良有て起上り、涙を抑へて申ける は、「君の西八條へ出させ給しかば、やがて追捕の官人參て、御内の人々搦取り、御謀反の次第を尋て、失果て候ぬ。北方は少き人を隱しかねまゐらせ給ひて、 鞍馬の奧に忍ばせ給て候しに、此童計こそ時々參て宮仕つかまつり候しが、何も御歎の愚なる事は候はざりしかども、稚き人は、餘に戀參させ給て、參り候度毎 に、『有王よ、鬼界が島とかやへ我具して參れ。』とむづからせ給候しが、過候し二月に、もがさと申す事に失させ給ぬ。北方は其歎と申し是の御事と申し、一 方ならぬ御思に沈ませ給ひ、日に添へて弱らせ給候しが、同三月二日の日遂にはかなく成せ給ぬ。今は姫御前ばかり、奈良の姨御前の御許に御渡り候。是に御文 賜はて候。」とて取出いて奉る。開て見給へば、有王が申にたがはず書れたり。奧には、「などや三人流されたる人の、二人は召還されて候に、今迄御上り候は ぬぞ。哀高きも卑きも、女の身ばかり心うかりける物はなし。男の身にて候はば、渡せ給ふ島へも、などか尋ね參らで候ふべき。此有王御伴にて、急ぎ上せ給 へ。」とぞ書かれたる。「是見よ、有王。此子が文の書樣のはかなさよ。己を伴にて、急ぎ上れと書たるこそ恨しけれ。心に任せたる俊寛が身ならば、何とてか 三年の春秋をば送るべき。今年は十二に成とこそ思に、是程はかなくては、人にも見え、宮仕をもして、身をも扶くべきか。」とて泣れけるにこそ、人の親の心 は闇にあらね共、子を思ふ道に迷ふ程も知れけれ。「此島へ流されて後は、暦も無れば月日の換り行をも知らず、唯自ら花の散り、葉の落るを見て、春秋を辨 へ、蝉の聲麥秋 を送れば夏と思ひ、雪の積を冬と知る。白月黒月の變行を見ては、三十日を辨へ、指を折て數れば、今年は六に成と思 つる稚き者も早先立けるごさんなれ。西八條へ出し時、此子が我も行うと慕しを、軈て歸うずるぞと拵へ置しが、今の樣に覺るぞや。其を限と思はましかば、今 暫もなどか見ざらん。親と成り、子と成り、夫婦の縁を結も、皆此世一に限ぬ契ぞかし。などさらば、其等が左樣に先立けるを、今迄夢幻にも知せざりけるぞ。 人目も愧ず如何にもして、命生うと思しも、是等を今一度見ばやと思ふ爲也。姫が事計こそ心苦けれ共、其も生身なれば、歎ながらも過んずらん。さのみ存て、 己に憂目を見せんも我身ながらも強顏かるべし。」とて、自らの食事を止め、偏に彌陀の名號を唱へて、臨終正念をぞ祈られける。有王渡て廿三日と云に、其庵 の内にて遂に終り給ぬ。歳三十七とぞ聞えし。有王空き姿に取附き、天に仰ぎ地に俯し、泣悲め共かひぞなき。心の行程泣あきて、「軈て後世の御供仕るべう候 へども、此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ。後世弔ひまゐらすべき人も候はず。暫存て、弔ひ參せ候はんとて、臥戸を改めず、庵を切懸け、松の枯枝、蘆の枯 葉を取掩ひ、藻鹽の煙と成し奉り、荼毘事終にければ、白骨を拾ひ、頸に懸け、又商人船の便に、九國の地へぞ著にける。
僧都の御女の座ける處に參て、有し樣初より細々と語申す。「中々文を御覽じてこそ、いとゞ御思は勝せ給て候ひしか。硯も紙も候はねば、御返事にも及ばず。思召され候し御心の中、さながら空て止候にき。今は生々世々を送り、他生曠劫を隔つ共、爭か御聲をも聞き、御姿 をも見參せ給べき。」と申ければ、伏轉び聲も惜ず泣かれけり。軈て十二の歳尼になり、奈良の法華寺に行澄て、父母 の後世を弔ひ給ぞ哀なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ登り、奧の院に納つゝ、蓮華谷にて法師になり、諸國七道修行して、主の後世をぞ弔ける。 か樣に人の思歎の積ぬる平家の末こそ怖しけれ。
つぢかぜ
同五月十二日午刻ばかり、京中には辻風おびたゞしう吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門京極より起て、未申の方へ吹て行に、棟門平門を吹拔きて、四五 町十町吹もて行き、桁長押柱などは虚空に散在す。檜皮、葺板の類、冬の木の葉の風に亂るが如し。おひたゞしう鳴どよむ音は、彼地獄の業風なり共、是には過 じとぞ見えし。唯舎屋の破損する耳ならず、命を失ふ人も多し。牛馬の類數を盡して打殺さる。是たゝ事に非ず。御占有るべしとて、神祇官にして御占有り。 「今百日の中に、祿を重ずる大臣の愼、別しては天下の大事、幵に佛法王法共に傾きて、兵革相續すべし。」とぞ、神祇官陰陽寮ともに占ひ申ける。
醫師問答
小松大臣、か樣の事共を聞給て、萬心細うや思はれけん。其比熊野參詣の事有けり。本宮證誠殿の御前にて、終夜敬白せられけるは、「親父入道相國の體を見るに、惡逆無道にして、 動すれば君を惱し奉る。重盛長子として、頻に諫をいたすと云へども、身不肖の間、彼以て服膺せず。其振舞を見るに一期の榮 華猶危し。枝葉連續して、親を現し名を揚ん事難し。此時に當て、重盛苟うも思へり。憖に列して、世に浮沈せん事、敢て良臣孝子の法に非ず。しかじ、名を遁 れ身を退て、今生の名望を投捨て、來世の菩提を求んには。但凡夫薄地、是非に惑るが故に、猶志を恣にせず。南無權現金剛童子、願くは子孫榮絶えずして、仕 て朝廷に交はるべくば、入道の惡心を和て、天下の安全を得しめ給へ。榮耀又一期を限て、後昆耻に及ぶべくば、重盛が運命をつゞめて、來世の苦輪を助け給 へ。兩箇の求願、偏に冥助を仰ぐ。」と、肝膽を摧て祈念せられけるに、燈籠の火の樣なる物の、大臣の御身より出て、はと消るが如くして失にけり。人數多見 奉りけれども、恐れて是を申さず。
又下向の時、岩田河を渡られけるに、嫡子權亮少將維盛已下の公達、淨衣の下に薄色の衣を著て、夏の事なれば、何となう河の水に戯れ給ふ程に、淨衣の ぬれて衣に移たるが、偏に色の如くに見ければ、筑後守貞能是を見咎て、「何と候やらん、あの御淨衣の世に忌はしきやうに見させ座し候。召替らるべうや候ら ん。」と申されければ、大臣「我所願既に成就しにけり。其淨衣敢て改むべからず。」とて、別して岩田河より、熊野へ悦の奉幣をぞ立られける。人怪しと思ひ けれ共、其心を得ず。然に此公達、程なく、誠の色を著給けるこそ不思議なれ。
下向の後幾くの日數を經ずして、病附給ふ。權現既に御納受あるにこそとて、療治もしたまはず。祈祷をも致されず。其比宋朝より勝たる名醫渡て、本朝にやすらふ事あり。境節入道 相國、福原の別業に座けるが、越中守盛俊を使で、小松殿へ仰られけるは、「所勞彌大事なる由、其聞え有り。兼ては 又宋朝より勝たる名醫渡れり。境節悦とす。是を召請じて醫療を加しめ給へ。」と、宣遣はされたりければ、小松殿扶起され、盛俊を御前へ召て「先醫療の事、 畏て承候ぬと申べし。但汝も承れ。延喜の御門は、さばかの賢王にて渡せまし/\けれ共、異國の相人を都の内へ入させ給たりけるをば、末代迄も賢王の御誤、 本朝の耻とこそ見えたれ。況や重盛程の凡人が、異國の醫師を王城へ入ん事、國の耻に非ずや。漢高祖は、三尺の劔を提て天下を治しかども、淮南の黥布を討し 時、流矢に當て疵を蒙る。后呂太后、良醫を迎て見せしむるに、醫の曰く『此疵治しつべし。但五十斤の金を與へば治せん。』と云ふ。高祖のたまはく、『我守 の強かし程は、多くの鬪に逢て疵を蒙りしか共、其痛無し。運既に盡ぬ。命は則天に在り。縱ひ扁鵲といふとも、何の益か有ん。然ば又金を惜に似たり。』と て、五十斤の金を醫師に與へながら遂に治せざりき。先言耳に在り、今以て甘心す。重盛苟も九卿に列し、三台に昇る。その運命を計るに、もて天心に在り。何 ぞ天心を察せずして、愚に醫療を痛はしうせむや。若定業たらば醫療を加ふ共益無からんか。又非業たらば、療治をくはへず共、助る事を得べし。彼耆婆が醫術 及ばずして、大覺世尊、滅度を跋提河の邊に唱ふ。是即定業の病、 いやさざる事を示さんが爲也。定業猶醫療に拘るべう候はば、釋尊豈入滅あらんや。定業又治するに堪ざる旨明し。治するは佛體也。療するは耆婆也。然れば重盛が身佛體に非ず。名醫又耆婆に及べからず。縱四部の書を鑑て、百療に長ずといふ共、爭で有待の穢 身を求療せんや。縱五經の説を詳にして、衆病をいやすと云共、豈前世の業病を治せんや。若かの醫術に依て存命せ ば、本朝の醫道無に似たり。醫術効驗なくんば、面謁所詮なし。就中に本朝鼎臣の外相を以て、異朝浮遊の來客に見ん事、且は國の耻、且は道の陵遲也。縱重盛 命は亡ずといふ共、爭か國の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由を申せ。」とこそ宣ひけれ。
盛俊福原に歸りまゐて、此由泣々申ければ、入道相國、「是程國の恥を思ふ大臣上古にも未聞かず、増て末代に有べし共覺えず。日本に相應せぬ大臣なれば、如何樣にも今度失なんず。」とて、泣く/\急ぎ都へ上られけり。
同七月廿八日小松殿出家し給ぬ。法名は淨蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終正念に住して遂に失給ぬ。御歳四十三、世は盛とこそ見えつるに、哀なりし事共也。
入道相國の、さしも横紙をやられつるも、此人のなほし宥られつればこそ、世も穩かりつれ。此後天下に如何なる事か出來んずらむとて、京中の上下歎合 へり。前右大將宗盛卿の方樣の人は、世は唯今大將殿へ參りなんずとぞ悦ける。人の親の子を思ふ習は、愚なるが先立だにも悲きぞかし。況や是は當家の棟梁當 世の賢人にておはしければ、恩愛の別、家の衰微、悲でも猶餘有り。去ば世には良臣を失へる事を歎き、家には武略の廢ぬる事を悲む。凡は此大臣文章麗うし て、心に忠を存し、才藝勝て、詞に徳を兼給へり。
無文
天性此大臣は、不思議の人にて、未來の事をも兼て悟給けるにや、去四月七日の夢に、見給ける事こそ不思議なれ。譬ば、何く 共知らぬ濱路を遙々と歩行給ふ程に、道の傍に大なる鳥居有けるを、「あれは如何なる鳥居やらん。」と問給へば、「春日大明神の御鳥居なり。」と申。人多く 群集したり。其中に、法師の頭を一つ指擧たり。「さてあのくびは如何に。」と問給へば、是は平家太政入道殿の御頭を惡行超過し給へるに依て、當社大明神の 召取せ給て候。」と申と覺えて、夢打覺ぬ。當家は保元平治より以降、度々の朝敵を平げて、勸賞身に餘り、忝く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘 人。二十餘年の以降は、樂榮え申計も無りつるに、入道の惡行超過せるに依て、一門の運命既に盡んずるにこそと、こし方行末の事共思召續けて、御涙に咽ばせ 給ふ。
折節妻戸をほと/\と打敲く。「誰そ。あれ聞。」と宣へば、「瀬尾太郎兼康が參て候。」と申。「如何に、何事ぞ。」とのたまへば、「只今、不思議の 事候て、夜の明候はんが遲う覺え候間、申さんが爲に參て候。御前の人を除られ候へ。」と申ければ、大臣人を遙に除て對面あり。さて兼康が見たりける夢の樣 を始より終まで委しう語り申けるが、大臣の御覽じたりける御夢に少しも違はず。さてこそ瀬尾太郎兼康をば、神にも通じたる者にてありけりと大臣も感じ給ひ けれ。
その朝嫡子權亮少將維盛院の御所へ參んとて出させ給たりけるを、大臣呼奉て、「人の親の身としてか樣の事を申せば、きはめてをこがましけれ共、御邊の人は子共の中には勝て見え給 ふ也。但此世の中の在樣いかゞあらむずらんと心細うこそ覺ゆれ。貞能は無いか、少將に酒進めよ。」と宣へば、貞能 御酌に參りたり。「此盞をば先づ少將にこそ取せたけれ共、親より先にはよも飲給はじなれば、重盛まづ取擧げて少將にさゝん。」とて、三度受て、少將にぞ差 されける。少將又三度うけ給ふ時、「如何に貞能引出物せよ。」と宣へば、畏て承り、錦の袋に入たる御太刀を取出す。「あはれ是は家に傳はれる小烏と云ふ太 刀やらん。」など、世に嬉氣に思ひて見給ふ處に、さはなくして、大臣葬の時用る無文の太刀にてぞ有ける。其時少將氣色はとかはて世に忌はしげに見給けれ ば、大臣涙をはら/\と流いて、「如何に少將其は貞能が咎にも非ず。其故は如何にと云に、此太刀は大臣葬の時用る無文の太刀也。入道如何にもおはせん時、 重盛が帶て供せんとて持たりつれ共、今は重盛、入道殿に先立奉んずれば、御邊に奉るなり。」とぞ宣ける。少將之を聞給てとかうの返事にも及ばず。涙に咽び うつぶして、其日は出仕もし給はず、引かづきてぞ伏渡ふ。其後大臣熊野へ詣り下向して病つき、幾程もなくして遂に失給けるにこそ、實にもと思知られけれ。
燈籠之沙汰
すべて此大臣は、滅罪生善の御志深う坐ければ、當來の浮沈を歎いて東山の麓に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎を建て、一間に一つづゝ、四十八間に四十八の燈籠を掛られければ、九品の臺目の前に輝き、光耀鸞鏡を琢て、淨土の砌に臨めるが如し。毎月十 四日十五日を點じて、當家他家の人々の御方より、みめよく若う盛なる女房達を多く請じ聚め、一間に六人づつ、四十八間に二 百八十八人、時衆に定て、彼兩日が間は、一心稱名聲斷ず、誠に來迎引攝の悲願も、此所に影向を垂れ、攝取不捨の光も、此大臣を照し給ふかとぞ見えし。十五 日の日中を結願として、大念佛有しに、大臣自ら彼の行道の中に交て、西方に向ひ、「南無安養世界教主 彌陀善逝、三界六道の衆生を普く濟度し給へ。」と、 迴向發願せられければ、見る人慈悲を起し、聞く者感涙を催けり。かかりしかば此大臣をば燈籠大臣とぞ人申ける。
金渡
又大臣吾朝には如何なる大善根をし置たり共、子孫相續で、弔ん事有がたし。他國に如何なる善根をもして、後世をとぶらはればやと、安元の比ほひ、鎭 西より妙典と云ふ船頭をめし上せ、人を遙に除て對面有り。金を三千五百兩召寄て、「汝は大正直の者であんなれば、五百兩をば汝に給ぶ。三千兩をば宋朝へ渡 し、育王山へ參せて、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、田代を育王山へ申寄て、我が後世弔はせよ。」とぞ宣ひける。妙典是を賜て、萬里の煙浪を凌 つゝ、大宋國へぞ渡りける。育王山の方丈、佛照禪師徳光に逢奉り、此由申たりければ、隨喜感嘆して、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、大臣の申され ける旨を具に奏聞せられたりければ、御門大に感じ思召て、五百町の田代を育王山へぞ寄られける。さ れば日本の大臣、平朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今に斷ずとぞ承る。
法印問答
入道相國小松殿に後れ給て、萬心細うや思はれけん、福原へ馳下り、閉門してこそ座けれ。同十一月七日の夜戌刻許、大地おびたゞしう動て良久し。陰陽 頭安倍泰親、急ぎ内裏へ馳參て、「今夜の地震、占文の指す所其愼輕からず。當道三經の中に、坤儀經の説を見候に、『年を得ては年を出ず、月を得ては月を出 ず、日を得ては日を出ず。』と見えて候。以の外に火急候。」とて、はらはらとぞ泣ける。傳奏の人も色を失ひ、君も叡慮を驚せ坐ます。若き公卿殿上人は「怪 からぬ泰親が今の泣樣や、何事の有るべき。」とて、笑合れけり。され共此泰親は、晴明五代の苗裔を請て、天文は淵源を窮め、推條掌を指が如し。一事も違は ざりければ、指神子とぞ申ける。雷の落懸りたりしか共、雷火の爲に、狩衣の袖は燒ながら、其身は恙も無りけり。上代にも末代にも、有がたかりし泰親なり。
同十四日、相國禪門此日比福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけん。數千騎の軍兵をたなびいて、都へ入給ふ由聞えしかば、京中何と聞わきたる 事は無れ共、上下怖れおののく。何者の申出したりけるやらん。入道相國朝家を恨み奉べしと披露をなす。關白殿、内内聞召るゝ旨や有けん、急ぎ御參内有て、 「今度相國禪門入洛の事は、ひとへに基房亡すべき結構にて候也。如何なる憂目にか逢べきやらん。」と、奏せさせ給へば、主上大に驚せ給 て、「そこに如何なる目にも逢むは偏にたゞ吾逢にてこそ有んずらめ。」とて、御涙を流させ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は主上攝 録の御計にてこそ有に、こは如何にしつる事共ぞや。天照大神春日大明神の神慮の程も量がたし。
同十五日、入道相國朝家を恨奉るべき事、必定と聞えしかば、法皇大に驚せ給て、故少納言信西の子息靜憲法印 を御使にて、入道相國の許へ遣さる。「近年朝廷靜ならずして、人の心も調らず、世間も落居せぬ樣に成行く事、惣別に附て歎思召せ共、さてそこにあれば、萬 事は頼思召てこそ有に、天下を靜る迄こそ無らめ、嗷々なる體にて、剩へ朝家を恨むべしなど聞召すは、何事ぞ。」と仰遣はさる。靜憲法印御使に西八條の邸へ 向ふ。朝より夕に及ぶ迄待れけれ共、無音なりければ、去ばこそと無益に覺えて、源大夫判官季貞をもて、勅定の趣言入させ、「暇申て。」とて出られければ、 其とき入道、「法印よべ。」とて出られたり。喚かへいて、「やゝ、法印の御房、淨海が申所は僻事か。先内府が身罷候ぬる事、當家の運命を計にも、入道隨分 悲涙を押てこそ罷過候へ。御邊の心にも推察し給へ。保元以後は亂逆打つゞいて、君安い御心も渡せ給はざりしに、入道は唯大方を執行ふ許りでこそ候へ。内府 こそ手を下し身を碎て、度々の逆鱗をば休め參せて候へ。其外臨時の御大事、朝夕の政務、内府程の功臣は有難うこそ候らめ。爰を以て古を憶ふに、唐の太宗は 魏徴に後て、悲の餘に、『昔の殷宗は夢の中に良弼を得、今の朕は覺ての後賢臣を失ふ。』と云ふ碑文を自書て、廟に立てだにこそ悲給けるなれ。我朝にも、間 近く見候し事ぞかし。顯頼民部卿逝去したりしをば、故院 殊に御歎有て、八幡の行幸延引し、御遊無りき。惣て臣下の卒するをば、代代の御門皆御歎ある事でこそ候へ。されば こそ親よりもなつかしう、子よりもむつまじきは君と臣との中とは申事にて候らめ。され共内府が中陰に、八幡の御幸有て御遊有き。御歎の色一事も之を見ず。 縱入道が悲を御憐なく共、などか内府が忠を思召し忘させ給ふべき。縱内府が忠を思召忘させ給ふ共、爭か入道が嘆きを御憐無らん。父子ともに叡慮に背候ぬる 事、今に於て面目を失ふ。是一つ。次に越前國をば、子子孫孫まで、御變改有まじき由、御約束在て給はて候しを、内府に後て後、やがて召され候事は、何の過 怠にて候やらむ。是一つ。次に中納言闕の候し時、二位中將の所望候しを、入道隨分執申しか共、遂に御承引なくして、關白の息を成さるゝ事は如何に。たとひ 入道如何なる非據を申おこなふ共、一度はなどか聞召入れでは候べき。申候はんや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、理運左右に及ばぬ事を、引違させ給ふは、本意な き御計とこそ存候へ。是一つ。次に新大納言成親卿已下、鹿谷に寄合て、謀反の企候し事、全く私の計略に非ず。併君御許容有に依て也。今めかしき申事にて候 へども、七代迄は、此一門をば爭か捨させ給ふべき。其に入道七旬に及で、餘命幾くならぬ一期の内にだにも、動もすれば亡すべき由御計らひあり。申候はん や、子孫相ついで、朝家に召仕れん事有がたし。凡老て子を失ふは、枯木の枝無に異ならず。今は程なき浮世に、心を費ても、何かはせんなれば、いかでも有な んとこそ、思成て候へ。」とて、且は腹立し、且は落涙し給へば、法印怖うも又哀にも覺て、汗水に成り給ぬ。其時は如何なる人も、一言の返事に及がたき事 ぞかし。其上我身も近習の仁也。鹿谷に寄合たりし事を正しう見聞れしかば、其人數とて、只今も召や籠られんずらん と思ふに、龍の鬚を撫で虎の尾を蹈む心地はせられけれども、法印もさる怖い人で、些もさわがず、申されけるは、「誠に度々の御奉公淺からず。一旦恨申させ 坐す旨、其謂候。但官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取ては悉く滿足す。されば功の莫大なる事をも君御感有でこそ候へ。然に近臣事を亂り、君御許容有といふ 事、謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは、俗の常の弊也。小人の浮言を重うして、朝恩の他に異なるに、君を背き參させ給はん事と、冥顯につけ て、其恐すくなからず候。凡天心は蒼々として測難し、叡慮定て此儀でぞ候らん。下として上に逆る事は、豈人臣の禮たらんや。能能御思惟候べし。詮ずる所、 此趣をこそ披露仕候はめ。」とて出られければ、幾等も竝居たる人人、「穴怖し。入道のあれ程怒り給へるに、些も恐れず、返事うちして立るゝ事よ。」とて、 法印を譽ぬ人こそ無かりけれ。
大臣流罪
法印御所へ參て、此由奏聞せられければ、法皇も道理至極して、仰下るゝ方もなし。同十六日入道相國、此日來思立給へる事なれば、關白殿を始奉て、太 政大臣以下の公卿、殿上人、四十三人が官職を停て、追籠らる。關白殿をば、太宰帥に遷て、鎭西へ流し奉る。かゝらん世には、とてもかくても有なんとて、鳥 羽の邊、古川と云ふ所にて、御出家有り。御歳三十 五。禮儀能く知めし、曇なき鏡にて渡せ給ひつる者をとて、世の惜奉る事斜ならず、遠流の人の道にて出家したるをば、約束の國へは遣ぬ事である間、初は日向國と定られたりしか共、御出家の間、備前の國府の邊、井ばさまと云ふ所に留め奉る。
大臣流罪の例は、左大臣蘇我赤兄、右大臣豐成、左大臣魚名、右大臣菅原、左大臣高明公、右大臣藤原伊周公に至る迄、既に六人。され共攝政關白流罪の例は、是始めとぞ承る。
故中殿の御子二位の中將基通は入道の婿にておはしければ、大臣關白になし奉らる。圓融院の御宇、天禄三年十一月一日、一條攝政謙徳公失給しかば、御 弟堀川の關白忠義公、其時は未從二位中納言にてましましけり。其御弟法興院の大入道殿其比は大納言の右大將にておはしける間、忠義公は、御弟に越られ給し か共、今又越返し奉り、内大臣正二位にあがて、内覽の宣旨蒙らせ給ひたりしをこそ、人皆耳目を驚したる御昇進とは申しに、是は其には猶超過せり、非參議二 位中將より大中納言を經ずして、大臣關白になり給ふ事いまだ承り及ばず。普賢寺殿の御事也。上卿の宰相、大外記、大夫史に至る迄、皆あきれたる樣にぞ見え たりける。
太政大臣師長は、つかさを停て、東の方へ流され給ふ。去ぬる保元に父惡左大臣殿の縁座に依て、兄弟四人流罪 せられ給しが、御兄右大將兼長、御弟左中將隆長、範長禪師三人は歸洛を待ず、配所にてうせ給ぬ。是は土佐の畑にて、九囘の春秋を送り迎へ、長寛二年八月に 召還されて、本位に復し、次の年正月正二位して、仁安元年十月に、前中納言より權大納言 に上り給ふ。折節大納言明ざりければ、員の外にぞ加はられける。大納言六人になる事是始也。又前中納言より權大納 言に成る事も、後山階大臣躬守公、宇治大納言隆國卿の外は、未承及ばず。管絃の道に達し、才藝勝れてましましければ、次第の昇進滯らず、太政大臣迄極させ 給て、又如何なる罪の報にや、重て流され給ふらん。保元の昔は、南海土佐へ遷され、治承の今は、又東關尾張國とかや。本より罪無して、配所の月を見んと云 ふ事は、心有際の人の願ふ事なれば、大臣敢て事共し給はず。彼唐太子賓客白樂天、潯陽の江の邊にやすらひ給けん其古を思やり、鳴海潟汐路遙に遠見して、常 は朗月を望み、浦風に嘯き、琵琶を彈じ、和歌を詠じて、等閑がてらに月日を送らせ給けり。或時當國第三の宮熱田明神に參詣あり。其夜神明法樂の爲に、琵琶 ひき朗詠し給ふに、所本より無智の境なれば、情を知れる者なし。邑老、村女、漁人、野叟、頭を低れ、耳を そばだつと云ども、更に清濁を分て、呂律を知る事なし。され共胡巴琴を彈ぜし かば、魚鱗躍迸り、虞公歌を發せしかば、梁塵動き搖く。物の妙を極る時には、自然に感を催す理なれば、諸人身の毛よだて、滿座奇異の思をなす。漸漸深更に 及で、風香調の中には、花芬馥の氣を含み、流泉の曲の間には、月清明の光を爭ふ。願くは今生世俗文字の業、狂言綺語の謬をもてと云ふ朗詠をして、秘曲を彈 給へば、神明感應に堪ずして、寶殿大に震動す。平家の惡行無りせば、今此瑞相を、爭か拜むべきとて、大臣感涙をぞ流されける。
按察大納言資方卿の子息右近衞少將兼讚岐守源資時、二つの官を停らる。參議皇太后宮權大 夫兼右兵衞督藤原光能、大藏卿右京大夫兼伊豫守高階康經、藏人左少辨兼中宮權大進藤原基親、三官共に停めらる。按 察大納言資方卿、子息右近衞少將、孫の右少將雅方、是三人をやがて都の中を追出さるべしとて、上卿には藤大納言實國、博士判官中原範貞に仰せて、やがて其 日都の中を追出さる。大納言宣けるは、「三界廣しといへ共、五尺の身置き所なし。一生程なしといへ共、一日暮難し。」とて、夜中に九重のうちを紛出て、八 重立つ雲の外へぞ赴かれける。彼大江山、生野の道にかゝりつゝ、丹波國村雲と云ふ所にぞ、暫はやすらひ給けるが、其より終には尋出されて、信濃國とぞ聞え し。
行隆之沙汰
前關白松殿の侍に、江大夫判官遠成と云ふ者有り。是も平家心よからざりければ、既に六波羅より押寄て搦捕るべしと聞えし間、子息江左衞門尉家成打具 して、いづちともなく落行きけるが、稻荷山に打上り、馬より下て、父子言合けるは、「是より東國の方へ落くだり、伊豆國の流罪人前兵衞佐頼朝を憑ばやとは 思へ共、其も當時は勅勘の人で、身一つだにも叶難う坐也。日本國に、平家の庄園ならぬ所や有る。とても遁ざらん物故に、年來住馴たる所を人に見せんも恥が ましかるべし。只是より歸て、六波羅より召使有らば、腹掻切て死なんにはしかじ。」とて、河原坂の宿所へとて取て返す。案の如く、六波羅より源大夫判官季 定、攝津判官盛澄、ひた甲三百餘騎、河原坂の宿所へ押寄て、鬨をどとぞ作ける。江大夫判官縁に立出で、 「是御覽ぜよ、おの/\、六波羅では此樣を申させ給へ。」とて、館に火をかけ、父子共に腹かき切り、 ほのほの中にて燒死ぬ。
抑か樣に上下多の人の亡び損ずる事を以何と云に、當時關白に成せ給へる二位中將殿と前の殿の御子三位中將殿と、中納言御相論の故と申す。さらば關白 殿御一所こそ、如何なる御目にも逢せ給はめ、四十餘人迄の人々の、事に逢べしやは。去年讃岐院の御追號と、宇治惡左府贈官贈位在しか共、世間は猶も靜かな らず。凡是にも限まじかんなり。入道相國の心に天魔入かはて腹を居かね給へりと聞えしかば、又天下に如何なる事か出でこんとて京中上下怖れおのゝく。
其比前左少辨行高と聞えしは、故中山中納言顯時卿の長男也。二條院の御代には、辨官に加てゆゆしかりしか共、此十餘年は官を停められて、夏冬の衣がへにも及ばず、朝暮の ざんも心に任せず、有か無かの體にて坐けるを、太政入道、「申べき事有り。き と立より給へ。」と宣遣はされたりければ、行高此十餘年は、何事にも交はらざりつる物を、人の讒言したる者あるにこそとて、大に恐れ騒がれけり。北方、君 達も「如何なる目にか逢はんずらん。」と泣悲しみ給ふに、西八條より、使布竝に有ければ、力及ばで、人に車借て西八條へ出られたり。思には似ず、入道やが て出向うて對面あり。「御邊の父の卿は、大小事申合せし人なれば、愚に思ひ奉らず。年來籠居の事も、いとほしう思たてまつりしか共、法皇御政務の上は力及 ばず。今は出仕し給へ。官途の事も申沙汰仕るべし。さらば疾歸られよ。」とて入給ぬ。被歸たれば、 宿所には女房達死だる人の生返りたる心地して、指つどひて、皆悦泣共せられけり。
太政入道源大夫判官季貞を以て、知行し給べき庄園状共數多遣はす。先さこそ有らめとて、百疋百兩に米を積でぞ贈られける。出仕の料にとて、雜色牛飼 牛車迄、沙汰し遣はさる。行高手の舞足の踏どころも覺えず、こはされば夢かや夢かとぞ驚かれける。同十七日五位の侍中に補せられて、左少辨に成かへり給 ふ。今年五十一、今更若やぎ給ひけり。唯片時の榮花とぞ見えし。
法皇被流
同廿日、院御所法住寺殿には、軍兵四面を打圍む。平治に信頼が、仕たりし樣に、火をかけて、人をば皆燒殺さるべしと聞えし間、上下の女房女童、物を だに打被かず、遽て噪で走出づ。法皇も大に驚かせおはします。前右大將宗盛卿、御車を寄て、「とう/\めさるべう候。」と奏せられければ、法皇「こはされ ば何事ぞや。御とがあるべし共思召さず。成親俊寛が樣に遠き國遙の島へも、遷遣んずるにこそ。主上さて渡せ給へば、政務の口入する計也。其もさるべからず ば、自今以後さらでこそ有め。」と仰ければ、宗盛卿「其儀では候はず。世を靜ん程、鳥羽殿へ御幸成參せんと、父入道申候。」「さらば宗盛やがて御供に參 れ。」と仰けれ共、父の禪門の氣色に畏を成て、參られず。「哀れ是に附ても、兄の内府には事外に劣たる者かな。一念もかゝる御目に逢べかりしを内府が身に 代て制し停てこそ今日迄も心安かりつれ。諫む る者無しとて、か樣にするにこそ。行末とても憑しからず。」とて御涙を流させ給ふぞ忝けなき。
さて御車に召されけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。只北面の下臈、さては金行といふ御力者許ぞ參りける。御車の尻には、尼前一人參られたり。 此尼前と申は、法皇の御乳の人、紀伊二位の事也。七條を西へ、朱雀を南へ御幸成る。恠しの賤の男賤の女に至るまで「あはれ法皇の流されさせましますぞ や。」とて、涙を流し袖を絞らぬは無けり。「去七日の夜の大地震も、かゝるべかりける前表にて、十六洛叉の底迄も答へ、堅牢地神の驚きさわぎ給ひけんも理 哉。」とぞ人申ける。
さて鳥羽殿へ入せ給たるに大膳大夫信成が、何として紛れ參りたりけるやらむ、御前近う候けるをめして「如何樣にも、今夜失はれなんずと思召すぞ。御 行水を召さばやと思召すは如何せんずる。」と仰ければ、さらぬだに信成、今朝より肝魂も身に添はず、あきれたる樣にて有けるが、此仰承る忝さに、狩衣に玉 だすきあげ、小柴墻壞、大床のつか柱破などして、水汲入かたのごとく御湯しだいて參せたり。
又靜憲法印、入道相國の西八條の邸に行て、「夕法皇の鳥羽殿へ御幸成て候なるに、御前に人一人も候はぬ由承 るが餘に淺ましう覺え候。何か苦う候べき、靜憲ばかりは御ゆるされ候へかし。參り給はん。」と申されければ、「とう/\、御房は事あやまつまじき人なれ ば。」とて許されけり。法印鳥羽殿へ參て、門前にて車よりおり、門の内へさし入給へば、折しも法皇、御 經を打上々々遊されける御聲も、殊にすごう聞えさせ給ける。法印のつと參られたれば、遊ばされける御經に、御涙の はら/\とかゝらせ給を見參せて、法印餘の悲さに、裘代の袖を顏に押當て、泣々御前へぞ參られける。御前には尼前ばかり候はれけり。「如何にや法印御房、 君は昨日の朝、法住寺殿にて、供御聞召されて後は、よべも今朝も聞召も入ず。長夜すがら御寢も成らず。御命も既に危くこそ見えさせ御座ませ。」とのたまへ ば、法印涙を押て申されけるは、「何事も限有る事にて候へば、平家樂みさかえて二十餘年。され共惡行法に過て既に亡び候なんず。天照大神、正八幡宮爭か捨 まゐらせさせ給ふべき。中にも君の御頼ある日吉山王七社、一乘守護の御誓あらたまらずば、彼法華八軸に立翔てこそ、君をば守參させ給ふらめ。しかれば政務 は君の御代となり、凶徒は水の泡と消失候べし。」など申されければ、此詞に少し慰せ坐ます。
主上は關白の流され給ひ、臣下の多く亡びぬる事をこそ御歎有けるに、剩へ法皇鳥羽殿に押籠られさせ給ふと聞召されて後は、つや/\供御も聞召れず。御惱とて常は夜のおとどにのみぞ入せ給ける。きさいの宮をはじめしまゐらせて御前の女房たちいかなるべし共覺え給はず。
法皇鳥羽殿へ押籠られさせ給て後は、内裏には臨時の御神事とて、主上夜ごとに清凉殿の石灰の壇にて、伊勢太神宮をぞ御拜有ける。是は唯一向法皇の御祈也。二條院は、賢王にて渡せ給しか共、天子に父母なしとて、常は法皇の仰をも申替させましける故にや、繼體の君に てもましまさず。されば御讓を受させ給ひたりし六條院も、安元二年七月十四日御年十三にて崩御成りぬ。淺ましかりし御事也。
城南離宮
「百行の中には、孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む。」と云へり。されば唐堯は老衰へたる母を貴ひ、虞舜はかたくななる父を敬ふと見えた り。彼賢王聖主の先規を追せ坐しけむ叡慮の程こそ目出たけれ。其比内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書あり。「かゝらむ世には雲井に跡を留めても何にかはし候べ き。寛平の昔をも訪ひ、花山の古をも尋て、家をいで世をのがれ山林流浪の行者とも成ぬべうこそ候へ。」と遊されたりければ、法皇の御返事には、「さな思召 され候そ。さて渡せ給ふこそ一つの頼にても候へ。跡なく思召し成せ給ひなん後は、何の頼か候べき。唯愚老がともかうもならむ樣を聞召果させ給ふべし。」と 遊されたりければ、主上此返事を龍顏に押當て、いとゞ御涙に沈ませ給ふ。君は船、臣は水、水能く船を浮べ、水又船を覆す。臣能く君を保ち、臣又君を覆す。 保元平治の比は、入道相國君を保ち奉ると云共、安元治承の今は、又君をなみし奉る。史書の文に違はず。大宮大相國、三條内大臣、葉室大納言、中山中納言も 失せられぬ。今は古き人とては成頼、親範ばかり也。此人々も、かゝらむ世には、朝に仕へ身を立て、大中納言を經ても何かはせんとて、いまだ盛んなし人々 の、家を出で世を遁れ、民部卿入道親範は、大原の霜に伴ひ、宰相入道成頼は、高野 の霧に交り、一向後世菩提の營みの外は他事なしとぞ聞えし。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心を澄す人も有ければ、是豈 博覽清潔にして、世を遁たるに非や。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞いて、「あはれ心疾も世を遁たる物かな。かくて、聞も同事成共、 親り立交て見ましかば、如何に心憂らん。保元平治の亂をこそ、淺ましと思しに、世末に成ば、かゝる事も有けり。此後、猶いか許の事か出來むずらむ、雲を分 ても上り、山を隔ても入なばや。」とぞ宣ける。實心有ん程の人の跡を留むべき世共みえず。
同廿三日。天台座主覺快法親王、頻に御辭退有るに依て、前座主明雲大僧正、還著せらる。入道相國は、かく散々にし散されたれ共、御娘中宮にてましま す。關白殿と申も聟也。萬心安うや思はれけん。「政務は只一向主上の御計たるべし。」とて、福原へぞ下られける。前右大將宗盛卿、急ぎ參内して、此由奏聞 せられければ、主上は「法皇の讓坐したる世ならばこそ。唯とう/\執柄に言合て、宗盛ともかうも計へ。」とて、聞召もいれざりけり。
法皇は城南の離宮にして、冬も半過させ給へば、野山の嵐の音のみ烈くて、寒庭の月の光ぞさやけき。庭には雪 のみ降積れ共、跡蹈つくる人も無く、池にはつらゝ閉重て、むれ居し鳥も見えざりけり。大寺の鐘の聲、遺愛寺の聞を驚し、西山の雪の色、香爐峯の望を催す。 夜霜に寒き砧の響、幽に御枕に傳ひ、曉氷を輾る車の跡、遙に門前に横はれり。巷を過る行人、征馬のいそがはしげなる氣色、浮世を渡る有樣も、思召し知られ て哀也。宮門を守る蠻夷の夜晝警衞を勤るも、先の世のいかなる契にて、今縁を結ぶらんと仰なりけるぞ忝き。凡 物に觸れ事に隨て、御心を傷しめずと云ふ事なし。さるまゝには彼折々の御遊覽、處々の御參詣、御賀の目出たかりし事共、思召續けて、懷舊の御涙抑へ難し。年去り年來て、治承も四年に成りけり。
4
平家物語卷第四
嚴島御幸
治承四年正月一日の日、鳥羽殿には、相國も許さず、法皇も恐させ坐しければ、元日元三の間、參入する人も無し。されども、 故少納言入道信西の子息、櫻町中納言重教卿、其弟左京大夫長教ばかりぞ許されて參られける。同正月廿日のひ春宮御袴著、竝に御眞魚始とて、目出たき事共有 しかども法皇は鳥羽殿にて、御耳の餘所にぞ聞召す。
二月廿一日、主上異なる恙も渡せ給はぬを押下し奉り、東宮踐祚有り。これは入道相國、萬思ふ樣なるが致す所 なり。時よくなりぬとてひしめき合へり。内侍所神璽寶劔渡し奉る。上達部陣に聚て、故事共先例に任せて行しに、辨内侍御劔とて歩み出づ。清凉殿の西面にて 泰通中將請取る。備中の内侍しるしの御箱取り出づ。隆房の少將請取る。内侍所璽の御箱、今夜ばかりや手をも懸んと思ひあへりけむ内侍の心の中共、さこそは と覺えて哀れ多かりける中に、璽の御箱をば、少納言内侍とり出づべかりしを、今夜是に手をも懸ては長く新しき内侍には成まじき由人の申けるをきいて、其期 に辭し申て取出ざりけり。年既に長たり。二度盛を期すべきにも在らずとて人人惡みあへりしに、備中内侍とて、生年十六歳、未だ幼なき 身ながら、其期に態と望み申て取出でける、優しかりし樣也。傳はれる御物共しな%\司々請取て新帝の皇居五條内裡 へ渡し奉る。閑院殿には火の影も幽に鷄人の聲も留り瀧口の問籍も絶にければ、ふるき人々心細く覺えて目出度き祝の中に涙を流し心を痛ましむ。左大臣陣に出 で、御位讓の事共仰せしを聞いて、心有る人々は、涙を流し袖を濕す。我と御位を儲君に讓り奉り、麻姑射の山の中も、閑になど思召す先々だにも、哀は多き習 ぞかし。況や是は御心ならず、押下されさせ給ひけん哀さ、申も中々愚也。
新帝今年は三歳、あはれ何しかなる讓位かなと、時の人々申合れけり。平大納言時忠卿は、内の御乳母、帥のすけの夫たるによて、「今度の讓位何しかな りと、誰か傾け申すべき。異國には、周の成王三歳、晉の穆帝二歳、我朝には、近衞院三歳、六條院二歳、是皆襁褓の中に包まれて、衣帶を正うせざりしかど も、或は攝政負て位に即け、或は母后抱て朝に臨むと見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生て百日と云に踐祚あり。天子位を踐む先蹤、和漢かくのごとし。」と申さ れければ、其時の有職の人々、「あな怖し、物な申されそ。されば其は好例どもかや。」とぞつぶやき合れける。春宮位に即せ給ひしかば、入道相國夫婦共に外 祖父外祖母とて、准三后の宣旨を蒙り、年官年爵を賜はて、上日の者を召使ふ。繪書き花つけたる侍共出入て、偏に院宮の如くにてぞ有ける。出家入道の後も榮 耀は盡せずとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙る事は、法興院の大入道殿兼家公の御例也。
同き三月上旬に、上皇安藝國嚴島へ御幸成るべしと聞えけり。帝王位をすべらせ給ひて、諸 社の御幸の始には、八幡賀茂春日などへこそ成せ給ふに、安藝國までの御幸は如何にと、人不審をなす。或人の申ける は、「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉の社へ御幸なる。既に知ぬ、叡慮に有と云事を。」御心中に深き御立願有り。其上此嚴島をば平家斜ならず、崇敬ひ給 ふ間、上には平家に御同心、下には法皇の何となう鳥羽殿に押籠られて渡らせ給ふ、入道相國の謀反の心をも和げ給へとの御祈念の爲とぞ聞えし。山門の大衆憤 り申す。「石清水、賀茂、春日へならずば、我山の山王へこそ御幸は成るべけれ。安藝國への御幸は何の習ぞや。其儀ならば神輿を振下し奉て、御幸を留め奉 れ。」と僉議しければ、是に依て暫御延引有けり。入道相國やう/\になだめたまへば、山門の大衆靜りぬ。
同十七日、嚴島御幸の御門出とて、入道相國の西八條の亭へ入せ給ふ。其日の暮方に、前右大將宗盛卿を召て、「明日御幸の次に、鳥羽殿へ參て、法皇の 見參に入ばやと思召すはいかに。相國禪門にしらせずしては、惡かりなんや。」と仰ければ、宗盛卿涙をはら/\と流いて、「何條事か候ふべき。」と申されけ れば、「さらば宗盛其樣をやがて今夜鳥羽殿へ申せかし。」とぞ仰ける。前右大將宗盛卿、急ぎ鳥羽殿へ參て、此由奏聞せられければ、法皇餘に思召す御事に て、夢やらんとぞ仰ける。
同十九日、大宮大納言隆季卿、未夜深う參て、御幸催されけり。此日比聞えさせ給ひつる嚴島の御幸、西八條より既に遂させ御座す。三月も半過ぬれど、霞に曇る有明の月は猶朦なり。越地を指て歸る雁の雲居に音信行も、折節哀に聞召す。未夜の中に鳥羽殿へ御幸なる。門前 にて御車より下させ給ひ、門の中へ差入せ給ふに、人稀にして木暗く、物さびしげなる御栖、先哀にぞ思食す、春既に 暮なんとす、夏木立にも成にけり。梢の花色衰へて、宮の鶯聲老たり。去年の正月六日の日、朝勤の爲に、法住寺殿へ行幸有しには、樂屋に亂聲を奏し、諸卿列 に立て、諸衞陣を引き、院司の公卿參り向て、幔門を開き、掃部寮筵道を布し、正かりし儀式一事もなし。けふは唯夢とのみぞ思食す。
重教中納言、御氣色申たりければ、法皇寢殿の階隱の間へ御幸成て、待參させ給ひけり。上皇は今年御歳二十、明方の月の光にはえさせ給ひて、玉體もい とど美しうぞ見させ御坐します。御母儀建春門院に、痛く似參させ給たりければ、法皇は先故女院の御事思食し出て、御涙塞敢させ給はず。兩院の御座、近くし つらはれたり。御問答は人承るに及ばず。御前には尼前計ぞ候はれける。良久しう御物語せさせ給ふ。遙に日闌けて後、御暇申させ給ひ、鳥羽の草津より御船に 召されけり。上皇は法皇の離宮の故亭、幽閑寂寞の御すまひ、御心苦く御覽じ置せ給へば、法皇は又上皇の旅泊の行宮、浪の上、船の中の御在樣、覺束なくぞお ぼしめす。誠に宗廟、八幡、賀茂などを指置せ給て、遙々と安藝國迄の御幸をば、神明もなどか御納受無るべき。御願成就疑なしとぞ見えたりける。
還御
同廿六日、嚴島へ御參著、入道相國の最愛の内侍が宿所、御所になる。中二日御逗留有て、 經會舞樂行はれける。導師には、三井寺の公兼僧正とぞ聞えし。高座に登り、鐘打鳴し、表白の詞にいはく、「九重の都を出 て、八重の汐路を分以て參らせ給ふ御志の忝さ。」と、高らかに申されたりければ、君も臣も感涙を催されけり。大宮、客人を始め參せて、社々所々へ皆御幸な る。大宮より五町許、山を廻て、瀧の宮へ參せ給ふ。公兼僧正一首の歌讀で拜殿の柱に書附られたり。
雲居よりおちくる瀧のしらいとに、ちぎりをむすぶ事ぞうれしき。
神主佐伯景廣加階、從上の五位、國司藤原有綱、品上あげられて加階、從下の四品、院の殿上許さる。座主尊永、法印になさる。神慮も動き、太政入道の心もはたらきぬらんとぞ見えし。
同廿九日上皇御船飾て還御なる。風烈かりければ、御船漕戻し、嚴島の内、ありの浦に留らせ給ふ。上皇、「大明神の御名殘惜に、歌仕れ。」と仰ければ、隆房の少將、
立かへる名殘もありの浦なれば、神もめぐみをかくる白浪。
夜半許に浪も靜に風も靜まりければ、御船漕ぎ出し、其日は備後國敷名の泊に著せ給ふ。此所は去ぬる應保の比ほひ、一院御幸の時、國司藤原爲成が造たる御所の有けるを、入道相國御設にしつらはれたりしかども、上皇其へは上らせ給はず。
今日は卯月一日衣更と云ふ事のあるぞかしとて、各都の方をおもひやり遊び給ふに、岸に色深き藤の松に咲懸りたりけるを、上皇叡覽有て、隆季の大納言を召て、「あの花折に遣せ。」と 仰ければ、左史生中原康定が橋船に乘て、御前を漕通りけるを召て折に遣す。藤の花を手折り、松の枝に附ながら、持て參りたり。心ばせありなど仰られて、御感有けり。「此花にて歌あるべし。」と仰ければ、隆季の大納言、
千年へん君がよはひに藤なみの、松の枝にもかゝりぬる哉。
其後御前に人々餘た候はせ給ひて、御戯れことの在りしに、上皇「白き衣著たる内侍が國綱卿に心を懸たるな。」とて、笑はせおはしましければ、大納言 大に爭がひ申さるゝ所に、文持たる便女が參て、「五條の大納言殿へ。」とて指上たり。さればこそとて滿座興ある事に申しあはれけり。大納言是を取て見給へ ば、
白浪の衣の袖をしぼりつゝ、君故にこそたちもまはれね。
上皇「優しうこそ思食せ。此返事はあるべきぞ。」とて、やがて御硯をくださせ給ふ。大納言返事には、
おもひやれ君がおもかげ立つ浪の、よせくる度に濕るゝ袂を。
其より備前國小島の泊に著せ給ふ。
五日の日天晴風しづかに、海上も長閑かりければ、御所の御船を始參せて、人々の船共皆出しつつ、雲の波煙の浪を分過させ給ひて、其日の酉刻に播磨國 山田の浦に著せ給ふ。其より御輿に召て、福原へ入せ坐ます。六日は供奉の人々、今一日も都へ疾と急がれけれども、新院御逗留有て、福原の所々歴覽有けり。 池中納言頼盛卿の山庄、荒田まで御覽ぜらる。
七日、福原を出させ給に、隆季の大納言勅定を承はて、入道相國の家の賞行はる。入道の養子、丹波守清國、正下五 位、同入道の孫、越前少將資盛、四位の從上とぞ聞えし。其日寺井に著せ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御迎の公卿殿上人、鳥羽の草津へぞ參られける。還御の 時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相國の西八條の亭へいらせ給ふ。
同四月二十二日新帝の御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、一年炎上の後は、未造りも出されず。太政官の廳にて、行はるべしと、定められたり けるを、其時の九條殿申させ給ひけるは、「太政官の廳は、凡人の家にとらば公文所體の所也。大極殿無らん上は、紫宸殿にてこそ、御即位は有るべけれ。」と 申させ給ひければ、紫宸殿にてぞ、御即位は有ける。「去じ康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にて有しは、主上御邪氣に依て、大極殿へ行幸かなは ざりし故也。其例如何あるべからん。只後三條院の延久の佳例に任せ、太政官の廳にて行はるべき物を。」と人々申合はれけれども、九條殿の御計の上は、左右 に及ばず。中宮は弘徽殿より仁壽殿へ遷らせ給ひて、高御座へ參せ給ひける御有樣、目出度かりけり。平家の人々皆出仕せられける中に、小松殿の公達は、去年 大臣失せ給ひし間、色にて籠居せられたり。
源氏揃
藏人左衞門權佐定長、今度の御即位に違亂なく目出たき樣を、厚紙十枚計にこま%\と記い て、入道相國の北方、八條の二位殿へ參らせたりければ笑を含んでぞ悦ばれける。か樣に花やかに目出たきこと共在しか共、世間は猶靜かならず。
其比一院第二の皇子、以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成卿の御娘也。三條高倉にましませば、高倉宮とぞ申ける。去じ永萬元年十二月十六日、御年 十五にて、忍つゝ、近衞河原の大宮御所にて、御元服有けり。御手跡美しう遊し、御才學勝てましましければ、位にも即せ給ふべきに、故建春門院の御猜にて、 押籠められさせ給つゝ、花の下の春の遊には、紫毫を揮て手から御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹て自ら雅音を操給ふ、かくして明し暮し給ふ程に、 治承四年には、御歳三十にぞ成せましましける。
其比近衞河原に候ける源三位入道頼政、或夜竊に此宮の御所に參て、申されける事こそ怖けれ。「君は天照大神 四十八世の御末神武天皇より七十八代に當せ給ふ。太子にも立ち、位にも即せ給ふべきに、三十迄宮にて渡せ給ふ御事をば、心憂しとは思召さずや。當世の體を 見候に、上には從ひたる樣なれども、内々は平家を猜まぬ者や候。御謀反起させ給ひて、平家を亡し、法皇のいつとなく鳥羽殿に押籠られて渡せ給ふ御心をも休 め參せ、君も位に即せ給ふべし。是御孝行の至にてこそ候はんずれ。若思召し立せ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなして馳參らむずる源氏共こそ多う 候へ。」とて申續く。「先京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽藏人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六條判官爲義が末子、十郎 義盛とて隱て候。攝津國には多田藏人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の 謀反の時、同心しながら返り忠したる不當人で候へば申に及ばず。さりながら、其弟多田次郎朝實、手島冠者高頼、太 田太郎頼基、河内國には、武藏權守入道義基、子息石河判官代義兼、大和國には、宇野七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治、近江國に は、山本、柏木、錦古里、美濃、尾張には山田次郎重廣、河邊太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代 重國、矢島先生重高、其子太郎重行、甲斐國には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、同小次郎長清、一條次郎忠頼、板垣三郎兼 信、逸見兵衞有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃國には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、其子の四郎義信、故帶刀先生義方が次男、木曽冠 者義仲、伊豆國には流人前右兵衞佐頼朝、常陸國には、信太三郎先生義教、佐竹冠者正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奧國には故左馬 頭義朝が末子、九郎冠者義經、是皆六孫王の苗裔、多田新發意滿仲が後胤也。朝敵をも平げ、宿望を遂げし事は、源平何れ勝劣無りしかども、今は雲泥交を隔て て、主從の禮にも猶劣れり。國には國司に從ひ、庄には領所に召使はれ、公事雜事に驅立られて、安い思ひも候はず。如何計か心憂く候らん。君若思召立せ給 て、令旨を賜づる者ならば、夜を日に續で馳上り、平家を滅さん事、時日を囘すべからず。入道も年こそ寄て候へども、子供引具して參候べし。」とぞ申たる。
宮は此事如何有るべからんとて、暫は御承引も無りけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後 前司季通が子、少納言維長と申しは、勝たる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申ける。其人が此宮を見參らせて、 「位に即せ給ふべき相坐す。天下の事思召放たせ給ふべからず。」と申ける上、源三位入道もか樣に申されければ、「さては然るべし。天照大神の御告やら ん。」とて。ひしひしと思召立せ給ひけり。熊野に候十郎義盛を召て、藏人になさる。行家と改名して、令旨の御使に東國へぞ下されける。
同四月二十八日都を立て近江國より始めて美濃、尾張の源氏共に次第に觸て行程に、五月十日伊豆の北條に下りつき流人前兵衞佐殿に令旨奉る。信太三郎先生義教は、兄なれば取せんとて、常陸國信太の浮島へ下る。木曽冠者義仲は、甥なればたばんとて、山道へぞおもむきける。
其比の熊野別當湛増は、平家に志し深かりけるが、何とかして漏れ聞きたりけん、新宮の十郎義盛こそ、高倉宮 の令旨賜はて美濃尾張の源氏共觸れ催し、既に謀反を起なれ。那智新宮の者共は、定て源氏の方人をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を、天山と蒙りたれば、爭 で背奉べき。那智新宮の者共に矢一つ射懸て、平家へ仔細を申さんとて、直甲一千人、新宮の湊へ發向す。新宮には鳥井法眼、高坊法眼、侍には、宇井、鈴木、 水屋、龜甲、那智には執行法眼以下、都合其勢二千餘人也。閧作り矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れと、互に矢叫の聲の退轉もな く、鏑の鳴止む隙もなく、三日が程こそ戰うたれ。熊野別當湛増、家の子郎等多くうたせ、我身手負ひ、辛き命を生つゝ、本宮へこそ逃上 りけれ。
鼬沙汰
さる程に法皇は、「遠き國へも流され遙の島へも移んずるにや。」と仰せけれども、城南の離宮にして、今年は二年に成せ給ふ。同五月十二日午刻許、御 所中には鼬夥う走騒ぐ。法皇大に驚き思食し御占形を遊いて、近江守仲兼、其比は未鶴藏人と召されけるを召て、「此占形持て泰親が許へ行き、屹と勘させて、 勘状を取て參れ。」とぞ仰ける。仲兼是を賜はて、陰陽頭安倍泰親が許へ行く、折節宿所には無りけり。白川なる所へと言ければ、其へ尋ゆき、泰親に逢うて、 勅定の趣仰すれば、軈て勘状を參せけり。仲兼、鳥羽殿に歸り參て門より參らうとすれば、守護の武士共許さず。案内は知たり、築地を越え大床の下を這て、切 板より泰親が勘状をこそ參せたれ。法皇是をあけて御覽ずれば、「今三日がうちの御悦竝に御歎。」とぞ申たる。法皇「御悦は然るべし。是程の御身に成て又い かなる御歎のあらんずるやらん。」とぞ仰ける。
さる程に前右大將宗盛卿、法皇の御事をたりふし申されければ、入道相國漸思直て、同十三日鳥羽殿を出奉り、八條烏丸美福門院の御所へ御幸なし奉る。今三日が中の御悦とは泰親是をぞ申ける。
かゝりける所に、熊野別當湛増、飛脚を以て、高倉宮の御謀反の由都へ申たりければ、前右 大將宗盛卿大に騒で、入道相國折節福原に坐けるに、此由申されたりければ、聞きもあへず、やがて都へ馳のぼり、「是非に及 べからず。高倉宮搦取て、土佐の畑へ流せ。」とこそ宣けれ。上卿は三條大納言實房、職事は頭辨光雅とぞ聞えし。源大夫判官兼綱、出羽判官光長承て、宮の御 所へぞ向ひける。此源大夫判官と申は、三位入道の次男なり。然るを此人數に入られける事は、高倉宮の御謀反を、三位入道勸め申たりと、平家未知ざりけるに 依て也。
信連
宮は五月十五夜の雲間の月を詠させ給ひ、何の行方も思召よらざりけるに、源三位入道の使者とて、文持て忙しげに出來り、宮の御乳母子、六條のすけの 大夫宗信、是を取て、御前へ參り開いて見に、「君の御謀反已に顯れさせ給ひて、土佐の畑へ流し參すべしとて、官人共御迎に參り候。急ぎ御所を出させ給て、 三井寺へいらせ坐せ。入道もやがて參り候べし。」とぞ申ける。「こは如何せん。」と噪がせおはします處に、宮の侍長兵衞尉信連と云ふ者有り。「唯別の樣候 まじ。女房裝束にて出させ給へ。」と申ければ、「然るべし。」とて、御髮を亂し、重ねたる御衣に、市女笠をぞ召れける。六條のすけの大夫宗信、唐笠持て御 供仕る。鶴丸と云ふ童、袋に物入て戴いたり、譬へば青侍の女を迎へて行樣に出立せ給ひて、高倉を北へ落させ給ふに、大なる溝の有けるを、いと物輕う越させ 給へば、路行人立留まて、「はしたなの女房の溝の越樣や。」とて、怪げに見參せければ、いとゞ足早に過させ給ふ。
長兵衞尉信連は御所の留守にぞ置れたる。女房達の少々坐けるを彼此へ立忍せて、見苦き物有ば、取認めむとて見程に、宮のさ しも御秘藏有ける小枝と聞えし御笛を、只今しも常の御所の御枕に取忘れさせ給ひたりけるぞ、立歸ても取まほしう思召す。信連是を見附て、「あな淺まし。君 のさしも御秘藏有る御笛を。」と申て、五町が内に追著て參たり。宮斜ならず御感有て、「我死ば、此笛をば御棺に入よ。」とぞ仰ける。「やがて御供に候 へ。」と仰ければ、信連申けるは、「只今御所へ、官人共が御迎へに參り候なるに、御前に人一人も候はざらんか、無下にうたてしう候。信連が此御所に候とは 上下皆知られたる事にて候に、今夜候はざらんは、其も其夜は迯たりけりなど言れん事、弓箭取る身は、假にも名こそ惜う候へ。官人共暫あひしらひ候て打破て やがて參り候はん。」とて、走り歸る。
長兵衞が其日の裝束には、薄青の狩衣の下に、萌黄威の腹卷を著て、衞府の太刀をぞ帶たりける。三條面の惣門 をも、高倉面の小門をも、共に開いて待かけたり。源大夫判官兼綱、出羽判官光長、都合其勢三百餘騎、十五日の夜の子の刻に宮の御所へぞ押寄せたる。源大夫 判官は、存ずる旨有と覺て、遙の門外にひかへたり。出羽判官光長は、馬に乘ながら門の内に打入れ、庭にひかへて大音聲を揚て申けるは、「御謀反の聞え候に 依て、官人共別當宣を承はり、御迎に參て候。急ぎ御出候へ。」と申ければ、長兵衞尉大床に立て、「是は當時は御所でも候はず。御物詣で候ぞ。何事ぞ、事の 仔細を申されよ。」と言ければ、「何條此御所ならでは、いづくへか渡せ給ふべかんなる。さないはせそ。下部共參て、捜し奉れ。」とぞ云ける。長兵 衞尉是を聞て、「物も覺ぬ官人共が申樣哉。馬に乘ながら門の内へ參るだにも奇怪なるに、下部共參て捜まゐらせよと は、爭で申ぞ。左兵衞尉長谷部信連が候ぞ。近う寄て過すな。」とぞ申ける。廳の下部の中に、金武と云ふ大力の剛の者、長兵衞に目をかけて、大床の上へ飛上 る。是れを見てどうれいども十四五人ぞ續たる。長兵衞は狩衣の帶紐引切て捨るまゝに、衞府の太刀なれ共、身をば心得て作せたるを拔合て、散々にこそ切たり けれ。敵は大太刀大長刀で振舞へども、信連が衞府の太刀に切立られて、嵐に木の葉の散樣に、庭へ颯とぞ下りたりける。
さ月十五夜の雲間の月の顯れ出で明りけるに、敵は無案内なり、信連は案内者也、あそこの面道に追懸ては、はたと切り、此所の詰に追詰てはちやうと切 る。「如何に宣旨の御使をば、かうはするぞ。」と云ければ、「宣旨とは何ぞ。」とて、太刀曲ばをどり退き、押直し踏直し、立ち處に好者共十四五人こそ切伏 たれ。太刀のさき三寸許打折て腹を切んと腰を探れば、鞘卷落て無けり。力及ばず、大手を廣て、高倉面の小門より走り出んとする所に、大長刀持たる男一人寄 合ひたり、信連長刀に乘んと、飛で懸るが、乘損じて、股をぬい樣に貫かれて、心は猛く思へども、大勢の中に取籠られて、生捕にこそせられけれ。
其後御所を捜せども、宮渡らせ給はず。信連許搦て、六波羅へ率て參る。入道相國は簾中に居給へり。前右大將宗盛卿、大床に立て、信連を大庭に引居させ、「誠にわ男は、『宣旨とは何ぞ。』とて切たりけるか。其上、廳の下部を、刃傷殺害したん也。詮ずる所糺問して、よく よく事の仔細を尋問ひ、其後河原に引出て、首を刎候へ。」とぞ宣ひける。信連少しも噪がずあざ笑て申けるは、「こ の程夜々あの御所を、物が窺ひ候時に、何事の有るべきと存じて、用心も仕候はぬ處に、鎧きたる者共が打入て候を、『何者ぞ。』と問候へば、『宣旨の御使』 と名乘り候。山賊、海賊、強盗など申す奴原は、或は『公達の入せ給ふぞ。』或は『宣旨の御使』など名乘り候と兼々承て候へば、『宣旨とは何ぞ。』とて切た る候。凡物の具をも思ふ樣に仕り、鐵善き太刀をも持て候はば、官人共をよも一人も安穩では歸し候はじ。又宮の御在所は何くにか渡せ給ふらん。知參せ候は ず。縱知參せて候とも、侍ほんの者の、申さじと思切てん事、糺問に及で申べしや。」とて、其後は物も申さず。
幾らも竝居たりける平家の侍共、「哀剛の者哉。あたら男を切られんずらん無慚さよ。」と申あへり。其中に或人の申けるは、「あれは先年所に有し時 も、大番衆が留兼たりし強盗六人に、唯一人追懸て四人切伏せ、二人生捕にして、其時成れける左兵衞尉ぞかし。是をこそ一人當千の兵とも云べけれ。」とて 口々に惜合へりければ、入道相國いかゞ思はれけん、伯耆の日野へぞ流されける。源氏の世に成て、東國へ下り、梶原平三景時について、事の根元一一次第に申 ければ、鎌倉殿神妙なりと感じおぼしめして、能登國に御恩蒙りけるとぞ聞えし。
競
宮は高倉を北へ、近衞を東へ、賀茂河を渡せ給て、如意山へいらせ御座す。昔清見原の天皇 の未だ東宮の御時、賊徒に襲はれさせ給ひて、吉野山へ入せ給ひけるにこそ、をとめの姿をば假せ給ひけるなれ。今此宮の御有 樣も、其には少しも違せ給はず。知ぬ山路を終夜分入せ給ふに、何習はしの御事なれば、御足より出る血は、沙を染て紅の如し。夏草の茂が中の露けさも、さこ そは所せう思召れけめ。かくして曉方に三井寺へ入せ御座す。「かひなき命の惜さに、衆徒を憑んで、入御あり。」と仰ければ大衆畏り悦んで、法輪院に御所を 飾ひ、其に入れ奉てかたのごとくの供御したてゝ參らせけり。
明れば十六日、高倉宮の御謀反起させ給ひて、失させ給ぬと申程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。法皇是を聞食して「鳥羽殿を御出在は御悦也。並に御歎。と泰親が勘状を參せたるは是れを申けり。」とぞ仰せける。
抑源三位入道年比日來も有ばこそ有けめ。今年如何なる心にて、謀反をば起しけるぞといふに、平家の次男前右大將宗盛卿すまじき事をし給ひけるに依てなり、去ば人の世に有ばとて、すまじき事をもし、坐に言ふ間敷事をも言ふは能々思慮有るべき者なり。
譬へば、源三位入道の嫡子、仲綱の許に、九重に聞えたる名馬有り。鹿毛なる馬の雙なき逸物、乘走り心むき、 又有るべし共覺えず。名をば木の下とぞ云れける。前右大將是を傳聞き仲綱の許へ使者を立て、「聞え候名馬を見候はばや。」と宣ひ遣されければ、伊豆守の返 事には、「さる馬は持て候つれ共、此程餘に乘損じて候つる間、暫勞せ候はむとて田舎へ遣して候。」「さらんには力なし。」とて、其後沙汰も無りしを、多く 竝居たりける平家の侍共、「哀其馬 は一昨日迄は候し者を、昨日も候ひし、今朝も庭乘し候つる。」など申ければ、「さては惜むごさんなれ。惡し、乞 へ。」とて侍して馳させ、文などして、一日が中に五六度七八度など乞はれければ、三位入道是を聞き、伊豆守喚寄せ、「縱金を丸たる馬なりとも、其程に人の 乞うものを惜べき樣やある。速に其馬六波羅へ遣せ。」とぞ宣ける。伊豆守力及ばで一首の歌を書そへて、六波羅へ遣す。
戀くば來ても見よかし、身にそへるかげをばいかゞ放ちやるべき。
宗盛卿、歌の返事をばし給はで、「哀馬や、馬は誠に好い馬で有けり。去ども餘に主が惜つるが憎きに、やがて主が名乘を印燒にせよ。」とて、仲綱と云 ふ印燒をして、厩に立られたり。客人來て「聞え候名馬を見候はばや。」と申ければ、「其仲綱めに鞍置いて引出せ。仲綱め乘れ。仲綱め打て、はれ。」など宣 ひければ、伊豆守是を傳聞き、「身にかへて思ふ馬なれども、權威について取るゝだにも有に、馬故仲綱が天下の笑れ草と成んずる事こそ安からね。」と、大に 憤られければ、三位入道是を聞き伊豆守に向て、「何事の有べきと思侮て、平家の人どもが、さ樣のしれ事をいふにこそ有なれ。其儀ならば、命生ても何かせ ん、便宜を窺ふでこそ有め。」とて、私には思も立たず、宮を勸め申けるとぞ後には聞えし。
是に附ても、天下の人、小松大臣の御事をぞしのび申ける。或時小松殿參内の次に、中宮の御方へ参せ給ひたりけるに、八尺許有ける蛇が、大臣の指貫の左の輪を這廻りけるを、重盛騒がば、女房達も騒ぎ、中宮も驚せ給ひなんずと思召し、左の手で蛇の尾を押へ、右の手で 首を取り、直衣の袖の中に引入れ、些ともさわがず、つい立て、「六位や候、六位や候。」と召されければ、伊豆守、 其時は未衞府藏人でおはしけるか、仲綱と名乘て參れたりけるに、此蛇をたぶ。給て弓場殿を經て、殿上の小庭にいでつゝ、御倉の小舎人をめして、「是給 れ。」と言れければ、大に頭を掉て逃去ぬ。力及ばず我郎等競の瀧口を召て、是を給ぶ。給て捨てけり。其朝小松殿善い馬に鞍置て、伊豆守の許へ遣すとて、 「さても昨日の振舞こそ、優に候しか。是は乘一の馬で候。夜陰に及で陣外より、傾城の許へ通れむ時もちゐらるべし。」とて遣さる。伊豆守、大臣の御返事な れば、「御馬畏て賜り候ぬ。さても昨日の御振舞は、還城樂にこそ似て候しか。」とぞ申されける。如何なれば小松大臣は、か樣にゆゆしうおはせしに、宗盛卿 はさこそ無らめ、剩へ人の惜む馬乞取て、天下の大事に及ぬるこそうたてけれ。
同十六日の夜に入て、源三位入道頼政、嫡子伊豆守仲綱、次男源太夫判 官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光已下、都合其勢三百餘騎、館に火かけ燒上て、三井寺へこそ參られけれ。三位入道の侍に、渡邊源三瀧口競と云者有 り。馳後て留たりけるを、前右大將競を召て、「如何に汝は三位入道の供をばせで、留たるぞ。」と宣ば競畏て申けるは、「自然の事候はば、眞先かけて、命を 奉らうとこそ日比は存て候つれども、何と思はれ候けるやらん、かうとも仰せられ候はず。」「抑朝敵頼政に同心せむとや思ふ。又是にも兼參の者ぞかし。先途 後榮を存じて、當家に奉公致さんとや思ふ。有の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。競涙をはら/\と流いて、「相傳の好はさる事で候へ共、いかが朝敵となれる人 に同心をばし候べき。殿中に 奉公仕うずる候。」と申ければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩には、些も劣まじきぞ。」とて入給ひぬ。
「侍に競はあるか、」「候。」「競はあるか。」「候。」とて朝より夕に及まで祗候す。漸日も暮ければ、大將出られたり。競畏て申けるは、「誠や三位 入道殿三井寺にと聞え候。定めて討手向けられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井寺法師、さては渡邊のしたしい奴原こそ候らめ。擇討などもし候べきに、 乘て事にあふべき馬の候つるを、親い奴めに盗まれて候。御馬一匹下し預るべうや候らん。」と申ければ、大將尤さるべしとて、白葦毛なる馬の煖廷とて秘藏せ られたりけるに、好い鞍置てぞ給だりける。競屋形に歸て、「早日の暮よかし、此馬に打乘て、三井寺へ馳參り、三位入道殿の眞先かけて、打死せん。」とぞ申 ける。日も漸暮ければ、妻子共をば彼此へ立忍せて、三井寺へと出立ける心の中こそ無慚なれ。
平紋の狩衣の菊綴大らかにしたるに、重代の著背長の緋威の鎧に、星白の甲の緒をしめ、いか物作の大太刀帶 き、二十四差たる大中黒の矢負ひ、瀧口の骨法忘れじとや、鷹の羽にて矧だりける的矢一手ぞ差副たる。滋籐の弓持て、煖廷に打乘り、乘替一騎打具し、舎人男 にもたてわき挾せ、屋形に火かけ燒上て、三井寺へこそ馳たりけれ。六波羅には、競が宿所より火出來たりとて、ひしめきけり。宗盛卿急ぎ出て、「競はある か。」と尋給ふに、「候はず。」と申す。「すはきやつめを手延にして、たばかられぬるは。あれ追懸て討。」と宣へども、競は本より勝れたる強弓精兵矢繼早 の手きゝ大力の剛の者二十四差たる矢で先二十四人は射殺れなん ず。音なせそとて、向ふ者こそ無りけれ。三井寺には、折節競が沙汰ありけり。渡邊黨「競をば召具すべう候つる者 を、六波羅に殘り留まて、いかなるうき目にか逢ひ候らん。」と申ければ、三位入道心を知て「よも其者、無體に囚へ搦られはせじ。入道に志深い者也今見よ。 唯今參うずるぞ。」と宣も果ねば、競つと出來たり。「さればこそ。」とぞ宣ける。競かしこまて申けるは「伊豆守殿の、木の下が代に、六波羅の煖廷をこそ取 て參て候へ。參せ候はん。」とて伊豆守夜半ばかり門の内へぞ追入たる。馬やに入て、馬共に噛合ければ、舎人驚あひ、「煖廷が參て候。」と申す。大將急ぎ出 て見給ふに、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」と云ふ印燒をぞしたりける。大將「安からぬ。競めを手延にしてたばかられぬる事こそ遺恨なれ。今度三井寺へ寄た らんに、如何にもして先づ競めを生捕にせよ。鋸で頸斬ん。」とて、躍上々々怒られけれども、煖廷が尾髪を生ず、印燒も又失ざりけり。
山門牒状
三井寺には、貝鐘鳴いて、大衆僉議す。「近日世上の體を案ずるに、佛法の衰微、王法の牢籠正に此時に當れり。今度清盛入道が暴惡を戒めずば、何の日 をか期すべき。宮此に入御の御事、正八幡宮の衞護、新羅大明神の冥助に非ずや。天衆地類も影向を垂れ、佛力神力も降伏を加へ坐す事などか無るべき。抑北嶺 は圓宗一味の學地、南都は夏臘得度の戒場也。牒送の 處に、などか與せざるべき。」と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも、牒状をこそ遣しけれ。先山門への状に云、
園 城寺牒す、延暦寺の衙。特に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと思ふ状右入道淨海恣に王法を失ひ、佛法を滅ぼさんと欲す。愁歎極なき所に、去る十五日 の夜、一院第二の王子、竊に入寺せしめ給ふ。こゝに院宣と號して、出し奉るべき由、責ありといへども、出し奉るに能はず。仍て官軍を放ち遣す旨、其聞えあ り。當寺の破滅、正に此時に當れり。諸衆何ぞ愁嘆せざらんや。就中に延暦、園城兩寺は、門跡二つに相分ると雖、學する所は是圓頓一味の教門に同じ。譬へば 鳥の左右の翅の如し。又車の二つの輪に似たり。一方闕けんに於ては、爭かその歎無らんや、者れば、特に合力を致して、當寺の破滅を助けられば、早く年來の 遺恨を忘て、住山の昔に復せん。衆徒の僉議此の如し。仍牒送件の如し。
治承四年五月十八日 大衆等
とぞ書たりける。
南都牒状
山門の大衆、此状を披見して、こは如何に、當山の末寺で有ながら、鳥の左右の翅の如く、 又車の二つの輪に似たりと、抑て書く條、奇怪なり。」とて、返牒を送らず。其上入道相國天台座主明雲大僧正に、衆徒を靜ら るべき由宣ければ、座主急ぎ登山して、大衆をしづめ給ふ。かゝりし間、宮の御方へ、不定の由をぞ申ける。又入道相國、近江米二萬石、北國の織延絹三千匹、 往來に寄らる。是を谷々嶺々に引れけるに、俄の事では有り、一人して數多を取る大衆も有り。又手を空うして、一つも取ぬ衆徒も有り。何者の爲態にや有け ん、落書をぞしたりける。
山法師織延衣うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ。
又絹にもあたらぬ大衆の詠たりけるやらん。
織延を一きれも得ぬわれらさへ、薄恥をかくかずに入哉。
又南都への状に云、
園城寺牒す、興福寺の衙。特に合力を致して、當寺の破 滅を助けられんと乞ふ状右佛法の殊勝なる事は、王法を守らんがため、王法亦長久なる事は、即ち佛法に依る。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海、 恣に國威を竊にし、朝政を亂り、内につけ外につけ、恨をなし歎をなす間、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難を遁れんがために、俄に入寺せしめ給 ふ。爰に院宣と號して出したてまつるべき旨、責ありと云へども、衆徒一向是を惜み奉る。仍て彼の禪門、武士を當寺に入れんとす。佛法と云、王 法と云、一時に當に破滅せんとす。昔唐の會昌天子、軍兵を以て佛法を滅さしめし時、清凉山の衆、合戰を致して是を 防ぐ。王權猶かくの如し。何ぞ況や謀反八逆の輩に於てをや。就中に南京は例なくして、罪なき長者を配流せらる。今度にあらずば、何の日か會稽を遂げん。願 くは、衆徒、内には佛法の破滅を助け、外には惡逆の伴類を退けば、同心の至り、本懷に足ぬべし。衆徒の僉議かくの如し。仍牒送如件。
治承四年五月十八日 大衆等
とぞ書たりける。
南都の大衆此状を披見して、やがて返牒を送る。其返牒に云、
興福寺牒す、 園城寺の衙來牒一紙に載せられたり。右入道淨海が爲に、貴寺の佛法を滅さんとする由の事、牒す、玉泉、玉花、兩家の宗義を立つと云へども、金章、金句、同 じく一代の教門より出でたり。南京北京共に以て、如來の弟子たり。自寺他寺互に、調達が魔障を伏すべし。抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父 正盛、藏人五位の家に仕へて、諸國受領の鞭をとる。大藏卿爲房、賀州刺史の古、檢非所に補し、修理の大夫顯季、播磨の大守たりし昔、厩の別當職に任ず。然 を親父忠盛昇殿を許されし時、都鄙の老少皆蓬壺の瑕瑾を惜み、内外の榮幸各馬臺の讖文に啼く。忠盛青雲の翅を刷ふといへども、世の民猶白屋の種を輕ず。名 を惜む青侍其家に望むことなし。然るを去る平治元年十二月、太上天皇、一 戰の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以降、高く相國に上り、兼て兵仗を給る。男子或は台階を辱うし、或は羽 林に連る。女子或は中宮職に備り、或は准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆棘路に歩み、その孫、かの甥、悉く竹符を割く。加之九州を統領し、百司を進退して、奴 婢皆僕從と成す。一毛心に違へば、王侯と云へ共是を囚へ、片言耳に逆ふれば、公卿といへども是を搦む。是に依て、或は一旦の身命をのべんがため、或は片時 の凌蹂を遁れんと思て、萬乘の聖主猶面諂の媚をなし、重代の家君却て膝行の禮を致す。代々相傳の家領を奪ふと云へども、上裁も恐れて舌を卷巻き、宮々相承 の庄園を取ると云へども、權威に憚てもの言ふことなし。勝に乘るあまり、去年の冬十一月太上皇の棲を追捕し、博陸公の身を推し流す。反逆の甚しい事、誠に 古今に絶たり。其時我等すべからく賊衆に行き向て、其罪を問ふべしと云へども、或は神慮に相憚り、或は綸言と稱するに依て、鬱陶を抑へ光陰を送る間、重て 軍兵を起して、一院第二の親王宮を打ち圍む所に、八幡三所、春日大明神、竊に影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送りつけて、新羅の扉に預け奉る。王法盡 べからざる旨明けし。隨て又貴寺身命を捨てゝ、守護し奉る條、含識の類、誰か隨喜せざらん。我等遠域にあて、其情を感ずる所に、清盛入道猶匈氣をおこし て、貴寺に入らんとするよし、仄に承り及を以て、兼て用意を致す。十八日辰の一點に大衆を起し、諸寺に牒送し、末寺に下知し、軍士を得て後、案内を達せん とする所に、青島飛び來て芳翰を投げたり。數日の鬱念一時に解散す。彼唐家清凉一山の 鳥芻、猶武宗の官兵を返す。況 や和國南北兩門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらんや。能く梁園左右の陣を固めて、宜く我等が進發の告を待つべし。状を察して、疑貽をなすことなかれ。以て牒す。
治承四年五月二十一日 大衆等
とぞ書たりける。
永僉議
三井寺には又大衆起て僉議す。山門は心替しつ、南都は未參らず。此事延ては惡かりけん。六波羅に押寄て夜討にせん。其儀ならば、老少二手に分て、老 僧共は如意が嶺より搦手に向ふべし。足輕ども四五百人先立て、白川の在家に火を懸け燒上ば、在京人六波羅の武士「あはや事出來たり。」とて、馳向んずら ん。其時岩坂、櫻本にひかけ/\、暫支へて戰ん間に、大手は、伊豆守を大將軍にて、惡僧共、六波羅に押寄せ、風上に火かけ一揉もうで攻んに、などか太政入 道燒出て討ざるべき。」とぞ僉議しける。
其中に平家の祈しける一如房阿闍梨眞海、弟子同宿數十人引具し、僉議の庭に進出で申けるは、「かう申せば、平家の方人とや思召され候らん。縱さも候 へ。いかゞ衆徒の義をやぶり、我寺の名をも惜では候ふべき。昔は源平左右に爭て、朝家の御守たりしかども、近來は源氏の運傾き、平家世を取て二十餘年、天 下に靡ぬ草木も候はず。内々の館の有樣も、小勢にてはたやすう攻落しがたし。よく/\外に謀を運して、勢を催し、後日に寄らるべう や候らん。」と、程を延さんが爲に、長々とぞ僉議したる。
爰に乘圓房阿闍梨慶秀と云老僧あり。衣の下に腹卷を著、大なる打刀前垂に差ほらし、かしら包んで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭に進出でて申ける は、「證據を外に引くべからず。我寺の本願天武天皇は未だ春宮の御時、大友王子にはゞからせ給ひて、芳野の奧をいでさせ給ひ、大和國宇多郡を過させ給ひけ るには、其勢僅に十七騎、去共伊賀伊勢に打越え、美濃尾張の勢を以て、大友王子を亡して、終に位に即せ給ひき。『窮鳥懷に入る。人倫是を憐む』と云ふ本文 有り。自餘は知らず、慶秀が門徒に於ては、今夜六波羅に押寄て、打死せよや。」とぞ僉議しける。圓滿院大輔源覺、進出て申けるは、「僉議ばし多し、夜の更 るに、急げや進め。」とぞ申ける。
大衆揃
搦手に向ふ老僧共大將軍には源三位入道頼政、乘圓房阿闍梨慶秀律成房阿闍梨日胤、帥法印禪智、禪智が弟子義寶、禪永を始として、都合其勢一千人、 手々に燒松もて、如意が峯へぞ向ひける。大手の大將軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光、大衆には圓滿院大輔源 覺、成喜院荒土佐、律成房伊賀公、法輪院鬼佐渡、是等は力の強さ、弓箭打物もては、鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。平等院には、因幡竪者荒大夫、 角六郎房、島阿闍梨、筒井法師に、郷阿闍梨、惡少納言、北院には、金光院の 六天狗、式部大輔、能登、加賀、佐渡、備後等也。松井肥後、證南院筑後、賀屋筑前、大矢俊長、五智院但馬、乘圓房阿闍梨慶 秀が房人、六十人の内、加賀光乘、刑部春秀、法師原には一來法師に如ざりき。堂衆には、筒井淨妙明秀、小藏尊月、尊永、慈慶、樂住、鐡拳玄永、武士には渡 邊省播磨次郎、授薩摩兵衞、長七唱、競瀧口、與右馬允、續源太、清、勸を先として、都合其勢一千五百餘人三井寺をこそ打立けれ。
宮入せ給て後は大關小關堀切て、堀ほり逆茂木引いたりければ、堀に橋渡し、逆茂木ひき除などしける程に、時 刻おし移て、關路の鷄啼あへり。伊豆守宣けるは、「爰で鳥鳴ては、六波羅は白晝にこそ寄んずれ、如何せん。」と宣へば、圓滿院大輔源覺、又先の如く進出て 僉議しけるは、「昔秦昭王のとき、孟嘗君召禁られたりしに、后の御助に依て、兵三千人を引具して、逃免れけるに、函谷關に至れり。鷄啼ぬ限は、關の戸を開 く事なし。孟嘗君が三千の客の中に、てんかつと云ふ兵有り。鷄の啼眞似をありがたくしければ鷄鳴とも云れけり。彼鷄鳴高き所に走上り、鷄の鳴眞似をしたり ければ、關路の鷄聞傳て、皆鳴ぬ。其時關守鳥の虚音にばかされて、關の戸開てぞ通しける。是も敵の謀にや鳴すらん、唯寄よ。」とぞ申ける。かゝりし程に、 五月の短夜ほの%\とこそ明にけれ。伊豆守宣けるは、「夜討にこそさりともと思つれ共、晝軍には如何にも叶ふまじ。あれ呼返せや。」とて、搦手は如意が嶺 よりよび返す。大手は松坂より取て返す。若大衆共、「是は一如房阿闍梨が長僉議にこそ夜は明たれ。押寄せて其坊きれ。」とて、坊を散々にきる。防ぐ處の弟 子同宿、數十人討れぬ。一如 房阿闍梨這々六波羅に參て老眼より涙を流いて此由訴申けれ共、六波羅には軍兵數萬騎馳集て騒ぐ事もなかりけり。
同廿三日の曉、宮は此の寺ばかりでは叶ふまじ、山門は心替し、南都は未參らず。後日に成ては惡かりなんとて、三井寺を出させ給ひて、南都へぞ入せ座 ます。此宮は蝉折、小枝と聞えし漢竹の笛を二つ持せ給へり。彼蝉折と申は、昔鳥羽院の御時金を千兩、宋朝の御門へ、送らせ給ひたりければ、返報と覺くて、 生たる蝉の如くに、節の附たる笛竹を、一節贈らせ給ふ。如何が是程の重寶をば左右なうはゑらすべきとて、三井寺の大進僧正覺宗に仰せて、壇上に立て、七日 加持して、彫せ給へる御笛也。或時高松中納言實平卿參て、此御笛を吹れけるに、尋常の笛の樣に思忘て、膝より下に置れたりければ、笛や尤けん、其時蝉折に けり。さてこそ蝉折とは付られたれ。笛の御器量たるに依て、此宮御相傳有けり。されども今を限とや思食れけん、金堂の彌勒に參らさせおはします。龍華の 曉、値遇の御爲かと覺えて、哀也し事共なり。
老僧共には皆暇賜で、留めさせ坐ます。しかるべき若大衆惡僧共は參りけり。源三位入道の一類引具して、其勢 一千人とぞ聞えし。乘圓房阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがりて、宮の御前に參り、老眼より涙をはら/\と流いて申けるは、「何迄も御供仕べう候へ共、齡既に八旬 にたけて、行歩叶ひがたう候。弟子で候刑部房俊秀を參らせ候。是は一年平治の合戰の時、故左馬頭義朝が手に候ひて、六條河原で討死仕り候し相摸國住人山内須藤刑部丞俊通が子で候。 いさゝか縁候間、跡懷でおほしたてて、心の底迄能知て候。何迄も召具せられ候べし。」とて、涙を抑て留りぬ。宮もあはれに思召て、何の好にかうは申らんとて、御涙せきあへさせ給はず。
橋合戰
宮は宇治と寺との間にて、六度迄御落馬有けり。これは去ぬる夜、御寢の成ざりし故也とて、宇治橋三間引きはづし、平等院に入奉て、暫御休息有けり。 六波羅には、「すはや宮こそ南都へ落させ給ふなれ。追懸て討奉れ。」とて、大將軍には左兵衞督知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠教、侍大將には、上 總守忠清、其子上總太郎判官忠綱、飛騨守景家、其子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門尉有國、越中次郎兵衞尉盛繼、上總五郎 兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、都合其勢二萬八千餘騎、木幡山打越て、宇治橋の詰にぞ押寄たる。敵平等院にと見てんげれば、閧を作る事三箇度、宮の御 方にも、同う閧の聲をぞ合せたる。先陣が、「橋を引いたぞ、過すな。」とどよみけれども、後陣に是を聞つけず、我先にと進程に、先陣二百餘騎押落され、水 に溺れて流けり。橋の兩方の詰に打立て矢合す。
宮の御方には、大矢俊長、五智院但馬、渡邊省授、續源太が射ける矢ぞ鎧もかけず楯もたまらず通ける。源三位入道は、長絹の鎧直垂に、品皮威の鎧也。其日を最後とや思はれ けん。態と甲は著給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒絲威の鎧也。弓を強う引んとて是も甲は著ざりけり。爰に 五智院但馬、大長刀の鞘を外いて、唯一人橋の上にぞ進んだる。平家の方には是を見て、「あれ射取や者共」とて究竟の弓の上手共が矢先を汰へて差詰引詰散々 に射る。但馬少しも噪がず、揚る矢をばつい潜り、下る矢をば跳り越え、向て來をば長刀で切て落す。敵も御方も見物す。其よりしてこそ、矢切の但馬とは云は れけれ。
堂衆の中に、筒井の淨妙明秀は、褐の直垂に、黒革威の鎧著て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ、塗籠籐の弓に、好 む白柄の大長刀取副て、橋の上にぞ進んだる。大音聲を揚て名のりけるは「日來は音にも聞きつらむ、今は目にも見給へ。三井寺には其隱れ無し。堂衆の中に筒 井淨妙明秀とて、一人當千の兵ぞや。我と思はむ人々は寄合や、見參せむ。」とて、二十四差たる矢を差詰引詰散々に射る。矢庭に十二人射殺して、十一人手負 せたれば、箙に一つぞ殘たる。弓をばからと投捨て、箙も解て捨てけり。つらぬき脱で跣に成り、橋の行桁をさら/\と走渡る。人は恐れて渡らねども、淨妙房 が心地には、一條二條の大路とこそ振舞たれ。長刀で向ふ敵五人薙ふせ、六人に當る敵に逢て、長刀中より打折て捨てけり。其後太刀を拔て戰ふに、敵は大勢な り、蜘蛛手、角繩、十文字、蜻蜒返り、水車、八方透さず切たりけり。矢庭に八人切ふせ、九人に當る敵が甲の鉢に、餘に強う打當て、目貫の元よりちやうと折 れ、くと拔て、河へざぶと入にけり。憑む所は腰刀、偏へに死なんとぞ狂ける。
爰に乘圓房阿闍梨慶秀が召使ける一來法師と云ふ大力の早態在けり。續て後に戰ふが、行桁は狹し、側通べき樣はな し。淨妙房が甲の手さきに手を置て、「惡う候、淨妙房」とて、肩をつんど跳り越てぞ戰ひける。一來法師打死してんげり。淨妙房は這々歸て、平等院の門の前 なる芝の上に物具脱捨て、鎧に立たる矢目を數へたりければ六十三、裏掻く矢五所、され共大事の手ならねば、所々に灸治して、首からげ淨衣著て、弓打切り杖 に突き、平あしたはき、阿彌陀佛申て、奈良の方へぞ罷ける。
淨妙房が渡るを手本にして、三井寺の大衆、渡邊黨走續々々、我も/\と行桁をこそ渡けれ。或は分取して歸る 者も有り、或は痛手負て、腹掻切り川へ飛入る者もあり、橋の上の戰、火いづる程ぞ戰ひける。是を見て平家の方の侍大將上總守忠清、大將軍の御前に參て、 「あれ御覽候へ。橋の上の戰、手痛う候。今は川を渡すべきで候が、折節五月雨の比で、水まさて候。渡さば馬人多く亡候なんず。淀芋洗へや向ひ候べき、河内 路へや參り候べき。」と申處に下野國の住人、足利又太郎忠綱、進出て申けるは、「淀芋洗河内路をば、天竺震旦の武士を召て向けられ候はんずるか。其も我ら こそ向ひ候はんずれ。目に懸たる敵を討ずして南都へ入參せ候なば、吉野とつ川の勢共馳集て、彌御大事でこそ候はんずらめ。武藏と上野の境に、利根川と申候 大河候。秩父、足利、中違て、常は合戰を爲候しに、大手は長井渡、搦手は古我杉渡より寄せ候ひしに、爰に上野國の住人、新田入道、足利に語はれて、杉の渡 より寄んとて儲たる舟共を秩父が方より皆破れて、申候しは、「唯今爰を渡さずば、長き弓箭の疵なるべし。 水に溺れて死なば死ね、いざ渡さんとて、馬筏を作て渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習として、敵を目にかけ、川を 隔つる軍に、淵瀬嫌ふ樣や有る。此河の深さ、早さ、利根河に幾程の劣り勝りはよもあらじ。續けや殿原。」とて、眞先にこそ打入たれ。續く人共、大胡、大 室、深須、山上、那波太郎、佐貫廣綱四郎大夫、小野寺前司太郎、邊屋子四郎、郎等には宇夫方次郎、切生六郎、田中宗太を始として、三百餘騎ぞ續ける。足利 大音聲を揚て、「強き馬をば上手に立てゝ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ばう程は、手綱をくれて歩せよ。はづまばかい操て泳せよ。下う者をば弓の弭に 取附せよ。手を取組み、肩を竝て渡すべし。鞍壺に能く乘定めて、鐙を強う踏め。馬の頭沈まば、引揚よ。痛う引て引被くな。水溜まば、三頭の上に乘懸れ。馬 には弱う、水には強う中べし。河中にて弓引な。敵射共相引すな。常に錣を傾よ。痛う傾て天邊射さすな。かねに渡て推落さるな。水にしなうて渡せや渡せ。」 と掟て、三百餘騎、一騎も流さず、向の岸へ颯と渡す。
宮御最後
足利は、朽葉の綾の直垂に、赤革威の鎧著て、高角打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、重籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、柏木に みゝづく打たる金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。鐙踏張り立上り、大音聲を揚て、名乘けるは、「遠くは音にも聞き、近くは目にも見給へ。昔朝敵將門を亡し、勸 賞蒙し俵藤太秀里に十代、足利太郎俊綱が子、又太郎忠 綱、生年十七歳、か樣に無官無位なる者の、宮に向ひ參せて、弓を引き矢を放つ事天の恐少からず候へ共、弓も矢も冥加の程も、平家の御上にこそ候らめ。三位入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄合や見參せん。」とて平等院の門の内へ責入々々戰けり。
是を見給て、大將軍左兵衞督知盛、「渡せや渡せ。」と下知せられければ、二萬八千餘騎、皆打入て渡しけり。馬や人に塞れて、さばかり早き宇治川の、 水は上にぞ湛へたる。自ら外るゝ水には、何も不堪流れけり。雜人共は、馬の下手に取附々々渡りければ、膝より上をば濡さぬ者も多かりけり。如何したりけん 伊賀伊勢兩國の官兵、馬筏押破られ水に溺れて六百餘騎ぞ流れける。萠黄、緋威、赤威、色々の鎧の浮ぬ沈ぬゆられけるは、神南備山の紅葉葉の、嶺の嵐に誘れ て、龍田河の秋の暮、井塞に懸て、流もやらぬに異ならず。其中に緋威の鎧著たる武者が三人、網代に流れ懸て淘けるを、伊豆守見給ひて、
伊勢武者はみなひおどしの鎧きて、宇治の網代にかゝりぬるかな。
是等は三人ながら伊勢國の住人也。黒田後平四郎、日野十郎、乙部彌七と云ふ者なり。其中に日野十郎は、ふる者にて有ければ、弓の弭を岩の狹間にねぢ 立て、掻上り、二人の者どもをも引上て、助たりけるとぞ聞えし。大勢みな渡して、平等院の門の内へ、入替/\戰ひけり。此の紛に、宮をば南都へ先立て參 せ、源三位入道の一類、殘て防矢射給ふ。
三位入道七十に餘て軍して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心靜かに自害せんとて、平等院の門の内へ引退いて、敵おそひかゝりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、 唐綾威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、父を延さんと、返合せ/\防戰ふ。上總太郎判官が射ける矢に兼綱内甲を射さ せて疼む處に、上總守が童、次郎丸と云ふしたゝか者押竝て引組でどうと落つ。源大夫判官は、内甲も痛手なれども、聞る大力なりければ、童を取て押て頸を掻 き、立上らんとする處に、平家の兵共、十四五騎ひし/\と落重て、兼綱を討てけり。伊豆守仲綱も、痛手あまた負ひ平等院の釣殿にて自害す。其頸をば下河邊 藤三郎清親取て、大床の下へぞ投入ける。六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光も、散々に戰ひ、分捕餘たして、遂に討死してけり。此仲家と申は、故帶刀先生義方 が嫡子也。孤にて有しを、三位入道養子にして、不便にし給しが、日來の契を變ぜず、一所にて死にけるこそ無慚なれ。三位入道は渡邊長七唱を召て、「我頸う て。」と宣へば、主の生頸討ん事の悲しさに、涙をはらはらと流いて、「仕るとも覺え候はず。御自害候て、其後こそ給り候はめ。」と申ければ、「誠にも。」 とて西に向ひ、高聲に十念唱へ最後の詞ぞあはれなる。
埋木の花さく事もなかりしに、みのなる果ぞかなしかりける。
是を最後の詞にて、太刀のさきを腹に突立て、俯樣に貫てぞ失られける。其時に歌讀べうは無りしか共、若より強に好たる道なれば、最後の時も忘れ給はず。其頸をば唱取て泣々石に括合せ敵の中を紛れ出て、宇治川の深き所に沈てけり。
競瀧口をば平家の侍共、如何にもして、生捕にせんとうかゞひけれ共、競も先に心えて、散散に戰ひ、大事の手負ひ、腹掻切てぞ死にける。圓滿院大輔源覺、今は宮も遙に延させ給ひ ぬらんとや思ひけん。大太刀大長刀左右に持て、敵の中をうち破り、宇治川へ飛で入り、物具一つも捨ず、水の底を潜て、向の岸に渡り著き、高き所に登り、大音聲を揚て、「如何に平家の君達、是までは御大事かよう。」とて、三井寺へこそ歸けれ。
飛騨守景家は、古兵にて有ければ、此紛に、宮は南都へやさきたゝせ給ふらんとて軍をばせず、其勢五百餘騎、鞭鐙を合せて追懸奉る。案の如く、宮は三 十騎許で落させ給けるを、光明山の鳥居の前にて、追附奉り、雨の降る樣に射參せければ、何が矢とは覺ねども、宮の左の御側腹に矢一筋立ければ、御馬より落 させ給て、御頸取れさせ給ひけり。是を見て御伴に候ける鬼佐渡、荒土佐、荒大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀、金光院の六天狗、何の爲に命をば惜むべきと て、をめき叫んで討死す。
其中に宮の御乳母子、六條助大夫宗信敵は續く、馬は弱し、にゐ野の池へ飛でいり、浮草顏に取掩ひ、慄居たれば、敵は前を打過ぬ。暫し有て兵者共の四 五百騎、さゞめいて打ち歸ける中に、淨衣著たる死人の、頸も無いを、蔀の下にかいていできたりけるを誰やらんとみ奉れば、宮にてぞましましける。我死ば此 笛をば御棺に入よと仰ける小枝と聞えし御笛も、未御腰に差れたり。走出て取も附まゐらせばやと思へども、怖しければ其も叶はず。かたき皆歸て後、池より上 り、ぬれたる物共絞著て、泣々京へ上たれば、憎まぬ者こそ無りけれ。
去程に南都の大衆ひた甲七千餘人、宮の御迎に參る。先陣は粉津に進み、後陣は未興福寺の南大門にゆらへたり。宮は早光明山の鳥居の前にて討れさせ給ぬと聞えしかば、大衆みな 力及ばず涙を押へて留りぬ。今五十町許待附させ給はで、討れさせ給けん宮の御運の程こそうたてけれ。
若宮出家
平家の人々は宮竝びに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百餘人が頸、太刀長刀のさきに貫き、高く指上げ、夕に及で六波羅へ歸入る。兵共勇 のゝしる事夥し。怖しなども愚也。其中に源三位入道の頸は、長七唱が取て宇治 川の深き所に沈てければ、それは見ざりけり。子供の頸はあそこ爰より皆尋出されたり。中に宮の御頸は、年來參り寄る人も無れば、見知り參せたる人もなし。 先年典藥頭定成こそ、御療治の爲に召たりしかば、其ぞ見知り參せたるらんとて召れけれども、現所勞とて參らず。宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ね 出されたり。さしも淺からず、思食されて、御子を産參せ最愛ありしかば、爭か見損じ奉るべき。只一目見參せて、袖を顏に推當て、涙を流されけるにこそ、宮 の御頸とも知てけれ。
この宮は、腹々に御子の宮達あまた渡らせ給ひけり。八條女院に伊豫守盛教が娘、三位局とて候はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮御座けり。 入道相國、弟池中納言頼盛卿を以て、八條女院へ申されけるは、「高倉宮の御子の宮達のあまた渡らせ給候なる。姫宮の御事は申に及ばず、若宮をば、疾う/\ 出し參させ給へ。」と申されたりければ、女院御返事に、「かゝる聞えの有し曉、御乳人などが、心少う具し奉て失にけるにや、全く此御所に渡せ給は ず。」と仰ければ、頼盛卿力及ばで此由を入道相國に申されけり。「何條其御所ならでは、何くへか渡せ給ふべかんなる。其儀 ならば、武士共參て、搜奉れ。」とぞ宣ける。此中納言は、女院の御乳母、宰相殿と申す女房に相具して、常は參り通れければ、日來は懷うこそ思召つるに、此 宮の御事申しに參られたれば、今はあらぬ人の樣に疎しうぞ思召されける。若宮、女院に申させ給けるは、「是程の御大事に及び候上は終には遁れ候まじ。とう /\出させ御座ませ。」と申させ給ければ、女院御涙をはら/\と流させ給ひて、「人の七つ八つは、何事をも聞分ぬ程ぞかし。其に我故、大事の出來たる事 を、片腹痛く思て、か樣に宣ふいとほしさよ。由無かりける人を、此六七年手馴して、かかる憂目を見よ。」とて、御涙せきあへさせ給はず。頼盛卿、宮出し參 らさせ給ふべき由重ねて申されければ、女院力及ばせ給はで、終に宮を出しまゐらさせ給ふ。御母三位局、今を限の別なれば、さこそは御名殘惜うも思はれけ め。泣泣御衣著奉り、御髮掻撫で、出し參せ給ふも、唯夢とのみぞ思はれける。女院を始參せて、局の女房、女童に至るまで、涙を流し袖を絞らぬは無りけり。
頼盛卿、宮請取參せ、御車に乘奉て、六波羅へ渡し奉る。前右大將宗盛卿此宮を見參せて、父の相國禪門の御前 に坐て、「何と候やらん、此宮を見奉るが、餘に痛う思ひ參せ候。理を枉て此宮の御命をば、宗盛に賜候へ。」と申されければ、入道「さらばとう/\出家をせ させ奉れ。」とぞ宣ける。宗盛卿、此由を八條女院に申されければ、女院「何の樣もあるべからず、唯疾々。」とて法師になし奉り、釋氏に定らせ給ひて、仁和 寺の御室の御弟子になし參させ給 ひけり。後には東寺の一の長者、安井宮僧正道尊と申しは、此宮の御事なり。
通乘沙汰
又奈良にも一所座しけり。御乳母讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し參らせて、北國へ落下りたりしを、木曽義仲上洛の時主にし進せんとて、具し奉て 都へ上り、御元服せさせ參らせたりしかば、木曽が宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり。後には嵯峨の邊、野依に渡らせ給ひしかば、野依の宮とも申けり。
昔通乘といふ相人有り。宇治殿二條殿をば、君三代の關白、共に御年八十と申たりしも違はず。帥内大臣をば、流罪の相在すと申たりしも違はず。聖徳太 子の、崇峻天皇を横死の相在ますと申させ給ひたりしが、馬子大臣に殺され給ひにき。さも然るべき人々は、必ず相人としもあらねども、かくこそ目出たかりし か。是は相少納言が不覺にはあらずや。中比兼明親王、具平親王と申しは、前中書王、後中書王とて、共に賢王聖主の王子にて渡せ給ひしかども、位にも即せ給 はず。され共何かは謀反を起させ給ひし。又後三條院第三の皇子、資仁親王も御才學勝て御座ければ、白河院未東宮にておはしまいし時「御位の後は、此宮を位 には即參らさせ給へ。」と、後三條院、御遺詔有しかども、白河院如何思召されけん、終に位にも即け參らさせ給はず、責ての御事には、資仁親王の御子に、源 氏の姓を授け參らさせ給て、無位より一度に三位に叙して、軈て中將に成參らさせ給ひけり。一世の源氏、無位より三位 する事嵯峨皇帝の御子、陽院の大納言定卿の外は是始とぞ承る。花園左大臣有仁公の御事なり。
高倉宮の御謀反の間、調伏の法承はて修せられける高僧達に勸賞行はる。前右大將宗盛卿の子息侍從清宗三位して、三位侍從とぞ申ける。今年纔に十二 歳。父の卿も、此齡では兵衞佐でこそおはせしか。忽に上達部に上り給ふ事、一の人の公達の外は、いまだ承り及ばず。源茂仁、頼政法師父子追討の賞とぞ除書 には有ける。源茂仁とは、高倉宮を申けり。正い太上法皇の王子をうち奉るだに有に、凡人にさへなし奉るぞ淺ましき。
[1] ぬえ
抑源三位入道頼政と申は、攝津守頼光に五代、參河守頼綱が孫、兵庫頭仲正が子也。保元の合戰の時、御方にて先をかけたりしか共、させる賞にも預ら ず、又平治の逆亂にも、親類を捨て參じたりしか共、恩賞是疎なりき。大内守護にて年久う有しかども、昇殿をば許されず。年たけ齡傾いて後、述懷の和歌一首 詠んでこそ昇殿をば許されけれ。
人しれず大内山の山守は、木隱てのみ月を見るかな。
此歌に依て昇殿許され、正下四位にて暫有しが、三位を心にかけつゝ、
のぼるべき便無き身は木の下に、しゐをひろひて世をわたるかな。
さてこそ三位はしたりけれ。軈て出家して、源三位入道とて、今年は七十五にぞ成れける。 此人一期の高名と覺し事は、近衞院御在位の時、仁平の頃ほひ、主上夜々おびえたまぎらせ給ふ事有けり。有驗の高僧貴僧に仰 て、大法秘法を修せられけれども、其驗なし。御惱は丑刻許で在けるに、東三條の森の方より、黒雲一村立來て、御殿の上に掩へば、必ずおびえさせ給ひけり。 是に依て公卿僉議有り。去る寛治の比ほひ、堀河天皇御在位の時、しかの如く、主上夜な/\おびえさせ給ふ事在けり。其時の將軍義家朝臣、南殿の大床に候は れけるが、御惱の刻限に及で、鳴絃する事三度の後、高聲に「前陸奧守、源義家」と名乘たりければ、人人皆身の毛堅て、御惱怠せ給ひけり。然れば即先例に任 て、武士に仰て警固有べしとて、源平兩家の兵の中を選せられけるに、此頼政を選出れたりけるとぞ聞えし。此時は未兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、「昔よ り朝家に武士を置るゝ事は、逆反の者を退け、違勅の輩を亡さんが爲なり。目にも見えぬ變化の物仕れと仰せ下さるゝ事、未承り及ばず。」と申ながら、勅定な れば召に應じて參内す。頼政は憑切たる郎等、遠江國の住人、井早太に、ほろのかざきりはいだる矢負せて、唯一人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に、山鳥 の尾を以て作だる鋒矢二筋、滋籐の弓に取添て、南殿の大床に伺候す。頼政矢を二つ手挾ける事は、雅頼卿其時は未左少辨にて坐けるが、變化の者仕らんずる仁 は、頼政ぞ候と選び申されたる間、一の矢に變化の物を射損ずる者ならば、二の矢には、雅頼の辨の、しや頸の骨を射んとなり。日來人の申に違はず、御惱の刻 限に及で、東三條の森の方より、黒雲一村立來て、御殿の上にたなびいたり。頼政吃と見上たれば、雲の中に恠き物の姿あり。是を射損 ずる者ならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながらも矢取て番ひ、南無八幡大菩薩と、心の中に祈念し、能引 て、ひやうと射る。手答して、はたと中る。「得たりやをう」と、矢叫をこそしたりけれ。井早太つと寄り、落る處をとて押へて、續樣に九刀ぞ刺たりける。其 時上下手々に火を燃いて、是を御覽じ見給ふに、頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎の姿也。鳴く聲 ぬえにぞ似たりける。怖しなども愚なり。主上御感の餘に、獅子王といふ御劔を下されけり。宇治左大臣殿是を賜り次で、頼政に賜んとて、御前のきざはしを半許下させ給へる處に、比は卯月十日餘の事なれば、雲井に郭公、二聲三聲音信てぞ通りける。其時左大臣殿
時鳥名をも雲井にあぐるかな。
と仰せられたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖を廣げ、月を少し傍目にかけつゝ、
弓はり月のいるにまかせて。
と仕り、御劔を賜て罷出づ。「弓矢を取てならびなきのみならず、歌道も勝たりけり。」とて君も臣も御感在ける。さて彼變化の物をば、空船に入て流されけるとぞ聞えし。
去る應保の比ほひ、二條院御在位の御時、 ぬえと云ふ化鳥、禁中に鳴て、屡宸襟を惱す事有き。先例を以て、頼政を召されけり。比は五月二十日餘のまだ宵の事なるに、 ぬえ唯一聲音信て、二聲とも鳴ざりけり。目指とも知ぬ闇では有り、姿形も見えざれば、矢つぼを何とも定めがたし。頼政策に先大鏑を取て番ひ、 ぬえの聲しつる内裏の上へぞ射上たる。 ぬえ鏑の音に驚 て虚空に暫ひゝめいたり。二の矢に小鏑取て番ひ、ひいふつと射切て、 ぬえと鏑と竝べて前にぞ落したる。禁中さざめきあひ、御感斜ならず、御衣を被させ給けるに、其時は、大炊御門右大臣公能公是を賜りついで、頼政にかづけさせ給ふとて、「昔の養由は、雲の外の鴈を射き、今の頼政は、雨の中の ぬえを射たり。」とぞ感ぜられける。
五月闇名をあらはせる今宵哉。
と仰せられかけたりければ、頼政、
たそがれ時もすぎぬとおもふに。
と仕り、御衣を肩に懸て退出す。其後伊豆國賜はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、丹波の五箇庄、若狹のとう宮河を知行して、さて坐べかりし人の、由なき謀反起て、宮をも失參せ我身も子孫も亡ぬるこそうたてけれ。